六章
六章
朝日が昇り、けれど小鳥達が爽やかな朝の訪れを告げることはなかった。
野生を生きる動物は、いずれも魔物達の到来を察知してどこかへ隠れてしまっている。
既に兵士達は配置につき、市街地を守る部隊と王城の防衛部隊とに分かれてウルリヒ達を待ち構えていた。
小さな点ほどにしか見えなかった魔物の軍勢が、今では王城前広場を覆い隠さんばかりに接近している。
空が覆われ、王城は嵐に見舞われた日のように薄暗い。
空の軍勢から一人が降りてきた。ウルリヒだ。
「我等を相手によく逃げなかったな。しかし無意味だ。これが最後通告、姫を渡せ」
「さもなくば皆殺しか? 利口な竜にしては野蛮な脅し文句だ」
今この場にアーサーはいない。騎士や兵士が警戒し、武器を構えたまま睨み付ける中、イドとシャーロットだけがウルリヒの前へ歩み出た。
「アースラを救えるなどとうそぶいたほら吹きを含めて生かしてやると言っているのだ。これ以上の譲歩はあるまい」
「嘘じゃないわ! 私はアースラさんと同じ病に侵された家族をイドに救ってもらったことがある。イドなら助けられるんだよ!」
「……その口、殺さなければ閉じぬらしい。交渉決裂だ。かかれ!」
ウルリヒの一言で、空の魔物達が一斉に動き出した。翼を持つ巨大な鳥の背中から、王国側の兵士にも匹敵する数の魔物が降り注ぎ、遅れて市街地でも煙が上がり始める。
開戦の合図だった。
「ウルリヒ、待って! あの病気は魔力の循環障害なの。魔力を操ることに長けた魔術師になら治療できる!」
「戯言を。オズは不治の病と診断した。最早お前達と話すことなどない!」
ウルリヒが腕を一振りすると、不可視の刃が出現し、シャーロット達に襲いかかった。傍目には僅かに視界が歪んだだけのその現象に、シャーロットは何が起きたのか理解できず反応できなかった。
「続けろ。お前と兵士の命は俺が守ってやる」
イドがシャーロットの前に躍り出た。
彼がシャーロットと共に武器庫から持ち出した剣を抜き払い、横一文字に振るう。すると不可視の刃が一瞬にして霧散した。
「本当にアースラさんを守りたいなら、どんな手段にも縋るべきじゃないの!? イドならアースラさんを救える。この命を懸けても良い。彼女の命が助からなければ、私のことも殺せば良い! だからお願い、機会をちょうだい!」
「お前に仕えるオズという魔術師が力及んでいない可能性。あるいは嘘偽りを告げている可能性は考慮しないのか」
「私が目にしたアースラさんの病は魔力の循環障害。あの病は、魔術師の手にかかれば人為的に発症させることもできるものなの。あなたが私達を信じてくれなくちゃ、オズはアースラさんを苦しめ続ける。お願い、信じてよウルリヒ!」
ウルリヒの瞳に感情の揺れが見えた。けれど決して口を開くことはなく、魔物達を制止することもない。
シャーロットは側面から襲いかかって来た人間サイズのトカゲの爪を剣で薙ぎ払い、隙をついて切り伏せた。その瞳が罪悪感に翳るけれど、一切の手心はなかった。
「聞く耳はあるようだから一つ問わせてもらう。大方オズはアースラとグロリアの肉体を移し変えてやると言ってお前に近付いたんだろうが、その術には膨大な魔力を消費する。交換魔術の完成は奴の悲願。お前という格好の魔力供給源の妻が、都合よく奴にしか救えない病などに罹ると思うか?」
人であるアースラを妻に迎えたウルリヒは、どこか人間染みた感情を垣間見せることがある。本来、竜は人間の一挙一動に感情を抱いたりしないし、そもそも人間のように嘘をつく生き物を信じることすらない。竜という種族にとって、今のウルリヒの葛藤は、人に近付きすぎたがゆえの失態だ。
(奴等の手を取ればオズは私の下を去るだろう。しかし、奴等はアースラの病の原因そのものがオズだと言う。私はどちらを……)
戸惑いに攻撃の手を休めるウルリヒの前に、上空に控える鳥型の魔物の背中からオズが降り立った。
「騙されてはいけませんよ。ウルリヒ様」
「オズウェルだ! 魔術に注意しろ!」
すかさずイドが叫び、周囲に警戒を促す。城壁の上からは、追放された大罪人を仕留めようと宮廷魔術師達が一斉掃射を狙っていた。
「お前達は援護に集中しろ。こっちは俺達で引き受ける!」
「しかしっ!」
「魔物相手だ! 軍にはお前達の助力が必要だろう!」
戸惑う魔術師達をイドが一喝すると、彼等は一つ頷いて自らの役目に戻った。
「オズ、お前がアースラをあのような痛ましい姿にしたのか?」
「とんでもございません。人には人の、竜には竜の魔術がある。私はただ、病に苦しむアースラ様を救えるのは人の、私の魔術と信じて尽力するのみでございます」
シャーロットは、オズは嘘をつくのが上手い男だと思った。感情の一切をひた隠しにして真摯な笑顔を浮かべる彼の姿は、本性を知らなければころりと騙されてしまいそうなほどに自然だった。
「オズ、あなたの研究のために皆を巻き込まないで!」
