【前編】星崎雅
「その色、今流行なんですよ」
……それを眺めていたとき、店員さんが横からにこやかに声をかけてきた。
私、星崎雅の趣味の一つは雑貨屋巡りとウィンドウショッピングだ。休みの日や練習を午前で切り上げた土曜日に気分転換で本屋と一緒に巡ったりする。練習の時に愛用しているアルパカのティッシュカバーも、雑貨屋で一目惚れして買ったのだ。財布の中身が寂しくても、可愛らしい置物やもふもふのぬいぐるみを見ているだけでなんか楽しい気分になってくる。
五月のさわやかな風がするっと抜けていく。今日は土曜日だ。午前いっぱいを氷上練習に使い、休みを挟んで2時半まで陸上トレーニング。ピラティスの方が筋肉がしなやかになる……というのは本当だろうか。とりとめのないことを考えながら、ぼんやりと向かう赤レンガ倉庫。
「透明度はあるけど深い色で。ダークサファイアって言うんですよ。本物のサファイアではなくてスワロフスキーですが、気取らないので普段使いにぴったりなんです」
地元横浜の赤レンガ倉庫には、雑貨屋がたくさんある。その一つが、複数のハンドメイド作家がつどうアクセサリーショップだ。運営も作家さん達自身が全て行なっているらしい。アクセサリーはヘアピンぐらいしか持っていないけど、見るのは好きだ。フィギュアスケートの衣装を思い出す。摘み細工のヘアゴム。レジンでできた懐中時計。金平糖のかたちのヘアピン。何匹もの金魚がゆらゆら揺れるかんざし。
そして、それに目が止まった。
サファイアカラーのペンダントトップに、雪の結晶が張り付いている。銀色のチェーンがシンプルなネックレスだった。
決して派手な作品ではない。だけど、水の中に雪の結晶がかたちを保ったまま保存されているような。透明な美しさがあった。こういうものは、本物のサファイアかどうかより、それをみてどう思うかが重要だ。吸い込まれるようにそれを見てしまう。
水が雪になり、雪が水の中で存在して、すっと奥底を潤していく。
「……何か、ご入用ですか? 大事な人への贈り物とか」
店員さんは20代後半の女性だった。縁無しのメガネに丸顔。整っているんだか愛嬌があるだけなのかよくわからない、味のある顔だった。肩までのボブカットで、穏やかそうだけど妙な迫力があった。
「い、いえ! そういうわけじゃないんですが!」
「そうですか。何かこの作品を、幸せそうにみていられたので」
「そ、そんなことないです!!」
顔が勝手に熱くなる。……なんでここでてっちゃんが出てくるんだ。
「気になるようでしたら、試着してみませんか?」
「い、いえ。ネックレスの類は慣れていないので……」
「金属アレルギーですか? でしたらステンレスへと対応可能ですよ?」
「そういう意味じゃなくて! アクセサリーに私が負けそうなんです!」
「つけることを目的じゃなくて、アクセサリーをお守りとして持つ方もいらっしゃいますよ? サファイアの石言葉をご存知ですか? 誠実、不変、愛情。また、病気や病魔を封じたり、大事な人との絆を深める効果もあります。お守りにぴったりなんですよ」
なんだこの店員さん。かなりぐいぐい来るな。あの手この手を使って売り出しにかかってくる。さっき、これは石じゃなくてスワロフスキーだって言ってたじゃん。ダークサファイアって言う名前のガラスのペンダントトップじゃん。イミテーションなのに、そんなこと言い切っちゃっていいの?
