素晴らしき世界
煉瓦の白が砕けていた。
その断面に、浜辺に押し寄せる白波の頭を思い出す。
海水が泡を含み白く盛り上がり崩れる瞬間を土に固めたら、こうなるのだろうか。
こんな風に、無数の煉瓦が砕けていた。
どの断面も鮮やかに白い。白人の肌みたいだ。
白人たちの肌は陽の光に映える。
陽が強いほど、彼らの肌の白さは際立つ。
松明の灯りに黒人たちの肌の黒が際立つのと同じだ。
石畳は砕け、土台や中庭に続く土が露出していた。
それらは総じて黒い。
空間は粉塵が充満していた。
砕けた煉瓦や石畳の微際な粒子や、土や砂が空中に巻き上がって粉塵となっている。
その1つ1つを、陽の光がコーティングしていた。
光は大きく破壊された中庭から届いている。
中庭は通路と同様に、大きく破壊されている。
いくつもの緑が横倒しになって、茶色い根を覗かせている。
その茶色に、僕は去って行ったフラカンを思い出した。
彼は、頭部を黒ジャガーに変えても、瞳だけはそのままだった。
おそらく、黒の竜巻となって中庭に続く地面を抉った時も、同じ目をしていたと思う。
怒りに燃える小さな虹彩。存在を増す白目は、密林のジャガーそのものだった。
その目が見据えていたカルロス・フィッツ・サントス教授は羽根の人で、青の竜巻となって、黒のそれと絡まりながら、中庭の上空に消えていった。
彼らが消えた後の地面には、巨大な轍が残された。
2つに分かれたり1つに収まったりまた分かれたりしながら、中庭まで伸びている。
その向こう、中庭と通路を区切る橋脚みたいに並ぶいくつものアーチは、半分が破壊されている。
流石、クトゥルフ神話の神様達だ。
加減という物を知らない。
カルロス教授、ケツァルクアトルに張り付けておいた僕の気は、3km西に伸びてから千切れてしまった。移動速度が尋常ではない。
常識外れにも程がある。
常識外れと言えば、フラカンの一撃はまさしくそれで、通路を一撃で吹き飛ばした。
けれど、崩落は起こらなかった。
天井を支える柱は、いくつか傷ついている。
それでも、折れたり抉れたりはしていない。
もし彼が薙ぎ払えばそれも可能だったのだろう。
支柱は全て砕けて、天井が降って来ただろう。
けれど彼は振り下ろしたのだ。
つまりあの獣は、『崩落、生き埋めを避ける位には』、冷静な獣だったという事だ。
「おやおや、これはまた……」
アレクサンデル教授、十三使徒のルカの声がした。
彼の声は穏やかだが、くぐもっているのは、土埃のせいだろう。
絹のハンカチを鼻の先にあてているのが、気配で分かる。
粉塵は肺を痛める。当然のことだ。
僕はまだ動けないが、とにかく、目を合わせることだけは避けなければならない。
固く目をつむる。
視界は暗黒に回帰した。
中庭の白い残像が瞼の裏をぼやけていく。
大丈夫だ。拷問には慣れている。
保育所では、拷問は日常茶飯事だったのだ。
同い年の子供たちは、僕の手のひらに釘を打ち、首を宙づりにし、頭蓋を割り、傘で眼を抉り、腹を裂き腸を引き出した。でも、こんな事は普通なのだ。
僕は不死身だから、何をされても死なない。
何より、僕は十三聖教会の彼らより、体術に秀でている。
大丈夫だ。
拷問されながら、回復を待てば良いのだ。
「……具合が悪いのですか? それとも、救いを求めているのですか?」
使徒の声が、鼓膜に甘く響く。
僕は答えない。
「……お返事を頂けないのは、悲しい事です。彼らはどこに行きましたか?」
響きの甘さは変わらなかった。
が、心臓は跳ねた。
この使徒は今、『彼ら』と言った。
フラカンとカルロス教授が、『彼ら』だ。
彼、アレクサンデル教授は、カルロス教授がここに現れる事を知っていた。
僕の中で、全てが繋がる。
十三聖教会のアレクサンデル教授とカルロス教授は、ブルガリアで、何か公にできない研究をした。
そしてカルロス教授は失踪した。
フラカンはカルロス教授の関係者だ。同じ南米出身。
2人とも、クトウルフ神話の末裔である。
カルロス教授の失踪後、アレクサンドル教授はこの大学に来て、ここを『巣』にした。
