緊急事態
汗をたくさんかいたのだと思う。
タンクトップがびっしょり濡れていた。
それは意識が浮上しかけてはまた沈む、身動きを許さない金縛りのような浅い眠りだった。
心だけが焦りに操られてひたすらもがいていた。
起きなければいけなかった。
でも意識が覚醒まであと少しという状態になるたびに、わたしは深い混濁に陥り続けた。
ひたすらうなされる。
エジプトの神話にそういう地獄があった。
亡者は巨岩を坂の上まで押し運び、頂上手前で獄吏に蹴り落とされる。
これを永遠に繰り返す。
そんな眠り。
やがてうなされる力も尽きて、わたしはとても深い眠りに落ちた。
目が覚めると何処にいるのか分からなかった。
闇に浮かぶ天井の輪郭をしばし見つめる。
汗で皮膚に張り付いた化学繊維がざらざらしていて気持ちが悪い。
けれど体の内部に感じていた重みは汗と共に抜けて、すっきりとした感覚すら覚えた。
「淫崩っ!!」
と飛び起きるのと、状況の把握はほぼ同時で、わたしはまず照明のリモコンに手を伸ばす。
黄色の豆電球がカチカチしてから、ループ状の白電球が灯り、しかめっつらをしつつ壁掛け時計を見る。
日付をまたいでいた。
淫崩が出て行ってからどれくらいの時がたったのか、把握できない。
何時間も経ってしまったかもしれないし、そうでないのかもしれない。
わたしは箪笥から換えの下着とタオルを取り出して、一度全裸になる。
おでこ、うなじ、首元、胸とその脇、腹部、ふくらはぎと膝の裏、太ももと周囲を拭きながら、身体操作に問題がないのを確認する。
淫崩の菌には耐性ができていたのもあるけれど、彼女がちゃんとした処置をしてくれたからだろう。
わたしは斑転の殺気から回復していた。
― ……とにかく淫崩を追わないといけない。 ―
右の太ももをあげて屈みパンティーをはく。
白のカルバンクラインのスポーティーだけどおしゃれなタイプだ。
わたしはこのブランドを7着持っていた。
初めの1着は13歳のクリスマスに、
「女のおしゃれって下着から、みたい。……あたしたちも、そろそろおしゃれとか考えてもいい、よね?」
と、よく分からない照れ方をしながら淫崩がくれた。
この履き心地とロゴプリントがとても気に入り、保育士たちの一人に頼み込んで6着取り寄せてもらった。このロゴは、当時としてはとても珍しかった。
ついでに、セシイルとかニツセンとかの分厚いカタログも貰って淫崩と一緒にめくったりした。
下着に限らず、その頃のわたしの持ち物には彼女との思いでにまつわるものが沢山あった。
色々な約束も果たしてなかった。
ウィーン少年合唱団だって返してなかった。
同じカルバンクラインのブラジャーを両腕を背に回してつけてから、アニエスベーの黒Tシャツに袖を通しエレのネイビーブルーのキルトスカートを腰に巻く。
……戦闘になるなら動きやすさが最優先される。
斑転相手に防御に固まるのは、犯しやすい愚であると、わたしは淫崩に潰された幾多の勇者たちから学んでいた。
正確に言うと、彼らの惨状から。
菌が届くまでに歌で終わらせる。
このことに変わりはない。
終わらせるまでのいくつかの刹那の合間に、致命を避けるには軽装が最適だ。
― 終わらせる? わたしは、奈崩の生を……? ―
迷いや動揺という選択肢はありえないはずなのに、わたしのどこかが揺れた。
彼の生に介入した回数分の情が、わたしを揺らしている。
それでもわたしはパンティーやブラジャーやTシャツやスカートの装着を続けた。
修正されていく揺れ。
スイッチが切り替えられていくのを感じる。
エレのギンガムチェックの靴下を足首まで通しながら起こりうる状況を考えた。
戦闘が終わって淫崩が勝った場合、淫崩の手当を行う。
生理食塩水とヨーグルトが必要。
戦闘が終わって淫崩が潰された場合、奈崩を潰す。
それが償いであり、わたしが介入してきた彼の生への責任だ。
奈崩だろうと誰だろうと、わたしは淫崩を潰したものを速やかに潰す。
そう決めて、わたしは彼女と共に修羅を歩んできた。
必要なのは戦闘に適した動きやすい服。
アディダスのスニーカーを履き、食堂で汗で水分を補給すれば準備は整う。
それと、土壇場で揺れない心。
これは一番の不確定要素だけれど、もう覚悟は決めた。
戦闘が続いていて、淫崩が優勢な場合。
……見守ろう。
奈崩の生に介入してきた4年分、わたしは辛いけれども、その辛さもわたしが招いた因果だ。
戦闘が続いていて、淫崩が劣勢の場合。
……見守るしかできない。
これは彼ら、ひだる神の末裔である斑転たちの戦いなのだ。
ここまで整理をして、黒とピンクのしましまのスニーカーを履くために身をかがめながら、はたと気づく。
最後の2つに差は無い。
状況を分けて考えること自体、混乱状態の証拠だ。
淫崩の戦闘を見守り、勝てば手当をするし負ければ相手に報復をする。
……わたしがずっと決めてきたことだった。
生理食塩水の入った救命小箱を抱えて通路に出てる。
― ではどうして。―
階段に向かって全速力で駆ける。
半分に欠けた月が窓の向こう側の闇に浮かんでいた。
斜めにさした月光と静けさが、通路全体に満ちている。
いつもと変わらない光景なのに、わたしは焦燥を感じる。
― どうしてわたしは、こんなに怯えているのだろう。 ―
わたしは村人であり、死を歌う駆他である。
恐れを知らない強者であり、それはどういう状況でも変わらないはずなのに。
「怖がってる」
食堂にたどり着き冷蔵庫からポカリの容器を取り出して、甘く冷えた液体をごくごくと飲み終わってから、わたしはぽつりと言った。
汗で全身から脱け出た水分が補給されるのは、内臓が認識していた。
いつもならほっとするその感覚に反して唇の隙間から漏れでた言葉が『こわがっている』だった。
実際わたしの頬は不安にこわばっていた。
時間に余裕は無いけれど、するべきことも決まっていた。
お腹もくくっていた。
にも関わらず、出どころの分からない不安に胸がざわついてしまう。
それでもとりあえず容器を冷蔵庫に戻し、代わりに救命小箱にヨーグルトのパックを入れて、蓋を上から閉める。
その時、気づいた。
わたしはその夜、1人だった。
わたしたち、3人でいつも戦闘に臨んでいたそれまでと違って、完全に1人ぼっちだった。
友も1人ぼっちで戦闘に赴き、彼女の状況は分からない。
つまり離ればなれだから、怖いのだ。
わたしは、自身が怖がりであることを悟り、ため息をついた。
- 怖がりは、須崩だと思ってたのに。
…
……
……………須崩は? ―
頬から血の気が急速に引いていくのを感じる。
同時に、最悪の想像が脳の内側を巡った。