ていうかさ。
「……そんなに買わせたいんですか?」
「ええ。だって」
次に店員さんが行った言葉は非常に納得のいくものだった。
だってそれ、私が作ったものだし。……さいですか。
結果、押し切られるように買ってしまった。それほど値段も高くはないし、綺麗だから悪くはない。悪くはないが……なんとなく負けた気分だ。ありがとうございました、今後ともよろしくお願いしますと答えた店員さんは、とてもにこやかな、若干腹のたつ笑顔で私から1300円を受け取った。店内を彷徨くと、その店員さんの作品がいくつか置いてあった。……さらに腹のたつことに、非常に綺麗で完成度が高く、購買意欲を絶妙にそそってくるような作品ばかりだった。あのクラゲのペンダント、次に来た時あったらいいなとか思ってしまう程度には。
ショートパンツのポケットに入るダークサファイアのネックレスを気にしながら、これを私はどうすればいいのだろうかと考える。1300円の値段以上に、透き通って綺麗なもの。
私の首には綺麗すぎる。似合う服もない。それに、これを見るたびに……。
小さく頭を振る。ダメだってば。私は出てこようとする顔を必死で押さえ込んだ。
iPhoneが鳴ったのは、グリーンティーカフェで抹茶ラテを買っていた時だ。表示された名前を見て、ちょっと驚く。電話のやりとりなんてあんまりしないから。
「堤先生。電話なんて珍しいですね」
兄弟子の、堤昌親。プロスケーター兼指導者。今日は……そういえば姿を見ていない。確か、調布のリンクのエキシビションに呼ばれていたからだ。
姿を見ていないといえば、今日はてっちゃんの姿も見ていなかった。ただ、五月に普段は参加できない学校行事やたまりがちな課題の消化に当てているらしく、リンクにこない日も多い。シーズンに入ると、どうしても大会や練習に大体を割くことになるから。
だから、今日こない理由を特別考えたりはしなかった。
「まぁ、ね。メールじゃなくて直接言ったほうがいいと思って電話したんだけど、雅ちゃん今どこにいて、これから予定ある?」
「今日はもう練習ないので、赤レンガにいます。これからの予定も特にないです」
家に帰っても、次のプログラムのための曲あさりをするか、部屋でゆっくり休むか、母の手伝いをするかだ。それは予定という予定ではない。
「実は折行ってお願いがあるんだけど……」
歯切れが悪い堤先生は珍しい。そして、嫌な予感がした。
潮風がカモメの鳴き声とともに、予想外な兄弟子の言葉を連れてきた。
*
……ビニール袋が歩くたびにガサガサと音をたてる。中身は500mlのスポーツドリンクが二つ、吸って飲めるタイプのゼリーを二つに、ヨーグルト。
堤先生が借りているマンションは私の家からも近い。それなりに建築年数の経ったマンションで、セキュリティとかはちょっと甘い。オートロックとかがあるわけじゃない。入り口に守衛さんが常駐しているぐらいだ。だから家賃が安いんだと兄弟子は笑っていた。ポケットの中には鍵がある。母から受け取ったものだ。まさか母が堤先生の家の合鍵を持っているとは思わなかった。エレベーターで7階まで上がる。
チャイムを一応ならし、反応がなかったので鍵を回す。一人分の靴がそこに置いてある。革製のローファーは彼が通う高校の指定靴だ。3LDKの一室は彼の部屋だ。
「てっちゃん、入るよ」
ノックを3回しても返事はない。チャイムを鳴らしても出なかったし、当たり前だ。
久しぶりに入るけれど、変わらずに小ざっぱりした部屋だ。大きい勉強机。意外に場所を取るのが天体望遠鏡。全日本に初めて表彰台に上がった時、堤先生から買ってもらったものだ。本棚には綺麗に高校の教科書や文庫が陳列している。無駄なものがなくて清潔に片付いている。ベッドは窓際で、壁に沿って配置されていた。
