【後編】鮎川哲也
五月に体調を崩す時、決まって最初は体が少し重くなる。全身の筋肉が緩んで力が入らなくなるのだ。それでも無視していると、今度は目の裏側に刺さるような痛みが走り出す。
「君の場合、五月病っていうよりも五月風邪だね」
横浜に来て最初の年、急に変わった環境に体が驚いてか、熱を出して2日ほど寝込む羽目になった。次の年は少しづつ試合が入ってきたからか、やはり体調を崩した。
それから毎年決まって、五月に熱を出すようになった。
「あれじゃん。スケーターって年間を通して、結局休める時間が少ないでしょ? 最近のスケーターはシーズンオフもアイスショーに出ずっぱりだからね。だからこの時期になると、試合もなくて練習も多少落ち着いているから、そこで気が緩んで免疫がちょっと落ちるんじゃないかね」
原因は疲労による免疫低下だというのが先生の見解だ。
年間のスケジュールとして、六月から八月はアイスショーのシーズンになる。特に日本は、ショーでもアマチュアスケーターが中心になるものが多いので、そのための準備や移動で追われることになる。九月からは試合がぽろぽろ始まり、十月には本格的にシーズンイン。そこからは選手それぞれで、十二月にシーズンが終わる選手もいれば、二月で終わる選手もいる。
俺の場合、ありがたいことにここ数年は三月末でシーズンが終わる。世界選手権が最後の試合になるからだ。さらに四月末から五月のゴールデンウィークまで、練習拠点のアイスパレス横浜でアイスショーが開催されるので、そのショーにも参加している。
このショーが終わると、今シーズンも終わったなと実感する。実感と同時に訪れるのが、筋肉の緩みだった。その後はずるずると調子が崩れて行く。
「まあ、シーズンになるとうかうか体調崩せないんだから。今のうちにガッツリ休んでおけばいいんじゃないの?」
毎年行事のように五月に寝込む俺を、先生は肯定的に受け止めてくれた。あの先生は呼吸より軽いくせに、物事を受け入れる度量が異様に深い。横浜にきて六回目の五月を迎えた今回も、余計なことは考えないでゆっくり休みなさいと言っただけだった。
年中体を張っている自覚はある。シーズン中に大病なんて持っての他だし、そうならないように自分でコントロールしないといけない。招致していただいたショーにはできるだけ出演したいし、里帰りすれば元気な姿を両親に見せないといけない。
体調を崩して寝込んでも、いつでも誰かがそばにいるわけじゃない。それは、釧路にいた頃から変わらない。公務員の父、信金のパート勤めの母。姉は部活で忙しい。慣れているから、何とも思わない。
……だから目の前に雅の幻が現れた時、随分と都合のいい幻覚でも見たのだなと思った。幻でも雅は、相変わらず感情豊かで、怒ったり呆れたり奇声をあげたり、いろいろと忙しい。
幻の雅は俺に医者に行けと力説している。夢現の中で計った熱は笑えるぐらい高くて、だからこんなに頭痛もひどいのだと納得させられた。
とにかく動きたくはなかった。寝ていれば治る。堤先生だっていつもいるわけじゃない。あの先生はあの先生で、かなり気を遣っている。だから俺の役目は、さっさと治すことと、風邪をひかない丈夫な体を作ることだ。
幻でも、今の自分を雅に見られたくはなかった。弱っている俺を見ると、雅は辛そうな顔をしてしまうから。なんとか声を絞り出して帰れと伝える。
そのまま目を瞑る。頭痛で頭が、黒とオレンジのマーブルになる。筋肉の代わりに鉛が詰まったみたいだった。重くて熱いのに、背筋に悪寒も感じる。
……急に、額が楽になった。
白黒の何かが額から瞼のあたりまで覆っている。閉じたまぶたの裏側では、白黒のパンダがごろりと横たわっている。このまま何も考えず、ごろごろとしてもいいんだよとパンダが語っているみたいだった。極めて怠惰な白黒の生き物が誘ってくる。ダメだ。早く治さないと。弱っている場合じゃない。
