超音波
胸が苦しくなる。
わたしたちの中で一番弱いのが須崩だ。
淫崩の口ぶりには、覚悟がにじんでいた。
彼女が覚悟せずにはいられないほど、奈崩は強いということなのだろう。
だから、最悪を想定してわたしを戦闘からはずした。
洗い場での殺気は事故だとしても、今晩わたしを置いていくのは故意だ。
わたしすら外したのだから、須崩を連れて行くことはまずない。
なら、須崩は外されたことに気づいたら、どういう行動をとるか?
わたしを呼びにくる?
いや、わたしは殺気にあてられて、眠っていたからそれはない。
天真爛漫に見えて怖がりな彼女のことだ。
自分の部屋で震えている。
……といいけれど、怖がりである以上に、彼女は淫崩を姉のように慕っている。
殺戮ならわたしだけど、戦闘なら淫崩が専門だ。
その彼女がわたしと須崩を外す。
この意味が須崩に分かるだろうか?
いや、彼女にはそれが分かるだけの力量がない。
淫崩を思う情に闇雲になって、冷静さも欠けているだろう。
わたしですら混乱しているのだ。
そして、混乱する須崩はどう行動するだろうか。最悪の状況は?
― 須崩が淫崩と奈崩の戦闘に割り入り、そして…… -
「ほら、てんぱってる。わたし」
つぶやく口元にこわばりを感じた。
……物事が乱数になればなるほど、冷静な対応が要求される、と以前プログラミングの講義で聴いた時、わたしは眠気を覚えていた。
当たり前のことを自慢げにいうなあ、この講師さんは、と呑気に思ったものだ。
けれど、実際直面してみると、乱数の大変さが骨身にしみる。
― でも。大変とか言う暇はないから。 -
わたしは息を深く吸った。
この因果を使うのはいつぶりだろうかと考える。
……奈崩を助けるずっと前のことだ。
わたしは歌を禁じられた。
けれど鼓膜の内側に渦巻く旋律はいつもわたしに歌うことを求めていた。
だから、幼いわたしは考えあぐねたあげく、とある夜に、人の聞こえない音。可聴を越えた音域で歌うことにする。
そして14歳のその晩まで、超音波で歌うことはなかった。
……わたしは食堂の薄い暗闇中で、瞳を閉じて聴覚に集中する。
もう一度深く息を吸い込んでから大きく口を開く。喉が痛むほどのヴィヴラートを、すべての横隔膜で歌う。
超音波は保育所の建物全体に広がり、食堂、医務室、上の居住棟、講義棟、理科室、トレーニング室、格闘技室、室内競技場、プール、トイレ、浴場、ありとあらゆる立体構造とその内包する器具。食器、テーブル、洗剤、棚、シンク、ガス台、椅子、机、ベッド、診療台、注射器、メス、薬瓶、黒板、長机、講義台、アルコールランプ、チューブ、グラス、顕微鏡、ベンチ台、重り、ランニングマシン、ばね、リングとロープ、畳、掛け軸、塩素剤、ボイラー、プールの大量の水が形作る波面、便座、男子用便器、浴槽と温水の作る波面、あらゆるモノと。収容する保育所の住人たち、つまりベビーベッドの赤子、幼い子供たちから、わたしと同じくらいの第二次性徴の子達から卒業も近い年長たち、もちろん保育士たちも含めて、一人ひとりが音波を反響して、わたしの鼓膜に戻り、彼らの立体構造が影絵のように脳内に再生される。
これはおそらく、わたしの脳の処理能力を限界まで使う因果なのだろう。
使うととても疲れるし、何より喉を痛める。
けれど、まるで水槽で飼い育てるありの巣のように、または、蜂の巣をわって眺めるみたいに、保育所全体を一望するみたいに把握できる。
つまり透視に近い因果だけど、別にそこまで特別な能力ではない。
闇を飛ぶこうもりだって超音波を使う。
けれどわたしはこうもりの外見が好きではないというよりむしろ苦手なので、この因果は淫崩にしか明かしていない。
……超音波で把握した建物内には、淫崩も奈崩も、そしてやはり須崩もいなかった。
講堂と理科室、格闘技室で起きている散発的な戦闘を把握したけれど、その影絵は年少の子たちのものだった。
体格も男の子たちで、おかっぱ頭はいない。
居住棟の個室の多くは就寝していた。
年長のいくつかの部屋で男女が何かをしていたが、女性のほうの髪はどれも長い。
体型も淫崩のドラム缶体型とは全然違った。
― ……外、か。―
通路に出て階段を駆け下りる。
運動トラック、砂場、遊具場、物置小屋等々。
候補はいくらでもあるし、室内より音波反響の精度は落ちるけれど、人がどこにいるか位は把握できる。
― まず、外に出ないと。 ―
1階に下り、当直室横の通路を駆け抜ける。
広い玄関の鉄の扉の閂を上げて外に開くと同時に、わたしは、
「淫崩…っ!」
と小さく叫んだ。
月光の下、うつぶせに倒れていたからだ。
淫崩が、保育所正門内側の花壇に。