寝相がいい。布団は肩までかけて。私みたいに布団の中に潜って蹲るような姿勢じゃなくて。背中をぴったりとつけて、微動だにしない。
ベッドの上では私のリンクメイトで幼なじみの鮎川哲也が、赤い顔で眠っていた。
呼吸が荒い。額に貼った冷却シートの端がパリパリになって浮いている。ずいぶん前に効果はなくなっているだろう。いつから貼っていたのかわからない。皮膚がかぶれてなければいいけど。
1時間前の堤先生との会話を思い出す。
『今日これから暇だったら、哲也の様子を見に行ってくれないかな?』
「え、てっちゃん。どうかしたんですか? 」
「あれ、哲也から何も聞いてない? ていうか、LINEとかしてないの?」
私とてっちゃんはあまりLINEのやりとりをしない。ほとんど毎日会っているから、そういう意識がないのだ。何かあったら直接話をすればいいから。
『じゃあ俺から話すわ。実はあの子、昨日の夜から体調崩してさ。今日の朝熱三十七度以上あってね。今は練習をハードにする時期じゃないから休ませたんだけど」
まばたきを数回。
「知ら、なかったです。課題が溜まっているから休んでいるんだとばっかり。……風邪、でしょうか」
『おそらくは。ただ今日、俺も東京で休めない仕事があってさ。余裕がありそうだったらなんか連絡よこせって送ったんだけど、既読にもならないし。帰りもあんまり早くならないし、流石に一日一人でいさせるも心配っちゃ心配だからね』
軽薄が服を着て歩いているような私の兄弟子だが、結構マメな面がある。鶴の一声でてっちゃんを引き取ったようなところもあるから、なにかと気を使っているのだ。
「……わかりました。とりあえず、行ってみます」
頷いて、私は赤レンガ倉庫を離れた。堤先生とその後いくつか言葉を交わし、電話を切った。まずは母に連絡を取る。堤先生の部屋の合鍵を持っているらしい。連絡はすぐについたのに感謝する。家に行って鍵を受け取り、今度はドラッグストアに向かった。堤先生の家になにがあるか分からないから、最低限の飲み物とヨーグルトを買うために。
ーーそして現在。
ドラッグストアで買い込んだものを、学習机にどかっと置く。冷却シートも買ってくればよかったと後悔しながら、椅子を拝借して座り込む。枕の横のiPhoneがちかちかと光っている。本当に、見れてないんだな。
「てっちゃん……」
朝は三十七度以上だと言っていた。でも、この分だと、今の体温は三十八度を超えているかもしれない。冷却シートの端をつまむと簡単に剥がれた。貼っていた跡がしっかりと残っている。
「熱っ!」
剥がした冷却シートに触れたら、思わず叫んでしまった。なにこれ! もうこれ、温湿布状態になってるよ! いや、湿ってもいないから、ただの熱い布だ!
私の声に反応してか、剥がれていく冷却シートの感触に反応してか、てっちゃんの瞳が薄く開き出した。目に光はないが、たしかに私を捉えている。
「……お前、なんで」
いるんだよ、と続けたいんだろうと思った。思ったように言葉が出てこなかったのは、声が掠れているからだ。
「堤先生から聞いたんだよ。聞いたのよりだいぶ悪そうだけど。朝から熱、計ったの?」
「計ってない……」
「昼は食べた?」
てっちゃんが首を横に振る。
学習机の上に体温計があった。てっちゃんに渡すと、起き上がらずに脇に差し込んだ。ややあって音が鳴る。表示された数字を見て、カエルを引いたような声が出た。さっきから変な声が出てばっかりだ。
「これやばいよ。ちゃんと医者行った方がいいよ」
土曜の夕方に診察できる医者が横浜にあるだろうか。ちゃんと調べないとわからないが、この体温は無視できない。ていうか、無視しちゃいけない。iPhoneを起動させて調べる。
