紙一重のツケ
バルセロナの夜から、嵐は既に過ぎていた。
窓を荒く叩いていた雨粒たちは、その鳴りを潜め、ただ夜だけが深くなっていた。
港の護岸に黒くしぶいていただろう波たちは、緩やかに、その頭を低くしているはずだ。
嵐は去ったのだから。
室内も同じはずだった。
恐ろしく長い拷問の末、ミゲルは口を割った。
先輩は彼を救う事にした。
……何が問題がある? 分からない。
僕は目を大きく開いた。
志骸先輩に砕かれた鼻骨は回復している。
鼻と一緒に砕けたサングラス。
その破片が、いくつも床に落ちて、白人の色々な骨と混ざる。
僕の皮膚が、破片を押し出しているのだ。
狐の因果は自動回復。
銃弾で脳を破壊されても、皮膚呼吸さえできれば瞬時に回復する。
そういう能力だ。
不死身の肉体と無条件治癒。
この夜、僕は先輩の指示通りに、この力を正しく使ったはずだ。
分からない。何を間違えた?
「本当に、お前は分からないやつだな。オレはお前を理解できない。お前も俺を理解しない。分かるか? この差が」
先輩の瞳、柔らかな頬、ブラックコートに覆われた華奢な肩、腕、腰、足、その全てから、白い蒸気がうっすらと揺らめく、そんな錯覚を覚える。
それは怒りだと分かった。
どういう時も、童話のように美しいこの人だが、恐らく怒っている時が一番美しい。
それは分かっている。
15年前を思い出す。白雪姫の真似事をして、口づけをしたら、3日間追いかけ回された、あの思い出だ。
「先輩はできなくて、僕はしない、そういうことですか?」
「そうだ。一番大切なことは、そこだ。お前は理解しようとしねえ。オレはそんなお前が分からねえ。このままならな、オレたちが失敗して、案件も終わる」
「僕は何を間違えたんですか?」
成田空港でも殴られた。理由を訊いたら、自分で考えろと言われた。
考えている時間はないのだ。
物事は動いている。
ホセは話しかけてきて、ミゲルは拷問されて、僕らに雇われた。
ソフィという女性は麻薬組織に接触している。
高位聖職者だって、やがて来るだろう。
状況も条件も動いている。結果から教えてもらわないと、対応できない。
しかも、先輩は、『ミゲルが席を外してから』僕を殴った。
という事は、ミゲルに聴いてほしくない話を、僕にするつもりなのだ。
シャワーの音が耳の端に聴こえる。
先輩は、眉根を美しく寄せて、僕を睨んだ。
返事がない。時間もない。
僕は、もう一度彼女の目を真っすぐに見る。
そして口を開く。
「僕は、何を間違えたんですか? 何が悪いんですか?」
「……結論から言う。お前は全てを甘く見ている。因果に頼り過ぎだ」
「治療をするには因果は使いました。けれど、先輩の指示です」
「そこじゃない。お前は何故、ミゲルの攻撃を受けた? 成田の空港でも、歌野郎の攻撃受けてたよな。壁壊すのも許した。何故だ?」
それは。
……それは、何故、だ?
僕の視線は泳ぐ。
嵐の後に存在を増した都市の排気音は、地鳴りみたいだ。
カーテンの隙間を通って、ここまで響いて来る。
……それは、何故、だ?