しばらくして、肩や首の骨にかけて何かが貼られる。頭の位置が上がる。呼吸が、だいぶしやすくなった気がした。
冷たい。
冷たくて柔らかい何かが、左手を握ってくれている。石のような硬いものも、手の甲に当てられている。柔らかいものは、石と俺の左手をそのまま包んでいるのだろう。
不思議だ。寒さや冷たさは鋭い。肌を刺すような痛みだ。
それなのに左手を握っている何かは、どこまでも柔らかだった。じんわりとした優しい冷たさが、左手から身体中に伝わって行く。
これはなんだ。
優しい音がする。
どこまでも染み渡るような。
……だめだ。
今、この優しい冷たさだけは、手放せない。
左手をどうにかして動かして、柔らかいものを力が入らないなりに握りしめる。これを離してしまったら駄目だと、頭痛に侵された頭が警鐘を鳴らしていた。手の中のものは動く気配がない。
そこにいてくれている。
離れずに側にいてくれている。
……その冷たさに身を委ねるのを、熱に浮かされながらも自覚しないわけにはいかなかった。じわりと身体中に伝わるのは……。
何故か言い難いやすらぎだった。
*
目を開いたときには、部屋は暗くなっていた。
だるさを押さえながら起き上がると、額から何かがずるりと落ちた。気にせずに、電気をつける。枕元のiPhoneを見ると、時計を邪魔するように何通ものSNSの通知が届いていた。ほとんどが先生だった。時間は……夜の十時。最後に瞼を開けていたのはいつだっただろう。やけに鮮明な幻がいた気がする。意識が朦朧とし過ぎていて、あまり覚えていないのだが。布団の上に見覚えのないタオルハンカチがある。広げると、パンダがユカリの葉を喰みながら怠惰に寝そべっていた。
昼を食べなかったからだろう。学習机に置いてあるスポーツドリンクを無意識に飲むと、余計に胃が空腹を訴えてきた。
リビングの方に行くと、堤先生は仕事から帰っていて、テーブルでコーヒーを嗜みながら雑誌のページをめくっていた。読んでいるのは、映画秘宝。俺の顔を確認すると、穏やかに顔を緩ませた。
「ただいま。今日はごめんね。今の調子はどうよ?」
「1番傾斜のきつい坂は越えた……と思います」
まだ熱っぽいし全身は痛い。それでも、1番酷かった昼下がりよりだいぶ楽にはなった。ただ、今度は喉がいがらっぽいので油断はできない。
「それはよかった。飯食える?」
「……もしありましたら」
「ちょっと待ってな」
先生が持ってきたのは、一膳分の粥だった。卵とネギとシラスが浮いている。必要以上に濃い味ではないのが大変ありがたい。テーブルを挟みながら、先生は調布のイベントについて話した。大学の後輩が調布のリンクで指導者をしているらしい。その後輩から、午前は一日スケート教室の特別講師、午後はショーのゲストとして呼ばれたのだ。後輩も立派に指導者をやっていた。リンクの生徒は小学生が大体で、これからが楽しみな子が多かった、と語っていた。今日はなにを滑ってきたんですか? 「エトピリカ」と「ジゼル」だよ。……これはまた両極端な。話を聞いているうちに、皿の中身は空になった。
「後、これね。そんだけ食えりゃこれもいけるかな」
これと言って出されたのは、カップのヨーグルトだ。昨日の冷蔵庫にはなかったものだ。先生が用意してくれたものだろうか。
「ありがとうございます」
蓋をめくって素直に頭を下げると、先生は予想していなかった名前を連れてきた。
「そういう言葉は雅ちゃんに言いな」
「は?」
顔の筋肉が硬直する。鏡をみると、真顔になった俺が確認できるかもしれない。ちょっと待て。……一体どう言うことだ?
「雅……きてたんですか?」
昼間に見たやけにリアルな幻。
あれは幻じゃなかったのか?