これだけの轟音があって、破壊があったのに、教職員も誰も駆けつけてこない。
これは、職員、他の生徒たちが彼の支配下にある事を示している。
十三聖教会とフラカンが、カルロス教授を追っていた、
これは間違いない。
ただ、アレクサンデル教授は、学生たちに手を出していない。
何故か。
人質だからだ。
つまり、学生たちは、カルロス教授をおびき寄せる、『餌』だったのだろう。
十三聖教会による捜索は続く。200人近い信徒がロシアから来たはずだ。
そして、フラカンと接触する。
逆忌さんを屠り、僕を追ってきたことから分かるように、彼は村人みたいな行動をする。
つまり、目についたものは、根こそぎ滅ぼす。
教会は被害を受けた。
そしてカルロス教授に何らかの方法で、訴えかけたはずだ。
フラカンに襲われた。学生たちも襲われるだろう、と。
今朝まで、フラカンと十三聖教会の抗争は続いていた。
のっぴきならない状況のはずだった。
おそらく、カルロス教授から返信はまだなかったはずだ。
そこでアレクサンデル教授は、信徒たちを尻尾切りして、マンションを襲わせ、ロシアに逃げかけた。
が、カルロス教授から連絡があったのだろう。
フラカンを止めに来る、と。
使徒はその事を、フラカンに伝えた。
だから、余裕の声色で講釈なども垂れたのだろう。
「まあ、この有様を拝見いたしましたら、大体の事は分かりますからね。別の質問をしましょう」
この声と共に、僕の両脇に、いくつもの腕が回された。
1つの脇に3人づつ、計6人がかりで僕を立たせる。
僕は口も目も閉じたままだ。
「あなたは誰ですか? 恐ろしい感じがします。ソフィから画像を受けた時、私の内なる神性は震えました。私が震えたのではありません。使徒としての記憶が、受け継がれた権能が、警鐘をならしていたのです。貴方がたは『滅びの子』」ですか?」
1980年代に、村は一度この教会を滅ぼしている。
それを言っているのだろう。僕はもちろん答えない。
使徒はため息をついた。
それから、耳に傷みが走った。
痛みというより、熱さだ。
ナイフで耳がそがれた。
僕はまだ動けない。まずい。
これは本当にまずい。
僕の自己回復はオートマティックだ。
傷は自動的に回復する。どんな場合でも、だ。
……耳は再生した。
切り落とされた時に流れた血だけが、コートに飛沫を作っている。
「ほう……!!」
アレクサンデル教授の声が、驚嘆をしめした。
「貴方はカソリックの聖人ですか? あるいは、キリストの加護でも受けているのですか?」
楽しそうな声。
それは残酷を含む。
……僕は、何も答えない。それが正解だからだ。
因果の回復をまって、折をみてここから去ればいい。
さすがに肉片にされたら死ぬけれど、どこをそがれても再生はできる。
それに、耐えるのは得意だ。
実際、僕は耐えた。
右耳、左耳、舌をそがれ、頭蓋と顎、首の骨を砕かれ、喉を裂かれた。
目を抉られ、煙草の火を白目に押し付けられた。
そして、そのどれからも僕は瞬時に回復していた。
「……なるほど。貴方は『不死者』なのですね」
アレクサンデル教授は納得した。
腕を組むのが気配から伝わる。
僕はもちろん答えない。
「不死に加えて、強い意志がある。貴方は素晴らしい。是非、私たちと、信仰を分かち合ってもらいたいものです……ホセ」
「はい」
教授の呼びかけに、ホセは答えた。
ホセの気配が僕の斜め前、教授の横に移動する。
僕は酷く悲しくなった。
教授が、彼にナイフを手渡す。
さっきから僕を刻んでいる、刃渡りの長い軍用ナイフだ。
「この不死者の首を切り落とすか、ホセ、貴方の命を主に捧げるか。どちらかをしなさい。いずれの行いにせよ、貴方の魂は主なる神の御許に召されるでしょう」
ホセは僕に向き直った。
僕は奥歯を噛んだ。
瞼は固く閉じたままだ。
「九朗」
彼はかすれた声でそう言って、軍用ナイフの刃を自分の頚動脈にあてて、横にひいた。
温かい血が僕に降りかかった。
その液体はすぐに熱量を喪い、べた付いて潮風のような生臭さを帯びる。
ホセ。
何故君は。
アロッソはどうなるんだ?
