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1.ある日の風呂の話

「りっちゃん、はやくお風呂に入っちゃいなさい! みぃくんもアレなら一緒に入ってきちゃって~」

「はーい」

 廊下の向こうから陽気な声が返ってくる。

「……おばさんさあ、俺らもいい加減子供じゃねーんだから、そういうのはどうかと思うぞ」

 夕食後の洗い物でキッチンに立つおばさん――幼馴染の莉々夏の母親――へ向けて、俺は呟く。

「なに言ってんの、今さらそんなこと言う間柄じゃないでしょう。ほんっと、近頃はガス代だって馬鹿にならないし、いっぺんに済ませてもらったほうがよっぽど助かるわよ。先月の水道代だって……」

 ブツクサモードに入ってしまったおばさんを放っておいて、俺は食後のコーヒーをずずっと啜る。

 ちなみにリビングテーブルには他にもふたつカップが置かれているが、その主はいない。七割がた残された中身が悲しく波紋を広げている。

「間柄っつったってさあ……、フツーは実のきょうだいだってこの歳で一緒になんて入らねーって、なあフラン?」

 四脚あるリビングテーブルの椅子、その最後のひとつを埋める毛玉に、俺は語り掛ける。

 フランという名前の、御年四歳となるメスの中型犬だ。

 フランは俺の問いかけに相槌をうつように、わふんと鳴いた。

「そうだよなあお前もそう思うよなあ。この家で俺の理解者はお前だけだよ」

 頭から背中にかけて力いっぱい撫でまわしてやると、フランは気持ちよさそうに目を細めた。

 と、

「あら、私たちの関係がそんじょそこらのきょうだいに負けるわけがないじゃない!」

 ショートボブの髪をなびかせながら、莉々夏が廊下からひょこっと顔を覗かせた。

「勝ち負けの問題じゃねーっての。あとが詰まってるんだから、はやく風呂入ってこいよな」

「あらあら! まったくこの子はいつの間にこんなナマイキ言う子に育っちゃったんでしょ!」

「俺に悪影響を与える存在なんてりっちゃんしかいねーだろ」

 言い合う間に、莉々夏はリビングに入ると着ていたもこもこ生地のパジャマ上下をずぼっと豪快に脱ぎ捨てる。

「おわっ、こんなとこで脱ぐんじゃねーよ! 洗面所でやれって!」

 インナーと下着だけになった莉々夏から一瞬で目を逸らしたものの、その残滓が瞼に残ってしまう。

「なーに照れてんのよ。ていうか照れさせるほどのモノなんて私なにも持ってないじゃない」

「自分で言うなよな悲しくなるから……」

 たしかに莉々夏は中学に上がる前には身長が止まり、高一になった今でもおそらくブラジャーひとつ必要としないであろう体形のままで、身内ながらに今後が心配になってしまうほど、なのだが。

「だとしたってこちとら思春期男子だぞ! 少しは俺に気を遣えってんだ」

「ねーおかーさーん! みぃくんが私のパンツみてたっちゃったってー!」

「おい!」

「あらあら、お赤飯炊かなきゃねえ」

「おばさんも乗っかるなっての! そろそろグレるぞ俺!」

 残りのコーヒーを一息に飲み干して、カップを洗い場に置いて俺は逃げるようにリビングを出た。

 最後までにやにや顔で俺を見送った母娘を見て、これが血縁をもった本当の親子なんだなあ、なんてことをぼんやりと思った。


   ***


 逃げると言ってもこの家に俺の自室はなく、俺と莉々夏が相部屋で使っている二階の一番広い主寝室に逃げ込むしかなかった。

 ……とりあえず、莉々夏が風呂から上がってくるまでの少しの間に、頭を冷やさなきゃ。

 さっきから脳裏に激しくフラッシュバックしてくる光景を奥へ深くへと押しやるように、俺は別の記憶を呼び覚ます――。


 そもそもこの奇妙な居候生活の始まりは、俺の母親の死だった。

 あれは俺が五歳のとき。もうちょっとで小学校に上がろうという矢先のことだった。

 俺がガキすぎたせいで詳しいことは知らなかったんだけど、母には元々抱えていた病があったらしい。それが悪化して、あっさり……という最期だったとあとから聞いた。

 俺と共に残された父親は世界を飛び回る疫病研究者で、もとより数年に一度程度しか家に帰ってくることがなかった。俺自身が実際に顔を見た記憶だって、片手で数える程度しかないくらいだ。

 その父親に小さな俺の面倒を見ることは実際不可能に近く、また他に近しい身寄りもいなかったため、信頼して預けられる相手として母は死ぬ間際、無二の親友だった莉々夏の母親へ俺のことを頼んだらしい。

