彼女の逆鱗
エスラの町は、一見しただけでは何の変化もないように静かだった。
脅威は去ったように見えるが、クルトは用心深く周囲を観察していた。
等間隔に立ち並ぶのは一般的な家屋で、彼の目にはとても娼館があるような町には見えなかった。
クルトたち三人は、アレスの案内で町の中を進んでいる。
「誰もいないように見えるけど、生き残った者たちは家の中で息を潜めている。夜が明けるまでは出てこないはず」
「……そうか、全滅ではなかったのはせめてもの救いなのかもしれない。ところでアレス、この状況で宿屋は使えそうか?」
「混乱が収まれば使えると思う。一度見に行ってみるかい?」
「いや、先に君が襲われた現場を見に行こう。それが最優先だ」
クルトたちはさらに町の奥へと進み、アレスが一軒の酒場の前で足を止めた。
それに合わせて他の三人も立ち止まり、彼が慎重な動作で扉を開いた。
建物の中から濃い血の匂いがして、凶行の現場に居合わせたアレス、その後ろにいたクルトは鼻を手で覆った。
「ヘレナ、それからシモンも見ない方がいい」
クルトは中の様子を見るまでもないと思ったが、確認のために視線を向けた。
明かりが灯ったままの店内はひどい有様だった。
少なくとも、四、五人は息絶えている。
クルトとアレスは目を合わせて、アレスがそっと扉を閉じた。
「……酒場の奥が娼館なんだけど、入ってきたのはさっきの男だけだった」
「わかった、あとは町の中の様子を確認しよう」
クルトとヘレナ、シモンとアレス。
二手に分かれて、周辺を確かめに行った。
クルトは血生臭いことに巻きこまれて、ヘレナにショックを与えていないか気がかりだったが、彼女はいつもどおりの様子に見えた。
「ねえ、クルト?」
「うん、なんだ」
「クルトの知り合いが女を買うっていってたけど、どういう意味?」
「……答えに迷う質問だな」
クルトはそのまま答えていいものか分からなかった。
ヘレナは子どもではないが、森育ちということもあってか世間の出来事に疎いように見える。
そんな彼女に娼館の話をするのは避けたいという思いが、クルトにはあった。
彼の困惑した様子を見て、ヘレナは静かなままだった。
「何というか、言葉通り、あまりいい意味ではないんだ」
「……ふーん、そうなんだね」
二人が見回りをした範囲に異常は見られなかった。
クルトたちが戻ると、シモンとアレスも戻ってきたところだった。
「僕たちの方は何もなかった。君たちの方はどうだった?」
「……何人か斬られて倒れていたよ。息のある人もいたけれど」
「そうか、夜が明けたらレギナへ要請が必要か……」
「それなら、私に任せてくれ。その時にカルマンの凶行についても話すさ」
アレスは自信のありそうな様子だった。
クルトはそれを見て少し考えた。
彼が娼館に出入りしていたことは少なからずクルトにとって衝撃だった。
しかし、アレスは騎士の役目を十分にこなしていたし、信頼できない人物ということはなかった。
クルトは彼に任せる判断をした。
今レギナに戻れば、カルマンへの偵察が間に合わなくなるという意識もあった。
「わかった。君に任せよう」
「信じてくれてありがとう」
「今回の件を見なかったことにするのはむずかしいが、君のこれまでの行動を無にするほどのことではないと思うんだ」
クルトたちは会話が終わると、宿屋の方に向かった。
見回りをしたシモンたちの話では、被害を受けていないとのことだった。
非常時にもかかわらず、クルトとアレスが騎士であることを知ると、宿屋の主人は丁寧な態度で迎え入れた。
それから、それぞれに用意された部屋で眠りについた。
翌朝、早い時間にアレスはエスラを出た。
遺体の整理などは町人がするはずだが、その後の支援は国が動く必要があった。
クルトはアレスを見送ってから、出発の準備をした。
少し遅れてシモンやヘレナが起きてくると、彼らはエスラの町を出た。
ここからまた次の町への移動が始まる。
クルトは今後の道のりを考えながら、シモンに声をかけた。
「シモン、僕からは互角に見えたんだが、あの男を倒せそうだったか」
「うーん、どうですかね」
シモンは悩ましげに首を左右に振っている。
そんな彼の様子を見ながら、クルトは答えを待った。
「あの時は空腹でしたからね。お腹が空いてなければ、僅差でおれの勝ちだったと思います」
シモンはにやついた表情で答えた。
クルトは底知れぬやつだと思いながら、適当に頷いてみせた。
「ヘレナ、歩きづめだが、体調は大丈夫か?」
「うん、ぜんぜん平気。森の中では動き回るのが普通なの」
「ふむっ、エルフはそういうものなのか」
クルトはヘレナと話しながら、エルフのことを詳しく知らないことに気づく。
ウィリデは人とエルフが共存しているが、フォンスの方に来るエルフは少ない。
その理由については諸説あるが、エルフの長が利己的なフォンスのあり方を好まないことが影響しているという話に、クルトは信憑性を感じていた。
ウィリデはフォンスに比べて都市化は遅れているが、その分だけ穏やかで大らかな人が多いというのが一般的な認識だった。
ヘレナは大森林に住んでおり、クルトから見て穏やかな印象だった。
そこで、彼にひとつの疑問が生じた。
「ヘレナは怒ることがあるのか?」
「えっ、何でそんな質問?」
「いや、深い意味はないんだ。怒ったところを見たことがないと」
クルトはくだらない質問だったかと苦笑いを浮かべた。
ヘレナは気にしないような素振りをしつつ、何かを考えている。
「……最後に怒ったのは、だいぶ前かな」
「すごいな、そんなに怒らないなんて」
「……でも、その時は大変だった」
ヘレナは頭を抱えたまま歩いている。
一体何があったのか、クルトは気になっていた。
「その、どんなことがあったんだ」
「魔術が暴走して、嵐を巻き起こしちゃって……」
クルトはその先を聞きたくないと思いつつ、話を切るのも不自然だと考えた。
仕方がなく先を促した。
「……それで、どうなった?」
「わたしの周りにあった木をなぎ倒して、半径10メートルぐらいを更地にしちゃった、ふふっ」
彼女がなぜ笑ったのか、クルトの思考能力では理解できなかった。
そして、再発防止のために原因を聞き出すことにした。
「そんなに怒るなんて、きっかけは何だったんだ?」
「それなんだけど、わたしが楽しみにしていたウィリデのスイーツを誰かが盗み食いしちゃって……思わず感情のコントロールというか、マナの制御が難しくなったの」
「ほ、ほう……」
食べ物の恨みは恐ろしいというが、そこまでのことが起きるのか。
クルトはそう思いながら、ヘレナの機嫌を損なわないように気をつけなければと肝に銘じた。