「ちょっと遠いけど、休日の急患診療所なら診てもらえるかも。母さんに話してみるから、行こう?」
母さんはてっちゃんのサブコーチだ。堤先生が不在時は母がてっちゃんの練習を見ている。知らない関係ではない。事情を話せば、母も車を出してくれる筈だ。こういう時に車を出さないほど、母は人でなしではない。
だが。
「いい」
肝心の病人が首を縦に振らない。……行かない、なんていう選択肢が残されている状態じゃないのに。
「なんで。ダメだよ」
「寝てれば治る」
「根性論が通じる数字じゃないよ。ちゃんと見たの?」
ぼんやりとしたてっちゃんの眼前に体温計を突き出す。三十九度三分。笑えないけど笑っちゃう数字だ。
「すごいな。笑えてきた」
「笑えることじゃないし、他人事じゃない!」
流石に怒りがこみ上げてくる。病人の目の前で怒鳴るのもどうかと思うけど、そのぐらい言う権利ぐらい、私にはあるだろう。
「……ごめん。でも、本当にいいんだ。正直喋るのも辛い。今、医者に行くぐらいなら……寝ていたい」
熱がこもった冷却シート。示された温度。跡が残る額に触れてみる。……これだけ熱いと、体が痛くてだるくて動かせないだろう。
「なら、せめてこれ飲んでよ」
ドラッグストアの袋から、先ほど買ってきたスポーツドリンクを取り出す。キャップを回して差し出した。上半身を起こして受け取ると、てっちゃんは一気に半分ぐらい飲み干した。動けなくても、栄養が入らないと良くはならない。だけど、いきなり固形物よりも液体のほうがいいだろう。
「……ありがとう」
「ゼリーもあるけど、どうする?」
「……今はやめとく」
「冷却シートある?」
「……最後の一枚だったかも」
喉が潤ったからか、声の掠れが少しだけ治っていた。喉の調子はどうなんだろうか。油断はできないだろう。
「寒く、ない?」
てっちゃんが首を横に振る。……気にするな、ということだろうか。
「雅、もう帰れ。俺は大丈夫だから。ここにいたらお前まで風邪引くぞ」
それ以降、てっちゃんは目を閉じて、口も開かなくなった。
眉間に皺がよっている。頭痛のせいだろう。
……大丈夫って、なにが大丈夫なんだ? この状態は全然、全く大丈夫ではない。三十九度熱がある人間が「大丈夫」って、全く説得力がない。上半身を起こすのだって、一苦労だったじゃん。首振ってたけど、めっちゃ寒そうにしてたじゃん。それか医者に行かないことだろうか? 堤先生がいる時はどうなんだろう。あの先生のことだから、てっちゃんがどう言おうが笑顔で医者にひっぱっていたかもしれない。母や私の手を煩わせたくないのだろうか。いろんな考えがぐるぐる回る。ぐるぐる回って……何故だか泣きたくなった。
こんな状態で、帰れるわけないじゃん。
こんな状態で、私に気を遣わないでよ。
緊急外来の有無を調べたまま持ちっぱなしだったiPhoneで、今度は別のことを検索する。検索するのは、「熱 三十九度以上 下げる方法」、「風邪 対処方法」、「熱の時 食べ物」等々……。文明の利器は偉大だ。医学知識がない、一介の女子高生スケーターにも知識を与えてくれる。
自分の鞄と買ってきたビニール袋を掴んで、てっちゃんの部屋をいったん出た。
「台所、ちょっと借りるね」
聞いているかどうかわからない。でも、一言言うのと言わないのでは、気分が少し違う。現在の状況と、てっちゃんに言った同じことを堤先生のLINEに送る。家主は先生だから。質問も一つ。「冷却シートの予備ありますか? あるなら、どこにありますか?」。勝手に家探しするわけにはいかない。
リビングは対面型キッチンで、流しやコンロからテレビが見られるようになっている。コンロはIHで、キッチンそのものは結構な広さがある。二人作業しても邪魔にならないぐらいに。
