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作者: 白沼俊





 わたしは、彼女の気持ちを踏みにじった。


 夏の雨を浴びながら、人々の声を聞いている。道行く彼らの顔をのぞくと、ぼそりとした呟きが雨音に混じる。


 いつからそれを誇りにしていたのか、今になってみても定かじゃない。小さい頃は、ただただ忌々しかったのに。


 顔をあげると、細かな雨粒が瞳を叩く。自然と目を閉じ、苦し紛れの笑みを浮かべる。


 わたしは愚かだった。ようやく、思い知ることができた。







 少年は息を呑み、顔へと手を伸ばしてきた。いきなり頬を撫でられ、わたしは目を白黒させる。


「あ、ごめん。つい」


 声も出ないわたしに、少年は目を見張って軽く頭を下げる。その瞳に、わたしは思いもよらず吸い込まれそうになった。鈍く光る青ざめた瞳は、ただ美しいというにはあまりに不気味で、ただ恐れるにはあまりにも儚げだった。こんなに綺麗な目をしているのに、自分では何も見えないなんて。


「おいおい。いきなり積極的だなあ」


 茶化すように笑うのは綾野和彦。叔父の息子で、つまりは従兄弟だ。


 わたしたちはひまわりがずらりと整列する、小さな畑の傍にいた。


 あでやかな西日がひまわりの顔を朱に染める。白昼に咲く彼らも晴れやかで素敵だけれど、この穏やかな時間に静かに揺れるひまわりが一番好きだった。


 わたしの頬に触れた少年は坂木秀介。初対面だ。わたしが自己紹介すると彼は突然何かに驚いて手を伸ばしてきたのだった。蚊の羽音でもしたのだろうか。


 彼の左手が握る、赤い線の入った白い杖は、目の悪い人が使うものだ。秀介くんは生まれつきの全盲であるらしい。


 彼の隣には彼より頭一つ分小さい少女がいた。妹らしいのだけれど、わたしと目を合わせてくれない。彼女の目は普通に見えるようだ。


 どうしてわたしたちが自己紹介したのかといえば、和彦にやれと言われたからであった。そもそもは、近所で打ち上げられる花火を見に行こうと半強制的に誘われ、わたしと和彦の二人だけで歩いていた。そこに偶然すれちがったのが秀介くんたち。和彦と彼らは元々友だちだったみたいで、必然的に立ち話が始まったのだった。


「ちょっと厠寄ってくるわー」


 和彦はそういうと、ひまわり畑の向かいにある公園に駆けていく。急に話し込んだかと思うと急に話を断ち切るし、本当にマイペースだ。と思っていると、秀介くんの妹さんも無言であとに続く。


 残されたわたしたちは二人、公園の隅で待つ。


 和彦のことを一言で表すならば、可愛い快楽主義者である。面と向かってそう言ったら顔を真っ赤にして怒られてしまった。口は災いの元だ。


 でもわたしは、間違ったことは言っていない。実際彼が行動する判断基準は、楽しいか楽しくないかだけだ。損得なんてお構いなしに、楽しむことしか考えていない。とはいっても人を傷つけて楽しむような趣味はないようだから、危ないやつというわけでもない。だから可愛い快楽主義者なのだ。


 そんな男でも大好きなサッカーをやっている時はいい顔をするらしく、女の子から告白されたことも一度ではないようだ。そういうことを自分の口から言うからよく誤解されるのだけれど、自分の人気を鼻にかけてはいないらしい。そもそも彼は、色恋沙汰にさほど興味を示さない。それにけっこう自分勝手なところがあるし、交際には向いていないだろう。そういえば、「最近は言い寄られるとかねえけどな」と一昨日くらいに言っていた。なんでそんな話になったのかは覚えていない。


 こんな風に言うと誤解されそうだけれど、従兄弟ゆえに幼い頃からの付き合いだし、嫌ってはいない。


 ふと、秀介くんに目を向ける。何か音がすると思ったら、杖でこつこつと地面を叩いていた。


「妹さん、可愛いね。瞳も綺麗で。ちょっと人見知りみたいだけど」


 なにげなく言って、はっとする。彼には人の顔が見えない。話題選びを間違えた。ところが彼は気を悪くせずに微笑した。


「すぐ調子に乗るから本人には言わないけど、あれは将来美人になるよ」


「分かるの?」


「当たり前だよ」


 そういうものなのか。


「嘘を言うんじゃない」


 今のはわたしの言葉じゃない。いくらなんでももう少し思慮は深い。


 さっきから、公園の外、わたしたちが入ってきた反対側から声がする。公園の奥に立つ一軒家の陰にいるのか、声の主は見えない。


「何をしたのか分かってるのか!」


 何やら騒がしい。さっきまではもう少し声も控えめだったから気にしなかったけど、だんだんヒートアップしてきた。


 覗きに行ってみれば、子どもが大人の男に説教されている。将来ろくな大人にならないとか親の顔が見てみたいだとか言いたい放題。言動から察するに知人でもなさそうだ。坊主、なんて呼びかたをしているし。おおかた子どもが悪戯をしたのだろうけど。


「ほんとに、盗んでなんかないです」


 気の弱そうな男の子が、やっとの思いで言い返している。なるほど、窃盗か。どれどれ、言葉の真偽を確かめてみよう、どうせ嘘だろうけど。少し遠目に少年の顔を覗き見る。


 わたしに嘘は通じない。


 ――ぼく、悪いことしてないのに。


 耳元で少年の声が響く。驚いたことに本当にやっていないらしい。それでこんなに説教されたら性格が歪む。


「あの」


 わたしが声をかけると、怒鳴るのをやめて男が振り返る。


 男は頭頂部が薄くなってきた、中年ほどのおじさんだった。子どもは小学校高学年くらい。


「ああ、心配しなくていい。ちょっと叱っているだけだ。この坊主、私の財布を盗ったんだ。うろちょろしているから何かとは思っていたが」


「その子、やってませんよ」


 確信があるので、わたしは堂々と言ってのけた。おじさんは眉根を寄せる。


「どうしてわかる。君ね、私が気付かないとでも思ったか。きみは今向こうから来たばかりだろう。私たちが歩いてきたのは反対側の道だ。なのにどうしてこの坊主がやっていないとわかる」


「それは」


 なかなか痛いところを突いてくる。理詰めは苦手だ。


「わかったぞ。君たち、グルだな? 君がこの坊主をけしかけたんだろう!」


「ち、ちがいますって」


「いいや、そうに決まってる! ったく、これだからガキは」


 なんでそうなるの?


「そんなに歳変わんないくせに」


 掠れた声で少年が呟くのを、おじさんは聞き逃さなかった。


「歳がなんだ。若いからって甘く見るなよ」


「えっ、若い?」


「ん?」


「あぁ、いや」


「私は二十歳だ」


「う、うそ。わたしと四歳差? あっ、じゃなくて、その。今のは、なしで」


 わたしの倍は生きていそうな面構えなのに。というか今はそれどころじゃない。


 おじさん、もといお兄さんは鼻を鳴らし、わたしをぎろりと睨む。


「君はどこの学校の子だ」


「え? それは」


 なんと尋問が始まった。これはちょっと、まずくないだろうか。まさかわたし、このまま警察に送られて牢屋にぶち込まれるんじゃ。


 ああ、どうしてわたしは学習しないのだろう。わたしの力の欠点はわたしが一番よく分かっているのに。こういうとき、わたしの言うことを信じてくれた人は一人もいない。もっと信用のある人間になりたかった。


「答えられないのか。ふん、やましいことがあるからだろう。やっぱりグルだったんだな」


「さっきから聞いていれば」


 自己嫌悪の渦に呑まれかけていたそのとき、のんびりとした、どこかふてぶてしい声が響く。続いてリズミカルな軽い音。白杖がアスファルトの道を叩く音だった。


「簡単なことじゃないか。頭から決め付けてるから気付かないんだ」


 盲目の少年、秀介くんが、つまらなそうな顔で立っていた。


「なんだ君は」


 鋭い声を聞き流し、秀介くんは男の子に尋ねる。


「坊主のきみ。きみは初めからこの男の年齢を知っていたね。しかし、この男とは知り合いでもなんでもない」


「え? は、はい。と……歳は、大体、ですけど」


 男の子はしどろもどろになって答える。確かに、この中年にしか見えない男に対して、(おそらくわたしと)大して歳が変わらないと言っていた。


「彼は財布を開けて、何かしらのカードに載っている顔写真を見たんだろう。そのとき持ち主であるあなたの年齢も知った」


「財布を? ほら見ろ、やっぱり盗もうとしたんだな」


「話は最後まで聞いて欲しいね。ガキじゃないなら」


 たっぷりの皮肉を込めてそう言って、秀介くんは先を続ける。


「彼はスリじゃない。あなたが落とした財布を拾ってあげただけだ。だが落としたところを直接見たわけじゃなかった。だから拾った財布の中を見て、顔写真を確認し、近くにいたそれらしい男、つまりあなたに声をかけようとした。すぐに話しかけられなかったのは自信が持てなかったからかな。まあそこはどうでもいい。


 仮に彼がスリをしていたとするなら、盗んだ相手の周りをうろちょろしながら、悠長に財布の中身を確認すると思うかい? こそ泥の心理からすれば、一度その場を離れてこっそり一人で確認するはずだよ」


 目の見えない少年が、ほんの一瞬でここまで状況を理解したことに、わたしはただ目を丸くした。


「よほど自信があれば、油断することもあるんじゃないか」


 苦し紛れの反論にも、秀介くんは流暢に返す。


「それだけの技術を持っていたらそもそも、あなたに不自然と思わせないさ。気づかれる前にとっくに逃げてる」


「そ、それは……しかしだな、そんなもの可能性の話じゃないか。絶対に坊主がやっていないとは言い切れないぞ」


「本気で言ってんの?」


 とわたし。ほぼ無意識だった。


「言い切れない、か。そっちこそ、彼が盗みを働いたって、どうして言い切れるのかな」


 いくら丁寧に説明しても、引っ込みがつかなくてさらに怒り出してしまう人はいる。誰しも一度は困らされた経験があるだろう。この人がそういう人でないことを祈る。


「……そうか、そうか。そうだったか」


 苦笑いで誤魔化すパターンだった。ほっとしたけど、かちんときた。


「あのさぁ、財布を拾ってくれた子にこんな仕打ちしといて、それだけ?」


「いやあ、あはは」


 あはは、じゃない! 怒りを爆発させようか悩んでいる傍らで、秀介くんは踵を返した。


「え? ねえ、ちょっと」


 すっかり興味をなくしてしまったように、もうこちらには見向きもしない。あわてて後に続いた。最後に男にひと睨みしておく。


 公園に戻ると妹さんはもう出てきていた。和彦の姿はない。


「待って、待ってってば」


「うるさいな」


 思った以上に冷めた調子で言われて、ぐっと言葉に詰まる。けれど、無遠慮な呟きには慣れている。


「ありがとね。マジ助かった」


 白い棒が動きを止め、目を閉じたまま秀介くんが振り返る。


「どうして礼なんか。自分で説明できただろうに」


「それは、その」


 しまった。また墓穴を掘ったようだ。


「そうか、やっぱり」


 どきりとする。唾を飲んで、次の言葉を待つ。


 少年は、蒼白の瞳でわたしを見据えた。


「きみ、推理をしていたようには感じなかったから。かと言って当てずっぽうという風にもね」


 その目はわたしを射抜き、その内側を透かし見ているかのようだった。鳩尾がきゅっと痛み、心臓が激しく鳴り出す。


 こういうときは、平常心だ。


 わたしは精一杯明るい声で、だよねえ、と笑ってみせる。


「いやさー、こう見えてもあたし、人の心が読めちゃうんだよねぇ。心の声が聞こえるっていうか。あの子が、僕はやってない! って言ってんのが聞こえてさぁ」


 わたしは冗談めかしてけらけらと笑う。そう。今の言葉は嘘ではない。冗談め( 、)か( 、)し( 、)た( 、)のだ。


「心の声が? ふうん、すごいね。そんな人、初めて会った」


 ここで大抵は、つまらないこと言うなあとか聞こえてくるはずなんだけど。彼の胸からは声が漏れなかった。


「えっ? 信じんの?」


「嘘なんだ」


「そういうわけじゃないけど。信じてくれた人なんて、今までいなかったし」


 息をつくように、彼は微笑んだ。


「悪いけど、信じたわけじゃないよ。あり得ないとは言わないだけ。決めつけるのは嫌いだから」


 わたしはお愛想を忘れて、目を瞬かせる。それから、はにかむように笑った。決め付けるのが嫌い――わたしだって、大嫌いだ。


「みゆき、秀介」


 和彦が後ろから駆けてくる。やけに楽しそうだ。


 あれ? どうして後ろから? 公衆トイレは前方にあるのに。


「すごいじゃんか、なんだよ今の。推理ってやつ?」


「まさか、見てたの? 陰から?」


「まあな」


 信じられない。そんな悪びれもせずに。


「だったら助けに入ってよ」


「途中からだったから状況がよくわかんなかったんだよ。そしたら秀介が来て喋り出すから、ますます入りづらくなったっつーか」


 聞きたくない聞きたくない。言い訳なんか聞きたくない。


「でもすごいじゃんか! 秀介もだけどさ、みゆきもあの子は悪さしてなかったって分かってたんだろ? ちょっと話しただけで分かっちまうなんてな」


「うーん。それはまあ、ね」


「みゆき、実は頭よかったんだな」


 当然。といいたいところだけど、わたしに推理なんてできるわけがない。


「それじゃあ、ぼくは」


「あ、うん。ほんと、ありがと」


「じゃあな、名探偵!」


 少年は苦笑して、妹さんと一緒に去っていく。華奢な背中は女の子のようだけれど、足取りは思ったよりしっかりしたものだ。


「でさ。名探偵その二に、頼みがあるんだ」


 名探偵、ね。


「調子いいこと言って、雑用とかならお断りだからね」


「違う違う。本当に困ってんだって。そうだなぁ、簡単に言っちゃうと」


 和彦は普段緩みっぱなしの口元を引き締め、真面目腐った調子でいった。


「唯の気持ちを教えて欲しいんだ」


 なるほど、気持ちですか。


 で、唯って、だれ?







