淑女のたしなみ
ミゲルはて、朝日にそびえるマンションを見上げていた。
眩し気に目の横の皺を深くしながら、彼は淡々と語る。
マルコ・エスタッソの居室が最上階とその下にあること。
大きく改装、壁を取り払って、内部で行き来する階段を取り付けていたが、彼自身は伝えきいただけで、実際に足を踏み入れたことはない、等々。
先輩はシニカルな笑みを口元に浮かべながら、肩をすくめた。
「イメージ通りが一周して、逆に意外だな」
「そうか」
ミゲルはマンションから視線を切り先輩を見て、首をわずかに傾げる。
「そうだ。組織のボスっつったら、チュロ屋でもやってそうなイメージなんだがなあ」
「まあ、マルク・エスタッソはそういう奴だ。派手な生活が好きだし、表の肩書きも社長だからな」
ミゲルは感情なく答えた。
「そうか。他には、どういう印象がある?」
この問いに、白人は押し黙った。
それから首を小さく横に振る。
「……底が浅い男に見えるが、案外深いのかもしれない。俺が分かっているのは、狐みたいな男だってことだ。ずる賢く抜け目がない。そして人の悲惨を愉しむ酷薄さも持ち合わせている」
ミゲルが出した狐の比喩に、僕の胸は痛んだ。
日本の狐は西洋のそれとは違う。
情だって深いし、お稲荷様といって神社を守る聖獣だったりするのだ。
この白人に日本の童話のごん狐を読み聞かせたい。
そして彼は涙するのだ。
……明後日な主張と願望が僕の中で首をもたげるが、もちろん顔には出さない。
「そうか。大体分かった。とりあえず、ミゲル、お前はここで待っていろ。5分たったらインターホンを鳴らせ」
先輩の言葉に白人は首を傾げる。
「あんたたちはどうするんだ?」
「そりゃ……あれだ。派手好きな狐さんをたたき起こしてくるのさ。九虚」
先輩が僕を見た。
「はい」
「行くぞ」
「はい」
僕がこの、はい、を言った時には、志骸先輩は、バルコニーに垂直飛びをしていた。
彼女の幼い手のひらは、真っすぐ柵に伸びる。
手がかかった瞬間には、柵に足をかけて蹴り出し、更に垂直に飛ぶ。
小さな顎の先がマンションの壁面に触れるか触れないかのギリギリを飛びながら、その手は次の階のバルコニー、その柵に伸ばされている。
彼女はこれを繰り返し、するすると、本当に飛ぶように、最上階まで向かっていく。
僕も同じ要領で彼女のコートの裾を追う。
ちらりと眼下を見やる。
地上に残され、急速に僕らと距離が開いていくミゲル。
彼は口を半開きにして僕らを見上げていた。
あっけに取られた面持ちに優越感が首をもたげる。
けれど、こんなバルコニー、凹凸だらけのマンションなど、いくら層が高くても、公園のアスレチックと大差がないのだ。どんなに手際が良くてもミゲル、君には不可能だ。
君は普通のヒトだからね―。
と、どや顔をしたら、脳天を5階のバルコニーの天井にぶつけかけた。
油断大敵。
と、反省しているうちに、最上階にたどり着く。
ここまで1分かからなかった。
運動としては物足りない位だ。
僕が最上階に到達した時には、先輩はガラス戸の前に佇んでいた。
ガラス戸はバルコニーと室内を隔てている。
この鍵部分に幼い手のひらをかざす。
光が生れ、微かな破裂音と共に鉄を呑み込んだ。
僕らはそのまま、室内に侵入する。
ラウンドリー、客間と居間を抜けて、うす暗い階段を下りる。
居間は下の階にもあった。
降りきった横には花台があり、青磁の壷に胡蝶蘭が生けられている。
居間の絨毯は柔らかい。
足先が吸い込まれる錯覚。
沈黙のまま、先輩は僕の先を行く。
足音は全く立てない。
代わりに、至る所にある隠しカメラ、警報といった全てに手を差しのべ、光球で破壊していく。
ピンポン玉サイズの光と微かな炸裂音が、豪奢な空間に溶けていく。
僕はヒトの気配には精通している。
でもこういう機械類にはとんと疎い。
なので、迷いなく颯爽と進む先輩の後ろ姿、揺れる黒い後ろ髪、髪がかかるブラックコート肩、僅かにひらめく裾に、惚れ惚れとしてしまった。
そうこうする内に、僕らはベッドルームの前まで到達。
先輩はドアノブを爆破。
奥のキングサイズのベッドの男をたたき起こす、……前に、通路を引き返し、居間に戻る。
シルクのカーテンを、レールを勢い良く引いた。
レールを滑車が大きく擦る音と共に、朝の陽光が空間に溢れる。
同時に怒声が飛んできた。
「てめえらなにしてやがんだっ!?」
警護の男だ。
瞳は凄んでいるが、濁りのない印象がある。
こういう瞳の男は強い。
そり上げた頭に走る、いくつもの深い傷跡も経験の深さを醸す。
青と白のストライプシャツの下で隆起した筋肉からは、凶暴な気迫がみなぎっている。
赤の酒場の男達より、体格も殺気も一回り上だ。
「九虚、相手しとけ。オレは狐を起こしに行く」
そう言って、ベッドルームに身を翻す先輩に、僕は、
「はい」
