ボルン地区
ボルン地区は旧市街とシウタデリャ公園に挟まれている。
この地区には石造りの建物が多い。
その連なりには、中世の雰囲気を纏う。
中世の時代、この地区の住人たちは漁師たちのために帆を縫い、潮に傷む服を繕ってきた。
狭く歪曲した路地を走る騎士団を眺めたりしていた。
南から襲い来るイスラムの脅威に怯えたり、屈服したりする。
20世紀の半分を占めた独裁の時代、カタルーニャ語を禁じられた彼らは、日曜には手をつなぎ、輪を作って踊った。カタルーニャ人としての結束を確認するためだ。
結束は誇りとも言う。
僕らはサンタマリアデルマール教会の前を通った。
この教会は、ボルン地区の中心にあり、1329年に建立された。
ゴシック様式の重厚な石造りで、天井が高い。
昼間は、多くのステンドガラスが輝いて、この建物を美しく彩るのだろう。
元々、このボルン地区は海岸に近いこともあり、航海に出る漁師たちの安全を祈るために建てられた。
祈りか。そんな物に何の意味があるのだろうか?
いや、おそらく、祈りすがる姿勢を取ることに、何かがあるのかもしれない。
この教会の前を北に抜けた時、ミゲルは独白を終えた。
彼の話は中々詳細にわたっていたものの、筋道自体は単純で、要は、彼は元スパイだったのだ。
で、奥さんが敵対していた組織のスパイだったという。
皮肉な話だ。
母体の組織も滅んで、敵対していた集団は分裂し、やむなく引退してやっと幸せになったと思ったら、女房に監禁されて麻薬を打たれた。
母国時代、彼は軍に3000人を拷問、処刑させた。
もちろん色々な事を覚悟していただろう。でも、タイミングが悪すぎる。
結婚し、事業も順調で娘にも恵まれた、その末の監禁。
おそらく彼の妻は、夫を本当に愛していた。
だからこそ、復讐をせずにはいられなかったのだろう。
でも殺せなかった。
薬物という呪いにまみれて生きろという呪詛を残して、彼女はさっさと死んでしまった。
けれどミゲルには、生きろと言う。
酷く理不尽で、勝手な感情だ。僕には理解ができない。
当の本人であるミゲルですら理解ができないのだ。
サンタマリアデルマール教会では現在でも、若い男女が結婚式を挙げる。
ふと、ミゲルはどこの教会で挙式したのか、と尋ねてみたくなったが、控えた。
とても失礼だし、そういう事を話すには、彼の傷はまだ鮮やかに過ぎるからだ。
路は再び狭い路地に入る。
石造りの建物は高く沈黙している。
星がまばらに瞬く夜空は、建物たちにふちどられて、湾曲している。
その曲線はぎこちない。
深い水路の底から、上空を見上げるような錯覚。
僕はこういう空に覚えがある。
京都の祇園界隈だ。
あそこも道が狭く、長い。
まあ、祇園ほどではないにせよ、外国人用の飲み屋が多い事もあって、午前の1時を過ぎても、街の賑わいは潜まない。
「ま、この素晴らしい世界ではよくある話だな。お前も女房も、くっだらねえ世界に振り回されたってだけだ」
先輩は石畳の上を滑るように歩き続ける。足音はたてない。
それは細かなステップを踏むときもだ。
ミゲルは頷く。
「そうだな」
「同情する気はねえよ。仕事柄お前みたいな奴はイヤってほど見てきた。ま、お前はちょっとばかし違うか」
「……何が、違う?」
ミゲルが訊いた時、外国人の集団とすれ違った。
黒人たちだ。スペインはアフリカと近い。酒を帯び、よく分からない歌を歌っている。
先輩は立ち止まり、黒人たちの背中と、ミゲルの顔を、交互に眺めた。
「厳格な爺さんと温厚なおやっさんに感謝するんだな。オレがお前を生かす気になったのは、結局そこら辺だ。良いとこってのはよお、子でも孫でも、ちゃんと受け継がれるもんだよなあ。お前の話を聴いて確信したよ」
彼女の言葉が路地に優しく響き、遠くの黒人たちの笑い声と混じった。
その刹那、ミゲルの気配から蓋がとれた。
感情の栓と言っても良いかもしれない。
哀愁、自責、尊厳、愛慕、そして孤独。
「……そうか」
とだけミゲルは呟いた。
まあ、普通のヒトならこういう場合は泣き崩れたりするのだろうけど、そこら辺は、流石、元スパイである。
先輩も先輩で、何というか、色々と凄い。
ふと、僕も何か言った方がいいのかな、と思って口を開きかけたら、止められた。
「九虚、お前は何も話すな。まず、自分が空気が読めない男であることを、自覚しろ」
……色々と酷い。
少し傷つく。
けれど志骸先輩はそんな僕など構わずに、ミゲルに尋ねる。
「お仲間の酒場は、あとどれ位だ?」
「ここまできたら、目と鼻の先だよ。ほら、見えるだろう」
ミゲルは顎で指す。
その尖った顎の先30mには、石造りの建物。
他と代り映えはしない。
通用口のような小さな入り口の上部に、
『Barra de rojo (バルデロッホ)』という文字が、赤の筆記体で薄闇に浮かんでいる。
そのネオンランプの意味するものに、自然と僕の眉はひそめられた。
『赤の酒場』という意味だからだ。
この夜の舞台としては、相応しい。
いや、相応しすぎるのだ。
これから、あの赤の酒場では、殺戮が行われる。
それは変えようがない、定めなのだ。




