告白
「それ、ハンドソープ」
「あ、ごめん」
この時わたしは上の空で、とりあえずごめんと言った。
けれどその時は、食器を洗うスポンジにハンドソープをつける駄目さが良く分からなかった。
平たく言うと混乱していた。
いつかは届くと思っていた噂がついに友の耳に到達したのかと思った。
長年隠れて行っていた悪行が黄門様に暴かれて成敗される越後屋の心持が分かったような感覚を覚える。
わたしは血の気が引いたまま、淫崩の次の言葉を待つ。
― ばれたらちゃんと説明しようと、ちゃんと準備していたはずなのに、真っ白だ。 ―
実際真っ白だった。
順を追って、普通のヒトの6歳児でも分かるような言葉を理路整然と構築していたはずだ。
その整然さはギリシャのパルテノン神殿も真っ白なはずだった。
なのに、真っ白なのはわたしの脳内の方だ。
口元が半開きになるわたしを横からまじまじと眺めて、淫崩はため息をついた。
「……私たちは基本、専守防衛だけど」
「うん」
「あいつはヤバい。同じひだる神だから、見逃してきたけど」
彼女は一旦言葉を切る。
「……強くなり過ぎてる」
そう続けた淫崩の声は獣が唸るように低く、眼に宿す光は鬼気を帯びていた。
わたしは彼女の鬼気に言葉をしばし失う。
それから、無理やり声を喉から出した。
「……強いなら仲間にすればいいじゃない。同じ斑転なんだし」
言いたくなかった本音だ。
わたしは淫崩を斑転ではなく、淫崩として見ていた。
けれど、彼女はひだる神であり、斑転であり、奈崩も同じ因果を抱える者なのだ。
わたしは自分以外の駆他を知らない。
先代の駆他が発現したのは、江戸の吉宗将軍の頃だ。
わたしにつながる血脈も含めて、村には200年近く駆他の因果をもつ者は現れなかった。
だからわたしは、同じ因果を抱えるものがいるという感覚が分からないし、だからこそ、同じ因果を抱える者同士、助け合えば良いのになどと思っていた。
淫崩が須崩に目をかける何%かでも、彼にかけてあげれば、共助が成り立つと……。
愚かにも思っていた。
とまあ、こんな感じの思考が顔に出ていたのだろう。
淫崩はため息をついた。
「あいつは誰かと仲間になるとか、そういうたまじゃないの。それに分からないの? あいつ、あんたを憎んでるのよ?」
「え?」
え、の発音のまま、口は半開きになった。
が、そんなことはお構いなしに、わたしの2つの腕は、何か独立した意志や使命でも宿ったかのように、洗い物をつづける。
淫崩も隣で茶碗を拭き続ける。
「この前ね、沙叉さん、女の保育士さん死んだでしょ。あれ、奈崩が試したらしいの。あいつね、新しいウィルスに手を出したのよ。私たちひだる神は細菌やウィルスを体に取り込んで、扱いやすいように変えるけれど。基本的に弱めるの。強いままだと使い勝手も悪いし、歳をとって、免疫が抑えれなくなったら死期を早めるから。けど、あいつは強くしたみたい。体液を通して感染する免疫不全ウィルスをね。空気感染するようにして、発病まで7年はかかるウィルスの歩みを一瞬にした。つまり、どういうことか分かる?」
「分からない」
わたしは即答し、淫崩は再びため息をついた。
「奈崩は寿命を半分にして、力を手に入れたってこと。ウィルスを強くするってことは、取り込む苦痛も人の耐えれる域を超えるの。異常な執念とか、憎しみがなければできることじゃない」
分からなかった。
憎しみで力を手に入れるのは理解ができるけれど、何故憎しみの相手がわたしなのか?
呆然として、蛇口から流し台に注ぐ水流がとてもゆっくりになった気がした。
「なんで、わたしなの?」
「こっちが訊きたいわ。……あんた鈍いから気づかないのも無理はないけど。あいつね、いつも遠くからあんたを睨んでたのよ。寒気がするくらい、暗い目で。あれ見る度にね、潰そうかなと思ったけど、私たち専守防衛じゃない? 睨んでたのが気に食わないからって潰しにかかるのって、普通のヒトのヤンキーみたいでカッコ悪いと思ってたけど、限界。これ以上ほっておくと、物凄い酷いことになる」
記憶を総動員する必要を感じる。
どれだけ巻き戻しても、わたしの頭蓋骨の内側、大脳のさらに奥の海馬、記憶中枢には、彼がわたしを見ている映像は出てこなかった。
何かを取り違えている気がして、その違いに、何か取り返しのつかない不吉を感じた。
わたしはあの男に愛着と敬意を抱いていたけれど、それは彼の『触れてはならないもの』に触れていたのだろうか? アフリカの僻地に立ち入ってそこに眠る奇病を全世界に拡げ散らかすような、取り返しのつかない愚を、わたしは犯していたのか? 強肉強食の論理で死ぬはずだった彼の生に介入をし続けた事は、そこまで『許されざること』だったのか?
わたしは今でも分からない。
「淫崩」
「うん」
「ごめん。あたし、奈崩をこっそり助けてたの」
わたしの告白に淫崩は何も言わず、カップのふちに視線を落として、布をぐるりと回して水気をぬぐった。
沈黙に心臓が締め付けられる。
「怒ってる、よね?」
「済んだ事に怒る暇はない。あいつは助けを侮辱と受け取るひだる神で、あんたは南極ペンギン並みのお人よしだったってだけ。とりあえず、さっき言ったとおり、今晩あいつを潰そうと思う。……まだ、間に合うはず、だから」
淫崩の声は淡々としていたけれど、その響きには修羅がこもり、彼女が無意識的に吐き出した、強い殺気を孕んだ菌をもろに吸い込んで、わたしの視界は揺れた。
鼻が出血する。
膝がぐにゃりと歪みそのまま床に崩れた。
……気が付くとベッドに寝ていた。
布団からはみ出た手のひらを、誰かが握ってくれていたので首を向けると淫崩だった。
「淫崩」
わたしの声はかすれていた。
「何も言わなくていい」
「黙ってて、ごめん」
淫崩は困ったようにほほ笑んだ。
「人の話聴かないよね、多濡奇って。……私こそ、殺気を当ててしまって、ごめん。気づかなかったのも、ごめん。あんたがあいつを助けてるとか、想像もしなかったし、助けてることを黙ってるのも、全然思いつかなかった。黙ってたいくらい、私たちの事を考えてくれてることも分からなかった。そういう全部ひっくるめて、ごめん」
ぐっときた。
涙が出て、滲んだ視界の中で淫崩は笑った。
「泣き虫め。何であんたが保育所最強なのよ、まったく。……まあ、あいつがどれだけ強くなっても、あんたに勝つことはできない。けど。これ以上強くなったら、わたしはあんたを守れなくなるの。だから、行くね」
わたしは反射的に、親友の手を、ぎゅっと握った。
その手を、淫崩は人差し指から順番に一本一本丁寧にほどいた。
全てをほどき終わってから、立ち上がり、わたしのおでこを、ぺしっ、と叩く。
「じゃあ行く、ね。安静にしていなさい」
そう言って彼女は踵を返し、ドアの向こうの通路に消えた。
とても静かな消え方だった。
その静かさがとても不吉で、何かを強く呼びかけようとした。
でも意志とは裏腹に、視界がぐにゃりと歪み、わたしは再び意識を失った。