なめくじを食べる日
ある日、食卓にナメクジが乗っていた。ナメクジは生きていた。ナメクジの粘液に濡れたからだが照明の光でてかっていた。ナメクジはゆっくりとうごめきながら、ほかのナメクジの体の上に乗っかったり、皿の外へ逃げようとしたりしていた。
「母さん、これは何?」
「なめくじ。会社の人がおいしいっていうから」
「おいしいって、ナメクジじゃん。こんなの食えないよ」
「ええー、そんなことないよ」
そういって母はナメクジを指でつまんだ。ナメクジは母の指の力でぐにゃりと変形した。ナメクジを持ち上げると、照明から出る光の加減で、ナメクジがぬらぬらと光って見えた。母はナメクジを丸ごと口の中に放り込む。そして咀嚼した。見事に味わって食べている。
見ていて吐きそうになった。
「おいしいよ?」
「いや、食べるとかムリムリムリムリムリ!」
僕は首を横に振って、それから白米を食べ始めた。白米のほんのりとした甘さが感じられた。やっぱりコシヒカリは甘くていい。ご飯はこうでなくちゃいけない。
そう思っていると、母がおもむろにナメクジをつかんだ。そしてご飯の上にナメクジを載せた。
「ぎゃーっ!」
僕は叫んだ。
「ナメクジ食べなさい。せっかく用意したんだから」
もう、我慢の限界だった。
「ナメクジなんか食えるか!こんなもの食わなきゃならないくらいなら、飯なんかいらねえよ!」
僕はそういって席を立った。階段を昇って行こうとする僕の背中越しに
「祐介!」
と呼ぶ声が聞こえた。だが僕は無視した。
翌日。母親が僕に、頼みもしないのに朝食を用意した。いつも僕は牛乳をかけたシリアルを食べるのだが、今朝は牛乳をかけたナメクジを出してきた。当然、流しに捨てた。
すると母親が叫んだ。
「ナメクジを、食べなさい!」
頭がおかしいんじゃないか、と思った。けれども口には出さない。言ったところで意味はあるまい。
それよりも僕は黙って出て行くことを選んだ。あくまで無視することで、毅然とした態度を見せようとした僕だったけれども、母親の様子が気になったので、つい振り返ってしまった。すると母親は台所のシンクから、ぶちまけられたナメクジを拾い上げているところだった。そしてそれをもって猛然と駆け寄ってきた。僕は急いで家の外へ逃げ出した。
外に出ると、禿げ頭の男が玄関の横で待っていた。その男は虫かごをたすき掛けにして二つ、肩に下げていた。
その虫かごの中には、ぎっしりとナメクジが詰められていた。それを見て僕は吐きそうになった。
男は虫かごを開けると、むんずとナメクジをつかみだした。そして奇声をあげながら、僕に迫ってきた。
僕は逃げ出した。
いったい昨日と言い、今日と言い、何が起きているのだ?どうして誰もかれもが、僕にナメクジを食べさせたがるのだ?
体の後ろに何かが当たった。何かの一つが首筋に当たった時、それが湿っていて柔らかいものだとわかった。おそらくナメクジを投げつけられたのだろうと思われた。
逃げたその先に、母親が立っていた。母親はやはり、手にナメクジを持っていた。
「母さん!いったいどうしてこんなことをするんだ?」
「俺は、母親なんかじゃあない」
母の口から出てきた声は、男のそれだった。
「え?」
母親はナメクジをポケットに突っ込むと、顔のえらのあたりに指を引っかけた。そして顔についた変装マスクをビリビリとはいだ。そのマスクの下から中年の男の顔が姿を現した。男の顔にはしわが深く刻まれていた。たるんだほおがその男の顔を一層、年老いて見せた。
「俺は、未来からやってきた」
「はあ?」
何言ってるんだ、こいつ?
「未来でおまえは、科学者になる。俺も科学者の端くれだった。俺は論文を作っていたんだ、俺にはあの論文がすべてだった。それなのにお前が!お前が俺の苦労を全部つぶしやがったんだ、その済まし切った口調で俺のすべてをぶち壊しやがった」
駄目だ、何を言っているのかさっぱりわからない。わかることと言えば、とにかくこの男が僕を恨んでいるのだということ、そしてどういうわけかナメクジを食べさせたがっているのだということだ。しかしなぜこの男はナメクジを食べさせたがっているのだろう?
「俺は過去に戻ってきて、何度もお前を殺そうとした。でも全部失敗した。ナイフで腹を刺しても、おまえは生き延びた。拳銃で頭を吹き飛ばしても、弾が頭の側面に沿って滑って行っちまって、駄目だった。頭に銃口を突きつけても、駄目だ。脳を銃弾が貫通したのに、おまえは驚異の回復力を見せて、やっぱり科学者になりやがった」
「そこまでやっておいて、何で成功しねえのあんた?」
「毒薬を飲ませれば、と思ったけど駄目だった。ストリキニーネをお前の食事に混入したんだが、おまえはその日、食事に手を付けたのにもかかわらず、死ななかった。よくよく調べてみると、ストリキニーネのかかってないところだけを食べていたんだ!」
どんな偶然だよ。
「俺は、おまえを殺すにはどうしたらいいのか、必死に考えた。そこでコンピューターに訊いてみることにした。今のお前には想像つかないだろうが、どんな疑問にも答えてくれるコンピューターが将来、できるんだぜ。そいつは末期のがん患者の治療方法から、明日の天気まで何でも教えてくれるんだ。そしてそいつが俺に教えてくれたのは、ナメクジでお前を殺すというものだった。お前知ってるか?ナメクジの体の中には広東住血線虫なんていう寄生虫がいるそうだ。そいつが体の中に入ると、最悪の場合死に至るんだとよ」
それでナメクジを食わせようとしたのか。
「でも、あんただってナメクジを食べていたじゃないか?どうしてあんたは無事なんだ?」
「俺の食べたナメクジはな、事前に火の通してあったやつだったのさ。ナメクジは火を通せば食べられるんだ」
母さんに化けてこんなことをしていたなんて。とんでもないやつだ。
その時、僕は本物の母の行方はどこに行ったのだろうかということに思い当たった。
「本物のかあさんはどこに行ったんだ?」
「ああ?始末したよ。お前に比べると、よっぽど殺しやすかったぜ。拳銃で頭をズドン、とやって終わりだった」
「貴様あああああ!」
僕は男に向かって駆け寄った。そして男の手からナメクジをひったくると口に突っ込んだ。男の口の中にナメクジが入っていった。それから男の喉がごくりと動いたのが見えた。
僕は男の口から手を離した。
「うをおおおお!飲んじまったああああああ!」
男は逃げ出した。後ろから悲鳴が聞こえたので振り返ると、禿げ頭の男も逃げだしていた。
それから数日が経った。ニュースでナメクジを飲んで死亡した住所不定の男が見つかったという記事が報道された。それはきっとあの男のことなのだろう。
僕はあの男の凶行によって母親を失ってしまった。それも未来から来た男の恨みによってなのだと思うと僕は、何とくだらないことで大切なものを失ってしまったのだろうと悔やまれて仕方がない。