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星空と友

 奈崩はわたしの手のひらに検尿管を握らせた。

 そのまま地べたに崩れる。


 彼なりに体力の限界だったのだろう。


 白髪に覆われたその頭蓋を踏み砕いて報復するならその時だった。

 けれど、色々なものを犠牲にしてやっと手の中に入ってきてくれた検尿管(きぼう)の、とてもひんやりした感触と、目じりから落涙したまま見つめたそれの内にある液体の揺らめきに、わたしはそれどころではなくなって、


「淫崩…っ! 」

 と小さく叫んで駆けだした。


 切迫とも言える希望と焦燥が、カルバンクラインをつけるとか、エレを巻くとか須崩を助け起こすとか下腹部の痛みとか血液と奈崩の出した粘液が混ざったものが漏れ出て太ももを後ろにつたっていたとか、そんな雑多なものごとをとても些細(ささい)にしていた。


 その一方で、基本的に下りであるはずの保育所までの道のりを途方もなく長くしていた。


 長く感じない方がおかしかった。

 奈崩との戦闘にわたしは(いた)みすぎていたのである。

 脚も腕も下腹部も肺もぼろぼろで、立ち止まり倒れることを訴え続けていた。


 それでもわたしは走り続けた。

 希望があったからだ。


 もし仮に第三者がいて、その夜の一部始終を目にしたとしたら……。

 彼または彼女はわたしに対して不快を覚えると思う。そして、

「酷い偽善者だな。」

 と吐き捨てるのだろう。


 実際偽善者という(そし)りを免れることはできない。


 淫崩をそこまで救いたいのなら、奈崩が回復薬を提示した時点でわたしは屈服し、股間を開くべきだった。

 少なくとも1本検尿管を割られた時点で諦めるべきだった。

 須崩が目覚めて屈服した後も、下着を脱ぎ左の太ももを奈崩に開くという、ただそれだけの行為を、みっともないためらいで小刻みに止めるべきではなかった。

 

 尊厳など無用の長物だったのだ。

 ……と、わたしはその後の生で悔やみ続ける事になる。


 何故なら、坂道、蕎麦畑横や保育所を囲む塀に沿ったあぜ道を駆けた果てに、やっと花壇に戻った時、淫崩の心臓の鼓動も、肺の循環も停止していたからだ。


 つまり彼女は既に息絶えていた。



 ……淫崩(みだれ)は花壇に、それこそおとぎ話のお姫様みたいに、しわしわのぶよぶよになった両手を胸の前で組んで、まぶたを閉じていた。


 本当に、月光に眠っているみたいだった。


 けれど、14年間彼女の中にあり続けた心音は、無慈悲なほどに消え失せて、裏腹に、濃紺の夜空にばらまかれた無数の星屑と地上の闇に潜む鈴虫だけが、相も変わらず歌っていた。


