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3.ある日のお願いの話(後編)

 こうして、俺が物心ついてほとんど初めてとなる一人の夜が幕を開けたのだった――。


 ――幕を開けるはずだったんだ。


「で」

「ん?」

 俺は胡乱な目を向ける。

「なんでここにいる」

「自分ちのリビングにいちゃいけないの?」

 おばさんが使っていたソファベッドに腰かけた俺は、リビングテーブルで夜の肌手入れをしている莉々夏を苦々しく見つめた。

 昨日さんざん泣きはらしたその翌日、つまりは今日。

 普段であれば学校から帰宅したあと、莉々夏と俺は夕食の時間まで自室で宿題や予習復習などをやる。そしてメシを食い、順番に風呂に入って、寝るまでまた自室で好きに過ごす生活を送っている。我が家はテレビを見ない(というか持っていない)家なので、よっぽど家族で話すようなことでもない限りは食後、風呂後にリビングに居続けることはしない。

 ……そのはずなのに。

 今日、学校から帰ってきた莉々夏は、俺がリビングのテーブルで宿題をやっているのを見て、さも当然のように自分もリビングで勉強道具を広げ始めた。そして夕食を食い、風呂にも入り終わって、またも当然のようにリビングで夜のルーティーンをし始めた。

「おばさんももう風呂上がってくるだろうし、りっちゃんも部屋に行ってりゃいいだろ。っていうかいつもそれ部屋でやってんじゃん」

「別にうるさくして迷惑かけてるわけじゃないし、どこでやったっていいじゃない」

 これだ。

 頑なにリビングから出ようとしない。――言い換えれば、俺から離れようとしない。

「刷り込みされたヒヨコかよ……」

「なんかいった?」

「いいえべつに」

 俺の小声の愚痴は、乳液のぺちゃぺちゃ音にかき消されたらしい。

 それにしても、だ。

 どうしたもんかと俺は真剣に考えていた。

 もうすぐおばさんが風呂から上がってくる。今日は俺が最後の順番の日だから、このあと俺は風呂に入らなきゃいけない。

 ――絶対についてくるぞまた。

 これじゃ解決どころかより悪化してしまう。主に俺の精神的・欲求的ガマンの意味で。

 と、そのとき。

 稲光が轟くかのごとく、天啓が舞い降りてきた。

『――ニンゲンはな、追われりゃ逃げるように、逃げられりゃ追い求めるようにできてんだよ』

 それは、仲の良い友人でもある同級生ヤマギシ(学年でも有数のイケメン・非童貞)の言葉だった。

『逃げる、逃げられるってのは、言い換えれば距離が広がるってことだ。(コク)られて拒絶しちまうと、ソイツは距離感が広がったと感じちまう。当然そのまま疎遠になって無難に終わることもあるけどな、場合によってはその広がった距離感を戻そうとソイツが暴走して、もっと面倒なことになったりもするもんだ。だからな、同じ断るんでもソイツが『距離感が広がらないで済んだ』と思うような言い回しをすることがコツなんだよ』

 当時はその意味がまったく理解できなかったのだが。

 ――こういうことかあああああ!

 いま、俺たちの距離感は俺の言動によって広がりかけている。

 だから莉々夏は離れないように一生懸命なんだ。

 ……その精神的な距離感を物理的に埋めようという行動がいかにも莉々夏らしいけど。

 ていうかすげえなイケメン。踏んだ場数が圧倒的に違いすぎる。

 身震いしながら俺はヤマギシの家っぽい方角(勘)へ手を合わせた。

「? みぃくんなにやってんの?」

「……別に」

 さて、あらためて考えなければ。

 ――俺が逃げるから莉々夏は追ってくる。

 とすれば、俺が逃げさえしなければ(と莉々夏に思い込ませられれば)、莉々夏も安心して日常生活に戻っていくはずだ。

 一番手っ取り早いのはまた同室に戻ることだろう。俺がこれまで通りの姿を見せれば、莉々夏も元通りになる道理だ。

 が、当然それはできない。それができなくなったからこそ、こうしていま頭を抱えているんだから。

 今の状況を変えずに、莉々夏に距離が広がる不安も覚えさせない、画期的・革命的な発案か……。

 そのとき、二度目の雷が俺の脳天を貫いた。

 俺が逃げるから莉々夏は追ってくる。じゃあ逆に、()()()()()()()()()()()()()()()()()


   ※※※


「り、りっちゃんさ……ちょっとこっち来てよ」

「ん? うん」

 ポンポンとソファベッドの左隣を叩く俺。

 莉々夏は不審がることもなく、こちらへ移動してくる。

「どうしたの?」

「ちょっと手を出してみて」

「?」

 隣に座った莉々夏は、意図を汲めずに首を捻りながら、それでも言われた通りに右手を差し出してくる。

 まるでお手をする犬のように。

 俺はその手を左手でそっと受け取り、さらに上から右手を重ねる。

「な、なに? どうしたのみぃくん……」

「りっちゃん……いや、莉々夏」

「っ」

 莉々夏が息をのむ。

「莉々夏、綺麗だ。健康的に日焼けした肌が綺麗だ。その大きな瞳も、薄い唇も、綺麗だ。ショートの髪も艶があって綺麗だ。莉々夏が幼いって気にしてるこの体型だって、俺の好みでとてもきれおげろげろげろげろげろ」