 このときの具体的な話をのちに、俺が中学に上がってからおばさんから直接聞いた。

 どうやら俺が引き取られる少し前に莉々夏の親父が蒸発したらしく、家のローンやら親父がどこかで作った借金やらで、莉々夏の家も大変なことになっていたようなのだ。

 お互いにそんな事情を話し合っていた母親同士で、生命保険やら我が家を売った金やらを全部あげるから、それで俺の面倒を見てやってくれというふうに交換条件にしたという。

 やがて母の死後、俺の父親がそれらすべてを現金化し、俺と共にその通帳を置いて頭を下げていったとのことだった。

 そんなやり取りを経て、莉々夏とおばさんはこれまで通り自分の家に住み続けられて、そこに俺もお世話になるという今の図式が完成したというわけだ。

「美奈子(俺の母親)が遺した遺産はね、ちゃんとみぃくんの名前のまま置いてあるからね。この家のローン返済に充てさせてもらったぶんもみぃくんの名義で登記してあるから、何か入用になったらこの家を売って足しにしてね」

 おばさんは事あるごとにそう言っては、目に涙を溜めたものだ。

 中学三年になった今もまだ俺は世話になる立場のままだけど、もう少ししたら今度は俺が莉々夏やおばさんを守っていってやらなきゃな、って。

 このところ真剣にそんなことを俺は考えるようになった。

 ――と、いうのに。

 ドタドタドタと騒音を響かせて、廊下を悪夢がやってくる。

「みぃくん! 体洗ったげるからお風呂きてー!」

 ドバンと扉を開けたのは、バスタオルに巻かれた寸胴――ではなく、ぐっしょり濡れたままの莉々夏だった。

「なんでだよ! 自分でできるっていつも言ってるだろ!」

「そう言って結局いつも洗ってもらってるのはどこの誰かなー?」

「それはりっちゃんが強引に、って……おい、引っ張んなって!」

「いいからはやく! 湯冷めしちゃう」

 こうして今日もまた、俺の意思なんて無関係に風呂場まで連行されるのだった。


   ***


 バスチェアに腰かけた俺の背後に膝をついて、莉々夏は肩から背中、腕へと泡を広げていく。

「みぃくんも随分と立派な体つきになったもんだねえ。さっきあんな話したばっかりだから私ちょっと意識しちゃうわ」

「だったら一人で風呂に入らせてくれませんかね」

「あ、そういえば今日学校でさ――」

 当然のように俺の訴えは右から左へと流され、

「――って友達に言われてね、って……みぃくん聞いてる?」

「はいはい聞いてますよ」

「いーや絶対聞いてなかったね! んもういい! じゃ次、前洗うからこっち向いて」

「だーかーら! 前は嫌だって言ってるだろ! いいからスポンジよこせ」

「んもう! ごうじょっぱり!」

 莉々夏はスポンジを押し付けるようにして俺に預けると、手についた泡を流してから体を覆っていたバスタオルをがばりと取り払った。

 ――見えてない。俺はなにも見てないぞ。だから鎮まれ俺……。

「湯冷めしそうだからもっかい温まってこーっと」

 莉々夏はバスタオルを外に放り投げると、ひとの気も知らず湯船に飛び込んで一息ついている。

 俺は莉々夏の視界から逃れるように背を向けて、小さくなって体の前面を洗い始める。

「みぃくんの体なんて忠実に絵で描けるくらいさんざん見てきたってのに」

「それは遥か昔の話だろ」

「たかだか数年前の話じゃない。むしろあれから大きくなったっていうなら、その成長を見せてよ」

「なんでそういう発想になるんだよ……」

「いいじゃない減るもんじゃないんだし。いっつも体を洗ってあげてるお礼があったっていいんじゃないの」

「それを言うならいつも洗わせてやってるお礼を俺が貰う側じゃねーか」

「え、みぃくんもお礼がほしいの?」

 それは、不意打ちだった。

 ほしいの? と言って莉々夏が首をかしげたと思ったら。

 ざばあと音を立てて、莉々夏が湯船から立ち上がった。

 数年前から一切変わらないボディライン。それでも胸元にさしたうっすらとした影が、ごくわずかな成長をアピールしてくる。あと乳輪だけは昔よりもちょっと大きく、鮮やかになっていた。

 咄嗟のことに理解が追い付く間もなく、俺の視線が揺れる。揺れながら腰へ、その下へと降りていく。

 無駄肉がなく、筋肉もないつるんとしたへそ回り。くびれもなくでっぱりもなく、ストンと落ちる腰のシルエット。

「うーん、コレがお礼になるかなあ……。世のオトコノコが望むモノとは程遠い気がするんだよなー」

 莉々夏は言いながら、自身を確かめるようにぺたぺたと触り回していく。

 その手は胸から腰へ、下半身へと落ちていき――、

「あ! っていうかココはね、ちゃんと剃ってるんだからね。生えてないわけじゃないんだからね! 今はちゃんと処理するのがブームだから、って…………あ、みぃくん、それ……?」