流しのたらいが綺麗に片付いている。まず、製氷機の中から氷を二杯分だして、たらいの中に入れる。そこに、水を適当にじゃばじゃば入れて氷水を作る。カウンターの上に塩の箱があったので、ひとつまみ塩を入れる。箸でかき回して、調整。塩が解けたところで指を入れて温度を確かめる。普通の氷水より、だいぶ冷たい。その中に、自分のタオルハンカチを入れた。白黒のパンダ柄のハンカチだ。先週買ったばかりの新品だ。しばらく放置。
その間に、飲みかけのスポーツドリンクだけ部屋に置き、ヨーグルトとかゼリー系は冷蔵庫に。あったかい飲み物が作れる何かはないだろうか。失礼だが、冷蔵庫を見させてもらう。とりあえずシラスと生姜と生姜のチューブがあるのは確認できた。
冷却シートは本当に最後の一枚だったのだろうか。先生のタイムラインは既読にならない。あの先生も多忙なのだ。
タオルハンカチが十分に冷えて濡れたところで、絞る。思った以上に冷たくなっていた。それをてっちゃんの部屋に戻って、寝ている彼の額に乗せた。
そして靴を履いて先生の家を出る。鍵を忘れずに。目指すはさっき行ったドラッグストア。ーー冷却シートの予備を買うためだ。
私は今、てっちゃんのためにできることをやらないと。
風邪をひいた時、私に誰が何をしてくれただろうか。
昔、熱を出して唸りながら眠っていると、まず優しい手が額の上に乗っかってきた。ぼんやりと目を開けると、母がベッドサイドで微笑んでいる。私によく似た顔立ち。穏やかな顔を見ると、途端に安心する。
その時の母ほど、菩薩に近いものはない。
「かわいそうに、もう大丈夫よ。これからニラと卵のヨーグルト粥作ってあげるからね」
菩薩は時折恐ろしいことをのたまってくる。こんな時まで、やめてよ母さん。と思いながら、優しい声音とその手の魔力に私は逆らえない。
とにかく心細くなるのだ。熱くて苦しくて仕方がないから、そばに誰かがいて欲しい。小さい時もそう思ったし、甘ったれなようだけど、今でも少し心細くなる。
「あのね、母さん」
「なに?」
「今ね、母さんがいてくれてすごく嬉しい」
「それは光栄ね」
「でもさ、たまに思うんだ。こういう時、てっちゃんはどうするんだろう。こういう時、誰を頼って、誰に甘えるんだろう。こんなに痛くて、苦しくて仕方がないのに」
病気の時、悲しくなるのは私だけだろうか。こんなことを言うと笑われるだろうか。早くから親元を離れて頑張る子はたくさんいる。その人から見れば、私は大変な甘ったれだろう。てっちゃんは男の子だから、そんことは考えないのだろうか。でも心が弱ってしまう時はあると思う。
再び母の手が触れる。
「大丈夫よ。チカは確かにちょっとちゃらんぽらんだけど、内弟子に引き取った子を無下に扱うような人でなしじゃないわ」
どうしてあんなちゃらんぽらんになっちゃったのかしらねぇとすこし笑う。昔はもっと真面目な子だったのよ。チカって母さん。堤先生は女の子じゃないよ。そういうと、まぁ、私にとってはちょっとデカすぎる息子みたいなものだけどねと笑う。
「あなたにここまで想われているなんて、哲也くんは幸せね。雅がそう思ってることが、哲也くんを救っているかもしれないわよ」
もうすこし寝なさいと促されて、私は目を閉じる。そうして次に起きたときには、卵とネギの入ったシラスの粥と、蜂蜜と生姜を混ぜたホットレモンを出してくれた。
ーーこのやりとりは数年前。てっちゃんが横浜にきたばかりで、私が小学校の時のものだ。ドラッグストアで冷却シートをさがしながら、なんとなく思い出した。
堤先生の家に戻ると、もちろん先生は帰っていなかったし、てっちゃんはまったく動かないままだった。
鞄と二度目の戦利品を学習机に置いた。額の上のハンドタオルを確認すると、冷え切った先ほどの温度はどこへ行ったのか。だいぶ温められてしまっていた。
