須崩(すだれ)が生きてくれれば
奈崩は再び薄い唇の端を歪めてから閉じたままの唇の奥からにゅるっと舌を出す。
その舌の動きはなめくじがゆっくりとうねるようで、わたしはさらに不快を覚えた。
-……挑発? 攻撃を誘っている? 何か手がある? わたしの歌に対して? いや、人質がいるから? 須崩は感染していない? etc etc et… -
わたしの脳細胞は高速で回転する。
状況が想定と違う。
乱数がすぎる。
もちろん考えている間に近接戦闘で奈崩を潰せたのかもしれないけれど、これは後付けにすぎない。
ひだるの男神は口の周辺をひとしきり舐め回してから、再び口を蛇のように開いた。
「俺は…見た通りボロボロだ。……お前のお友達の糞豚にやられてこのザマだ。
動けねえ。……だからお前も動くな」
奈崩の右腕先のジャックナイフの切っ先が、ぶるぶると震えて、……はじかれたみたいに、須崩の胸元に向かって流線の軌跡を描いた。
わたしは腕をまっすぐにしたまま、開いた右の手のひらを下から振り上げて、凶刃の持ち手に当てる。
跳ね上がったそれの軌道は、ちゃんと須崩からずれてくれた。
距離は奈崩が動いた刹那に当てるに十分なだけ、詰めていた。
これをするための無呼吸運動に、胸の痛みは関係ない。
あっても無視する。
普通のヒトにもこういう機能はある。
いわゆる火事場の馬鹿力だ。
……切っ先の軌跡は炭焼き釜方向の虚空に吸い込まれる。
わたしは振り上げた手のひらを返して、そのまま裏拳を作り、胸を開く形で左斜め下に弾く。
とんがった顎の先が砕ける感覚と、鈍い音を鼓膜が知覚。
けれど、視線は彼と対角線上の、須崩の両手を貫く太釘に集中。
開いた胸の片方、左肩の先の左手を太釘に伸ばす。
ー それじゃ八極拳だよ、とか、淫崩に怒られちゃうけれど。 -
動きの基礎は淫崩の直伝の、淫崩式詠春拳である。
わたしは自分でも驚くくらい滑らかに、長太い鉄をつかみ、ひんやりとしたざらついた釘の表面を知覚した時には、上半身を反時計まわりにひねって、柱から楔を抜いていた。
抜くときに、左手の親指を、須崩のまだ幼さの残る手のひらの小指側にひっかけて、釘と共に手前に引っ張る。
というより、合気道みたいに投げ飛ばす。
須崩にしたらたまったものではないだろう。
貫かれた両手をぐりぐりされながら投げられるのだ。
声にならない悲鳴をきく。
けれどわたしの空気感染から彼女を守るには、柱のそばではなく、入り口付近で倒れてもらう必要があった。
あそこなら、外気も流入するし、清浄な風が須崩を守ってくれる。
上半身をひねる時に、奈崩の顎を砕いた裏拳を開いて手のひらを床と水平にする。
ちょっと形がウェイトレスさんっぽいけれど、これは手刀である。
わたしは集中する。
手刀の時計回りの軌道の先には大切な妹分のうなじがある。
わたしが飛ばす速度よりも速く、けど頚椎を砕かない絶妙な加減で、手刀を到達させなければならない。
目的は須崩の気絶。
わたしの形相は必死だった。
これが結論だったからだ。
つまり、奈崩の隙をついて須崩を遠くに退避させる。
気も失わせて歌も聴こえなくする。
それから歌って奈崩を潰し、報復を果たす。
わたしが死ぬのは想定内で、須崩は感染していないので生き残る。
友が望んだ3人のうちの生存者が、わたしから須崩に変わるだけだ。
- まあ、わたしにしては上出来……だよね? -
手刀が須崩のあどけない項に到達する。
刹那の刹那。
こめかみが真っ白になるような衝撃。
頭部が吹き飛ぶ錯覚。
方向感覚の喪失。
― 手は?―
何が起きているのか把握する前に、左脇に打撃が刺さる。
歌う間もなく堅い何かで胸の下のみぞおちを突かれる。
白いカビと血液の混じった胃液が喉からあふれる。
― 手は ―
足を払われる。
別のこめかみに堅い木材の衝撃。
間を置かず肋骨に衝撃。
これは蹴りだ。
体重が乗っている。
わたしの体はくのじになって吹き飛ぶ。
右の肩から生木の山に激突する。
肩の骨が外れたのが分かった。
それでも、わたしは倒れるわけにはいかなかったので、体をひねり、生木の山にもたれながら、左手で右腕を押さえる。
そのまま肩を入れつつ、顔をあげた。
奈崩が笑っていた。
木の椅子の背もたれに手をかけて、学校帰りの中学生がかばんを肩にひっかけるみたいに、肩にかけている。
「どぅうだ? 驚いたぁろ? 動けねえってぇことばを。まんましんじやがってぇえ。多濡奇ぃ。てぇめえはまじでぇえ、馬鹿だぜぇ。」
発音が酷くなっている。顎を砕いたからだ。
信じるとか、信じないの話ではなかった。
残された時間で須崩を救えるか救えないかの話だった。
それに、顎を砕いたくらいでは奈崩は無力化できないことも、もちろん察していた。
だから反撃の前に、全力で動いたのに……。
― 手は、須崩のうなじを、かすめた。 でも……浅い。 ―
結局奈崩の反撃の方が速かったということだ。
わたしの肺はもう呼吸ができていないみたいだ。
酸欠に意識が遠のき始めている。
……混濁にまかせて歌えばいい。喉にはまだ、カビはきていない。
― けれ、ど ―
わたしは奈崩の前で生木の山にもたれたまま、視線をちらりと須崩にやった。
ぐったりしている。
心音に覚醒の響きはない。
けれど、気絶というほどではない。
いつ戻ってもおかしくない、浅い混濁だ。
今歌ったら、意識に届いてしまう。
そうしたら……。
― 殺してしまう ―
「よそぉみすんじゃねえっ!」
こめかみに堅い衝撃が走る。
また真っ白だ。
なるほど、さっきから奈崩は木の椅子の座席の角っこで、わたしのこめかみを殴っていたのか。
― 香港映画みたい、だ。 ―
シュールな笑いと共に喉から歌がもれかけたけれど、その旋律を無理やり飲み込んで、喉の奥に押し込めた。
須崩を殺したくない。
それが本音で、精一杯だった。
奈崩の殴打が続く中、こんな感じの意地を張っているうちに意識が遠くなって、わたしを包む夜の世界が、白く、消失した。