 昔の話だ。よく、似たような夢を見た。


 私は大きなシャボン玉の中にいて、私の周りの人々も、それぞれの泡に入って宙に浮いている。彼らはいとも簡単に、泡と泡とをくっ付けて、一つの泡に変えてしまう。そうして泡はどんどん膨らんで私を圧倒する。


 山より大きい透明な膜が、一人残った私を飲み込もうとする。いつも私は、苦い顔をしてそれを受け入れるのだ。そして夢から覚めて、がたがたと身を震わせる。


 私だけが持っている、私だけの世界が、みんなの世界に紛れて溶けていく。私という存在の本質が、淡く消える。まるで望まれたことのように。その夢は、そんな予感を抱かせる。


 そうやって怯えていたのも幼い頃の話にすぎない。今ではもう、恐れることすらできなくなってしまった。今や私の心は、染まることもできない。







 茜色の木漏れ日は、夜の訪れを告げる篝火のようだ。遠くではヒグラシが、すぐそばでは鈴虫が無心に鳴き続けていた。すごく、落ち着く。


「唯はよく笑うやつだった。長い髪がまっすぐに流れてて、馬鹿みたいにはしゃいだりしなくて、清楚っていうのはこういうことかって分かるようなやつだったよ。そのくせいつも唯の周りじゃ笑いが絶えないっていうかさ」


 詳しい話をしようと、すぐ近くの神社に場所を移し、わたしたちは石の階段に腰を降ろした。途中自販機で買った缶ジュースを飲みつつ。


「唯とは元々、小学生の頃からの友達だったんだ。劇的な出会いなんて大層なもんはなかったけど、自然とお互いを想い合うようになってた。付き合い始めたのは去年、いや今年の一月くらいだったな」


 色恋沙汰とは程遠いところにいるはずの和彦に、恋人ができていたとは。デートに行ったのも一度や二度ではないそうだ。


 背中へと流れ落ちるさらさらとした黒髪。くすくすと、色っぽく笑う可憐な少女。いかにも人気がありそうだ。


 けれど、惚気話の始まる気配はない。不機嫌でもないのに冗談を飛ばさない和彦というのも新鮮で面白いけど、それだけ真面目な話なのだろう。


 和彦は姿勢を正した。わたしの視線は彼の黒い瞳に吸い寄せられる。


「四月の終わりになって、唯の友だちが転校したんだ。多分、その頃から唯は変わり始めた。うん、そうだな、確か最初は、友だちと離れ離れになったのが寂しくて落ち込んでるんじゃないかって、唯の友達と話したから」


「変わったっていうのは?」


「ああ、なんていうか、人格が変わっちまったみたいになってさ。別に凶暴になったとかじゃないんだけど……笑わなくなったんだ。くだらない話とかもしたがらなくなって、とにかく人を寄せ付けない感じでさ。綺麗だった髪までバッサリ切っちまって。


 おれは別に、それが嫌だったわけじゃない。清楚だから好きになったわけじゃないし、ずっと変わらないやつほどつまらないものはないしな。


 けど、いい加減、傍観してるわけにもいかない出来事が起きた。唯の友達が飼ってた犬が死んでさ、そんな時でもあいつ、『ふーん』とか『あっそ』とか言うばっかで、その友達も怒っちまってな。会うたびに可愛がってくれてたじゃん、悲しくないのか、って泣き出したんだ。そしたら唯のやつ、そいつを見下ろして、どうして私が悲しまなきゃいけないんだ、とか言い出してさ。


 これはおかしいって、思う……だろ? 皆もそれからは唯を避けるようになっちまったし、だから、何かあったんじゃないのかって聞いたんだよ。


 あいつは『別に何も』の一点張りで、どんどん素っ気無くなっていった。しまいには、罵声浴びせられて振られちまったよ」


 唯というその恋人は、最後にこう残したという――これが本当の私だよ。わかんなかったの?


「それから数日して、唯は突然転校した。それが今から二ヶ月前。六月の初めだ。あいつのこと思い出すと、なんでかわかんないんだけどさ、なんとなく、後ろめたい気持ちになるんだ。


 どうして急に変わっちまったのか? どうして何も言わずにいなくなっちまったのか? 本当に俺たちは、恋人だったのか? 知らないままじゃ俺は、胸を張って後ろを振り返ることもできない。


 俺は、唯のことを何も知らないんだ。唯も俺に、何も求めちゃいない。愛されたいわけじゃねえんだ。ただ、あいつの気持ちを知りたい、それだけなんだよ。だから真実がどんなものでも受け入れる覚悟だ。


 いきなりで悪いとは思ってる。けど、みゆきならって思ったからさ。唯が何を考えて、どうして人が変わったみたいになっちまったのか、どうにか突き止めちゃくれないか。もちろん、できる限りの礼はするよ」


 愛する人の気持ちを知りたい。その想いはそれだけで甘くて切なくて、応援したくなる。


「でも、わたしにそんなの」


「できるって、みゆきなら」


 和彦がにっと笑う。


 さっきわたしは、推理こそできなかったけれど、確かに、わたし自身の力で真実にたどり着いていた。過程はどうあれ、わたしには、力があるということにはならないだろうか。


「頼むよ、みゆき。どうしても知りたいんだ。知らなくちゃいけない気がする。そのためなら、おれは何だってするよ」


 自分の損得さえ度外視して生きてきた彼に、そこまで言わせるとは。唯さん、只者じゃない。


「わかった。頑張ってみるよ」


 気付いたらそう答えていた。自分でも意外だった。わたしは断るだろうと思っていたから。


 わたしは、わたしの力が嫌いだ。人の心を読んでもろくなことはない。けれど、それが誰かの役に立つのなら。


「みゆき。本当に、ありがとう」


 神妙な和彦というのも気持ちが悪い。わたしはむず痒い気持ちで微笑する。


「でも、あんまし期待はしないでね」


「面白そうだね」


 階段の上から聞き覚えのある声がした。こつこつと地面を叩く軽い音。


「あなた、さっきの。秀介くん、だっけ?」


「おいおい、盗み聞きか? 趣味が悪いな」


 言葉に反して、和彦は特に気にした風でもない。


「人聞きの悪いこと言わないでくれるかな。ぼくが先に来てたのにそっちが気づかなかったんじゃないか」


 逆に、少年の声は分かりやすく刺々しい。妹さんが後ろから顔を出し、無言で頭を下げた。ここで花火を見るつもりなのだという。秀介くんの場合は「聴く」ということになるのだろうけれど。


「近すぎるとうるさいだけだし、人混みがあっては風流にかけるからね」


 この子、ちょっとジジ臭くないか。


「何にせよ、聞いてしまったものはしょうがない。僕にもその調査、協力させてくれないかな」


 握手を求めるように差し出された手を、わたしたちは呆然と見つめる。


 和彦は十分に間を取って、調子の外れた声を漏らした。


「……は?」


 近くの木で油蝉が騒ぎ出した。







 世界は一つじゃない。世界を見る人の数だけ世界は存在する。その考えに私は賛成だ。


 けれど、人によって見え方が変わるとはいっても、その差も大きかったり小さかったりとまちまちだろう。似たような眼を持つ人には似たような世界が見える。全く異なる性質の目を持っていれば、見える世界にも絶望的な差が生まれる。


 例えば。目が見えるか見えないか、たったそれだけで、世界の見え方には大きなずれが生じる。見える人と見えない人との間には、決定的な隔たりがある。それを埋めることは決してできない。


 回りくどい言い回しを使ったが、要するに私は、孤独だった。


 皆の生きる世界。私の生きる世界。そこに生まれる溝に戸惑い、恐れ、諦めてきた。


 個性という言葉は、私を安堵させ、縋り付かせてくれた。しかし、それもほんのひと時のこと。その差は、欠陥と呼ぶにはふさわしくないけれど、個性と呼ぶには重すぎる。私は寄る辺を失った。


 そして再び、孤独になった。







 水色の風鈴が涼しげな音色を奏でる。


 わたしは家の縁側から星空を眺めていた。夏だけど、蛍はいない。


 Tシャツの中にうちわで風を送り込む。冷えた汗に熱を奪われる感覚が心地いい。


 ここは自宅ではない。叔父の家だ。例年、夏休みの間はここに預けられることになっている。父が昔に出て行ったせいで、母は仕事で忙しいのだ。悲しいことに、任されたというよりは押し付けられたという印象が強い。


 決して口では言わないけれど、母はわたしをお荷物だと思っている。ついでに『分かりやすい子』とも思っているらしい。はっきり言って何も分かっちゃいない。


 わたしが表情豊かに振舞うのは、感情が豊かだからではなくて単なる癖だ。けらけら笑ったからといってそれほど楽しんでいるわけでもないのに、母は自分が何か喋るとわたしが大いに喜ぶと勘違いしている。変な話だけど、母と接する時のわたしは、外向けのキャラを作って相手をしている、そんな気がするのだ。


「そういやさー、和彦。唯さんの写真とかって持ってないの?」


 その点従兄弟の彼には、なんだかんだと言いながらも気楽に接している。談笑するのが楽しいかと言われると疑問だけど、気を使わずにいられるのはありがたい。


 質問が聞こえなかったのか、反応がない。いないのかと思い背にしていた障子を開けると、畳に寝転んで漫画を読んでいた。同じ台詞を繰り返す。


 彼は、あくびをして立ち上がった。


「全部捨てさせられた。振られた時に」


 悪いことを聞いた。それなのに、彼があまりにあっさりしているから罪悪感が薄れてしまう。実際、心を読んでみても漫画の感想が聞こえてくるだけだ。気は楽なのだけど、それでいいのだろうか。


 卒業アルバムはないのかと閃くも、まだ彼は三年生だったとうな垂れる。今はまだ部活の大会でそれどころではないけれど、彼も立派な、高校進学を目指す受験生なのだ。ちなみに秀介くんはその一つ下で、わたしは一つ上。


 受験かあ、としみじみする。部活には入っていなかったけど、だからといって皆より早く猛勉強を始めたわけでもなかった。


 わたしは高校に入ってからも入部をしていない。今なら上手くやれるだろうと頭では分かっていても、トラウマが頭からはなれないのだ。過去の失敗が次々に目に浮かんで、その場で転げまわりたくなるくらい恥ずかしい思いをする。


 人の心が読めるということは、悪意はもちろん、好意も読み取れる。さすがのわたしも人の悪意をべらべらと吹聴するようなことはしなかった。ただ、好意となれば話は別。好きという気持ちは積極的に伝えるべきだと思い込んでいたあの時代、小学何年生かの時、わたしの吹聴がたくさんの友情を破綻させた。


 恋愛って怖いなあと幼くして知ったことは、わたしにとってちっとも喜ばしくない教訓である。


 なんだか顔が熱くなってきたので、障子を閉め心の壁を作る。かつての失態は、いくら時を経ても忘れられないものだ。


 わたしなんかの力で和彦の悩みを解決できるのだろうか。唯さんが何を考えて、どうして人が変わったみたいになってしまったのか。唯さんと会ったこともないわたしに、どこまで調べられるだろう。ふらふらと腰をあげ、台所へと向かう。明日の朝ごはんでも作って、余計な考えを追い払うとしよう。




「よく聞こえない」


「んー、ケータイってあんまし使わないからさぁ」


 油蝉がジリジリとうるさい。肌を刺す日差しの強さも相まって、鉄板の上で焼かれている気分だ。


 花火大会の翌朝。わたしは人の家の門前で四苦八苦していた。


 目の見えない秀介くんをあちらへこちらへと連れ回すわけにはいかない。そこで、通話状態の電話を隠し持って聞き込みに臨むことにした。までは良いのだけれど、携帯電話、もとい、スマートホンとやらを使い慣れていないわたしには、スピーカーモードにするだけでも一苦労だった。


 秀介くんと和彦は友だちとはいっても友だちの友だち、みたいなものらしく、そんな人が協力を名乗り出たことにさすがに和彦も戸惑っていた。しかしそこは和彦。当惑は即座に喜びに変わり、ありがとうありがとうと心の友の手を握ったのだった。


