少しでも、安らぎを
死に水という言葉がある。
死にゆく者に水を飲ませて安らぎを与える、というほぼ文字通りの意味だ。
死に瀕する淫崩に対して、わたしが強く望んだのは、『しっかりして』でも『起きて』でもなく「……少しでも、安らぎを」だった。
だからわたしは友の横に両膝をつき身をかがめて、生理食塩水とヨーグルトを彼女の口腔に流し込み続けた。
それは粉々に砕かれた水がめに水を注ぎ続けるようなもので、破片の表面は濡れても水が満ちることはない。
どれだけ回復薬を流しこもうが淫崩の死は確定している。
それでもわたしは混濁する友に手当てを続けた。
破片を濡らすことが大切だからだ。
こう書くとミケランジェロのピエタのマリア像の物まねでもしたいのか、大した偽善者だな、とかそういう突っ込みが飛んできそうだ。
確かにわたしが偽善者なのは否定のしようがない。
が、別に聖人ぶりたかったわけではない。
わたしの招いた因果のせいで死にゆく彼女の最期の一息と、自らの命を天秤にかけたら、一息の方が大きかった。
それだけの話だった。
……最後の一口を流し込むと、淫崩の呼吸が穏やかになった。
居度に硬く食いしばっていた彼女の口元も、柔らかくなる。
呼吸が穏やかになると、肩や首の肌のぽこぽこもおさまってくれた。
これは下半身と体幹を覆いつくしたうにょうにょたちの歩みが、止まったことを意味する。
その全てが一時的な緩和でも、またはプラシーボ効果でも、わたしはとても嬉しかった。
そして何より嬉しかったのは、淫崩が、そのまぶたをうっすらと開けて、こちらを見てくれことだ。
「…ご………」
淫崩は震える右手で南東を指さした。
南東には炭焼き小屋がある。
この子からは炭の匂いがする。奈崩はあそこにいるのだろう。
淫崩は苦しげに目をつむり、ごぷっ、という音と共に、乳白色のヨーグルトと、透明な生理食塩水、赤く濁った血液、黄色い胃液、それに白いカビが混ざり合った粘液を吐いた。
彼女は話せない。
けれど、何を言おうとしているか、その瞳と心音が教えてくれた。
わたしへの、ごめんという気持ち。
闘いに敗れたこと。
見込みが甘かったという後悔。
もうすぐ命が尽きること。
そして、奈崩を代わりに潰して欲しいと言う願い-。
寄せた眉間の下で潤んだ彼女の瞳と心音は、そう語っていた。
カビで喉を潰されて、もう話せないのにも関わらず、友は、ちゃんとわたしに託してくれた。
長年親しんだあうんの呼吸によって、わたしは彼女の意志を汲み取ることができる。
こんな状況でも、この事は救いだった。
わたしは小箱からガーゼ取り出す。
彼女の口元の白やら赤やらを丁寧にぬぐって、
「うん、わかった」
と言って口角を上げた。
「……行くね、終わらせてくる」
と続けて、立ち上がると淫崩は
「…す…………」
と言って、わたしに手を伸ばした。
その手のひらは力なく開き、震え、人差し指だけがわずかに他より上がっていた。
『……須崩の仇を討って。おいてきたの。おいてきてしまったの』
彼女の表情はそう語り、潤んだ瞳はさらに強い熱を孕んだ。
友の震える口元から、カビの粉が混じったよだれが垂れる。
瞳のまなじりからも、いくつもの滴が溢れて、頬や耳たぶ下の顎に伝った。
わたしは彼女にかがみこみ、よだれと涙をガーゼで柔らかくぬぐう。
それからその手のひらを包むように握って、
― それは居室を去る前に、彼女がわたしにしてくれたように。 ―
「うん、分かった」
と言うと、友はわずかに頷いた。
……おそらく脳炎を起こしたのだろう。
深い昏睡に落ちたのが、彼女の心音で分かった。