買ったばかりの冷却シートの箱を開けていると、iPhoneが振動した。
堤先生からだ。いくつか一気にメッセージがやってくる。
『雅ちゃん。ありがとう。予想通りというか、結構ひどいね。』
『なるべく早く帰れるようにするけど、台所は勝手に使って大丈夫だよ。』
『あ、あと。うっかりして補充し忘れたから、冷えピタの予備は切れてる。もし買ってくれるなら、あとでお金あげるよ』
……ちゃらんぽらんだけど、本当、マメなんだよな。
iPhoneを学習机に置き、冷却シートを取り出す。
母との記憶と、ネットで検索した結果。ビタミンを取ることと効果的に熱を下げるポイントを抑えることが肝要で。ネットでは冷やす箇所として「脇の下、足の付け根あたりがいい」という情報がよく見かけられた。つまりリンパの集まるところを冷やせばいいらしい。
……いや、流石にそこはだいぶ抵抗がある。脇の下もだけど、足の付け根って。そこはいろいろと問題があると思うのだ。そもそも、寝ている相手の布団をめくって何かすることに、恥とかその後のこととか、大変な罪の意識を感じる。
そのほかに、もう一つ効果があると書いてあったのは、首筋。頸部頸動脈のあたり。ここなら。
まずは一枚を額に貼る。
そして、てっちゃんの頭を持ち上げる。
完全に力が抜けているてっちゃんの頭は、想像よりもずっと重かった。変な風に貼らないように、しっかりとてっちゃんの頭を左手で支えた。左の首筋に一枚。念のため、首の骨のあたりも。ゆっくりと枕の上に下ろして、私は着ていたカーディガンを丸めて枕の下にセットした。首の位置を下げないためだ。
念のため、タオルハンカチももう一度絞って、額の冷却シートの上にかぶせておく。
……大きく息を吐いた。大したことはできないけど、これで来た時よりもはるかにましな筈だ。あとはゆっくり寝て、起きた時に体があったまるものを飲めばいい。
色々と動いていたので、ちょっと休みたかった。私はベッドの横にぺたりと座り込んで、寝ているてっちゃんの顔をじっと見た。最初は顔の筋肉が強張っていて、随分と赤くなっていた。今は……少し落ち着いた顔をしている。静かに規則正しく胸が上下している。
少しだけ憎たらしい。
てっちゃんが体調を崩すのは初めてじゃない。横浜に来てもう7年になるけど、3、4回は何がしかが原因で風邪をひいていた気がする。
だから堤先生から話を聞いた時、予想外に傷ついている自分がいたのに驚いた。
だって知らなかった。この時期にてっちゃんの休みが多い理由が学校行事じゃなくて、熱が原因だったなんて。
「え、雅ちゃん知らなかったの? あいつ、なにも言ってないんだな。」
アイスパレス横浜の指導者陣の中では有名な話らしかった。
「じゃあ俺から言うけど、哲也は毎年五月に熱出すんだよ。原因はシーズン中の疲労だと思うんだけど、どうも風邪が長引いちゃうんだよ」
スケーターはなんだかんだで、年間を通してゆっくり休める時間があまりない。シーズンになれば大会や練習がハードになるし、シーズンオフでもアイスショーや新しいプログラムを作ったりと色々と動いている。
「まあ、今のうちに休んどけばいいと思うから休ませてるんだ。体を休めることも、アスリートの仕事だからね」
堤先生不在時は母が様子を見に来ていたようだ。私は母からこういう話を聞いたことがなかった。口止めしていたんだろう。他でもない、てっちゃんが。
母を責めるつもりはない。母はてっちゃんの言葉を尊重しただけだろう。
負った痛みを、てっちゃんが私にだけ隠していたことがショックだった。
