鮮血の魔女
──《鮮血の魔女》、その名の通り血を操る能力を持つ魔女である。嘗ては《魔女の女王》の愛弟子であり、次期女王と言われていた。
《魔女の国》の滅亡後、姿を消すものの少なく数百年後再び姿を現した。
現在は《古の魔女》と呼ばれている。
✣✣✣
──少女・アナスタシアは重い足を引き摺りながら森の中を進んでいく。長い逃亡生活でアナスタシアの艶やかだった黒髪は汚れ、深紅の瞳は生気を失っていた。帝国からの追っ手が各地に放たれ、多くの同胞達が火炙りにされる中を逃げ続けてること三年。
アナスタシアは心身共に限界だった。
──どうしてこんなことに。
帝国軍の追っ手から逃げながら何度思った事か。唇を血が滲むほど噛みしめ、重い体を引き摺って森の中をひたすら歩いていた。目的地があるわけではない。只、安息の場所を探していた。
そして、深い森の中で、アナスタシアは色とりどりの花が咲く野原にたどり着いた。朝日が差し込む緑の葉は朝の雫に煌めき、泉は何処までも澄んでおり、光を反射している。
「……っ!」
あまりの目映さにアナスタシアは声に鳴らない声を出した。
足がもつれアナスタシアはそのままの花の絨毯に倒れ込み、気づいた時には意識を手放していた。近くに人が居たことにも気づかないほど体はもう限界だった。長い放浪生活にアナスタシアは疲れ果てていたのだ。
アナスタシアは過去の夢を見た。
炎が森を焼き尽くし、その森に住んでいた魔女を帝国軍の兵が刈っていく光景。それはまさにしく地獄のようだった。見習い魔女のアナスタシアはその様を只眺めるしかなかった。
──その日《魔女の国》は消滅した。
否、最初から《魔女の国》など存在しなかった。本来魔女は集団では暮らさず、個々で暮らしている。だが、この森は特殊で、魔女が必要とする多くの薬草や毒草、澄んだ水が豊富な土地だった。おまけに、人狼が棲む森も近い為、普通の人間は寄り付かない。自然と多くの魔女がこの森に住みつくようになり、『魔女の国』と呼ばれ始めた。
──どうして。
アナスタシアはその問いを反復した。
✣✣✣
──きっかけは、一人の若者だった。
彼は森の近くの小さな村に住む、善良な村人だった。
ある日、彼は村の近くで怪我をした神狼を見つけ手当した。神狼は自分を助けた礼にと、男を《魔女の女王》の元まで導き、知恵を与えた。
魔女から得た知識のおかげで村は瞬く間に豊かになった。
そこで終われば、ただの美談で済んだのだろう。
小さな村が、急に豊かになればそれを人々は訝しみ、妬む者が出るのは必然だろう。その若者が魔女に知恵を借りた事は直ぐに明るみになり、その事実は王都まで瞬く間に知れ渡った。
人々は魔女の叡智を欲し、同時に魔女の力を恐れた。何故なら彼等精霊を信仰する人々は悪魔と契約する魔女を認めなかったからだ。
彼等は魔女を悪と決めつけ排除しようとした。
魔女の住む森に火を放ったのだ。危険を察知した多くの魔女と獣人達は早々に森から姿を消した。
逃げ遅れた魔女達は帝国軍によって葬られた。だが、帝国はそれだけでは飽きたらず、各地に散った魔女達に追っ手を放った。魔女には濃い髪色のものが多く、それを目印としていたため魔女でないものまでも迫害されるようになってしまった。
そうして、たった3年でこの土地から濃い髪色を持つ者は少なくなっていた。
✣✣✣
「っ!?」
顔に冷たいものが当たってアナスタシアは目を覚ました。
「起きたのね。貴女、大丈夫?」
アナスタシアが目を開けると、眼前に美しい少女の顔があった。
彼女は太陽の様に輝く金髪と大きなエメラルドの瞳、白磁の肌を持っており、彼女の纏う質素な装いは逆にその美しさを更に引き立てていた。
「……っ!」
──誰なの?
渇いた唇からは言葉にならなかった息だけが漏れた。
「喉渇いてない? 水は飲めるかしら?」
そう言って、その美しい少女はアナスタシアの頭をそっと支えて水を口元に近付けた。冷たい水が喉を伝う。
「ゴホッ、……あな、……た、は?」
渇きが癒えて声が出せるようになると、アナスタシアは少女に訊ねた。
「私? 私はエヴェリーナよ。ここじゃ《精霊姫》と呼ばれているわ」
──《精霊姫》ですって? 何故こんな所に?