「……これでいい? 絶対音立てないでよね。お願いよ」


 返事がない。


「お、ね、が、い、ね!」


「わかってるよ」


 ふてぶてしい声が返ってくる。わたしは頷き、家のチャイムを鳴らした。


 訪ねる予定の家は二つ。どちらも和彦と唯さんの共通の友達らしい。


 顔を出したのは軽いくせっ毛がよく似合う女の子だった。名前は水島。背丈はわたしより頭一つ分小さい。


「ういっす。どうぞどうぞ、入っちゃってください」


 和彦から事情は聞いていたようで、自己紹介をする前から招きいれてくれた。


 家の中の気配を確かめながら、お邪魔しますと靴を脱ぐ。華奢な背中が軽い足取りで先を行く。


「お構いなくー。今誰もいないんで。あ、わたしの部屋こっちっす」


 初対面にもかかわらず、真っ先に自室に案内してくれる。さすがに散らかっている様子は見られたくなかったのか、それとも元々なのか、部屋の中はさっぱりと片付いていた。白や桃色を基調とした空間はいかにも女の子らしい。わたしもこんな部屋が欲しかった。


「粗茶でーす」


 あらかじめ用意されていたグラスに麦茶を注いでくれる。クッションに手を差し伸べ、にこにこと笑った。


「ごめんね、いきなり押しかけちゃって。聞いてるかもしんないけど、あたしは和彦の従兄弟で、綾野みゆきって言います。えっと、和彦とも唯さんとも友達なんだってね」


「そうなんですよぉ。あ、どうぞどうぞ、座ってください」


 遠慮ぎみに腰を降ろす。年下相手とはいえ緊張は隠せない。友だちの家に上がったのだって小学生の頃が最後になる。人付き合いは悪いほうじゃないけれど、帰宅部だったり、聞きたくない声が聞こえちゃったりで、特別親しい友だちがなかなかできないのだ。


「かずっちは来てないんすね」


「部活の大会があるんだって。関東大会とか何とか」


「関東大会! へえ。知らなかったです」


 和彦は見た感じ、運動の苦手そうなひょろっとした体つきをしている。それでいてスポーツは万能なのだ。特にサッカーをやるときは、指示出しも、味方とのコンビネーションも絶妙で、顧問からも評価されている。と、叔父から聞いた。そのギャップが人気の秘密かもしれない。


「あのぉ……先輩って、かずっちのコレですかぁ?」


 小指を立てる水島さんを、わたしは見つめ返す。無理してにやにやしているのがよく分かった。ただの従兄弟だと軽く流すと、ふうん、とさして興味もなさそう。よく考えたら和彦は振られたばかりだ。けっこうとんでもない質問をされた。


「で、唯さんのことなんだけど」


 さっそく本題に入る。キンキンに冷えた麦茶で口を湿らすと、火照っていた身体が元気を取り戻した。


 居住まいを正す彼女の瞳を覗いてみる。その瞳は黄味がかった、明るい茶色をしていた。


 ――どこまで知ってんのかな、この人。


 そんな声が聞こえた。どうやら彼女、気さくな調子で笑いかけながらかなり警戒しているらしい。何か知っているようだ。


 残念だけど、その気になったわたしに隠し事はできない。


「単刀直入に聞くね。この町からいなくなる前、唯さんがどうして別人みたくなっちゃったのか、あたしは知りたいんだ。何か、知ってる?」


 膝に手を付き、瞳の奥に問いかける。


 ――和彦のせいだよ。


「ふんふん、なるほどねぇ」


「え? まだ何も言ってないっすよ」


「あっ、そうね。で、どうなの?」


 心を読むのも大切だが、彼女がどう返答するかも重要だ。


「どうして変わっちゃったか、ですよね? うーん、どうなのかなあ。実のところ、そんなに仲良かったわけでもないんですよねえ、勘違いされるんですけど。本当は友だちって言えんのかどうかも怪しいくらいで。実は理由なんかないんじゃないですか? まあ、思春期っすから。あれくらい当たり前ですよ」


「思春期だから、ねえ」


 一理ある。が、それも彼女が隠し事をしていなければの話。わたしは再び、彼女の黄みがかった瞳と向き合う。


 ――すごい、睨んでくるなぁ。


 そこは気にしないで。


 しばらく睨みを利かせてみたが、いくら待っても似たような雑念が漏れ出すばかりだった。


「あ、そういえば知ってますかぁ? かずっちって結構積極的にいくタイプなんですよ。まあ、わりとイメージ通りですかね」


 ちょっと気になるけど、後にしてくれないだろうか。いや多分、わざとやっているのだろうけど。


「去年の夏くらいですかねぇ? かずっち、急に唯のこと遊びに誘うようになって、わたしが唯にどっか行こうって誘うと決まってかずっちと行くからって言うんですよぉ。あ、いやまあ、そんなに何度も誘ったわけじゃないですけどね。それでわたしがかずっちに……」


 大体分かった、もういい。


 仕掛けてみるか。


 きゅっと痛む鳩尾をさすり、でもさー、と両手を後ろに付く。


「和彦の前じゃ言えないけど、あたし唯さん好きになれないなぁ。よくそんな熱くなれたもんだよ」


 きょとんとする水島さんから目を逸らし、ふっと意地悪く笑ってみせる。


「なんだっけ? 唯さんの友だちの愛犬が死んじゃったとき? そん時の話はマジ引いたわ。さすがにさー、『なんで私が悲しまなきゃいけないの?』は酷いよねぇ。友だちが泣いてるって時にでしょ? 孤立すんのも分かるわぁ」


 人の悪口って、思ったよりも胃に来る。相手の反応を待つこの時間も。


 水島さんはというと、それほど、分かりやすい変化は見せなかった。


 と、油断していたら。


 机に両手が叩きつけられ、衝撃でグラスが倒れる。半分ほど残っていた麦茶がこぼれた。


「唯の何がわかんのよ! 唯のこと何にも知らないくせに!」


 噛み付くように身を乗り出したのは一瞬だった。彼女ははっとしたように黙り込んで、ちらちらとわたしの顔色を窺った。


「ごめんなさい。今の、なしで」


 なしと言われても。


 ちょっと効果的すぎた。予定ではこっそり心を読むつもりでいたのだけど。気まずくなって、わたしは慌てて話題を変える。


「ねえ。唯さんと一番仲が良かったのって、どんな人?」


「菅野って子です」即答だった。「けどもう会えませんよ。なんたって、地球の裏側にいますからね。アメリカですって、アメリカ」


 地球の反対側はブラジルだよ。


「その子が転校する時は大変だったんすよ、皆してボロボロ泣いちゃって。ん? 皆ってことはないかな。まあ、大変だったんですよ」


 話しながら、びしょ濡れになった机をハンカチで拭いている。いくらさりげない顔をしていても気になるものは気になる。


「唯も、泣いてこそいなかったっすけど、ずーっと黙り込んじゃって。まともに別れの言葉も言えなくて、しばらく落ち込んでました」


 よりによって転校した友達というのが親友だったとは。アメリカでは会いには行けない。そう考えて、大事なことを思い出した。


「そういえば、唯さんってどこに引っ越したの? どこの学校に転校したか、でもいいんだけど」


 予想は付いていたけれど、和彦はそれを知らなかった。


「ああ。残念ですけど、そのことは誰も知らないと思いますよ。唯が先生に、誰にも言わないでって頼み込んだらしくて。かずっちなんかはけっこう食い下がって聞き出そうとしたんすけどね」


 そう、と俯くわたしから、水島さんは目を逸らす。


「かずっちは」


 呟いたあと、迷いに迷ったようだった。背中を押すつもりでわたしのほうから目を合わせると、水島さんは先を続けた。


「かずっちは、唯のことで何か言ってましたか? つまり、その……唯のこと、まだ」


 ――好き、なんですか? 途中で途切れた質問は、そう続いた。


「好きじゃなかったら、わざわざ調べないって」


「バカ」


 にっと笑ってみせたわたしの声に、かぶせるように罵声が続く。わたしは凍りついた。


 声は、隠し持った携帯電話から漏れた。


「え? 今、なにか」


「さあ、なんのこと? あー、えっと、ちょっとさ、お手洗い借りてもいい?」


「ああ、はい。どうぞ」


 部屋を出たら左へ行き、突き当たりへ行けばいいと説明される。怪訝そうな視線を背中に受け、わたしは逃げるように部屋を飛び出した。


「ちょっと、喋んないでよ。バカなの?」


 トイレに入って、まず秀介くんに非難の言葉を浴びせた。


「こっちの台詞だよ。彼女、明らかに何か隠してるようだったのに」


「そんなの、わたしだって気づいてるよ。それが何なの?」


 苛立ちのため息が耳元で漏れた。まるで、物分りの悪い子どもを相手にしたような気だるさで。


「分からないかな。なんで彼女があんな質問をしたのか」


「質問?」


「だから、和彦が笹倉唯をまだ好きなのかって質問だよ」


 何故フルネーム。


「好きでいて欲しかったからでしょ? だからそう答えたんじゃん」


「質問の意味はそうだろうね。でも、答え方が違う」


「なんでよ。水島さんの協力をあおぐなら、和彦の真剣さを伝えたほうがいいでしょ?」


「それも一つの手だね。だけど、今回はあまり効果的とは思えない。


 さっきの彼女を見ただろう。君が笹倉唯を馬鹿にした時、我を忘れたように怒り出した。


 彼女にとって、笹倉唯を侮辱されるのは耐えがたい責め苦なんだ。そしてもしその侮辱が、和彦によってされたものだったとすれば――まあこれは、かなり楽観的に考えた場合だけど、彼女の持っている秘密を明かしてでも、笹倉唯の真意を知る手助けをしてくれるかもしれない。


 だからあの質問に答えるなら、今と真逆の回答を用意したほうがいい」


 消臭剤の甘い香りに心を落ち着け、秀介くんの話した内容を咀嚼する。確かに彼の言うとおりだ。かなり楽観的、というところも含めて。


「ごめんねー」


「いえいえ」


 軽い口調で笑いながら、部屋の中に戻る。水島さんが壁時計に目をやるのに気付いて、言うべきことはさっさと言おうと気が急いた。


「さっきの話なんだけど、本当はさ」


 そこまで言っておいて、どんな風に説明するかまるで考えていなかった。大いに焦り、目を泳がせて、そうだ、と頭の中で手を打つ。


「さっき、あたし、唯さんに引いたって話したでしょ?」


 途端に水島さんの目が険しくなる。気まずげに、恨みがましく、言葉の続きを待っている。


「実はあれ、和彦が言ってたことなんだよねぇ。言わないほうがいいかなとも思ったんだけど、嘘付くのも気持ち悪くて」


 我ながら白々しい。こんな猿芝居が通じるだろうかと冷や冷やした。


「へえ。そうですか」


 信じてもらえなかったのか、反応は淡白なものだった。さっきはあれほど怒ったのに。彼女の表情はぴくりとも動かない。


 そのとき、突然アラームが鳴り、水島さんがピンクのスマートホンを手に取った。ジャラジャラとキーホルダーが垂れるのを、目を瞬かせて眺める。


「もういいっすか? これから塾あるんで」


 わたしは仕方なく腰を上げた。


「うん、色々ありがと。んじゃあ、勉強頑張って」


 水島さんは憂鬱そうな苦笑いで応じる。わたしは玄関まで送られて、かかとを踏まないように指を差し込んでスニーカーを履いた。


 最後に一つ、尋ねる。


「唯さんはさ、和彦のこと、好きだったと思う?」


 水島さんは小首をかしげ、微笑した。


「そんなの、本人にしか分かんないっすよ」




 引き続き、聞き込み調査は続けられる。


「知りません、あんな女のこと。お引き取りください」


 もう一人の友だちには、第一声から拒絶された。


「まあまあ、そんなこと言わずにさぁ」


 次に訪れたのも、同じく和彦と唯の共通の友だちであり、クラスメイトであった。あまり遊ぶことはなかったようだけれど、気軽に話せる仲だったそうだ。もっとも、和彦が知らないだけということもあり得る。本当は一番親しい仲という可能性もあった。


 葛原というその少女は、わたしがチャイムを鳴らそうとしたらちょうどよく玄関を出てきた。わたしが自己紹介して用件を伝えると、あからさまに嫌そうな顔をして、お引取りくださいと。さっさと自転車にまたがって去ろうとするので、鬱陶しいだろうけど並走させてもらった。自転車で来ていてよかった。


 ハンドルの黒いグリップに乗せた右手には、通話中の携帯電話が握られている。相手はもちろん秀介くん。抜かりはない。


「塾で夏期講習があるので」


「んじゃ、塾に着くまでならいいでしょ?」


 葛原さんはむっと黙り込み、やがてあらぬ方へ顔を向け、口を開く。


「何を聞きたいんですか。鬱陶しいので手短にお願いします」


 はっきり言う子だなあと苦笑する。かといって素直に話してくれるわけでもないだろう。


 横をエンジ色の大きなワゴン車が走り抜け、重たい空気を残していく。臭くて熱くて気が散っていけない。


 自転車の銀色のフレームが日光に輝いた。目を細め、わたしは切り出す。


「さっき言った通りよ。唯さんのこと、何か知ってることがあったら教えて。例えば、何か悩んでるようだった、みたいなこと」


 錆びた階段が剥き出しになったアパート、丁寧に手入れされた広い庭を持つ一軒家、こじんまりとして趣のある古本屋と、色んな建物が視界の端を流れていく。田舎とも都会ともつかない、わたし好みの町並みだ。


