麻薬売買人
志骸先輩は戦闘服に着替えた。
黒の長袖のフード付きパーカー。
袖口と裾上がストレッチされている。
この裾上にはポケットが2つ。
その上に、パーカーの前面ほとんどを覆う、緋色のハートが縫いつけられている。キュートなフェイクファーに見えるが、最高強度の防刃繊維だ。
下は黒ジーンズ。
太もも上部にフェイクパールが散らばってるが、これはプラスチック爆弾。底の厚いブラックスニーカーは安全靴だ。
甲のリボンにも、何かの意味があるのだろう。
彼女はその上から、漆黒のトレンチコートを羽織った。
このコートには、フードも付いている。
3つのスナップボタンは、どれもハートの形で可愛らしい。
大人でも手がすっぽり入りそうな、フロントポケットが2つ。
工作道具で膨らんでいる。
もちろん、このコートも耐熱繊維だ。
衝撃の吸収性にも優れている。
この、全身黒のコーディネートが彼女の戦闘服である。
色には理由がある。
闇に紛れての活動を容易にするからだ。
僕もハーフジャケットを羽織ろうとすると、止められた。
「せっかくだ。お前も着ろよ」
トレンチコートを渡される。
色もデザインも、先輩のものとそっくりだ。
縮尺だけ、僕の背丈に合わせられている。
お礼を言って、袖を通してみる。
重厚な防御性能を感じさせる着心地なのに、軽い。
ふと、ペアルックという言葉が浮かぶ。
そして、ハートのスナップボタンが、少しだけど、恥ずかしい。
先輩は、そんな僕の上から下までを何度も眺めて、満足そうに頷く。
「中々似合ってるぜ。男前になった」
「ありがとうございます」
「なに、気にすることじゃねえ。オレたちはコンビだからな。統一感ってやつも大切だ」
そう言って、彼女は僕を見上げて、小さく握った拳を、掲げるように差し出した。
口の右端に不敵な笑いを浮かべる。
「行こうぜ。本当の、お散歩だ」
「はい」
握り拳の先を、先輩の拳と合わせる。
しかし、いつの間に作ってくれたのだろう?
志骸先輩は、色々と引き出しの多い人だ。
まあ、村人なので、当たり前とも言える。
ちなみに彼女には、人を見る目も備わっている。
潜入工作の専門だけあって、誰がその筋か一目で分かる。
これは因果というよりも、経験に裏打ちされた、技能と言えるだろう。
彼女は麻薬売買人の事も、毎日見ていたそうだ。
スクール・バスの窓越しに眺める彼は、いつも小刻みに震えていた。
その泳ぐ視線、トリップがしのばれる虚脱状態は、中毒患者であることを、明白に語っていた。
そういう全てを確認しながら、先輩は、
「どこも変わんねえなあ」
と呟いたりした。
バスが毎日、彼を通過するたび、視線を投げ続ける。
その行為は、置物を見るのと変わらない。
彼は毎日、決まった時刻で決まったポイント、明かりの消えた街灯の下に現れたそうだ。
いつも寒さに(秋の地中海世界はそこまで寒くないが)縮こまって、たまに通行人に『メモ』を渡していたらしい。
先輩は、もちろん通報はしない。
当たり前だ。
僕らは悪の組織の怪人であり、正義の味方ではない。
こちらに関わらない限り、誰が何をしようと自由。
それが村人の価値観である。
……だから売買人の彼も、十三聖教会にさえ関わらなければ良かったのに、可哀想に、と僕は思う。
そう思ってしまう位、彼は弱かった。
僕は部屋に押し入る直前まで、それなりに強い敵を想定していた。
けれど、彼は弱く、そして平和を満喫していた。
人生も楽しんでいた。
悲惨な末路を遂げる敵と、敵に対する同情。
同情は任務に付き物の感情だ。
まあ、僕だけかもしれないけど。
……その部屋は、繁華街から外れた暗い路地の一角にあった。
毎日彼を観察していた先輩はこともなげにそこを突き止める。
作りは古いけれど賃料の安い、5階建てのアパート。
その2階の一角に、彼の部屋はあった。
「いますかね」
「お出かけ中なら待つだけさ。油でも拝借しながらな」
彼女はそう言いながら、ドアノブに手をかける。
通路の蛍光灯を鈍く反射しているそのノブは、軽い音をたてた。
ナノミスト爆弾。または、ナノ爆弾。
先輩の人工臓器から生成され、汗腺を伝って放出される、指向性爆弾である。
軽い音は起爆音。
ノブの内部にナノミストを侵入させて、鍵部分ごと吹き飛ばしたのだ。
そして彼女は何のためらいもなく、内部に押し入り、僕も続く。
すえた臭いを感じた。
アルコールとアンモニアが混ざった臭いだ。
通路を後に続く。
照明は付いていなかったが、先輩の足取りに迷いはない。
奥のベッドの上に月明かりと、卓上ライト、そして人影を確認する。
男がへりに腰を掛けていた。
伸ばした腕に、注射器をあてがっている。
ライトを頼りに静脈を確認している所だったらしい。
「お楽しみのところ、悪いな。遊びに来たぜ」
志骸先輩の言葉は軽い。
響きも、酒場などで交わされるそれと変わらない。
男は先輩ではなく僕を見上げた。
瞬間、彼に同情する。
先輩は修羅をいとわない。
礼節をわきまえない敵には、特に。
刹那、注射器を握る男の指先が、10円玉サイズの光球に呑み込まれた。
直後に光と共に消失する。
つまり、ナノミストによる閃光爆発。
これが男の指先で起こり、吹き飛んだのだ。
僕はさらに同情した。
もんどりを打とうとする男の腰に、いくつもの光が閃いたからだ。
爆発自体は小規模だった。
けれどそれは確実に、男の下半身を不随にする。
もう歩くことはできない。
もちろん、逃れることなどなおさらだ。
叫び声をあげようとする男の口に、先輩は乱雑な手つきで、布を突っ込む。
「ご近所さまに迷惑だからな」
彼女はそう言って、暗闇の中で微笑んだ。
それから続ける。
「短い間になるだろうが、よろしく頼むぜ。オレは志骸という。油赤子の子孫だ」
……この人を、敵に回したくない、と思った。
ベッドの上でもんどりを打つ男に掛けられた、その声には、えも言われぬ凄みが滲んでいたからだ。