とうなずいてストライプシャツに向き直った。
彼は僕に目を合わせたまま、シャツの襟元の小型マイクに、
「侵入者だ、来い」
と言って、重心を落とす。
腰のホルスターからナイフを抜いた。
それは朝日に煌めく。
空調で管理された室内は、幾分人工的な香りが強いものの、清らかだ。
だから清浄なる空気の中で煌めく白刃は、僕の脳の奥の鈍い痺れ……睡眠不足に、快い刺激を与えてくれた。
「銃じゃないんだな」
男は返事をしない。
まあ、それもそうか。
オーク材のテーブル、革張りの黒ソファ、壁に掛けられた絵画は、色彩豊かなレンブラントの原画だ。
高い天井にはシャンデリア。
階段横の青磁は清朝の代物。
何から何まで、成金趣味を突っ走っている。
銃でも放とうものなら、どれだけ損害が出るのかと言う話だ。
「君たちも大変だね」
と、僕が言い終わる前に、男が距離を詰めてきた。
白人は正確に喉元をついて来る。
僕は後ろに大きく飛び退った。
僕が飛んだ先には階段があり、朝陽を照り返す青磁の壺がある。
壺には胡蝶蘭が花弁をたれていた。
そのまま背からぶつかって割っても良かったのだけれど、休暇の仕事は漫画家だ。
芸術的な物には敬意を払う癖がある。
美しい花にだって優しいのだ。
反射的に体をひねって方向を変える。
ストライプは僕に追撃をしようと、突っ込んできていた。
僕が方向を変えたので、青磁に突っ込む。
高い音が大きく響く。
僕は彼を見る代わりに、ベッドルームに続く扉に向かって駆けだした。
ストライプが呼んだ応援の男が、僕らをスルーして、このマンションの主、マルク・エスタッソの元に向かおうとしていたからだ。
それはまずい。
先輩は相手しとけ、と言った。行かせてはならない。
応接椅子やテーブルを飛び越えて、通路の扉に走る。
何とか後ろ手で閉めて、応援の男と向き合う。
改めて観察。
彼も青磁に突っ込んだ男と同じ色のストライプを着ていた。
体格、傷が無い以外、顔立ちもそっくりで、双子かなと思った。
「ここは通せない。悪い、ね」
「……」
返事は無い。
代わりに応援の男は、ナイフを構えた。
初めのストライプもそうだけど、構えの重心がしっかりしている。
おそらく軍などで正式な訓練を受けたのだろう。
青磁に突っ込んだストライプも、リビングを横切って、こちらに向かって来る。
顔や、腕は血だらけだが、形相は冷静。でも2つの瞳は怒りでギラギラしていた。
泣く子くらいなら黙りそうな迫力。
……2対1。
先輩には、攻撃を喰らわない、と約束した。
体を張るならいくらでも止めれるけれど……。
と、困りつつ、横に振り払ってくる応援の男の白刃、その弧をしゃがんで避ける。
と、僕の後ろでドアが内側に開いた。
「危ねえなあ」
先輩の声がした、と思ったら、その先は一瞬だった。
彼女は何のためらいもなく、僕の頭を踏んずけた。
そのまま応援の男に向かって跳躍。
ブラックコートが空中に閃いたと思ったら、彼の首、顎に、両足を絡めてロックしていた。
華奢な体で斜め下に円の軌道を描きながら、応援の男の強靭な肉体を
ぶいんっ!
と投げ飛ばす。
頸部があり得ない方向を向いたまま飛ばされた肉体の先には、先ほど青磁に突っ込んだストライプがいた。
彼は飛来する肉体を俊敏にくぐり避ける。
空中の先輩、その深く黒々とした瞳に、ナイフの先を突き立てようとした。
先輩は上体を捻り、黒髪をサッとなびかせ、凶刃を避ける。
そのまま手首をつかみ、起点にして、やはりストライプに跳躍。
後ろを取り、顎に両足を絡め、極めて折りつつ
ぶおんっ!
と投げ飛ばす。
この間は、一瞬。
本当に、1秒に満たない時間だった。
僕はあまりの手並みの鮮やかさに、あっけに取られる。
「先輩」
「ん?」
「ルチャリブレ、やるんですね」
絨毯に崩れている死体たちに、視線を投げながら訊く。
先輩は頷いた。
「まあ、淑女の嗜みだな」
それから、彼女は物言わぬ彼らの傍らに行き、しゃがみ込んだ。
開いていた瞼を、そっと閉じさせる。
ルチャリブレは、南米のプロレスの流派だ。
豪快な空中戦と関節技を得意とする。
僕は思わず感嘆の息を漏らしかけた。こらえるのに一苦労。
この人の引き出しは一体いくつあるんだろう?
そんな疑問は置いておいて、結果的に僕たちは、滞りなく、マルク・エスタッソのマンションに侵入し、警備の男を2人、始末した。
始末したのは先輩だし、その様子を見ていたのは、僕とこのマンションの主である。
つまり、僕がストライプと応援の男、この2人を引き付けている間に、先輩はマルク・エスタッソの寝室まで進み、たたき起こし、リビングの手前まで引っ張ってきた。
そして、彼の前で2人を瞬殺した。
その後、彼女はこの豪華な拷問場所の主を、居間のソファに座らせる。
僕は彼の前に、警護の2人の遺体を並べた。