「どうしてそう決め付けるのか分かりませんが」


 葛原さんの鋭い、人の内面を見透かすような眼が、わたしを刺す。


「唯は何も変わっていませんよ。あの女は元々、最低な人間ですから」


 わたしはすかさず、彼女の顔を見つめ返す。積極的に人の心を読むなんてわたしらしからぬことだけど、今さら躊躇はしない。


 ――唯は、いい子よ。


 やっぱり。わたしの睨んだとおり。


「怒ったんですか」


「べつに」


 苦々しく口元を歪めていた彼女は、わたしがずっと携帯を握り締めていたことに気付き、じっと見つめる。冷や汗が出た。通話していることくらい、あらかじめ言っておけばよかっただろうか。今さら話しても、お互い気持ちのいい思いはしないだろう。


「唯のこと、どう思いますか」


 幸い彼女は、通話には気付かなかった。


「どうって?」


「何か事情があると考えているなら、一旦忘れてください。私が聞きたいのはつまり、唯の言動そのものについてです」


 住宅街を抜け出し、大通りに出る。赤信号の前で止まった。


「よく、分かんないんだけど」


「唯の友だちが飼っていた犬が死んだ時、唯は何の感情も示さなかった。会ったこともない犬ならいざ知らず。


 その犬とは小学生の頃から何度も顔を合わせて、その度に可愛い可愛いとスキンシップを取っていたそうです。もうその子と友だちと言ってもいいくらいだったのに、唯はほんの少しも悲しんでやろうとはしなかった。


 犬のことを抜きにしても、悲しみのどん底に突き落とされている友だちに対して、唯は同情すら示さなかったんです。


 そんな唯のことを、どう思いますか? 人でなしと思いましたか?」


 声の調子は平坦で、詰め寄ってくるわけでもない。それなのに、言いようのない圧迫感があった。二本の足で立っている状態なら、滑稽なくらいわざとらしく後ずさっていたことだろう。


「だけど唯さんは」


「私は、唯の言動をどう思うかと聞いているんです」


 前の道を行き交っていた自動車が止まり、反対側の歩道から虫取り網を持った子どもたちが流れ出る。わたしは逃げるように前に出た。


 しかし、話を聞きに来ておいて、自分は質問に答えないというのも無礼な話だ。横断歩道を抜けたあたりで、渋々ながら、呟く。


「人でなしっていうか、意味わかんないよ。好きだった犬が死んじゃったら、まず自分が悲しくなっちゃうものじゃない? 友だちを思う云々以前にさ」


「意味わかんない、ですか」


 前を見ていたので表情はわからなかったけれど、どこか沈んだような低い声だった。


「私もそう思います。唯とは絶対、同じ気持ちにはなれない」




 その後も三人、つまり合計で五人の友だちから話を聞かせてもらった。新たな情報は得られなかった。


「皆、絶対何か隠してるよ」


「同感だね。何も知らないならむしろ、歩き回ってる君のほうが質問責めに遭うところだよ。やっぱり何か事情があったの? ってな感じにさ」


 今ある情報だけでは、唯さんの真意は確定させられない。秀介くんはそう判断したようだ。わたしも同じく。本人と話せるのが一番いいのだけれど。


 その夜、縁側で頭を悩ませていたわたしの元に朗報が届いた。汗に服を濡らし柑橘系の香りを漂わせて帰ってきた和彦は、ただいまと言うよりも先に携帯電話を見せてきた。


 画面にあった文面を読み、わたしは目を丸くする。それは水島さんからのメールだった。


『これ、唯の家の住所です』


 イメージとは程遠い、絵文字ひとつないメール。そこに続く住所をメモして、尋ねる。


「明日は、行ける?」


「明日も大会」


 軽く流すように言って、冷房の効いた部屋の中へと吸い込まれる。しょうがないけれど、複雑な気持ちだ。


「まあ、頑張って」


 ともあれ、悪くない展開であろう。水島さんはどういう風の吹き回しだろう。やっぱり、質問への答えが効いたのか。だとすれば秀介くんに感謝しないと。







 空気がまずい。とにかく、まずい。


 照りつける日差しにじっくりと焼かれたアスファルトが、遠くの景色をゆらゆらと歪める。


「暑い……臭い……」


 そんな独り言が漏れる始末。そもそもわたしには体力がない。下手をしたら熱中症でぶっ倒れかねない。車の流れが途切れない大通りの歩道を、かれこれ十分歩いている。


 電車での移動は、今にして思えば楽だった。乗り換えは二回あったけれど、家から一時間ちょっとでここまで来ることが出来た。使い慣れない巨大な駅に戸惑いもしたものの、逃げ場のない排気ガスにいぶされるよりはずっとマシだ。道に迷わないためとはいえ、こんな地獄、いつまでも耐えられない。


 帰ったら自棄飲みしよう。こんな日は、一・五リットルの果汁百パーセントジュースでも買って、心置きなくぐびぐびと飲むのだ。


 レンタルビデオ屋さんの手前で左に曲がり、住宅街に入る。そこから、水島さんのメールでの指示通りに進んで、都会らしさのまるでない、けれども格式高そうな古風な造りの家にたどり着いた。自然からそのまま運んできたような大岩に、『笹倉』の表札が貼られている。


 深呼吸しようとして思いとどまった。まだ空気が淀んでいる気がする。


 緊張で心臓がばくばくする。でも、ここまできて何もせずには帰れない。交通費はあとで和彦から巻き上げるけど、だからこそ引き下がれない。


 秀介くんに繋いだ電話をブラウスに忍ばせる。わざわざ胸ポケットの付いたやつを選んできたのだ。


 脆く柔らかく覚悟を決めて、わたしはチャイムを鳴らした。


「何か御用でしょうか」


 その涼しげな声は、インターホンからではなく、背後からかけられた。


 すらりと背の高い少女が、怪訝そうに眉根を寄せる。


 芯の強そうな力強い瞳、肩にこぼれるセミロングの黒髪、どことなくお嬢様らしい物腰。もしかすると、彼女が。


「唯さんに会いに来たんですけど」


 少女は唇をきゅっと結び、わたしの表情をじっと観察する。


「綾野みゆきです」


 まだ見ている。格好は……不審者っぽくはないはずなのだけど。


「あの」


「聞いたことないわね。どちら様?」


「前の学校でクラスメイトだった、和彦……って分かりますか?」


 どうにも歯切れが悪い。友達だといえるのが一番早いのに。


「もう恋人ができたの?」


「じゃなくて、従兄弟です」


「ふうん、和彦の」


 明らかに、空気が変わった。


 少女の済んだ瞳は光沢を失い、薄く影を帯びる。相手を包み込むような穏やかな雰囲気は風に溶け、警戒を解く代わりに表情がなくなった。


「で、その従兄弟が何の用」


 鈴の音のようだった声は、ますます透明に、無機質になる。


「あなたが、唯さん?」


「ええ」


 本人を前にしてわたしは、何からどう切り出せばいいのかわからなくなった。どうして変わってしまったのかなんて、芸もなく直線的に聞いたって答えてくれるわけがない。


 そこまで考えてわたしは、自分の力を思い出した。何を焦ることがある? 答えは口から出るとは限らないのだった。


 そう。わたしに嘘は通じない。


「手短にお願いしていい? 私も忙しいから」


 ――本当は、時間ならあるんだけど。


 このとおり。真実を見破るくらい、わたしには朝飯前だ。


「聞きたいことがあって来たの」


「何かしら」


「どうしてあなたは、変わってしまったの?」


「……何? 不躾に」


 不自然でも強引でもいい。真面目に一から質問したって、どうせまともには答えてくれないだろうし、そんな必要もない。昨日から六人目の訪問で正直疲れているし。


 質問の意味は伝わっているはずだ。四月の終わり頃、突然人が変わったみたいになったこと。周りはもちろん、本人にとっても大きな出来事であったはずだ。忘れるわけがない。理由もないわけがない。


 果たして、その心は。


 ――和彦のためだよ。


 水島さんの時と同じ答えか。問いかけはやはり直球に限る。


「もうひとつ。友だちの飼い犬が亡くなった時、唯さんは本当に悲しくなかったの? 辛くはなかったの?」


「そんなことを聞くために来たの? 暇な人。犬が死んだから何だっていうの? 私には関係ない」


 うんざりしたような答えは聞き流し、心の声に耳を澄ませる。


 ――そんなの、辛かったに決まってるじゃない。


 よし、とガッツポーズを決めるのも不謹慎だけれど、得られた言葉は十分期待に応えてくれるものだった。付け加えておくと、本当にポーズを決めたわけじゃない。


 唯さんの言動には隠された真意がある。その前提が守られないと、ここからいくら話を進めても不毛なだけだ。だから今のは、念のための確認に過ぎない。実を言えば、大方こんなところだろうという予想は付いている。ただ、具体的な話はまだできなかった。だから本人に会う必要があったのだ。


 ところが、尋問のような形になったのが悪かったのか、突然唯さんは踵を返した。


「えっ、ちょっと!」


「付き合ってられない。つまらないことばかり聞かないで」


「ま、待ってよ。そんなに時間は取らせないから。すぐ! すぐ終わるって」


「知らない」


 わたしは焦りに焦った。自覚できるほど身振りが激しくなる。


「本当は、和彦ともう一度会いたいんじゃないの?」


 唯さんの足が止まる。顔が半分こちらを向いた。


「まさか、来てるの?」


 ――嫌よ。会いたくない。会ったら全部台無しになる。


 彼女の心が乱れ始めるのを、わたしは見逃さなかった。


「なに、どうしたの? 来てたら、何か困んの?」


 我ながら意地が悪い。


「会ってどうするの? あんなくだらない男」


「だったら、本人にそう言えば? あたしは知らないよ」


 会えば、彼女の心を変えられるかもしれない。そんな期待が生まれた。


「だけど、私は」


 唯さんの顔に焦りが表れると、逆にわたしの元には冷静さが戻ってくる。


 しかし、それも一瞬のことだった。


「唯さん?」


 喉から乾いた声が出て、自分がまた慌てているのだと自覚した。


 唯さんが突然、わたしにもたれかかってきたのだ。


「大丈夫っ?」


「……もう、帰って」


 浅い息で言う彼女を、肩を組んで歩かせる。


「鍵は?」


「自分で開けるから」


 唯さんが白いスカートのポケットから取り出した鍵を、電光石火で奪い取る。鍵を回してドアを開けると、玄関の段差に座らせ、ゆっくり寝かせる。


 古風な外観だったけれど、入ってみると床や壁が真新しい。最近建てられたもののようだ。


「救急車呼ぶから、待ってて」


「大袈裟にしないで。多分、ただの熱中症だから。部屋で休めば平気よ」


 起き上がろうとする唯さんを手で制して、携帯電話を出す。こっそり通話を切った。


「唯さんに何かあったら、和彦になんて言えばいいかわかんないじゃん」


「わかったわよ。病院には自分で行くわ。歩いて五分だから」


 彼女はわたしを押しのけて立ち上がった。


「本当に平気?」


「しつこい人ね。ほんの一瞬立ちくらみがしただけ」


「それが心配なんじゃん! わかんないかなぁ」


 もう唯さんは、わたしの言葉に反応を示さなくなった。本当は確かめたいことがあったのだけれど、ここから先は和彦の問題だ。ここは大人しく帰らせてもらうことにしよう。


 また来る、ことはないだろう。







 私には、他人の気持ちというものが皆目見当つかなかった。私が笑うと父が笑う。私が泣くと母も泣く。私にはその理屈がよく分からなかった。人の気持ちなんてわかるわけがない。以前どこかで誰かから聞いたこの言葉が、妙にしっくり来る。だから、私の言葉ということにした。


 私は、心からどころか、心の表面ですら、他人に対する愛情というものを持ったことがなかった。だからだろうか、人と付き合うのはむしろ簡単だった。どんな言葉をかけたらどんな反応が返ってくるか。私が考えるのはそれだけ。心の奥など気にやしない。普通の人が抱えるような悩みは、私にとってはどれも縁遠いものだった。


 けれど、今の私はどうだろうか。


 当初の私は、その儚げな笑顔のみに惹かれて、その人に近づいた。キスをしたい、抱き締めたいという渦巻くような肉欲のためだけに迫った。私は醜く、本質的に薄っぺらい人間であったから、異性を愛する術も持たなかった。


 そこにあったのは単純な欲望。情熱的な愛を装いながら、その人の胸の内にはまるで無関心だった。私が求めたのは人形に過ぎなかった。


 だから、その人の心の機微に気付けたのも、ある、奇跡的な偶然のためだ。そのせいで――。


 無敵だった私は、すっかり脆くなってしまった。







 お皿に黒い種を飛ばす。口の中にできたスイカのジュースをごくごくと飲み込むと、冷たい感覚が身体の芯から指先へと染みとおった。


 電話を繋ぎ直そうと思ったら、携帯の充電が切れていた。だから秀介くんとは話せていない。構わないだろう。わたしには答えが見えている。


「結論から言うとね」


 同じ卓を挟んでスイカをかじる和彦を見据える。わたしのほうはスイカを食べ終えたところで、彼も最後の一口と見えた。彼がテッシュで手を拭き、改まるように正座したので、わたしは先を続けた。


「唯さんは、悪い人じゃなかった」


「まあ、な」


 やや間があったけれど、当然だというように頷く。そう信じていなければ、依頼などしてこなかっただろう。


「じゃあ、どうして唯さんが豹変したのか。って話になるんだけど、それは、和彦のためだったんだよ」


「おれの?」


「うん。唯さんは和彦のために、悪役になろうとしたの」


 扇風機の音が強くなった気がした。和彦は口を結び、真剣な眼差しで説明を待っている。


 唯さんの悪口を言った時、水島さんはひどく怒った。自分を制御できなくなるほどに。葛原さんも「あんな女」と言いつつ、心ではいい子だと思っていた。そして水島さんと唯さんの心の声――和彦のためだよ。


 水島さんが唯さんの家の住所を教えてくれたのも、きっと、和彦に嫌われたままでは唯さんがあまりにも可哀想だと思ったから。


 問題なのはここから。悪役になろうとした、つまり、和彦に嫌われようとした、その理由がある。


 わたしは、自分の推理を語り始めた。


「そもそも、好きな人に嫌われなきゃいけない理由なんて、どんだけ存在すると思う? 友だちのために身を引くとき? 好きな気持ちを諦めたいとき? 今の場合は、どっちも当てはまんない。


 身を引いたんなら、和彦がその後に言い寄られてないのは妙だもんね。友だちが遠慮するような人なら、唯さんが悪役になる前に止めてるだろうしさ。和彦への気持ちを諦めるにしても、そもそも二人は付き合ってたんだし、恋愛感情を捨て去る理由もない。


 他に思いつくのは。


 もう会えないかもしれないとき。それしかないよ。


 唯さんは、転校した友だちみたいに、どっか遠くの地へ行っちゃったわけじゃなかった。電車を使えば一時間ちょっとで行けるような所に住んでたんだよ。一時的に引っ越したわけでもないと思う。でなけきゃわざわざ真新しい一軒家なんて建てるわけないもん。常識的に考えたら、だけどさ」


 話すにつれて、舌の滑りがよくなってきた。胸の中は自信に満ちあふれ、語ることへの迷いは微塵もなかった。


「なら、会えなくなっちゃう理由はなんなのか?