 べちゃくちゃ喋っていた莉々夏のトーンが次第に落ちていく。

 不思議に思って視線を上げると、莉々夏の目が一点に固まっているのが見て取れた。

 あらためてその目線を追っていった先には――――、俺のフルで硬くなったアレがいた。

 あまりにも驚いたせいか、いつの間にか俺の体は莉々夏の真っ正面に向く形であらわになっていた。

「ちょっ――、み、見んなよな――」

 慌てて隠そうとして、手がソイツに触れた瞬間――


 体に電気が走った。


 経験したことない勢いで、ナニカが放出された。

 そのたびに腰から脳へ電流が走り抜けていく。

 目がチカチカして、手足に力が入らない。ただただ波のように襲い来る電流に身を任せることしかできない。

 唯一、頭のわずかな部分だけが、冷静にいまの状態を分析しようとしていた。

 何年か前に学校で受けた授業の光景が脳裏によみがえる。いま俺の体に起こっている現象が何なのか、どういった意味合いのことなのか、数学の公式を思い出すかのような事務的な思考で、淡々と思い起こされていく。

 いつの間にか、荒れ狂う電気の奔流は収まっていた。

 感覚や意識が自分の体に戻っていく。まだ四肢に力は戻らず、膝が震えているのがわかった。

 焦点が戻り、目を上げると莉々夏も俺に向いたまま固まっていた。ただ、よく見れば上半身や顔に白いものが飛び散っていて。

「ぅあ……っ、その…………」

 何をどう言ったらいいかわからない。

 というか何をどう言い繕ったところであとの祭りだった。

 見てる間に、莉々夏の顔が真っ赤に変色していく。莉々夏も脳内の整理がおいつき、何が起こったのか理解したんだろう。

 真っ赤な顔で、妙な笑顔を張り付けたままで、莉々夏は湯船を出た。そして俺の左隣に膝をつくと、シャワーをひねって自分の顔へ、体へと当て始めた。

 俺は声をかけることもできずに、脱力したままただその姿を見続けた。

 莉々夏はボディソープを泡立て、体に塗りたくり、ひとしきり洗ったあとに泡を流した。

 それらが終わると莉々夏は立ち上がり、まわれ左をして一歩、浴室のドアに歩を進めた。

 湯船を出てからそこまで俺と一度も視線を合わせぬまま、俺も声をかけられぬまま。

 このままではヤバい、大変なことになってしまう、と理性ではわかっていても、俺には(そしておそらくは莉々夏にも)あまりにも余裕がなさすぎた。

 でもそこで、莉々夏は動きを止めた。

 永遠にも思える数秒が、無言のうちに流れる。

「っあ……、りっちゃ……」

 意を決して放った俺の言葉も、語尾がすぼむばかりであとが続かない。思考が真っ白で言葉がなにも出てこない。

 ――と、

「……みぃくん」

 莉々夏が、震える声で俺を呼んだ。

「は、はい……」

 こちらも同じように返事をすると。

 莉々夏はしずくを飛び散らしながら、素っ裸のまま再度まわれ左をしてこちらに向き直った。今度は不思議と、俺の視線は揺れなかった。

 莉々夏は真っ赤な顔のまま、まっすぐ俺を見ていた。はじめて目と目がまっすぐ向かい合う。

「みぃくん、その……」

 莉々夏が何を言おうとしているのか、その表情からは感情が読み取れなかった。

 こんなことをして、嫌われてしまっただろうか。もう二度と口をきいてもらえないかもしれない。二度と今までのような間柄には戻れないかもしれない……。

 不安が堰を切ったようにあふれ出てくる。

 莉々夏は言いよどむように何回か口を開閉させ、ついに言葉を声に乗せる。

「あ……」

 あ……

 俺の思考が、莉々夏の唇の動きに収束していく。

「あ…………ありがとうございましたっ!」

 真っ赤な顔の莉々夏がぎゅっと目をつぶり、深々とお辞儀をして出て行った。

「え……」

 残された俺は、しばし虚空をみつめたまま呆けていた。

 その言葉の真意が何なのか、問いただすことはきっとできないだろう。その胆力が今の俺にはないだろうから。

 でも、これだけは確かだった。

 最後、お辞儀から直るときの莉々夏の顔が――笑みを浮かべていた。

 怒ったわけではないのか。どういった意味の〝ありがとう〟だったのか。

 ていうか。

「どんな顔してこのあと部屋に戻りゃいいんだよ……」

 頭を抱えた俺は、思い出したかのように冷えた体に悪寒が走り、おおきなくしゃみをしたのだった。




※不定期更新ですが数日中に次話更新の予定です。

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