 酷い違和感を覚える。

 だって、彼女は、凛々しく立ち振る舞ったり、戦ったり、あるいは誰かを思って胸を熱くすることが似合う女性なのだ。

 こんな眠りに沈黙することなど、似つかわしくないこと(はなはだ)だしい。



 彼女のかたわらに、とても綺麗な顔をした男の人が1人しゃがみこんでいた。

 こちらを美しく見上げる。


「こんばんは」

 と言ったけれど、わたしはお構いなしに、淫崩のそばにかがみこむ。

 検尿管のキャップを開き、中身の苦い液体を口に含んで、呼吸の喪われた友の口腔に流しいれる。


 空になった管は花壇の土に捨てたのだけど、男の人はそれを優雅な手つきで拾い上げ、まじまじと眺めた。

 それから、中に残った液体を手のひらに落として舐める。

 カラスが上空の半月を覆い隠すようにして飛んできて、彼の手からそれをくちばしでくわえるようにして受け取り、そのまま飛び去った。

 その一部始終をはた目に、わたしは淫崩の救命行動を続ける。


 奈崩との戦闘で土まみれになった全身で、淫崩の心臓を押す。


 ― 戻ってきて……!! ―


 (みだれ)の鼻をつまんで唇に息を吹き込む。


 ― 戻ってきてくれたら、治るんだ、から……!! ―


 再び馬乗りになり、胸元に両手を当てて、押す。


 ― …お願い…っ!! ―


 わたしの口の中に残っていた回復薬である生臭い粘液が、震える口の端からこぼれて、よだれのように顎に伝い、淫崩の鎖骨にかかる。

 眼がしらが熱くなり、視界がかすれる中、わたしの懇願は続く。


 でもその願いは叶わずに、彼女の温かさは少しずつ喪われていった。




「戻りませんよ。」

 とても静かな声をかけてきた男の人を、わたしは(にら)んだ。


 ― 五月蠅(うるさ)い。……殺してやろうか。―


 駆他の(まなこ)に宿る純粋な鬼気など構わずに、彼は端正な口の端を柔らかく上げた。



「戻りませんよ。時間が経ちすぎています。ですが、」

 そこで一旦言葉を切り、とても優しく微笑む。

「……幸せな子でしたね。淫崩さんは」

 胸の奥がぐらりと動いて、視界が揺れた気がした。

 思わず首を横に小さく振る。


「苦しかった、はず」

 男の人も、首をわずかに振る。


「あなたが来てくれたのです。そんなかっこうをしてまで」

 彼は立ち上がり、胸元から黒い獣の毛皮のようなものを取り出して、手品でもするみたいに広げた。

 それから、こちらにしゃがみ込んで、ふさっとそれを下腹部にかぶせる。

 ついで、淫崩にしゃがみ込み、その寝顔に視線を落とした。


 その横顔は穏やかすぎて、わたしの力は抜けかける。


「……幸せな子ですよ。多濡奇さん、あなたを見れば分かります。」

 彼がそこで一旦言葉を切って手を淫崩の背と腰に差し入れて彼女を抱え上げながら、

「わたくし境間(さかいま)が丁重に、わたくしたちの墓地に(とむら)って差し上げましょう」

 と言った時、彼が若くして助役に就任した村人さんだと分かった。


 とても偉い人だ。

 大変な人格者だと伝え聞いていた。

 たしかに、いや確実に、この人なら淫崩を丁寧に弔ってくれるのだろう。


 保育所で潰れた子供たちは、共同墓地に埋葬される。

 けれど、その葬送に子供たちが参加することは許されない。


 これは村の(しきたりである。

 おそらく、死の(いた)みを刷り込むことよりも、戦闘の技量を磨くことの方が、教育上優先されるからだろう。


 でも、そんなことは関係なかった。

 淫崩を連れ去って欲しくなかった。

 だから、

「連れて、いかないで」

 と、消え入りそうな、かすれ声でわたしは言った。

 だけど、境間さんは困ったようにほほ笑みながら、首を横に振るだけだった。

 あおれを知覚した時、歌の衝動は臨界を超えて、喉の笛が()るえようとする。

 その刹那の刹那、視界が白く、消失した。



 ……つまりわたしは歌で境間さんを殺しかけた。

 あの人は何かをして、わたしを気絶させた、ということなのだろう。



 助役の境間さんはとても人格者だけど、とても恐ろしい人だということもまた村の一般常識である。なのでわたしがその夜に死ななかったことは、この生で直面した大いなる不思議だ。



 ……翌日目覚めると、居室の寝台で、時計は昼を回っていた。

 とても静かで、わたしはおもむろに、手のひらを天井にかざした。


 土と擦り傷だらけの腕が視界に入る。

 腰に巻かれた獣の毛皮の荒い肌触り。

 下腹部の刺すような異物感。


 それらの全てが、わたしは昨夜の出来事が現実であること示していた。

 わたしは否定できないまま、むくりと起きて、居室を出て食堂に向かった。


 食堂には奈崩がいる。

 身体の芯に損耗は残っていたし、足取りはふらついていたがそんなことは関係なかった。


― 淫崩(あのこ)の報復を、しない、と。―


 歯を食いしばる。

 それはあちこちが痛い、とか、そういう事で痛いのではなかった。

 憎悪に、淫崩を殺した奈崩(ひだるかみ)に対する憎悪の強大さに、その前日まで淡々と生を編んできたわたしが初めて浸った感情の荒れ狂いに、自我が飛びそうだったからである。


 それでもわたしは、手すりによりかかりながらも階段を降りきり、子供たちの声がにぎやかしい食堂の扉を開けた。


 しん、と静まり返り突き刺さる幾多の視線などお構いなしに、堂の端の席の前まで歩く。

 仁王立ちをする。

 わたしが見下(みおろ)ろすその座席には、奈崩が座っていた。


 さすが、回復薬で大抵の傷、骨折や歯のかけすらも治り癒えてしまうひだる神らしく、腫れも傷もない涼やかな面持ちで、飲むよーぐるとのストローの端をかじりながら、男はわたしを見上げた。

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