「うん。ヨーグルトかスポーツドリンクとかと一緒にね。今食べたお粥も作ってくれたんだよ。それ、俺もちょっと手伝ったけどね」
「ちょっと待ってください。なんで雅がきたんですか? 俺が知りたいのはその理由です」
幻の雅はその理由を言っていた気がする。覚えていないけれど。あっさりと先生が答えた。俺が教えたんだよ、と。
「帰りが遅くなりそうだから、雅ちゃんに様子を見にきてもらったんだよ。彼女に言ったほど遅くならずに帰ってこられたんだけど。したら雅ちゃん、俺が帰ってくるまで、君の部屋にいてくれてたよ。君がもう少し早く起きたら会えたんだけど。流石に遅くなっちゃうからね。……俺の前で雅ちゃん、泣いてたよ」
見覚えのないタオルハンカチ。学習机のスポーツドリンク。じゃあ、あれは本当に幻じゃなくて……。
無言で先生を睨みつける。……余計なことを。
「なに、言わない方がよかったの?」
「心配かけたくないんですよ。弱っているところを見られたくもないんです。」
それでも雅に助けられたのは事実だ。昼間、あいつが来なかったら俺は今会話してものを食べられるほど回復していなかっただろう。
だが、それとこれとは問題が違う。
「何で?」
「なんでもです」
「雅ちゃんに心配をかけるのはダメで、俺に心配かけるのはいいわけ?」
「そういうわけじゃありません」
からになった粥の皿を見る。
「……あいつは。雅は俺の痛みに敏感です。俺が体調を崩したと聞いたら、あいつは人がいいから来てくれます。でもそうすると、あいつは負わなくてもいい痛みを負うことになる。嫌なんですよ。俺は雅にそういう思いをさせたくない」
「何で?」
二度目の「何で?」は強い口調だった。
泣いている雅は苦手だ。胃のあたりが苦しくなって仕方がなくなる。この子を追い詰めているのは何なのか。悲しませているものに対して、理不尽な怒りを感じてしまう。
同時に、自分が情けなくなるのだ。どうしてこういう顔をさせてしまう何かから、この子を守れなかったのだろうと。
タンチョウが群がる釧路の夏。生まれ育った氷がなくなった時、雅は俺の代わりに泣いてくれた。それが少し嬉しくて、だけど情けなくて。後から考えて、嬉しくなったのは彼女に対する浅はかな甘えだと至った。自分が弱いから、この子を泣かせてしまったのだと。
だったら俺は、強くならなければ。
強くなれば。この子を泣かせなくて済む。この子を追い詰める何かから、守ることができる。
しかし結局、前と同じように俺が原因で彼女に辛い思いをさせてしまった。それが不甲斐ない。昔と同じ、弱いままだ。
ぱたんとなにかが合わさる音。長い鼻息。
急に、視界ににゅっと侵入するものがあった。角ばった大人の手。指は狐にみえる。
「えい」
狐が噛み付いてきた。パチンと強く弾く音。
襲ってくるのは、意外な傷み。
「何するんですか!」
「デコピンだねー」
余裕ある大人の塵よりも軽い声。……蹲って頭を抑える。完全な不意打ちだった。先生が弾いた指より、響いた自分の声の方が頭痛を増長させた。
「哲也」
顔を上げると先生が薄く笑っていた。笑っているように見えるだけで、実際は真面目な顔をしている。証拠に、目は笑っていなかった。
「君は盛大に勘違いしているよ。まずさ、君は余計な痛みを負わせていると思っているかもしれないけど、雅ちゃんは君と痛みを分かち合いたいんじゃないかな? 例えば、雅ちゃんが痛いのに痛いの隠していて余計苦しんでたら、君はどうするの?」
「それは……」
昔のことを思い出す。
雅は一回、自分でもどうしようもなくなって助けを求めにきた。マスコミや関係者からいろいろ聞かれて、スケートが辛い時期があったのだ。夜、英語の宿題をやっているときに、表情のない顔で、ぱきぱきに渇いた声でやってきた。
もしあの時、何も話さずに苦しみの沼にはまっていったら。
多分俺は怒るだろう。なんでこうなる前に、話してくれなかったのかと。そして……。
「君は君なりに雅ちゃんの力になるだろうね。今回、雅ちゃんが君にしてくれたように。それは余計な痛みじゃないだろう?」