東洋から来た不死者なんかのために、何故人生を捨てるんだ?
僕の首を切れば良かったじゃないか! 75%がここじゃなかったのか?
僕は土壇場で因果の禁忌を犯した。だからこのざまだ。
間違えた。踏み外した。死はそこにある。
頭部が切り離されたことはないから、僕もどうなるか分からない。
多分死ぬだろう。けれどそれは僕の死だ。何故君が死ぬんだ?
アロッソはどうなるんだ? ホセ、君は……!
僕は激情に駆られた。
それは、狐の慟哭と言ってもいい。
狐は命を愛する。
だからこそ、全ての人を癒すのだ。
僕は瞼を開いた。
激情が開かせた。
でもそれは、無理やりではない。
開く事が決まっていたんだ。
その事を、僕は瞼を開いた瞬間に理解した。
アレクサンデル教授が、僕を直視していた。
緑がかった青の虹彩。とてもとても深い色の瞳。
そう、深い色の瞳だ。
それは、あまねく世界を覆う神の愛と同じ程に、深い。
愛は希望だ。
希望は信仰だ。
僕は理解した。
僕は、十三聖教会の神を信仰するために生まれてきたのだ。
僕に信仰させるために、神は村を作り、教会を作った。
村は教会のための試練であり、また導きの石である。
何故気づかなかったんだろう。
僕は、十三聖教会の信徒になるために、生まれてきたんだ。
「気分はいかがですか」
「素晴らしいです」
僕に問うアレクサンデル教授の声は、穏やかだった。
それはこの方の瞳と同じ位に。
彼はホセの両肩を後ろからつかんで、倒れないように支えていた。
使徒は信者を支える。その信仰と共に。
ホセはこの方に支えられながら、事切れていた。
もう僕にも治せない。
けれど、良いのだ。
彼は主の信仰に殉じた。
僕が彼の分も、十三聖教会の神を信仰していけば良いのだ。
そう、これは『教化』ではない。
確固たる僕の意思。
僕の選びで、僕はこの教会を信仰するのだ。
「不死者さん、よろしければ」
「はい」
「貴方のお名前を伺えますか?」
「はい。僕は九虚と言います。今日から、十三聖教会の信徒です」
ルカ様の問いに、僕は胸を張って答えた。
彼は満足気に頷く。
「素晴らしい事です。キリストの失敗を、私たちで補いましょう」
ルカ様は、僕に血まみれの右手を差し出した。
僕はその手を握って、涙ぐんだ。
ああ、この方の瞳は、なんて慈悲に溢れているんだ。
ああ、世界はなんて素晴らしいんだ。
僕は幸福と光に包まれて、あまりの嬉しさに、目頭が熱くなり、涙が流れた。
鼻の頭も熱くて、鼻水も流れる。
そして何故か分からないけれど、口の端からよだれが垂れて、顎をつたって床に落ちた。
その液体は、ホセの流した赤と混ざった。




