妖狐の因果
奈亜ちゃんの部屋の表札は、3‐3と印字されていた。
事前乗り込み5時間の末の、ようやくの到着である。
いや、違う。5時間どころではない。
わたしは彼女が眠りについた春から……ずっとこの部屋にきたかったのだ。
― やっと、これた。―
鼻の奥が熱くなり、わたしは下唇を噛んだ。
が、もちろん泣いている場合ではない。
いそいそと胸元のポケットから、カードキーを取り出す。
これは先ほど襲撃した守衛室の警備員のおじさんからお借りしたものだ。
村特性の超高濃縮クロロホルムをしみ込ませたガーゼを押し当てて眠っていただくという、ささやかな無礼だけど、彼は無念だろう。この無念に応えるためにも、このキーは慎重に取り扱わなければならない。
木目調の茶色のドアは、床の間接照明に照らされていた。
この横の読み取り機の溝にカードを滑らせる。
……扉の内部の鉄が動く音が小さく響いた。
すかさずドアの左脇のくぼみに指をかけ、扉を半分ほど横にスライド。
そのまま左足の先から体を滑り込ませる。
うなだれた姿勢の能勢さんが視界に飛び込んできた。
椅子に腰かけたまま、肩と首を壁に預けて、瞼を閉じている。
自然と鋭敏になる聴覚。
心音は深い呼吸音、穏やかなリズムを刻んでいた。
微かな体動による衣擦れ。
能勢さんは眠っている。
その顔にじっと見入りながら思う。
彼女はこんなに疲労にまみれた顔の人だったろうか。
遊園地に一家で遊びに来てくれていた時は、もうちょっと違った気がする。
なんというか、精一杯楽しもうという意気込みを感じさせてくれていたはずだ。
彼らに向かって、着ぐるみのわたしがしていた仕草を思い出す。
左足をかがめ右足を横に伸ばし、そのまま腰を支点に上半身を右足先方向にくのじに曲げる。
両手のひらをこれでもかと開いてぱたぱたと振る。
一連の動きをしながら、彼らの笑顔にとても癒されていたものだ。
すべては、能勢家の一人娘の奈亜ちゃんが、こういう風になる前の話である。
……諸行の無常に圧倒される。
死の予感を帯びる薬品臭がこの病室にも溢れているのだ。
体が扉の向こうとこちらのちょうど真ん中で、ぴたりと止まってしまう。
生理的にひるんでしまった。
通路の九虚君がため息をつく。
かなり呆れているらしい。
わたしは手のひらで静止を合図。
正直、呼吸も止めて欲しかったが、これはワガママである。
真っすぐに能勢さんの元に向かう。
歩数は大股で5歩。
睡眠中であることは心音で把握していた。
が、起きられると何かと面倒なので、クロロホルムの布をあてる。
これは奈亜ちゃんを救うために必要な処置。
わたしにためらいはない。
が、彼女の細く垂れた鼻梁にガーゼの湿りを添えた時、心音に乱れを鼓膜が受容。
背筋がざわつくが、彼女の脈拍は安静状態に戻ってくれた。
わたしは安堵のため息をもらしつつ彼女にお辞儀をする。
― 失礼なことをして、ごめんなさい。―
それからようやく、通路にたちっぱなしの九虚君に手招きをした。
「何か、した方がいいことある?」
私の眉毛は八の字になった。
口は苦い物を食べたみたいに半開き。
無常の情に泣きそうである。
部屋にはこれた。
けどわたしはどうしても奈亜ちゃんの顔を覗き込めなかった。
鼓膜が需要する彼女の心音は、お母さんに微妙な同調を示している。
生きている事は確かだ。
けど、だからこそ、無常の情に浸される。
それは透かすように。
わたしは悲哀から逃れようとするように、自然とお節介になってしまった。
「電気、点けた方がいい?」
「室温、上げる?」
「窓、開ける?」
九虚君にドン引きをされる。
「いい加減にしてください。嫌がらせしに来たんですか?」
と、しまいには切れられてしまった。
ぐうの音も出ない。
仕方なく病室の隅に向かい、丸椅子の段重ねに尻をのせた。
鉄のふちの丸みに両手のひらを触れる。
……その時やっと、わたしは奈亜ちゃんの寝顔を直視できた。
彼女はすやすやと寝ていた。
赤白青のチューブたちが、幼い肢体のあちらこちらに纏わりついている。
頬は、少し肉が落ちていたけれど、ふくふくとしていた。
ぴちぴちという言葉が遥か先の女の子らしい、ふくふく加減だ。
不謹慎にも粒あん大福をかじりたくなる。
カーテンの隙間から月光が差し込み、病室の闇を斜めに分けていた。
そして彼女の黒髪に、銀色の輝きを与えている。
その輝きは死のように美しい。
実際、とても静かな気配を、わたしは彼女の寝姿に感じていた。
その気配はとても自然だった。
それは、1分後に脈動が停止しても特に驚かないくらいには。
……九虚君は能勢さんと奈亜ちゃんの間に立って、彼ら母娘の寝顔を交互に眺めていた。
わたしに見せた苛立ちは、すっかりその面から消えている。
それはふとしたはずみだった。
月光に分かたれた闇の中、彼は幼い彼女の寝台に膝立ちで進み入った。
奈亜ちゃんのゆるく開かれた柔らかい両手を、両手のひらでくるむようにして取る。
わたしは丸椅子のふちをぎゅっと握った。
鉄はひしゃげる。
「起きなよ」
九虚君の声には何の気負いもなかった。
わたしは耳を疑った。
それまでの彼のものとは全然違っていたからだ。
彼の声は自然で柔らかく穏やかで、何よりとても、優しかった。
もし慈愛とか慈しみを声にしたら、その夜の彼の声になるのかもしれない。
奈亜ちゃんの頬が、心音と共にぴくりと動いた。
九虚君は彼女に全く動じずに、初めと同じように優しく、でもおごそかに、再び彼女に語り掛ける。
彼の額を覆う髪や、高めでくっきりとした鼻と唇の織り成す横顔が作る影を、銀色の月光の輝きがふちどる。
「起きなよ。もう大丈夫だから、さ」
奈亜ちゃんの心音が変化した。
奈亜ちゃんの瞼が開いた。
それらはほぼ同時に起こった。
瞼の奥から現れた無垢な瞳に、わたしの背から力が抜けた。
彼女の瞳。
二度と眼にすることは能わないと思っていた、瞳。
一旦の間を置いて、わたしの全身の産毛が逆立つのを感じる。
― これが、九虚君の因果、か。 ―
境間さんに聞いていたけれど、実際目の当たりにすると、その異質さは圧倒的だった。
わたしは病室の隅っこで圧倒されていた。