アナスタシアも《精霊姫》の存在こそ知っていたが、何故こんな森の中に居るのか分からなかった。
「姉さん、こんな所にいたの? 皆が探して……」
アナスタシアの後ろから彼女にそっくりなサファイアの瞳の少年が現れた。少年はアナスタシアを見て目を見開いた。
「その人は……まさか!」
少年の反応にアナスタシアは体を固くした。身体は痛みで動かせず、もう抵抗はできないだろう。
「あら、ローレン」
「姉さん、その人は──」
「綺麗な子でしょ! 私こんなに綺麗な子見たこと無いわ!」
「はあ??」
「ローレンもそう思わない?」
「ちょっと、話を聞いてください。姉上!」
「あら、嫌だ。ちゃんと聞いているわよ。ローレン、何かしら?」
「何かしら? って……」とローレンは肩を落として溜め息を吐いた。
「その人は魔女だよね?」
ローレンがアナスタシアを一瞥しながらエヴェリーナに訊ねる。
「そうね。だから?」
──え?
アナスタシアは驚いてエヴェリーナを見た。エヴェリーナが自分を魔女だと分かった上で助けようとしたのだ。
──何を企んでいるの?
アナスタシアはそう思ったが、エヴェリーナからは悪意は感じられなかった。
「姉上、今僕達に魔女を匿う余裕は無いんだよ」
「匿うつもりなんて無いわ。勿論、帝国軍に渡すつもりも」
「じゃあ、どういうつもりなのさ?」
「つもりも何も、倒れている人がいれば助けるでしょ? 貴方だって目の前で人が倒れていれば見て見ぬ振りはできない筈よ? やっぱり、落ちているものがあれば拾いたくなるのって人情よね!」
「……最後の一言で全て台無しにしたね。流石、姉さん」
──ふざけているの?
目の前に魔女がいると言うのにこの美しい姉弟は何を考えているのだろうとアナスタシアの方が困惑してしまった。
彼女達が信仰する精霊信仰では、魔女は忌むべき対象の筈だ。今まで訪れた町も村もそうであり、帝国による《魔女の国》の襲撃の前ですら、確かな差別はあったのだ。その後は、言わずもがな。
「──という訳だから、貴女は何も心配しなくても大丈夫よ」
アナスタシアの訝しげな視線に気づいたのか、エヴェリーナが無邪気に笑う。そんな表情を向けられたのは随分久しぶりで、アナスタシアは胸をつまらせた。
──きっと何か企んでいるのよ。信じては駄目。
そう思いながらも、自然に涙が溢れた。その背をエヴェリーナが優しく撫でる。
「ローレンも良いわよね?」
「──と、兎も角、魔女を匿う事は出来ません。傷が癒え次第立ち去ってもらいますから!」
ローレンは顔を背け、そう言い残すと去って行った。
「ありがとう」
エヴェリーナはローレンの背に向って礼を言うとアナスタシアに再び美しい微笑みを浮かべた。
「何、なのよ、貴女達」
掠れた声で吐き捨てるように言うと、エヴェリーナは困ったように眉を八の字にする。
「私達もね。逃げて来たの」
「何……から?」
「聞いてくれるかしら?」
その後は殆どエヴェリーナの一人語りだった。
エヴェリーナ達は神子の一族だった。精霊信仰の総本山とでも言えばいいだろうか。彼女の一族は帝国内で祭事の一切を取り仕切っていたのだ。
エヴェリーナ達の一族は精霊と心を通わせる事で精霊の力を借り受け国にその恩恵を与えていた。一時は王よりも権限を持っていたときもあった。それを良しとしない帝国の王がエヴェリーナの一族を冷遇し始めた。
すると、それ以降帝国は飢饉や災害に悩まされる様になったのだ。
その頃に生まれたのが、エヴェリーナとローレンの双子だった。二人は歴代に類を見ないほど精霊に愛された愛し子《精霊姫》であった。
帝国はエヴェリーナ達を手に入れれば国が豊かになると思い、彼女達を攫おうとし、それに反発したエヴェリーナの一族は国から逃げ出したのだ。
《精霊姫》いなくなった国は更に荒れ、帝国は国を建て直す為に魔女の知識を得ようとしたのだ。
「それが魔女狩りを引き起こしてしまったのね。私達のせいね。貴女達は何も悪くなかったのに……」
「そんな……」
「ご免なさい。貴女には私達を恨む権利があるわ」