 唯さんは病気なんだと思う。それも、余命宣告を迫られるほどの。今日ね、わたしが会った時にも、立ちくらみを起こしたの。そのあと自分で歩いてたけど、もしかしたら――」


「待てよ。なんだよ、病気って」


 和彦の表情は凍り付いていた。肩も、腕も、おそらく卓に隠れた部分も、ぴくりとも動かない。


「じゃあ何か? 唯は、自分が死ぬかもしれないって時に、俺や皆を悲しませたくないからって、皆に恨まれるように振舞ってたってのか?」


「そういうことだと、思う」


 彼女は病に苦しんでいた。そして、いずれいなくなる自分のことで、彼を、皆を縛り付けたくないと思っていた。だから、嫌われものの悪役を演じることにした。


「ここまで話せば、もう説明の必要はないよね。唯さんは今だって和彦のことが大好きだし、二人はちゃんと、恋人だった」


 これで頼まれた仕事は果たした。唯さんの真意は伝えた。


 障子の外で鳴る鈴凜の音が、今は空々しく響く。


 今のわたしにできるのは、背中を押すことだけだ。


「会いに行きなよ」


 わたしは言った。真摯な思いを込めて。


 けれど和彦は、首を縦には振らなかった。


「おれは」


 うな垂れて、それ切り黙ってしまう。その表情はひどく寂しげで、亡き者を想い起こすような気配すら感じた。


「行かなきゃだめ。そうでなきゃ、唯さんが可哀想」


 会うべきだ。でなければ、謎を解き明かした意味がない。


 しかし和彦は、拒絶の意思を表明するようにふらふらと立ち上がり、無言で部屋を出て行った。


「本当にそれでいいの? こんな終わり方で」


 廊下まで追いかけて叫ぶと、ようやく和彦は口を開いた。


「会ったってしょうがねえよ。傷つけるだけだ」


 そういって、部屋の仕切りをまたいで引き戸を閉じる。ぶ厚い壁が生まれる、暗くて重たい音がした。




 取り留めなく浮かんでくる考えを上手くまとめられず、すっきりしない気持ちで夜風を浴びる。湿った空気はベタついた汗を素直に拭き取ってはくれなかった。冷たいくせに、やっぱりすっきりしない。


 叔父さんが帰ってくる前にと、わたしは家を出て、近所を散歩していた。あと十分もしたら戻ったほうがいいだろう。外出がばれたら怒られる。女の子の夜歩きは危険だと口を酸っぱくして言われていた。


 公園のブランコに揺られ、ため息をこぼす。こういう典型的なポーズを取ればむしろ馬鹿馬鹿しくなって笑えるのではと期待したのだけれど、余計に気分が重くなった。


 唯さんの真意を解き明かせば、それで満足できるはずだった。人の心を読むなんていう幸せを邪魔するだけの力を、人のために役立てることができるのだから。それなのに、こうも息苦しいのは何故だろう。


 あの快楽主義者の和彦だ。普通の人には身に降りかからないようなドラマチックな真実に、涙を流しながらも笑みをこぼすことを期待していた。けれど実際は、「一人にしてくれ」と言って部屋に引きこもる始末。


 冷静になってみれば、傷つくのも無理はない。彼はかつて、否、今なお愛する人を失おうとしている。いきなりそんな話をされてもすぐには受け入れられないだろう。


 そうか、わたしは、自分のことしか――。


 気分が高揚して現実感を失っていたのだろうか。わたしは感謝されることに憧れるばかりで、真実を告げる相手の気持ちを少しも考えなかった。きっと喜ぶに違いないと楽観的に決め付けて、結果、傷つけた。


 でも、間違ったことをしたつもりはない。今すぐには無理でも、和彦だって、唯さんの元へ行きたいはずだ。余命がどれだけあるのかは知らないけれど、会わずに終わってはいけない。そんなの、誰も報われない。


 納得がいったところでブランコを降り、家に戻った。すると玄関で和彦が待ち構えていた。叔父さんのように説教でもする気かと身構えたが、彼はそんな柄じゃないし、そんな気分になれるはずもない。気まずさを覚えつつ、手招きされるままに部屋に入る。いや、入ってはいなかった。なんとなく、廊下と部屋の境目に足を置いていた。


「なあ、どうして分かったんだ?」


「え?」


「だから、どうして唯が病気だなんてことがわかったんだ? 根拠を教えてくれよ。じゃないと納得できない。さっきの話じゃ、唯から聞かされたわけでもないんだろ?」


 早口で責め立てるように言われて、少し、かちんときた。


「なんなの? その言い方」


 まさか、わたしの言ったことを疑っているのだろうか。わたしならできるなんて調子のいいこと言っていたくせに。


「そんなことより、どうなんだよ」


「そんなことって、あんたね」


「お前まさか、適当に話作ったんじゃないだろうな」


「は? あんた、せっかくわたしが!」


「嘘付かれるくらいなら、黙っててもらったほうがマシだよ」


「嘘? 何? 嘘って」


 わたし、今、責められてるの? それも、嘘つき呼ばわりされて?


 かっと身体のうちが熱くなるのを感じた。たちまち思考力を失い、涙目になって握り拳を震わせる。


 ありえない、ありえない、ありえない! 誰のためにわたしが走り回ってやったと思ってんの?


 わたしはさっきの反省なんて綺麗さっぱり忘れて、ただひたすらに和彦をにらみつけた。胸を、腕を、頬を、ずたずたに引き裂いてやる思いで。けれど、視線で人は殺せない。本当に殴りかかるわけにもいかないので、ため息をついて、手をひらひらと振る。


「信じたくないなら信じなくて結構です」


 冷めた声を出したけれど、冷静さを取り戻したわけではなかった。まだ食ってかかるようなら、怒鳴っていたに違いない。


 幸い和彦のほうも言いすぎたと思ったようで、頭を掻いて気まずそうに俯いた。謝らないのが癪だけど、彼の精神状態を思えばなんとか許せた。


「で、どうなんだよ。どうして病気って分かったんだ? それだけは、教えてくれ」


「それは……さっきも言ったじゃん。立ちくらみを起こしたって」


「けど、ちゃんと確認したわけじゃないんだろ? ただの熱中症かもしれないじゃねえかよ」


「でも、それは、和彦が確認すればいいことじゃない。すぐにわかることでしょ? そんなの」


 投げやりに言い返すと、和彦の目が大きくなった。


「やっぱりいい加減に言ってたんじゃねえかよ。そんな、気軽な思いつきで言うなよ。唯が死ぬなんてさ」


 気まずそうに目を逸らし、眉を寄せる。


「頼みを聞いてくれたことには感謝してる。だけど、適当なこと言われるくらいなら、何もしてくれないほうがマシだ」


 これは、和彦にとっては重大な事件だ。確かにわたしは、気軽に言いすぎたかもしれない。


「それは、その。ほんとに」


 ごめん。そう言いたかった。本当に悪いと思ったから。その謝罪を遮るように、棘のある声が首筋を撫でた。


 ――みゆきなんかに話すんじゃなかった。


 開きかけた唇が、きゅっと結ばれる。ぱちん、と威勢のいい音がした。


「あ、ごめ……」


 謝罪の言葉は喉につかえて奥へと逃げ戻る。尻餅をつく和彦を見下ろし、わたしは、言い放つしかなかった。


「じゃあいいよ。もう知んないから」


 言葉を追いかけるように怒りが湧き起こる。


 無責任に人任せにしているのは和彦のほうじゃないか。勝手にすればいい。自分ひとりじゃ調べることもできなかったくせに。


 今度はわたしが引き戸を閉じる番だった。







 熱のこもった毛布を頭からかぶされたような寝苦しさに、わたしはたまらず飛び起きた。朝の十時。昨日はなかなか寝付けなくて、今朝は二度寝三度寝を繰り返してしまった。寝すぎて頭が重たい。気分のせいもあるかもしれないけれど。


 冷たい麦茶で身体を冷やし、冷水で顔を洗う。そこでふと思い出して部屋に戻った。携帯の電源を入れて確認すると、メールが来ていた。秀介くんから。昨日唯さんの立ちくらみに驚いて通話を切ってからほったらかしにしていた。それにしても、メール、打てるんだ。


『どんぐり公園。十三時』


 これは、呼び出し?


「怒ってんのかな」


 そりゃそうか。ここは素直に謝ろう。そしてわたしの推理を話してみせるのだ。秀介くんならわたしより先に真相にたどり着いていたかもしれないけれど。


 わたしは昨夜の推理を間違いとは認めていない。あくまで真偽を確かめていないというだけのことで、ちゃんと考えた末での結論だし、いい加減に言ったわけではなかった。


 確かに唯さんが死ぬかもしれないなんて、事実確認もせずに軽はずみに言っていいことじゃなかった。けれど、それはそれ、これはこれ。実際に確認が取れれば、わたしが正しかったと証明されるはずだ。


 冷房の使えるリビングを求めて廊下へ出ると、寝癖頭の和彦と鉢合わせになった。よりによって今日は休みなのか。それとも大会に負けたか。どっちにしても間が悪い。


 無言の睨みあい。やがてわたしのほうが耐えられなくなって、むすっとしてすれ違う。リビングには行かず、そのまま外へ。一緒に朝食を摂るのが嫌だったので、わざわざコンビニでサンドイッチを買って、ぶらぶらと歩きながら食べた。


 外に出たのは失敗だったかもしれない。熱風が全身に打ちつけ、みるみるうちに体力を削られる。かと言って戻る気にもなれない。


 秀介くんに、話すなら今からにしないかとメールを送り、場所を近くの喫茶店に指定した。すると思ったより早く返事の電話が来て、承諾の意を示してくれた。待ち合わせは変わらず公園で、話す場所を喫茶店とすることに決まった。


 そして二十分後。わたしと秀介くんは、冷房の効いた店内で向き合っていた。秀介くんに怒った様子はなく、用件は唯さんの真意についての話し合いだった。


 この喫茶の店主は目の見えない人への対応を心得ている。席につくときは、まず手を椅子の背とテーブルに触れさせると良いそうだ。しっかり対応できる店だと知っていたから、ここを選んだのだった。


 まずはわたしが、昨日披露した推理を話すことと相成った。唯さんは和彦に嫌われるために悪役を演じていた、それは病で死んでいく自分のために彼を悲しませたくないから、と。


「それはないね」


 砂糖をたっぷり入れたコーヒーを飲みながら話を聞いていた秀介くんは、そう断定した。


「どうしてよ!」


 まさか秀介くんも、わたしを嘘つき呼ばわりするつもりなのか。


 当然のように否定されたことが悔しくて、わたしの声は自然と大きくなる。他に客は二人いたけれど、こちらを睨んだりはしなかった。それで余計に恥ずかしくなって、わたしは子どもみたいに俯いた。


 てっきりわたしは秀介くんが味方についてくれて、和彦の説得に協力してくれるものと思っていた。でもそれは、都合のいい妄想だ。


 秀介くんは和彦とは違う。あくまで論理的に、客観的事実を持ってそう言うのだろう。それが分かるだけに、わたしの驚きは大きなものだった。


「きみは実際に行ったから分かると思うけど、あのあたりは空気も汚いし、日陰が少ないから暑くなりやすい。都会における悪いイメージの吹き溜まりみたいな場所だよ。そんなところに、余命幾らかの重病人を住まわせるかい? 特別大きな病院があって、そこに入院させているのだとすればまだ分かるとしても、彼女は普通に出歩いていた」


 よどみなく流れ出る正論に、何とかして反論しようとする自分を意識する。空調で冷めたはずの頭が熱くなってくる。


「でも、残り僅かな人生を自由に過ごさせたいとか、そんな風に思ったって全然不思議じゃないと思わない? それなら都会のほうが色々遊べるだろうし」


「確かにそんなことも、もしかしたらあり得るかもしれないね。もしそうだったとしても、だよ。昨日みたいな暑い日に一人だけでいさせるなんて真似は、いくらなんでもできないんじゃないかな。まして暑さで倒れそうになった時、すぐに駆けつけてこないなんて。家族の気持ちになってみれば、容易に想像も付くはずだけどね」


 秀介くんの台詞には、隠されることなく、たっぷりの非難が含まれていた。どんなに楽観的に聞いても無視できないほどに。


 次第に彼の声に、わざとらしいくらいの刺々しさが混じるようになる。


「言いがかりかもしれないと承知した上で、敢えて聞かせてもらうよ。きみは、思い描いた筋書きを守るために、都合の悪い事実から目を逸らしていた。そういう心当たりはなかったかい?」


「わたしが話を作ったって言いたいの?」


 少年は、否定の言葉を挟まずに続けた。


「思うんだけど、きみ、本当は人の心が読めてないんじゃないかな」


 からからと軽い音が響いて、わたしははっとする。秀介くんの杖が落ちたようだ。けれどわたしは、拾ってあげる気分にはなれなかった。


 やっぱり、嘘つき呼ばわりされるのか。


「きみは美人だ」


 いきなり熱心な声でそう言われて、わたしは真の抜けた、「は?」とも「へ?」ともつかない奇妙な声を上げてしまう。


「ぼくはきみに初めて会って、まずそう思った」


「な、なに? 急に」


「でもきみは、それに気づかない。その証拠にきみは、僕が妹の顔を褒めた時、わかるのかと聞いた」


 なんだ、そういう話か。


「そ、そりゃ、心の全部が読めるわけじゃないし。こっちがその気になったら分かるっていうか。……秀介くんも、結局信じてなかったんじゃん」


「ありえないと決め付けてもいなかったよ。ただ、今はどうかな。きみは本当に、その力を正しいと思うかい?


