きっかけ
なんだかこう書くと、お前はマザー・テレサとかナイチンゲールの真似事でもしたいのか、と呆れられそうだけど、そんな事はない。
他の子たちがどんなに瀕死でも、当時のわたしは助けることは無かった。
せいぜい保育士たちに、どこどこで誰だれが瀕死です、と伝えていたくらいだ。
わたしに回復薬を届けさせたのは、彼に感じる同質感だったと思う。
実際わたしたちは性格や能力はともかくとして、因果の凶悪さは似た種類の子供だった。
10歳の頃、つまりわたしが淫崩から詠春拳を習い始めた夏の夜に、わたしは布団からむくりと起きて、トイレに向かった。
昼の暑さが湿るように残る通路の途中で、奈崩が戦闘をしているのを見かけた。
相手はたしか、木暴君といって、強さの階層では奈崩と似たり寄ったりの底辺男子なナイフ使い。
彼は奈崩の血液を浴びないように丁寧に拳を避けながら、相手の肉を刻んでいた。
その動きは舞うようで、心音には殺意と高揚がある。
対する奈崩の因果は効果を発揮しておらず、おそらく度重なる戦闘で、耐性ができてしまったのだろう。
斑転の前でここまで激しい動きを続けると、確実に菌を吸い込んで吐くか悶絶かするはずだ。
けれど、木暴君の呼吸にはそんな様子は全くなく、むしろ歓喜があり、対する奈崩の心音には絶望がある。
しまいに奈崩は、すとん、と尻もちをついて通路の壁にもたれて、切られすぎた腕をだらりと床にたらしながら、襲撃者を見上げた。
木暴君は見下すように奈崩を見下ろして、心音に恍惚を刻みながら、月光にきらめくナイフを振りかぶる。
「通りたいんだけど」
わたしが言うと、木暴君はきょとんとしてわたしを見た。
振りかぶったままで、その動きはぴたりと止まる。
奈崩はわたしを見ない。
わたしはもう一度、通りたいんだけど、と言った。
「多濡奇…分かる、よな? いm…」
「わたしはトイレに行きたいの。おしっこ我慢してたら、歌っちゃうから」
とさえぎると、木暴君の頬から血の気が引く。
けれど、まだ迷っているので、首を傾げてみる。
「……聴きたいの? わたしの歌」
月光が斜めに差し込む通路を逃げ去っていく木暴君の背中は、みるみる小さくなっていく。
その完全な消失を見届けてから、わたしは尿意をこらえつつ、奈崩の横にしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
と訊くと、視線を逸らされる。
血まみれ傷だらけのこけた頬、鼻、出血している口腔から排菌があって、嘔吐を覚えた。
その菌はわたしが慣れないものだったからだ。
嘔吐は淫崩たちとの日常茶飯事だったので、特に構わなかったのだけれど、尿意が臨界に達しそうだったので、立ち上がる。
そのままトイレに向かい、用を足して安堵をしつつ一度流す。
それから、アンモニアですえた臭いのする便座に、顔を突っ込んで嘔吐をした。
吐しゃ物も流して、手洗い場で手を洗って、口元もぬぐう。
そして、ぼーっとする。
何となく、そのまま下の階に降りた。
医務室と食堂に忍び込んで、ヨーグルトと生理食塩水を盆にのせて奈崩の元に戻る。
と、彼は相変わらず瀕死というか、死にかけていた。
血色が青を通り越して紫になり、月光の及ばない暗闇の中でチアノーゼを起こしかけている。
わたしは盆を床に置いて、奈崩の脇から背に腕を回して床に寝かせた。
胸元のボタンを外し、安静な姿勢を確保させる。
それからヨーグルトと生理食塩水を順に口に含み、口移しで奈崩の口腔に流し込んだ。
これは戦闘で自滅しかけて虫の息になる須崩に淫崩がよくしていたことだ。
つまり普通のヒトが思い描くような、キスとか初キスとかレモンの味とか、そんな事は毛頭ない。
代わりに血と鉄の臭いに、わたしはむせた。
前にも述べた通り、斑転の強力な免疫力は、回復力につながり、大抵の怪我はヨーグルトと食塩水で自己回復する。
こういう点を考えると斑転は、殺傷力、自己回復力を兼ね備えた優秀な戦士だと言えるだろう。
わたしは奈崩の心音に耳を傾けつつ、彼の回復を待ちながら断続的な口移しを続けた。
すると、彼の顔色がチアノーゼな紫色から、いつもの貧しい血色に戻った。
なので、脇に両手をはさみこんで起こす。
変化した姿勢に呼吸が適応するのを待ってから、訊く。
「歩ける?」
返事は無かった。
わたしはため息をついて、脇に肩を差し入れて、部屋まで連れて行く。
そのまま寝台に寝かせた。
彼の部屋に入るのは初めてだったので、ぐるりと見渡す。
小さな机、ライオンのポスターが張られたくすんだ壁。
裾が破けてぼろぼろの服の塊。
その横の書籍の山。
書籍のタイトルで目につくものはどれも細菌学関係だったが、薬学関係もまぎれていた。
― 勉強熱心だなあ。―
と思っていると、鼻腔から出血し嘔吐を覚えた。
立ち上がり、再びトイレに行って吐く。
ついでに盆を回収してから、自室に戻って横になり、そのまま寝てしまおうかなとも考えた。
けれど奈崩の服の裾の破けが、瞼の裏に浮かんだ。
何となく気になったので、むくりと起きて裁縫セットを取る。
とりあえずティッシュを鼻につめて、再び彼の居室に向かった。
ノックをしたが返事はもちろんない。
「入るね」
構わず言って入り、服の塊から、それでもましそうなものを引っこぬく。
そして裾を縫ったりボタンを留めなおしたりしながら奈崩の容態を見守る。
と、彼はベッドに横たわったまま、首だけ曲げてわたしと目を合わせた。
そして、
「……お前も潰してやる」
と静かに言った。