……私はてっちゃんから見て、そんなに頼りないのだろうか。昔から、てっちゃんは私に自分の弱さを見せようとしなかった。怪我をした時も試合でひどい演技の時も、本当は落ち込んでいる時も、大丈夫だから心配するなと言うだけだった。傷ついている自分を見せるのが、恥だと思っている節もあった。そんなことないのに。年下で、おさないから、痛みを打ち明けるには相応しくはないのだろうか。……てっちゃんの中で、私はまだ氷の上で泣いているだけの子供なのだろうか。
こんなことを思う立場の人間ではないことはわかっている。でも私の心は理不尽なもので、教えて欲しかったと身体中で叫んでいる。
ぐっと、胸のなかに迫り上がってくる痛みを抑え込む。
ーーサファイアの石言葉をご存知ですか? 誠実、不変、愛情。それに病気や病魔を封じたりするから、お守りにぴったりなんですよ。
……ショートパンツのポケットの中から、さっき買ったダークサファイアのペンダントを取り出した。水を固め、そのなかに雪を閉じ込めたかのように美しい。
買ったのは今日なのに、2時間前の出来事が遠い昔のように感じる。あの時の店員さんの言葉が蘇った。うろ覚えだけど。どうにかして売りたい気休めの言葉なのか、本当なのか。大体スワロフスキーだから、これは本当の石じゃない。
でもきっと、私がこれを見てどう思ったのかが重要で。
これに私が、どんな思いを込めるかが大切なのかもしれない。
てっちゃんの左腕は布団の外に出ている。関節の太い男の子の手が剥き出しになっている。手首は意外に線があって、青白い欠陥が浮き出ていた。
「てっちゃん。てっちゃん」
返事はない。最後に私に帰れと言ってから、てっちゃんは目を開かない。寝ているのか微睡のなかか、起きているけれど寝たふりをしているのか。
反応がないなら、どれも一緒だ。
私はダークサファイアを持ったまま、てっちゃんの左手を握った。熱い。皮膚が厚い。
「大丈夫。大丈夫だよ。堤先生も言うほど遅くならないし、……てっちゃんは強いから、こんな風邪すぐ治るよ」
痛みを抑え込みながら。これが本当にお守りならと、私は願いを込める。早く良くなりますように。熱が下がりますように。
てっちゃんにとって私は頼りないかもしれないけど、祈ることと、少しでも動くことはできるんだよ。
それに……。
「てっちゃんの風邪なら、私はうつっても全然平気だよ」
自然と、そんな言葉が漏れてきた。
だから弱さを隠したりしないで。辛い時には、私にも辛いって言って欲しい。
すると。
私のての中で、てっちゃんの手がわずかに動いた。指が動き、手の甲が動き、最後には掌が動いて……。
触れていた私の手に、てっちゃんの手が覆い被さってきた。とても弱い力で、されどしっかりとした意志を感じさせる力で。
振り解こうと思えば振り解ける。そっと手をぬけば、てっちゃんの手は布団の上に音もなく、何事もなかったかのように落ちるだろう。
……胸が詰まる。さっきとは別の意味合いの痛みが走る。……この人の隣にいると、恥ずかしかったり怒ったり怒鳴ったり、ショックを受けたり心配したり祈ったり、感情が訳もわからずどんどん走っていく。それは今日に限ったことじゃない。色んな思いが止まらない。
でもこうして触れていて、どうしようもない幸福を感じてしまっている。
ベットの縁に頬を乗せる。ふかふかで触り心地がいい。窓から、ちょうどいい光の夕日が差し込んでくる。冷蔵庫のなかにはシラスと生姜があった。少し休んだら、シラスのお粥と、生姜が入ったホットレモンも作っておこうとも考えている。これぐらいなら、私でも多分作れる。祈ることも大事だけど、結局治すのは他人の祈りよりも本人の意思と適切な治療だ。それを作ったら、大人しく帰ろう。
だけど。
もうすこし。
もうすこしだけでいいから、このままでいたい。
日が落ちるのと同時に、とろとろとまぶたが下がっていくのがわかった。熱に浮かされた熱い手が、私の左手と祈りを込めたイミテーション・サファイアを握っていた。