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救いの朝

 マルク・エスタッソは右の眼球と左の小指を失った。

 

 もちろん僕は治療をしようとした。

 が、先輩は手で制止。

 ミゲルに手当をさせる。


 耳を直す時に、僕は彼の全てを治癒していたので、そこまで不安はない。処置さえ的確なら死ぬ事はないからだ。


 そしてミゲルの処置は完璧だった。


 先輩に、

「ミゲル、お前が手当してやれ」

 と言われた彼は頷いて、まずイソフルランをしみ込ませたハンカチーフを、マルク・エスタッソの鼻に当てた。

 イソフルランは吸入麻酔薬。

 これはミゲルが警備の詰め所を物色した時の収穫だ。

 

 マルク・エスタッソはぐったりした。

 瞳は虚ろになり、光が失われる。

 

 ミゲルは彼を抱き起し、脇に肩を挟んで担ぎ上げた。

 リビングに運ぶ。


 そのままカッシーナの白のソファに横たえると、マルク・エスタッソの肥満体はソファの白に柔らかく沈んだ。

 

 ミゲルは彼を見下ろしてから、バルコニーを背に右奥のキッチンに向かい、冷蔵庫から氷を取り出す。

 タオルで包み、失われた目の部分に当てた。


 先輩の光球が(えぐ)っていたのは、角膜の先だ。

 必然的に瞼は残っていた。

 これは幸いな事である。


 ミゲルはさらに、医療箱からガーゼを取り出した。

 吹き飛んだ指部分にあてがい、上から包帯をきつく巻く。

 いわゆる、圧迫止血というものだ。


 彼の手際は良い。

 赤の酒場で死体を漁っている時と、表情も変わらない。

 けれど何かが違った。

 しいて言うならば気配。

 

 とても清浄なのだ。

 彼の瞳には、生きてきた年月が固着している。

 人はそういう作りだ。

 生きれば生きるほど、瞳は濁るように出来ている。

 ミゲルの虹彩も相変わらず濁っていた。

 けれど気配から(よど)みが消えている。


 僕は何が違うのか、しばらく考えた。

 けれど、よく分からない。

 可能性としては、先ほど先輩が告げた、マルク・エスタッソが大した男ではない、という事実。

 そんな事を言われたくらいで、心は晴れ晴れとするものなのだろうか。


「終わった」

 ミゲルはそう言った。


 彼がそう言うまでの間、先輩はキッチンで洗い物をしていた。

 僕はほうきとチリチリを拝借してる、死体の消し炭の掃除。

 僕らはそれぞれの手を止めて、負傷者に視線を向ける。

 

 彼はソファでぐったりとしていた。

 イソフルランの麻酔が効いている。

 でも薬品が抜けても、あまり変わらないのだろう。

 

 先輩は彼に、組織が『ほぼ』壊滅したと告げた。

 それから2回拷問。

 この2回で彼の何かが折れてしまった。

 それは目に見えない支え。

 または自尊心、と言えるかも知れない。


 先輩は、キッチンに備え付けの白い布で、まず手を拭いた。

 マルク・エスタッソの元に歩く。

 絨毯を滑るみたいに()を進めるその姿は、ボルン地区でのそれと変わらない。


 彼女は自尊心の成れ果てに視線を落としてから、ミゲルを見上げた。


「気分はどうだ」

「特に何もない」

「そうか。こいつはお前に随分な事をしてきた。憎しみとか、色々あるだろう?」

 先輩の問いに、ミゲルは押し黙った。

 

「……憎しみは、無い」

「殺してやってもいいんだぜ? オレはさっきまで、こいつの値付けをしてた。で、どっちでもいい、って感じになった。お前はどっちがいいんだ?」

 先輩は小首を傾げる。


 僕は胸騒ぎがした。

 彼女はソファに横たわるマルク・エスタッソを殺すかどうかを、ミゲルに尋ねている。

 

「……俺も、どっちでもいいよ。こいつを殺しても殺さなくても、妻とはやり直せない。死んじまったからな。娘の心配は無くなった。あんたたちのおかげだ。だから」

 そこでミゲルは黙った。

 

「だから?」

「あんたが便利な方にしてくれ。生かした方が便利なら、生かせばいいし、その逆でも俺は構わない」

「そうか。なら、まだこいつは使うぜ。いいんだな?」

 志骸先輩の念押しに、ミゲルは頷いた。


「ああ。構わない。俺を雇ってるのはあんただし、……随分と、そうだな。たった一晩で、随分と、俺は救われ」

 先輩がミゲルを突き飛ばした。

 カサ・ミラの屋根が光った。

 窓ガラスが抉れた。

 蜘蛛の巣のようにひび割れが走る。

 突き飛ばされたミゲルは後ろの壁に背から激突。

 カッシーナのソファーの背もたれの白に、鮮やかな血が飛び散り、幾つかの赤を描いた。

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