 いや、君が嘘をついてるというんじゃない。だけどきみは考えたことがあるのかな。きみが聞いている心の声というのが、本物なのか偽物なのか」


 思ってみもなかった問いかけに、怒りも寂しさも忘れて戸惑う。


「どういう意味?」


「きみが聞いた心の声は、本当にその人の声だったのかな」


「当たり前じゃない」


「なぜ?」


「なぜって。わたしにはわかんの」


「どうして言い切れる」


「だって、実際、読めてたし」


「確かめたのかい?」


「確かめるも何も、実際にさ、当たってたんだよ。例えば――叔父さんから『そうだ、大事なことを忘れてた』って声が聞こえたら、こっちに向かって歩いてきたりするし」


「偶然、当たってただけかもしれない」


「そんなの言い出したら」


「ああ、そうだね。切りがない。だけど、疑う努力は怠るべきじゃなかった」


 霧のように漠然とした恐怖が、わたしの胸に流れ込む。まさか、本当にわたしは――間違えたのか?


「想像力っていうのは、何物にも代えがたい武器の一つだよ」


 秀介くんはまぶたを開いていた。その蒼白の瞳は、何を見据えているのだろう。


「きみには初めから筋書きのようなものがあった。正直僕にはそう見えたよ。僕に言わせればそんなのは想像じゃない。想像ってのは考え続けることだとぼくは思うね。過ちってのは大抵、安易な確信から生まれるものだよ。


 いいかい? 疑わないのは、信じるってこととは少し違うよ。いや、かなり……全く違うことだね。


 何せ君は、考えようともしなかった。信じる信じない以前の問題だよ。心を読めるといった君を信じてくれなかった連中と、君は何が違うのかな」


「ちょ、ちょっと待ってよ。何なの? さっきから。筋書きって、何それ。決め付けてんのはそっちじゃん。わたしだってちゃんと考えたよ」


「仮に君の導いた答えが真実なのだとしても、それはそれで問題だね。だって君は、彼女の気持ちを知りながら、迷うことなく踏みにじったんだから」


 わたしは、言葉を返すことが出来なかった。何故なら自分でも分かっていたから。


 筋書きなんて立てたつもりはなかったけれど、唯さんの気持ちを無視したことは言い逃れのできない事実だった。どうしても二人を会わせたかったから。感動の再会を果たさせたかったから。


 二人には幸せになってもらいたかった。わたしの力が役に立ったのだと、胸を張って思えるように。


 わたしには、唯さんの気持ちなんてどうでもよかったのだ。わたしは、唯さんの『和彦には知られたくなかった』という想いを知りながら、和彦に全てを話した。悩んだ末の選択でもなく、ただ自分の力を認めて欲しいというだけのことで。


 本当の唯さんの気持ちはまだ分からないけれど、わたしにとっては、和彦の幸せを願う気持ちこそが唯さんの真意だった。分かっていたことだけれど、わたしは、自分のことしか考えていなかった。


 わたしは、彼女の気持ちを踏みにじった。







 悪いことというのはどうも、重なって起きるのが好きらしい。


 わたしはすっかり打ちのめされたようになって、炎天下の町をとぼとぼと歩いていた。そんなわたしの前に、ある一人の男が立ちはだかる。否、そんな格好いいものではなく、下卑た笑みを浮かべて、酔いどれみたいに身体を揺らして近寄ってきたのだった。


「こんなところにいたのか。みゆき、元気してたか?」


 この台詞だけ見ると優しく話しかけたように感じるかもしれない。けれどもそう言うあいだも下卑た笑みは消えず、その声は不思議なくらい粘着質に響いた。


 気付かない振りをして通り過ぎようとするわたしの腕を、男が掴む。


「触んな!」


 悪寒が走り、思わずその男――かつての父を突き飛ばしていた。フェンスに背中をぶつけた彼の眼が、ぎろりと光る。


「いててて……おいおい、血の繋がった家族に対して暴力はないだろう」


 ひざが震えて足が動かない。いつも暴力を振るってたのはあんたのほうじゃん! その叫びも喉の奥につかえて引っ込んでしまう。


 人気のない道。待っていても助けは来ない。足も、動かない。


 幼い頃の記憶が、たった今起きていることのように目に浮かぶ。


 毎日のように、この父から暴力を受けていた。たった一人、痛みをこらえることしかできずに。そのせいで大きな人が怖くなり、びくびくしていたら同級生に馬鹿にされ、先生たちを困らせることも一度や二度ではなかった。


 機嫌を取らなければいけない。父の、同級生の、先生の機嫌を。わたしは人の視線や小言に過敏になり、人の発する一言一句、表情の僅かな動きも見逃さなくなった。そのうち、父親の感情の機微や、大人が何を心配しているのかがなんとなく分かるようになり、それが声となって聞こえてくるように錯覚し始めた。


 一部の同級生からは相変わらず見下されていたけれど、わたしの観察眼は、彼らの気持ちをも見抜くようになった。いや、そう錯覚していた。また悪口を言っている。わたしは想像した。罵倒は聞き慣れていたから、頭の中で再現するのは容易だった。そのうちわたしの中で、その想像は本物の声となり、本当の気持ちになっていった。


 また今日も、心の声が聞こえてくる。その見事なまでの錯覚を、わたしはいとも容易く受け入れた。そしていつしか、その忌々しい超能力が、とりえのないわたしの唯一の誇りとなったのだ。


 わたしは、錯覚していたのだ。人の心なんて分かるわけがないのに。そんな超能力、あるはずもないのに。


 秀介くんの言うとおり、わたしはこの力を疑問視してこなかった。これはわたしの想像ではないのか? たった一度でもそんな風に考えたことはなかった。わたしにとってこの力は、当たり前のものであったから。


 気付くとわたしは、トラウマに対する恐怖を忘れ、愚かな自分への憎しみに溺れていた。


「みゆき。おい、みゆき!」


 懐かしき怒鳴り声で正気を取り戻す。


 父を見上げるわたしの心は、先ほどとは打って変わって冷たかった。


 幼い頃より、当たり前のように怖がってきた父親。だめ人間で、すぐに手が出て、母には頭の上がらなかった父親。ふと見れば、その脚は細く、力なく震えていた。


 わたしより頭一つ分大きいこの男は、ちょっと強く押しただけで後ろに倒れるような男だっただろうか。多分、そうだった。前と違うのは、わたしが大きくなったということ。


 小さかった頃はとんでもない怪物に見えたのに。なんだか、拍子抜けだ。


 昔から彼は、わたしと二人きりのときにしか本性を現さなかった。母が仕事に行っている時、わたしの面倒を任された父は、事あるごとに拳を振るい力を示そうとした。何も知らない、力のない子どもだったわたしは、彼に服従するほかなかった。そんな日々が終わりを告げたのは、母が父の暴力に気づいたことによる。即刻話は離婚に発展して、父は家から追放された。


 この男が再び、それもわたしが一人でいるときに現れた理由はなんだろうか。要するに逃げてきたのだ、全うな生活から。それでいて恐喝できる相手がいないから、力のない子どもを標的にした。


「お前、俺を無視するのか」


 加齢臭が鼻を刺す。この男は、既に負けていた。母に離婚を迫られて断れなかったのだから。その話は聞いていたのに、幼い頃に植えつけられた恐怖が、わたしの思考を縛り付けていた。わたしは叫んだ。よく分からないけど、わたしは叫んでいた。気づいたら、父の姿はなくなっていた。




 雨が降り出した。一時間ほど前まではうんざりすくらい晴れていたのに、天気の移り変わりというのはふしぎなものだ。


 傘を忘れてしまったから、身体を濡らして歩くしかない。雨宿りはしなかった。


 人通りの多い広い道に出て、とりあえずは叔父さんの家に向かう。


 ずっとわたしを悩ませ、時に人を傷つけてきたこの力。それが本当は存在しないのだとしたら。傷つけてきたのは力ではなくて、わたし自身ということになる。事実からは目を背けちゃいけない。


 わたしは、彼女の気持ちを踏みにじった。


 夏の雨を浴びながら、人々の声を聞いている。道行く彼らの顔をのぞくと、ぼそりとした呟きが雨音に混じる。


 いつからそれを誇りにしていたのか、今になってみても定かじゃない。小さい頃は、ただただ忌々しかったのに。


 顔をあげると、細かな雨粒が瞳を叩く。自然と目を閉じ、苦し紛れの笑みを浮かべる。


 わたしは愚かだった。ようやく、思い知ることができた。


 けれど、やり直すことは出来る。かもしれない。今度こそ唯さんの真意を知ることができれば、きっと。


 他人の気持ちを踏みにじってまで、わたしの力を真実とする必要はない。そんなこと、あってはならない。この力は偽物だ。だから今度は、わたしの目で、耳で、この手で、彼女の心に触れるのだ。




 ぽつぽつと雨粒が木の葉を叩く。


 午後三時。今日もまた、笹倉家にやって来ていた。


「何あなた。また来たの?」


 玄関先で呆れた声を出す彼女に、わたしは微笑みかける。


「ごめんね何度も。用事があるなら待ってるからさ。笹倉あ( 、)か( 、)ね( 、)さん」







 時はさかのぼる。


 雨に濡れた身体をシャワーで温めていた時、秀介が家を訪ねてきた。さっきは言い過ぎたと謝りにきてくれたのだ。昔からすぐ頭に血が昇ってしまうのだと。わたしも仲たがいしたいわけではないから、笑みを返した。


「ていうか、秀介の言ったことは全部事実だし。むしろ感謝してんだよね」


 自分に特別な力があると信じて疑わなかったあの時代。思い返すだけで顔から火を噴きそうだ。


 ところで秀介は、ただ謝りに来ただけではないらしかった。伝えておきたいことがあるのだという。


 ここでいいから、というので玄関で話を聞く。段差に二人で腰掛けた。


 重厚な黒のドアにはめられた水色の擦りガラスを、雨粒が滑り落ちる。お天気雨になったようで、柔らかな水色の光がきらきらと揺れていた。


 秀介は目を閉じたまま、言った。


「きみが昨日会った女。多分だけどあれは笹倉唯じゃない。別の誰かだ。家の鍵を持っていたようだから、姉か妹ってところかな」


 あらかじめ何か予想していたわけじゃないけれど、予想だにしないことを言われて、正直はじめはぴんと来なかった。


「なにそれ、どういうこと?」


 ぽかんとしたいのを何とか抑えてそう返す。


「笹倉唯にあったとき、まず君は自分の名を名乗ったよね。どう言ったか覚えてる?」


「そりゃあまあ。みゆきです、って」


「違うよ。綾野みゆきって言ってたじゃないか」


「そうだっけ」


「そうだったよ。なのに彼女は全く心当たりがなさそうだった。『聞いたこともないけど』ってね。おかしいとは思わなかったかな」


 秀介の言いたいことがわかった気がする。


「綾野と聞いたらまず、和彦を思い浮かべるだろうってこと?」


「そう。恋人をやっていたのならなおさらね」


 和彦は、フルネームで綾野和彦。わたしと同じ苗字だった。


「これは可能性の話として聞いて欲しい――昨日の女は、一応和彦の名前は聞いたことがあった。経緯はわからないけど、姉妹の彼氏なんだから不思議なことじゃない。普通に姉妹には紹介していたのかもしれないし、デート現場に偶然遭遇して問いただしたのかもしれない。


