夜歩き・ういず黒百合ちゃん1
色々な話をしている内に結構な距離を歩いて、気がつけばわたし達はダビデの塔のたもとまでたどり着いていた。
- 久しぶりだ、なあ。-
阿呆のように口を半開きにして、馬鹿みたいに層が重なったコンクリートの巨大を見上げる。
それは夜にそびえる世界樹のようにも見えたし、黒い幹にぼんやりと灯るピンクと濃い青と金や白の灯りの中心には、人ではなくて妖精でも住んでいそうな幻想を感じた。
南が陥落する前はたまに訪れていたこの塔は、今ではすっかり中央の勢力下に収められて、クレトさんの仕込んだタングステン銃弾型爆弾も壁ごと撤去されて、つまり……。
中はどうなっているのだろう? やっぱり色々変わったのだろうか。
「師匠?」
「寄っていこうか。せっかく近くに来たし」
怪訝を帯びた黒百合ちゃんの声に我に返ったわたしは、にっこりと笑顔を作って彼女を見上げて、ちょっとはっとした。
黒百合ちゃんの頭上に月があった。完全に近い白銀。都市の明かりのために曖昧だった夜空に星はほとんどなく、ないからだろうか。
黒百合ちゃんの髪はいくつもの束を作って、黒スーツの肩や胸を流れる。艶やかな黒が流れ、さざなみとなった月光が揺れる。瞳は水を帯びたように潤み、怜悧さが薄れて、儚さを感じる位に美しい。
綺麗につんと整った鼻も、薔薇の蕾のような唇も変わらない。ただ頬が白く、瞳が潤んで、長い眉にかかる前髪に月光が反射してティアラみたいだ。まるで……。
― どこかの皇女さまだ、なあ。―
儚げで美しい少女。夜の露に濡れる黒い百合の精。そんな現実離れした美が、わたしの眼前の顕現していた。
「急にどうしたのだ。唐突師匠」
膂力の割りにたおやかな首を傾げる黒百合ちゃん。声は穏やかなアルトだが、心音は不安を刻む。
― 不安、かあ。まあ。そうだよ、ね。―
結い上げていた髪は黒百合ちゃんのトレードマーク。
それは彼女の誓い、願掛けでもある。最強を目指すために全てを犠牲にする。あらゆる物事を受け入れ、自らも修羅と化し、敵を屠り続ける。そういう覚悟。それは自己暗示に近い。
髪を結い上げる、それだけの行為で彼女はスイッチを入れっぱなしにしてきた。
おかげで目の前の彼女はこうも脆い。
わたしがちょっと驚いただけで、心音が不安を刻む。でも、仕方が無いのだ。ずっと自己暗示に頼ってきたのだから。
― というよりも……。―
目の前の黒百合ちゃんが、本来の彼女なのだ。強者の仮面を取り払われた、13歳の女の子。
この子が黒百合ちゃんなのだ。
「俺はまた何かしてしまったのか?」
「え?」
「今度こそ俺は土下座をするぞ……!! あんたにそんな顔を俺はさせている。悲しそうだが何故悲しいのか分からん。全く分からんのだ。髪を下ろしてから視界が阻まれる。耳も音を拾わない。世界がぼやっとして、月も街頭も滲むと思ったら涙目になっている。流派の俺は全てを悟っていた。強かった。今は弱い。酷く弱い。フリオ殿にも負けた。あんたの顔に泥を塗った。俺は強いからあんたの事が常人よりも分かると思っていた。が、実際はどうだ。髪を解いたくらいでこの有様だ。とにかく俺は今分からん。あんたの悲しい顔の理由も何も分からんのだ。弟子として恥ずかしく、そして申し訳なく、って、い、る……!!」
言葉の最後は噛み噛みで、これまで全く寄る事の無かった眉根が歪み、薔薇の蕾のようだった唇は引きつり、切れ長の瞳からは大粒の涙がいくつもいくつもこぼれて落ち、彼女の白い頬に緩やかな軌跡を作り、落下して、アスファルトの闇に吸い込まれた。
「あのね。黒百合ちゃん」
「ええいっ!! 土下座だ土下座。俺は悲しみ師匠。あんたに謝りたくて仕方がないのだ!!」
白桃のような頬を歪ませて、殺意でもこもっているのかと勘違いしそうなほどに強くわたしをその視線で射抜いて、黒百合ちゃんが土下座のポーズをしようとしたその直前。
わたしは彼女に1歩距離を詰めた。
50cmを5cmに縮めて真っ直ぐに彼女を見上げ、小さく笑みを作った。
「今、寒いでしょ」
「……ああ」
「自信が崩れる時ってね。寒いの。ただでさえ今日は冷えるし」
「そうだ、な」
視線をわたしから逸らす黒百合ちゃん。彼女は落ち込む時も美しい。髪を結い上げている時よりも年相応に少女らしく、可憐で、32歳のわたしが喪ってきた全てに溢れている。
抱きしめてなでなでしてあげたい。守ってあげたい。というより今獣が現れたら、わたしはこの子を全力で守るのだろう。それは身を挺してでも。
だがそれは違うのだ。黒百合ちゃんは強くなるために弱くなった。
羽化の前の蝶のようなものだ。
この子は絶対に強くなる。強くしてみせる。
わたしは黒百合ちゃんの手を取って、塔の入り口へと向かった。
「ごめんね。黒百合ちゃん。本当はね。わたしが謝らなければいけない、の」
「何がだ? あんたが謝る事など」
「さっき、寂しかった」
「……!!!!」
黒百合ちゃんの心音が衝撃を刻んだ。
彼女の手を引くわたしは歩みを止めない。
「だって、ね。強くてどーんと構えてる黒百合ちゃんって、ね。カッコ良かったんだもん。頼りになったし。わたしはというと揺れまくるし。焦りまくるし。優柔不断だし。ぐじぐじ悩むし。弟子に取るという形で貴女をそばに置いたわたしだけど……。強さを貰っていたのはわたしだった、の。その強さに、どこかで頼り切っていた。だから、ね。今さっきわたしは申し訳なく思った。あと、寂しいと思った。凛と髪を結い上げた貴女に会いたくてたまらなくなった。ね。黒百合ちゃん」
塔の入り口、崩れたコンクリートの壁と黒い梁でできた門をくぐる。
黒百合ちゃんの手を引いて歩く速度を緩めることなく、わたしは彼女に呼びかけた。
「なんだ。師匠」
「貴女は貴女を誇りに思って良い。村人のわたしにこう思わせたのって、凄い事なんだから」
黒百合ちゃんが息を呑んだ。
心音はサバンナの夕陽に魅入られる人のそれに似ていた。
「……ああ。あんたがそう思うならそうなのだろう。俺はあんたが認めた俺を誇りに思う。その上で、だ」
黒百合ちゃんは立ち止まった。
自然とわたしの手は彼女を離れた。
わたしは彼女を肩越しに振り返った。
強く、美しい瞳がそこにあった。長く流れる髪は、不規則な点滅を繰り返す蛍光灯の白を受けて艶やかだった。
「俺は今までの俺を越えるぞ」
「うん。その意気」
わたしは瞼を薄く落として口角を上げた。
「ありがとう。多濡奇師匠」
黒百合ちゃんも微笑んだ。
わたしはそんな彼女に成長の予感を漂わせる少女の美を感じたりした。