……はらわたの中をしっかりと知られていたようで、腹立たしい。
「それに、君が強くあろうとしているのはとてもいいけどさ、すこしは自分の弱さも認めてあげてもいいんじゃない? 今の時点で君は十分強いけど、多少は人に弱いところみせないと息が詰まっちゃうよ」
何もいえない俺を横目に、先生は椅子から立ち上がった。台所に行って、IHコンロの前に立つ。数分経ってあるものを持ってきた。
「これは雅ちゃんの気持ちだよ。俺も今日は疲れたから、風呂入って寝ちゃうわ。哲也も、それ飲んだら余計なこと考えないで寝なさい。明日は医者いくからね。熱が完全に下がっても、三日間は練習禁止。病人はぐーすか寝てりゃいいんだよ」
「……なんですか、これ」
生姜入りのホットレモンだよ、と言って先生は風呂に向かっていった。
マグカップから白い湯気。電子レンジじゃなくて、鍋で温めたみたいだった。一口つけると、舌を火傷するほど熱く。
「甘……」
想像以上に甘かった。
生姜の入ったホットレモンと言っていたが、だいぶ蜂蜜の量が多いみたいだった。とろみがついていて、喉にじわりと絡みつく。葛湯みたいだ。喉から胃に通って、あとからあとから生姜が効いてくる。血管と細胞が温められていく。
雅は隣にいたのだろうか。パンダ柄のハンカチとスポーツドリンク。……手から伝っていった、柔らかい冷たさ。
あの時聞いた優しい音は、一体なんだったんだろう。
ホットレモンを熱いうちに飲む。部屋を暗くさせて、再び布団に入る。深く息を吐いて目をつぶる。次にまぶたを開いた時には、朝になっていた。
✳︎
その後も、熱が下がったり上がったり微熱が続いたりした。雅がきた翌日には先生に笑顔で休日診療に連れて行かれた。医者には当たり障りもなく風邪と疲労と診断され、しばらくは静養するようにと言われた。一日の大半をベッドの上で過ごすのは久しぶりだった。堤先生からは「休めと言ったのは俺だけど、暇かと思って」と何冊か文庫本を頂戴した。学校の友人からはありがたいことに、休み中のノートを見せてもらうことになった。
ベッドの上にいる間にも、学校もスケートも進んでいく。
雅には一回、LINEを送った。「この間はありがとう」と、それだけ。スタンプが一個送られてきた。やりとりはそれぐらいで、その代わりに。
「これ、雅ちゃんから預かったよ」
ある日の夜、仕事が終わった先生がトートサイズの保冷バッグを持ってきた。チャックを開くと、抹茶のパンナコッタが四つ入っていた。……上に余計なトッピングがないのが俺の好みだ。
「いい彼女持ったね」
「違いますそんなんじゃありません」
にやにやと笑う先生が、リアルに気持ちが悪い。とりあえずおっさんの邪推には全力で否定をしておいた。
「……あれだけ自分で言っておいて、なんでそこは否定するかな」
「なんか言いましたか?」
「言ってないよー。それにしても美味そうだね。一個もーらい」
パンナコッタは甘すぎずに抹茶の香りがして、大変美味だった。
結局練習を再開できるまで回復するのに、十日ほどかかった。
ーー早朝、練習のためにリンクに行くと、気心しれたリンクメイトと先生たちが迎えいれてくれた。リンクメイトからは「久しぶり、学校の課題だったの?」とか「いない間寂しかったよ」とか幾つか言葉を貰った。「治ったなら何よりです。これから色々と大変になるのですから、体調管理はきちんとしなければなりませんよ」と厳しい激励を飛ばしたのは、星崎総一郎先生だ。
俺が来た時には雅は氷上練習を始めていた。ウォームアップをして数日ぶりに氷に乗ると、驚く程体が鈍っていた。エッジの感覚を取り戻すため、1時間じっくりとコンパルソリーを行った。黙々とエッジを駆使して滑る感覚がとても喜ばしかった。
「雅」
雅に話をかけられたのは、夕方の練習が始まる前だった。
「てっちゃん。……もう大丈夫なの?」
「お陰で。いろいろと迷惑かけたな」
「ううん。治って本当によかった」