「違う! 悪いのは、帝国の連中よ!」
アナスタシアの勢いにエヴェリーナが目を丸くする。しかし、エヴェリーナは直ぐに真面目な表情になった。
「でも、それも直ぐに終わるわ。きっと貴女ももう追われる事は無くなる」
「どう言う、こと?」
アナスタシアは驚いてエヴェリーナを見た。
「私たちは帝国に反乱を起こす。そして、ここに私達の国を造るのよ」
「国を?」
「ええ。貴女達も安心して暮らせる国を造るわ! きっととてつもない時間と労力が必要になる。でも、そんな国ができたら、貴女もその国に住んでくれるかしら?」
「貴女も一緒なのよね?」
エヴェリーナはアナスタシアの最後の問には答えず、微笑んでいた。
✣✣✣
アナスタシアは傷が治ると、黒髪の多い東の国に移動する事を決めた。
「私ね、貴女を見た時運命を感じたの。私達はきっともう一度出会うわ」
別れ際、エヴェリーナはアナスタシアにそう言った。
しかし、アナスタシアが新しく出来たフォーサイス王国を訪れた時、そこにエヴェリーナはいなかった。彼女は帝国との戦いで命を落としていたのだ。
落胆するアナスタシアにローレンスは彼女の死ぬ間際の言葉を伝えた。
『私、貴女に出会ったとき運命を感じたの。この運命はきっと意味のあるものなのよ。……私、必ず生まれ変わって貴女に会いに行くわ。だから、待っていて』
──数百年後
長い長い年月を生きる中でアナスタシアは《古の魔女》と呼ばれるようになった。この頃には、エヴェリーナにはもう会えないと諦め始めていた。
──エヴェリーナ、貴方の言う運命なんて無かったわ。
そんな思いを抱きながら、過ごす日々の中、気紛れに少年を拾った。理由は大した事は無かった。ただ、彼女と同じエメラルドの瞳が目についたからだ。
彼は真面目で融通の効かない子だったが、気紛れに拾っただけの私を随分慕ってくれる様になった。
ある日、アナスタシアは戯れに訊ねてみた。
「──ねえ、ヨハン。転生って信じる?」
「転生、ですか?」
「そう。死んで生まれ変わる事よ」
「信じません。なので、もし貴女が死ぬなら私も一緒に死にます。貴女が居ない人生なんて意味がありませんから」
彼の答えはあっさりとしたものだった。だが、彼は「ですが……」と続ける。
「ですが、転生というものが出来るなら必ず貴女の側に生まれてきます」
「じゃあ、私が死んで生まれ変わるって言ったらどうする? 転生した私を探してって言ったら?」
彼は迷い無くこう答えた。
「私は必ず貴女を探し出して見せます」
彼の答えは始めから決まっているようだった。その答えを聞いた時、アナスタシアはもう少しだけエヴェリーナを探してみようと心に決めた。
その後、辿り着いた小さな教会で太陽のような金髪とエメラルドの様な瞳の青年神父・ウィリアムと出会った。彼はエヴェリーナの様に美しい容姿をしており、アナスタシアは「彼がエヴェリーナではないか?」と考えていた。
──でも、違ったみたいね。
だが、接すれば接するほど彼女とは違いばかりが目についた。それでもその教会から離れなかったのは、アナスタシアがエヴェリーナを探すのに疲れていた事と彼にエヴェリーナの姿を重ねていたいという気持ちがあったせいだ。
その教会に住み始めて暫く経った頃。子供連れの旅人がやって来た。
「偉いのね」
風で捲れたフードからは黒髪と鮮血の様な瞳が見えた。その瞳を見た時、身体中に衝撃が走った。
───ああ、この子だ。この子が私の探していたエヴェリーナだ。
あの美しい貴女と似ても似つかないその子供が彼女
だとアナスタシアは直感的に悟った。余りの衝撃に茫然としていると、子供の頭に見事な手刀が落とされた。
「──レヴィ! 勝手に何処かに行くなと貴女は何度言えば──」
よく知った声がして顔をそちらに向ければ捨て置いた筈の彼がいた。彼がエヴェリーナを連れて来たのだ。
───ああ、貴女の言った通りだった。エヴェリーナ、貴女は私に会いに来た。
きっと今までの出会いにも意味があったのだ。
──エヴェリーナ、貴女を待っていて良かった。