 どういう事情にしろ、とにかく女は、笹倉唯の口から和彦の名前を聞いたんだ。そのとき笹倉唯は、和彦をフルネームでは呼ばずに、いつものように下の名前で呼んだんだ。だから女は、綾野という苗字に聞き覚えがなかった」


「んー、でもさー、咄嗟に気付かなかった、なんてこともなくはないんじゃない?」


「わかってる、あくまでも可能性の話だよ。絶対とは言えないけど、十分疑うに値する。君はまだ笹倉唯の顔を知らないんだろう? でなければ今だってはっきり否定できるはずだしね」


「まあ、そうなんだけどさ」


 心を見透かされるってのもあまりいい気持ちがしない。


「確認なんかすぐに済むよ。和彦に写真でも見せてもらえばいいんだ」


 それが実はさ、と言いかけて、思いとどまった。


「うん、わかった。探してみる」


 それからわたしは和彦に許可を取って、唯さんの映っているはずの写真を探させてもらった。まだ事務的にしか喋れなかったけど、和彦は何も言わずに部屋を空けてくれた。


 ツーショット写真とかは消されていても、四月のお花見なんかで撮るクラスの集合写真は残っているかもと思ったのだ。実際それは見つかった。そこには昨日会った少女の姿はなく、代わりに少女に良く似た女の子――本物の笹倉唯さんが映っていた。


 和彦に確認して分かったのだけれど、唯さんには妹がいるらしかった。その子の名前が笹倉あかね。姉の名を騙った張本人であった。




 そして、午後三時。笹倉家の門前にて。


「ごめんね何度も。用事があるなら待ってるからさ。笹倉あかねさん」


 そう言ったわたしの後ろから、和彦が現れる。彼の存在が、言い逃れできない状況を端的に示していた。


「よう。久しぶり」


 あかねさんは驚愕ののち、胸を撫で下ろすように微笑んだ。


「そりゃそうですよね。あんな嘘、すぐばれますよね」


 あんな嘘、に騙されてしまったわたしは笑うしかない。わたしに嘘は通じない、なんて思っていた時期もあったけれど。心を読むなどと言ってわたしは、ただ表情の変化を注視していただけなのかもしれない。だから目的の分かりにくい突拍子のない嘘は見破れなかった。


 どうぞ、とあかねさんはドアを大きく開ける。あげてくれるそうだ。


 客間らしき畳の部屋に招かれ、お茶と菓子を出された。もてなされている。


「私も混乱していたんです。だって、いきなりいらっしゃるから」


 昨日とは態度があまりに違う。ちょっとおしとやかすぎやしませんか。


「ここのことは誰が話されたんですか? 水島さん? 葛原さん? それとも学校の方が?」


「それは、言わないでおくよ」


 あまり好ましいことは起きない気がする。和彦も黙っていた。


「あのさ、それじゃあ昨日の立ちくらみって」


「あれは本当に、ただの熱中症ですよ」


 じゃあ、ただのわたしの早とちりだったのか。まあ、熱中症だって時には人の命を奪う。甘く見ちゃいけないのは確かだ。


「昨日はたっぷり休んだので、もうすっかり良くなりました」


「そう。そりゃ、よかった」


 で、それよりも。


「ところでさ、どうしてあなたは、唯さんに成りすましたりしたの? 何かを隠したかったから?」


 この問いへの答えを、ここへ向かう間ずっと想像していた。わたしにはもはや、一つの答え以外を見つけることができなかった。


「それは」


 深刻な面持ちであかねさんは言いよどむ。今日ほど自分が間抜けであることを望んだ日はない。想像が的外れであることを強く願った。


「姉が、もうこの世にいないからです」


 隣で和彦が息を呑む。


 やっぱり。真っ先に感じたのは納得の気持ちだった。後を追うように、墨汁を垂らしたような暗い気持ちが胸に広がる。


「ですから、姉の遺言に従わないわけには参りませんでした。姉は和彦さんに自分の死を隠すようにと願ったのです。どうか私のことで、彼を縛り付けないでと。もうお気付きのことと存じますが、姉は、別れを告げるべき方々に嫌われようと、必死に演技をしていました」


 わたしはその、あまりに勝手で、あまりに献身的な真意を、和彦に全て明かしてしまった。唯さんの最期の願いを踏みにじってしまった。やり直せると思っていた。けれど、もう取り返しは付かない。


 知ったところで、唯さんには会えないのだから。


 和彦は硬く握った拳をもう一方の手で覆う。色んな感情を噛みしめているように、わたしには見えた。


「唯は病気だったのか?」


 その質問への答えは聞きたくなかった。けれど耳を塞ぐことが出来ない。死因なんて知ったって苦しくなるだけではないか。


 ところがあかねさんは、予想に反して首を横に振った。


 病死じゃない? まさか。


 目を見張るわたしたちに、彼女の鈴の音のような声が告げる。


「姉は自らの意思で、その生涯を終えました」


「そんな。なんで」


「わかりません。私には教えてくれなかったので」


 唯さんは死期を悟って、皆を悲しませないようにしたのではなかったのか? 皆を悲しませるようなことを、決して望んではやらない人ではなかったのか? 会ったこともなかったけれど、今までの話で彼女という人のことが分かってきたと思っていたのに。


 唯さんが自殺していただなんて。







 雨は強さを増すばかり。真っ白な太陽もいつしか引っ込んでいた。


 お盆にはほんの少し早いけれど、わたしたちは唯さんのいるお墓の前で手を合わせていた。あかねさんのお母さんが車で連れてきてくれたのだ。あかねさんはここにはいない。


「どうか、色んなことを話してあげてください」


 穏やかな声で言うお母さんに、わたしたちは揃って頭を下げる。今にも泣き出しそうな笑顔で頷き、彼女は先に車に戻った。まだ唯さんが亡くなって一ヶ月ほど。無理もない。


 お母さんの顔は写真で見た唯さんそっくりだった。唯さんがお母さん似なのだ。


 残されたわたしたちは、雨に打たれるお墓に、線香一つおいてあげることができない。わたしに至ってはこれが初対面であり、語りかけることもできなかった。


「なあ、みゆき。聞かせてくれないか。今ここで」


 ぽつりと、呟きが雨音に紛れる。和彦もわたしの心を見透かすのか。


 わたしは想像していた。唯さんの真意を。そして昨日披露した推理とは、全く別の結論にたどり着いていた。しかしそれはあくまでも想像でしかなく、だから軽はずみには口に出せないでいた。


「いいの?」


「聞きたいんだ。どんな些細なことでもいいから」


「……あたしさ、和彦に、ちょっと感動的な真相を持って帰ろうとしてたんだ。ロマンチックでドラマチックな感じのね。そのせいで、自分の中でなんとなくイメージしてた勝手な筋書きを伝えちゃったんだと思う。意識してやったわけじゃないし、事実を捻じ曲げたつもりもないけど、思い返してみると、そうかもなあって」


「いいよもう、そんなこと。みゆきは何も悪くないだろ。俺が自分で調べなきゃいけないところを、みゆきにやってもらってたんだから。俺こそ、身勝手に怒鳴りつけたりして、悪かった」


「ううん。本当に、余計なことしちゃったと思ってるの。だってわたし、唯さんの気持ちとか考えもしないでさ。だから、ごめんね」


 昨日は言えなかった言葉を、ようやく口にすることが出来た。


「でも、もう大丈夫だから。今度はもう、わたしの都合で話したりしない。その代わり、あんまり気持ちのいい話はできないと思う」


「いいよ。覚悟はできてる」


 和彦の眼差しに曇りはない。


 わたしは頷き、語り始める。


「唯さんは和彦に嫌われるために演技をしていた。あたしはそう言ったよね。だけど、本当は逆だったのかもしれない」


 傘の上では雨粒が踊り続ける。その音がだんだんと意識の外へ追いやられていった。


「唯さんは、自分の演技がばれてしまわないように必死なはずだった。だけど、それにしては色んな友達に対して、自分は演技をしてるんだってことを話しすぎてる」


 わたしが知っているだけでも、五人もの友だちが唯さんについて何かを隠していた。それがあかねさんの隠していた唯さんの演技のことだったとしたら、あまりにも口が軽すぎる。


「友だちを信頼していたというならそれまでだけど、演技の動機はそもそも、自分のことで和彦を悲しませたくない、縛り付けたくない、っていうものだったはず。だったら、大切な友だちに対しても、話すようなことじゃないでしょ?


 これはわたしの想像に過ぎないけど、唯さんは、演技を始めたんじゃなくて、やめたんじゃないかな。本当は、演技をしていると思( 、)っ( 、)て( 、)も( 、)ら( 、)い( 、)た( 、)か( 、)っ( 、)た( 、)んじゃない?


 唯さんの本質は、変わってしまったあとの姿に、ありのままに表れてたんだよ。皆が気付かなかっただけで。


 始まりは多分、唯さんの友だちが転校しちゃったこと。唯さんはきっと、もう二度と会えないかもしれないその人のために、一粒の涙も流してあげることができなかった」


 水島さんが言っていた。唯さんは泣くこともできずに黙り込んでいたと。


「そんな自分に気付いた唯さんは、ついに、自分の本性を隠すことをやめてしまった。きっと、自分を許せなかったから。


 そうして唯さんは愛想笑いをやめて、人を寄せ付けなくなった。周りから心配されても、これが本当の自分なんだとしか言えなかった。友だちの飼い犬が亡くなった時も、悲しむ演技をする気力が残ってなかったのね。それで、本心をぶちまけちゃったんだ。どうして私が悲しまなきゃいけないの? って。


 真意も何もなかったんだよ。あれは本当の唯さんだった。唯さんは全てを手放そうと決めた時ですら、皆に自分の正体を明かせなかった。最後まで自分を偽って、逃げきったんだよ。


 ……ってのが、あたしの想像ね。ほんと、あくまでも想像だから! 忘れたかったら忘れて!」


 雨音を再び意識する。和彦は黙って俯いていた。


 唯さんの死がもし自殺でなかったのなら、こんなことは思いもしなかった。唯さんという人を美しいだけの思い出に仕立て上げたに違いない。


 けれど秀介は、とうに気付いていたのかもしれない。怖い子だ。


「演技だと思ってもらいたかった、か――そうだよ。そうに決まってる。そのほうがいい」


 和彦の声にどこか不安定な響きを感じ、その顔を覗く。心の声はもう聞こえない。


「やっぱり、そうなんだな。あいつは……唯は、人のために泥をかぶるようなことはしない。あいつは、そんな人間じゃない」


「ちょっと、何もそんな言い方しなくても」


「いいんだよ。これでいいんだ」


 和彦は笑う。心からの、満面の笑みだった。


 何か変だ。彼はこんな晴れやかな笑い方をする人だったろうか。彼は爽やかに笑うほうだけれど、げらげらと大笑いする時ですら表情は少し硬かった。幼い頃からそうなので、生まれつき笑顔が下手なのだと思っていたけれど。


 彼はわたしの前で初めて、心の底から笑ったのだ。今、よりにもよって今、初めて。


 そう悟った時、既に和彦は踵を返していた。







 笹倉唯と私は、本質的に似ていた。


 昔から、楽しむことだけが私の全てだった。遊ぶのは大好きだし、人といるのは嫌いじゃないけれど、友達が笑っているから自分まで笑ってしまう、なんてことは経験したことがない。誰かが泣いていたって同じだ。


 みゆきから快楽主義者と呼ばれたことがあったが、言い得て妙だと思う。顔を真っ赤にしたのを怒ったと勘違いされたようだが、あれは本性を見抜かれたことへの羞恥からだった。


 唯との初対面は小学四年生のとき。最初は単なるクラスメイトでしかなかった。偶然隣の席になってなんとなく仲良くなって、けれども、はっきりと友だちと言えるようになったのは六年生になってからだった。しかしそれも、親友と呼べるようなものではなく。


 中学二年でまた同じクラスになって、その頃からだろうか、唯のことが気になるようになった。その理由を単なる肉欲のためと思い込んでいたけれど、ある夏の日――青く高く清らかな空の下で、本当の唯に出会い、私は悟った。本当の理由を。


 事故は唐突に起こった。道に飛び出した子猫に、走ってきた自動車がぶつかったのだった。


 車に撥ねられた猫が宙をさまよう。その猫が地面を転がる様子を、私は無感動に眺めていた。放心したわけではない。本当に何も感じなかったのだ。面倒に巻き込まれるのは御免だと早々に立ち去ろうとして、クラスメイトの笹倉唯が偶然その場に居合わせたことに気付いた。家の近所の交差点、私から見て斜向かいに彼女はいた。


 交差点といっても一車線の細い道。人の通りも他にはない。私の存在にもすぐに気付かれた。


 撥ねた車は一度止まったが、しばらくすると逃げ去った。残ったのは猫の死骸と中学生が二人だけ。汚い猫に触りたくなくて、私は必死になって今急ぎの用があるのだと嘘を吐いた。


「だいじょうぶ。任せて」


 唯は涼しげに微笑んで、そういった。その時すでに、予感めいたものが胸に潜んでいた。彼女にショックを受けた様子がまるでなかったからだろう。


 私は去る振りをして唯がどうするかを監視した。唯は何食わぬ顔で死骸を抱え、近くの公園へと向かった。そして、「それ」をゴミ箱に捨てた。その場を立ち去る唯に、罪悪感や後ろめたさなどは欠片もないように見えた。


