科学者の恋
日替わりお題「科学の結婚」「マーメイド」「カーネーション」
ノベルスキーで上げていた作品をまとめました。
幼い頃、私は世にも美しいマーメイドに出会った。
ある時、海辺を歩いていると、浜辺に打ち上げられている人影を見た。急いで駆け寄ってみれば、それはなんと人魚だった。その時、私は未知の生物に出会った驚きよりも、美しさに心を奪われた。
髪は絹のように艶やかで、尾ひれの鱗は一枚一枚、宝石のように光り輝いている。私は一瞬にして、心を奪われた。人魚は閉じていた瞳をあけ、私に助けを求めた。
「縄を解いてくれないかしら」
よく観察すると、身体には漁網が絡まっていた。その言葉で我に返った私は、家から鋏を持ってきて、解いてやった。
「陸上に出るなと言われていたのに、網に引っかかるなんて、うっかりしていたわ。いつも海底で暮らしていたから」
それなのに、どうして陸上に上がったのか伺うと、彼女はこう返した。
「見たい光景があったの。沈没した船の中に、花の図鑑があってね。海辺の花なら、見られると思って」
その言葉を聞き、私は家にあったカーネーションを一輪、差し出すことにした。花を受け取った彼女は、とても嬉しそうに笑った。
「助けてくれた上に、花まで――なんて気が利いているのかしら。どうもありがとう。私と出会ったことは、内緒にしてね。お礼に何かして欲しいことはない?」
彼女が私に問う。その美しい声に、姿に、身体中の血が駆け巡り、頭がちかちかした。
「結婚して下さい」
つい、そんな言葉が口をついて出た。幼い頃は、好きな人とは結婚するという発想しか無かったからだ。
「貴方はまだ幼いから、駄目よ。他にはない?」
彼女は何度も、他の願いはないかと尋ねた。しかし、頑なに首を横に振る私を見て、優しく頭を撫でてくれたのだった。
「そうねぇ、どうしてもと言うなら、大人になって、また私を見つけられたら結婚してあげる。今は、歌で勘弁してもらえるかしら」
そして、綺麗な歌を聞かせてくれた。歌い終わった後、悠々と大海原に戻って行った。
もう一度彼女に会えないか、方法を模索する。そのために、私は科学者になった。
各地に人魚の伝承はあれど、生物として発見したものは誰もいない。それは、彼女たちが深い海の中で暮らしているためだろう。
人魚と暮らすとすれば、生活様式もなるべく近しいものにしたい。陸地と海の中、別れ別れに暮らすのはあまりにも寂しい。
それに、好きな人と暮らすのは長年の夢である。だから、何としてでも叶えたい。
そういえば、人魚は肺呼吸とエラ呼吸のどちらなのだろうか。ずっと海底で暮らしていたとなれば、エラ呼吸の線が高い。だが、会話もでき、歌も歌える。人間と似たような声帯を持つのであろう。
ならば、恐らく人魚は、エラ呼吸と肺呼吸、どちらも出来るのではないだろうか。
肺呼吸とエラ呼吸、獲得するにはどうしたらいいだろうか。陸地へ適応できたのだから、再度エラ呼吸も獲得出来るはずだ。進化の過程で不必要となった機能を甦らせるべく、日夜研究に没頭した。
長年かけて変化した体の構造を、一世代で変化させるのはそう容易いことでは無い。
人魚はどこに住んでいるのか。どのように人魚は進化してきたのか。人魚と近しい生物と、彼女らの違いはなんなのか。どうしたら身体の構造を変化させられるのか。解決すべき難題は山ほどある。それらを一つ一つ丁寧に解き明かしていく。
ただ、夢だけでは食べていけない。だから私は研究資金を得るべく、人魚のことは伏せつつも、研究過程で分かった研究結果を学会で発表した。
それを繰りかえすうち、私はいつの間にか、科学の至宝と呼ばれるまでに至った。
研究して数十年後。ようやく、彼女と会うための準備が整った。人間から、人魚へ変化するカプセルを開発したのである。
私は科学者のキャリアを捨て、彼女が住まう深海へ向かう事にした。研究一筋な私が、いきなり辞めると言い出したためか、周囲の仲間は必死に引き留めようとした。
しかし、どの言葉も私の心を揺さぶることは無かった。私の心は既に、あの日人魚に捧げたからだ。だから、誰にも研究目的を話したことはない。
出航の日。潜水艦には人魚になるためのカプセルと、色とりどりの花を詰め込んだ。
この花は、水の中でも枯れず、水圧に潰されない、品種改良が施してある花だ。これまでの研究成果の副産物でもある。人生で積み上げてきたものとともに、私は人魚が住むと思わしき海域へ向かった。
目的のポイントへ着いたあと、カプセルの中へ入る。私はこれから長い時間をかけ、人魚へと姿を変える。
ゆっくりと、重いカプセルの蓋を閉じた時。
あの時恋焦がれた、美しい歌声が聞こえてくるのだった。私は暗闇の中でその歌に包まれながら、私は変化のための眠りについた。