 想像の中の俺が吐いた。


   ※※※


「ど、どうしたのみぃくん大丈夫!?」

 莉々夏からすれば考え込んでいた俺がいきなりえずいたように見えただろう。

 化粧品を置いて、あわてて駆け寄ってくる。

「大丈夫だから」とかざした手を払いのけて、莉々夏は俺の横に座って背中をさすってくれる。

 ……さすがにちょっと罪悪感。

 そう、どのみち俺と莉々夏はそんな風な関係じゃないんだよな。

 友達から恋人になるかどうかっていう距離感の話じゃなくて、同居人から性的対象になっちまったからどうしようかっていう距離感の話なんだ。

 でもってそれはあくまで俺から見た関係性の話で、莉々夏からすれば家族のように思っていた相手と謎の距離感が生まれてしまって困惑しているってことになる。

 ……これ、思った以上に難しい問題だぞ。

「ねえみぃくん、ほんとうに大丈夫?」

 思わず苦い表情になってしまっていたらしく、莉々夏が心配げに覗き込んできた。

「ん……、いやマジで大丈ブッ!」

 焦点を取り戻した目が莉々夏を捉え――、そこで俺の目に飛び込んできたのは、防御力皆無でガバガバに開かれた莉々夏のパジャマの胸元――――そしてその向こうに隠された小さな山の頂だった。

 不意打ちは五割増しの衝撃だった。

 ただでさえ悶々とそのことについて悩んでいるというのに。

 それそのものを目の前に見せつけられてしまっては、自制心もクソも無くなるってもんだ。

 熱をもって脈打ち始めた下半身を隠すようにして、俺は逃げた。


   ※※※


 この家の中で逃げる先なんて、もはやトイレ以外になかった。

 鍵を閉めて、便座に座って、下半身丸出しで頭を抱える俺の図。

 トイレがしたくて来たわけじゃないから何も出やしない。むしろちゃんと出てくれたほうが少しはスッキリできたかもしれないのに。

 頭の中には先の光景がぐるぐるリピートされ続けている。さらには昨夜の掌の感触まで連鎖して思い出されてしまう。一方でそれらを自己嫌悪し、記憶の奥底に封印しようとする意識が発起して、脳内大戦争の様相を呈していく。

 そんな葛藤とは裏腹に、俺のコイツだけが元気いっぱいに自己主張していた。せめて形だけでもと、股にはさんで抑え込んでおく。

 不意に。

 カチャカチャっとドアノブが鳴り、外からパチンと鍵が開かれた。

 そして当然のようにドアが開き、莉々夏が入り込んでくる。

「は……?」

 莉々夏は後ろ手に素早くドアを閉める。狭い密室に、下半身丸出しで座る俺と、紅く頬を染めて立つ莉々夏が対峙する。

 やっとそこまで脳が処理して、俺はバッと手で下半身を押し隠した。

「な……ななな、なんでむぎゅ」

 そうして慌てふためく俺の口が莉々夏によってふさがれる。

 莉々夏は俺の耳元に顔を寄せ、

「大きな声を出すとお母さんに聞こえちゃう」

 壁をはさんだ向こうはわずかな脱衣スペースをはさんで風呂場だ。そう言われて意識してみれば、微かにおばさんの鼻歌が洩れ聞こえてくる。

 なるほど、大声云々はまあいいとして。

 この状況は……いったい何なんだ?

 口元に触れる莉々夏の柔らかな手。顔を寄せたことで、俺の目の前には莉々夏の白く透き通るような首筋がある。

 鼻腔から少し甘ったるいような、でもどこか爽やかな柑橘系っぽくもある濃密な莉々夏を感じる。

「みぃくん、なんか具合悪そうだったから……。心配で見にきたの」

 莉々夏は耳元で囁くように言う。

 その心配の気持ちは、同居する者としては有り難いものなのかもしれない。

 でも、たとえ家族と言えどトイレの鍵を断りなく開錠して突入してくるって、距離感云々以前に駄目だろって!

 なんて、頭の中では莉々夏の言葉と自分の返答がぐるぐるぐるぐる廻っているのに。

「……うん」

 口から出たのはそれだけだった。

 血流が過剰に循環する。

 心臓の音が莉々夏に聞こえないか心配になるほどだ。

 麻痺したような俺のカラダは、どうなっちまったんだろう。

 この思考と、自分の体を制御する意識がまったく別のところにいるみたいな不思議な感覚。

 脱力した俺が、コテンと頭を莉々夏の肩にもたれかける。

 莉々夏が優しく受け止め、俺を安心させるようにぎゅっと抱き留めてくれる。

「大丈夫、私はいつでもみぃくんと一緒にいるからね」

 柔らかな声。

 柔らかな香り。

 そして柔らかな莉々夏に包まれながら。


 俺の意識は弾けて果てた。


   ※※※


 ――バレてはないはずだ。たぶん。

 便器に向けてだったし、莉々夏が気づいた素振りもなかったし。

「もう、大丈夫だから」

 冷静になった俺の様子に安堵した表情で、莉々夏はトイレを出て行った。

 それを見届けてから、素早く後始末をして俺もトイレを出る。


 リビングに戻ったところでおばさんが風呂から上がってきて、交代で俺の番になった。

 莉々夏は早くもいつもの調子を取り戻し、しれっと後について来ようとしたところでおばさんに襟首をつかまれて、二階へと連行されていった。おばさんグッジョブ。

 そうして冷静な思考で風呂を終えた俺は、何をするでもなくソファベッドにごろんと横になって天井を眺める。


 ――俺に残された時間は、あと二日。



※不定期更新ですが数日中に次話更新の予定です。

 また今後の参考、方向性決定のためにぜひ各話ごとの評価にご協力ください。

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