雅に、本屋の紙袋を渡した。俺の部屋にあった彼女のカーディガンと保冷バックが入っている。パンダ柄のハンカチも。お粥とホットレモンがよく効いたとも伝える。もちろん、パンナコッタがうまかったことも。あれはお母さんのレシピだよと雅は笑った。
それから……。
「あとこれ。雅のだよな? 布団からでてきたんだ」
深い藍色の石のネックレスだった。石には雪の結晶が張り付いている。サファイアカラーのそれは、色自体は深いのに掌におくと透明感があるのがわかる。体調が良くなったので布団を干そうと思って片付けていたら、ベッドから落ちてきたのだ。見覚えがなかったけれど、持ち主はただ一人しかいない。
「これは……その……同じ日に買って……」
それを見た雅は、少し引きつった笑いをした。買ったばかりのものを忘れていくなんて、雅も大概にそそっかしい。
「ほら、今度は忘れていくなよ」
俺は雅の小さい手のひらにネックレスを乗せた。雅はそれをしばらく見つめた。その間にもくるくると顔が変わった。茫然と、陶然と。そして……。
俺の顔を見ずに、突き返してきた。
「あげる!」
「……え」
「うん、あげるから! 受け取ってほしい」
「雅? いや、これは忘れていっただけだろ。それに、俺が持っていても付けないぞ?」
俯いたまま雅が首を横に振る。
「違う、違うんだ。これは……てっちゃんに持っていてほしいんだよ」
「何でだよ」
俺が持っていても持て余すだけだ。だから、気に入って買った人間が持っているべきだ。それで何も問題はないはずだ。
……口を半開きにしたまま、雅は固まっている。相変わらず忙しない。
「お……」
「お?」
おから先はなんだ。
「お守りだよ! ほら、てっちゃんも怪我とか少なくないし! 肝心な時に体調崩したら大変だし! だから、ね! き、気休めかもしれないけど! 持ってるのもいいんじゃないかって……」
顔を真っ赤にさせて弾かれた言葉は、最初は言い訳めいていた。必死で、別の言葉を出したいのにそれを隠すためにそれを言っている。
華奢なチェーンのネックレス。アクセサリーをつける趣味はないし、あったとしてもこれは付けられない。あきらかにこれは、女性を想定して作ったものだろう。似合うのは喉仏の出る俺の首じゃなくて、雅の綺麗に浮き出た鎖骨だ。だが。
……この子に心配かけたくないと思う反面、この子が心配してくれて嬉しいと思ってしまう自分もいる。昔はそれを甘えだと思ったが。
俺は学生鞄から財布を出してネックレスを小銭入れに入れた。幸いに小銭は入っていなかったので、石を傷つける心配はない。
「わかった。じゃあ、これは俺が持ってる」
アクセサリーではなく、雅は「お守り」だと言っていた。身に付けるものではなく、身を守るものとして持っていればいい。
「大事にする」
これが雅の気持ちなら、無視はできない。受け取ってほしいと言った言葉と一緒に、大事にする。
そう伝えたら、雅は弾かれたように頭をあげた。俺の言葉が信じられなかったようだった。雅は今度は、何度も頷きながらありがとうありがとうと言った。感謝しなければいけないのは俺の方なのに。またこういうことがあったら、てっちゃんの部屋にお見舞いに行ってもいい? と聞かれたから、お前がそうしたいならそうしてほしいと伝えた。すると雅は口元を綻ばせた。滅多に咲かない月下美人が咲いたような、密やかな魅力があった。とても嬉しそうで、とても……幸せそうだった。
「ありがとう。心配させてくれて、嬉しい」
その様子に、どういうわけか胸が詰まった。言い表せない何かが、喉元に存在している。……どうしようもなく、熱くて離しがたい何か。彼女の言葉が俺も嬉しかったのだろう。
嬉しいと思っていいのだ。
手の中に残る青い滴。水の中に閉じ込められた雪の結晶。
本当に大事にしよう、と思った。
✳︎
その後、あのネックレスはハンカチに包んで鞄の中に入れている。本当に「お守り」として持つことにした。
ハンカチに包むのは石を傷つけないためともう一つ。
……これを見ていると、問答無用であの時の、密やかに咲いた花のような雅の顔を思い出してしまいそうだった。