先輩は僕の襟元から、その小さな手を放した。
うつむいて、ため息をつく。
「答えられないなら答えてやる。今まで、必要がなかったからだ。お前は不死身だからな。どういう攻撃でも、回復する。こなして来た案件も、治癒と戦闘だろう。不意打ちや、駆け引き、そう言った糞めんどくせえもんとは無縁で生きてきた。だがな、オレらは今、潜入案件だ。この意味が分かるか?」
「油断が死を招きます」
「違う。油断の癖が死を決めるんだ。村のばあさんが寄越した確率、あれは、75%、4分の3だ」
「はい」
「オレもお前も、確率の目は変わらねえ。だからよお、大体56%の確率で、オレもお前も死ぬ。20%弱の確率でオレは死んでお前は生き残る。この逆も同じだ。九虚」
「はい」
「オレがぶっ殺された時には、オレはもう、お前を叱ってやれねえ。そして、お前は後悔だけを抱える。何も学ばなく、な」
彼女は、何というか、とても疲れて見えた。
美しさからかけ離れた、疲れ具合。
目じりにも口元にも、何の皺もないのに、30歳の女性がそこにいるような錯覚を覚え、僕は震えた。
「志骸先輩、僕は」
「若い奴が生き残った方がいい。オレが死ぬ事には不満はねえ。死力って奴を尽くして文字通り死んで、それで村の餓鬼どもがいっぱしに生きていける。それなら文句も言わねえ。ただなあ、若造」
そこで先輩は黒く大きな瞳で、真っすぐに僕を睨んだ。目元に涙がたまっている。
涙は照明を受けて、透明な光を帯びる。
その透明さが、僕の胸を刺した。
「お前の舐め腐った根性でな、死ぬのはごめんだ。オレは死にたくねえ。お前も死なせたくねえ」
「……先輩」
「お前がミゲルを回復した。あいつは注射の針をお前に突き立てた。避けれたはずだ。素人じゃねえからな。てめえの合気道は飾りじゃねえはずだ」
そう言って、先輩は手の甲で目元に溜まった涙をぬぐった。
たおやかな白い手首には、青い血管が薄く浮いている。
「……今度は避けろ。余計な攻撃は受けるな」
「はい」
「ミゲルの針を避けれていれば、あいつの諦めも早かったはずだ。お前の隙は余計な希望を奴に与えた。幻想ともいう」
「はい」
「お前の目ん玉に針が刺さった時、羽根野郎が襲ってきたら、0.5秒は、半分の視界で戦う羽目になった」
「はい」
「それがどういう時間かわからねえ。が、紙一重ってのはなあ、舐め腐った奴が、ツケを払うように出来てるんだ。これはオレの経験だがな。まあ、そういう事だ。なんか言いたい事はあるか?」
無かった。
ぐうの音も出なかった。
「ありません。反省します」
「反省はいらねえ。いちいち反省するような奴は、その時点で既に敗けてる。ただ、次は確実に避けろ。分かったか?」
先輩の問いに、僕はとても大きな声で、それこそこの古いアパート全体に轟くような大きさで、はいと叫びたくなった。
けれど、堪える。代わりに、
「……はい」
と、心の底から、言った。
「……おう。信じるぜ。ただなあ、流石に2回目だ。お仕置きしねえとなあ。オレも示しがつかねえ」
「お仕置き、ですか?」
硝煙が濃くなった気がした。
僕はどこを吹き飛ばされるのだろうか?
「とりあえず、あれだ。お前はオレの言葉を忘れるな。という意味もこめてのお仕置きだがな。九虚」
「はい」
「毎日、この戦闘コートを着ろ」
「はい?」
「大学もこれを着ていけ。オレも着て歩く。親子でお揃いってやつだ」
「は……い」
「不満か?」
「いえ」
不満は無い。ただ、恥ずかしいだけだ。
ハートのボタンのブラックコート。これは、恥ずかしい。
ゲイだと思われたら、正直嫌だ。
「散歩が終わったら、ボタンはひし形に変えてやる」
先輩の声に、僕は目を見張った。
「顔に出過ぎだ。ポーカーフェイスもちったあ練習しろ」
苦笑まじりに言う先輩に、頭を下げる。
「何から何まですいません」
「気にするな。それより……おーい、ミゲル」
先輩はシャワー室に顔を向けた。
ミゲルが顔を出す。
頬が落ちていて、何かの動物のようだけど、目の力は回復したみたいだ。
落ち着いた光がある。
「痴話げんかは終わったのか?」
「親子喧嘩には見えなかったか?」
ミゲルの問いに、先輩は少しだけ口の端を上げ、逆に訊き返した。
白人は肩をすくめる。
「さすがに、あれだけやられたらな。あんたがボスで、そいつは付き人ってとこだろう」
「ま、大筋は間違っていない。痴話ではないけどな。とりあえず、待たせて悪かった。こっちに来いよ。散歩の話をしようぜ」
先輩はそう言って、ミゲルを手招きした。
そう、『散歩』はまだ途中なのだ。
落ち込んでいる場合ではない。
次は避けよう。
甘えを捨てよう。
僕は、多濡奇さんに約束したんだ。死力を尽くすと。
そして今、先輩にも約束した。
……だけど、何だろう? 僕はとても大きな勘違いをしている気がする。
それが何かは分からない。けれど、とても不安な、何かだ。