 その時の喜びは表現しきれない。「仲間」を見つけた高揚でしばらくは寝付けないほどだった。


 私と彼女は同じだった。よくよく観察すれば、常に周りで笑い声の絶えない彼女にしては、彼女自身が談笑している場面は極端に少なかった。大抵は周りの者たちが勝手に話して盛り上がり、それに対して唯が愛想笑いをすることがほとんどだった。輪の中心人物は、積極的に輪の外へ逃れていた。


 矛盾したような話だが、「人に共感できない」ことに、私は激しく共感していた。人の喜ぶことで私は笑えず、人の悲しむことで彼女は泣けない。


 だから私は、唯と一緒になったのだ。それなのに。


 彼女はもういない。私と彼女は同じだったのに。私が恐れたから、自分を知られることを強く拒んだから、彼女は私の前から消えてしまった。


 私は唯の友人であり恋人であり、一番の理解者だった。けれど、少し不安になっていたのかもしれない。もしかしたら私は、彼女のことを誤解しているのではないかと。それが怖くて、心細くて、唯の真意を確かめずにはいられなかった。自分では何もできなかったのだけれど。


 私は結局最後まで、自らの本性を明かすことができなかった。彼女の本質を知っていたのに、臆病者の私は、たった一歩を踏み出せなかった。


 彼女が仲間であることが改めて証明された今、私の前に彼女はいない。せっかく喜びに満ちあふれているのに、もう会えないのでは意味がないではないか。


 私は仲間を失った。たった一人の仲間を。それならば、やるべきことは決まっている。


 この孤独はすぐに、淡く消える。







 紫とも朱色ともつかない、綿の形をした雲が群れを成して浮かんでいる。まるで飛行船の大群だ。雨はすっかり止んでいた。


 夕暮れ時、縁側で足をぶらぶらさせると、鈴虫やヒグラシの鳴く声が耳をくすぐる。それを味わえるか無視してしまうかでその時の精神状態をいくらか把握できる。


 依頼は果たした。唯さんの真意は解き明かしたというのに、どうしてこうも――。


 いま、耳元には携帯電話があった。


「あたし、訳わかんなくて」


 秀介には全てを話した。わたしのした想像も、唯さんの自殺のことも。


 和彦が、笑っていたことも。


「唯さんが人のために泥をかぶるはずがないんだ、とか、これでいいんだ、とか、なんか、いつもの和彦じゃないみたいで」


 まるで和彦は、唯さんの身勝手な死を喜んでいるようだった。


 秀介は「ふむ」と唸った。


「もしかすると和彦は、笹倉唯の本質に気付いていたのかもしれない。いや、喜んだということは、君と同じなのかな」


「同じって、なにが?」


 今の話の直後に言われると、心外だと怒りたくなる。


「やっていることが、だよ。和彦も筋書きを決めていたんだ」


「あぁ。筋書き、ね」


 そのことはあまり思い返したくなかった。


「彼は、笹倉唯から愛されることを拒んでいた。いや、愛されているなんてあり得ないと信じ込んでいるようだった。そもそもぼくが首を突っ込んだのはそれが理由なんだよ。気に食わなかったんだ」


 言われてみれば、そんな気配があったかもしれない。言われてみればだけれど。


「じゃあ、唯さんが演技なんかしてなかったってことも気付いてたの?」


「多分ね」


「なにそれ! だったら何のために」


「不安だったんだよ。笹倉唯はきっと、和彦の前で本当の姿を見せようとはしなかったんだ。皆の前で演技をやめるまではね。だから和彦も自分の目を疑った。疑う行為自体はぼく好みなんだけどさ、けっきょく彼は最後まで、自分で確かめることをしなかった」


 不安。それはつまり、自分が愛されていなかったという事実を信じたかったということだろうか。


「じゃあ和彦は、愛されたくなかったってこと? やっぱり訳わかんない」「要するに、和彦も同じだったってことだよ。仲間を求めていたんだ」


「……え? なに? 同じ?」


「彼女の本質を知って喜ぶ理由なんて、それくらいしかないよ」


 和彦が唯さんと同じ? 友だちと喜びや悲しみを分かち合えない孤独な人だと? まさか、ありえない。


 けれどわたしは、彼のことをこう呼んでいたではないか――可愛い快楽主義者と。


 でもそれはわたしの思い込みのはず。……いや、そうとも限らないのか。


「で、いま和彦は?」


 その問いで我に返る。半ば呆然としたまま答えた。


「出かけてっちゃった。『ちょっと人探しに』って」


「人探し? 和彦は人探しって言ったんだね?」


「でも、誰のことだか」


「鈍いな君は!」


 鋭い声に思わず飛び跳ねる。


「うっさいなぁ。叫ばないでよ」


「笹倉唯の亡き今、和彦は仲間を失ったことになる。その彼が人探しといったんだ。断言はできないけど、彼は仲間を探しに行ったのかもしれない」


 秀介が珍しく切羽詰まった声になる。それでわたしは却って冷静になる。


「えー? でもさー、仲間なんてそんな簡単に見つかるわけないじゃん。それに友だち探すみたいなもんじゃないの? ほっとけばいいでしょ」


「その探し方が問題なんだよ。和彦が笹倉唯の本質に気付けたのは、おそらくある事故がきっかけだからなんだ。君は知らないかもしれないけど、一年くらい前に猫が撥ねられたんだよ、自動車に」


「あぁ、それわたしも聞いたよ。和彦が見たってやつでしょ?」


「知ってるんじゃないか。で、これはあくまでも仮定の話だけど、その場に笹倉唯も居合わせていたと考えたら、どうかな」


「なんでそうなんの?」


 猫が亡くなる話の中に唯さんの名前は出てこなかった。猫が轢かれて、車が逃げて、和彦が猫の墓を立ててやって……。他の登場人物を臭わせる素振りはなかったように記憶している。


「和彦が笹倉唯と積極的に近づき始めたのは、いつだったか覚えてるかな」


 そこまで言われて、わたしはようやく察した。


 この前家を訪ねたとき、水島さんはいっていた。二人の距離が縮まったのは去年の夏休みくらいだったと。


 いたんだ、唯さんはその場に。動かなくなった猫を二人で見て、一緒に猫のお墓を立てて、その最中に唯さんの本質に気が付いた。表情の機微とか言動とか、とにかくそういう感覚的なもので。


「まさか、仲間を見つける方法って」


「残酷な状況に巻き込んで、その反応を見ること。かもしれない。


 和彦がどんなふうにそれを実現するつもりかまでは分からない。けどとにかく、放っておくわけにはいかないよ。……これが僕の妄想に終わることを願うばかりだけどね」


 わたしだって同じ気持ちだ。和彦がどんな人間であれ、誰かに害をなすような真似だけはしないと信じたい。


 ともあれわたしは、家を出る準備を始めた。




 麦藁帽子をかぶった男の子が水溜りの上で跳ね回っている。長靴を履いていたけど、服が泥だらけになっていた。


 茜色の夕焼けへと駆けるわたしの姿は、見方によっては青春っぽく映るだろうか。きっと酷い顔をしているだろうから、何か悪さでもして逃げているように見えたかもしれない。自転車で来ればよかった、と気付いた時にはもう遅い。


「万が一僕の想像が当たっていたとしても、ところ構わず暴れまわることはないだろうね。あまりに不確実だしリスクが高すぎる。とすれば、誰か特定の個人を狙って、その人の目の前で去年のような事故を起こす――とかかな」


 秀介はその個人を葛原さんと仮定した。調査の時にわたしが家まで押しかけた、その二人目。一番分かりやすく、秀介の知る人間の中での唯一の適役らしい。その他を狙われたら、その時はその時だ。


 言わんとすることは分かる。わたしもどこか気になってはいた。唯はいい子よ、という心の声があったからまあいいかと流していたのだけれど。あれはきっと、筋書きを決めていたゆえのわたしの勘違いだ。


 唯のことどう思いますか? 確かそんなふうに聞かれた。事情とかは考えず、とにかく唯さんの「言動そのもの」について、どう思ったか聞かせて欲しいと。彼女は唯さんが演技をしていないことに気付いていたから、そのありのままの姿について思うところを聞きたかったのではないだろうか。


 人でなしと思いましたか? 葛原さんはそんな問いを投げかけてきた。もし、あの問いが和彦にもぶつけられていたら。仲間かもしれないと期待してしまっても、誰にも責められないのではないだろうか。


「決めつけるのは嫌いだけど、今回ばかりはしょうがない。とにかく今は急がないと」


 そう煽る秀介の声は、もうすっかり落ち着いていた。こっちが慌てている時に、とちょっとむかついた。


 家を飛び出し二十分。和彦は歩きのようだから、距離はかなり縮まったはずだ。


 喉がヒューヒューと高い音を立てて、もう死んでしまうと崩れ落ちかけた時、見慣れた人影が前方に見えた。


 目の前の細い坂を上ってしばらく行くと葛原さんの家がある。やっぱり葛原さんを狙っていたのだ。


 声が上手く出なかったので、肩を掴むまでは頑張って走った。そこで座り込む。道の真ん中だけど仕方ない。


「みゆき? どうしたんだよ」


 夕日を背にした和彦の顔は、いつものように口元が緩んでいた。それでちょっとだけ安心する。


 息を整える間を与えてもらい、わたしはいった。


「葛原さんのところに行くんでしょ」


 今の一言で、おそらく和彦は全てを悟った。


 その瞳は急速に光沢を失い、口元の笑みも消え失せる。まるで仮面を取り外すような強烈な変化に、わたしは呆然とした。


「さすがだな、気付いてくれるなんて。だけどみゆきは仲間じゃない」


 疲労で立ち上がれないわたしを置いて、和彦は先を行く。


 行ってしまう。止めなきゃいけないのに体が動かない。それが疲れのためだけでないことは分かっていた。


 そのときだった。和彦の前の道に、白い棒を持った少年が立ちはだかったのは。


「秀介――」


 彼の隣には、以前に見た妹がいた。ここまで連れてきてくれたのか。


 わたしは安堵に心を緩めた。秀介の歩き姿に、強い自信のようなものを感じたからかもしれない。


「お前も気付いてたってのかよ」


 和彦の呟きには、驚きよりも暗い感情が色濃く滲んでいた。


「先へは行かないほうがいい」


 和彦は言葉を返そうとしなかった。息を呑むように立ちつくす。


 秀介は、力任せに止めに来たのではないようだった。何らかの確信が、彼を巨大な壁のように見せていた。


「俺の勝手だろ。止めても無駄だ」


「止めるつもりはないよ。これはただの忠告だ。後悔させないためのね」


「なんだってんだ」


「まだ気付かないのかな、君は。いや、気付いているはずだよ。君はただ、恐れているだけさ」


「……はっきり言えよ」


 諦観。和彦の声が含んでいたのは、諦めの感情だった。


 秀介は頷きもせずに、その言葉に従った。


「笹倉唯の仲間として、君はあまりに力不足だ」


 たった一言。それだけで和彦は崩れ落ちた。苦しみを噛みしめるように泣き出した和彦に、秀介はそれ以上言葉をかけなかった







 以前秀介に聞いたことがある。


「目が見えないってさ、どんな気持ち?」


 すると彼は、素直に答えてくれた。


「見えなくて辛いだなんて思ったことはないよ。見えなくて良かった、とは思わないだけ」


 やはり私には、秀介の気持ちはわからない。そんな不便な生活、辛くないわけがないのに。


 私と彼との間には明確な壁がある。それは承知していた。二人の違いはわかりやすく、個性などといって流すには重すぎる。私には目が見えて、彼には目が見えない。


 もちろん秀介だけじゃない。そもそも人の気持ちなんてわかるわけがなかった。だからその問いも、単なる気まぐれに過ぎなかった。


 秀介もみゆきも、恐ろしいやつらだ。私と全く違う世界を瞳に映しながら、そのずれを想像で埋めようと努力する。理解しあうなんて不可能なのに。最初から投げ出していた私にとっては、それ自体が理解しがたい行動だった。


 彼らと私は、別の生き物だ。


 では、葛原は仲間だったのだろうか。今はもうどうでもいい。


 この胸の中がからっぽになってしまったような感覚は、仲間を失った孤独感のためだと思っていた。人に共感することのできない私が、人と同じように悲しむことなどあり得ない。だから、仲間さえ見つければなんとでもなる。そう思っていた。


 真実を突きつけられたときに溢れた涙が、何よりの答えだ。私は、仲間を見つけた歓びから唯を求めたつもりでいた。しかし本当は、唯( 、)が( 、)仲間であってくれたことが嬉しかったのだ。


 仲間と呼べる人が全くの別人であったなら、どうしてこれほど空虚な気持ちになれるだろうか。あの盲目の少年は、私にそれ気付かせた。それはあまりに残酷な仕打ちではないか。私が何のために思い込んだのか、秀介ならきっと、見当も付いていたはずなのに。それでも彼は、事実から逃げるなと言い放った。


「笹倉唯の仲間として、君はあまりに力不足だ」


 要するに私は中途半端なのだ。からっぽになりきれなかった。


 私は唯を仲間と呼んだ。人を愛せない、からっぽの存在として。私は彼女の理解者であり、しかし私は、私自身の理解者ではなかった。私と唯は同じじゃない。そんな当たり前のことでも、その気になれば目を逸らせる。けれども秀介はそれを許さなかった。


 私は唯を愛していた。唯でなくては意味がなかった。


 気付いてしまったら、これから何人仲間を見つけても、きっと、虚しいだけだ。


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