「そちらこそ、我が身可愛さにウルリヒ様を誑かさないでいただきたいものだ。ああ、しかし、あなた達が我等を招いてくださったことで、一つだけ感謝していることがあります」
「感謝だと?」
イドの眉間に皺が寄る。善からぬ算段を抱えたオズを前に、彼はシャーロットを自分の後ろへと下がらせた。
「ええ、感謝しています。ウルリヒ様へ喜ばしい報告をすることができますので」
「どういうことだ、オズ」
「彼の、魔術師イドシュタインの内包する膨大な魔力を用いれば、あなたの魔力を削ることなく、アースラ様をお救いすることができます。すなわち、あなたが竜としての力を失うことなく、永久にアースラ様を守って差し上げられるということです」
「アースラを、守り続けられる。私が……? その言葉に偽りはないのか」
「このオズ、必ずやウルリヒ様の期待に応えてご覧に入れましょう」
ウルリヒの目から迷いが消えた。それは、おそらくシャーロットがイドに向ける信頼の念に似たものだ。長年苦楽を共にしたからこそ揺るがない信頼。今回はそれが仇になったのだと、最早オズを信じたウルリヒに伝えることは叶わない。
「オズ、貴様っ!」
イドが剣を振り上げると同時に中空に無数の氷柱が出現し、一斉にオズへ向けて射出された。けれど、それ等はすべてウルリヒによって薙ぎ払われてしまう。次の瞬間にはオズの放った炎の魔術が円を描いて二人を取り囲んでいた。
「灼熱の檻に舞い踊れ。悪しきも押し流す水の精霊よ!」
シャーロットが唱えると、大気中の水が視認できる量にまで集まり、炎の壁へ次々と突撃していった。壁に人が通り抜けられる程度の道が開き、二人は壁の外へと飛び出した。
「いつまで詠唱に頼るつもりだ半人前」
「唱えなきゃイメージが固まらないの。私を優秀な宮廷魔術師と一緒にしないで!」
イドやオズがさも当たり前のように無言で魔術を連発する光景を、シャーロットは異様なものを見るような目で見ていた。
魔術を使う上での呪文とは、自分がどんな魔術を使いたいのか、そのイメージを確立させるためのものであると同時に、世界の理たる精霊にどんな魔術を顕現させたいのか伝えるものである。それを破棄できるということは、彼等が世界の理に対して絶対的な強制力を持つということ。
詠唱を破棄して強大な魔術を行使できることこそが、優秀な魔術師の証なのだ。
「助手の務めを果たせればよしとした俺が甘かった。帰ったらもっとみっちり教え込んでやる」
「今それを言われると生きて帰るのが怖くなるじゃないの――きゃっ!」
話す余裕など与えまいと、ウルリヒは何百にものぼる火球を雨のように降らせて襲う。咄嗟に防ぎ方を把握できなかったシャーロットを小脇に抱え、イドは重力を無視して大きく跳躍した。
流れ弾は王国兵と魔物の両者に隔てなく襲いかかったが、奇跡的に兵の中に犠牲者は出なかった。寸でのところで宮廷魔術師達が結界を張り、最悪の事態を防いでくれたのだ。
「すまない!」
「これが我等の務めですから!」
叫んだ宮廷魔術師に、上空から鳥型の魔物が襲いかかる。しかし、その魔物は彼を傷つける前に、兵士達の放った矢に射抜かれて地上へ落ちた。戦局は王城前広場で五分と五分、城下では火の手が広がりつつあり、負傷者も多数出している。
終わりが見えず、一進一退。混迷の一途を辿りつつあった戦場に、本来いなければならないにも関わらず姿のなかった人物が戻ってきた。アーサーだ。
「待たせた!」
「ウルリヒ、オズ! お願いよ、これ以上この人達を傷つけないで!」
アーサーはアースラを伴い、シャーロット達をウルリヒの城まで迎えに来てくれた怪鳥の背に乗って現れた。
イドがアーサーに頼んだのはアースラの拉致。
イドはウルリヒがアースラを王都へ連れて来ることを信じて、捜索と奪取を彼に任せていたのだ。
「アースラが何故。貴様等、アースラに何をするつもりだ!」
「そう言うなら、何故彼女を王都へ連れてきたの。可能性を信じたからじゃないの? それなのに、ウルリヒはどうしてその可能性を試すことさえせずに、我を忘れて暴れているのよ!」
シャーロットはウルリヒの懐に飛び込んだ。当然、あっさり切られてくれるはずがないのは承知の上だ。ただ、叫びつかれて喉が痛かった。叫ぶばかりでは伝わらないことも思い知らされた。だから、すぐ傍で顔を見て話そうと思ったのだ。
ウルリヒは指先で刃を挟んで止めて見せた。蹴りだろうが魔術だろうが、至近距離の今ならどんな攻撃もイドの妨害を受けずに叩き込めるのに、ウルリヒはそうしようとはしない。
「アースラさんが見ていても、それが彼女のためになるならウルリヒは私を殺すわよね。どうして殺さないの?」
「ウルリヒ様がなさらぬなら、私が!」
「止めて、お願いだから!」
アースラはアーサーに抱きかかえられて一番の激戦区に降り立った。スカートの下に隠された足の膨らみはやはり歪で、彼女は自力でウルリヒの前に立ちはだかることさえできない己の非力に唇を噛み締めた。
「アーサーさん、私をシャーロットさんの所へ連れて行ってくださる?」
彼女が現れたことで、こちらへ襲いかかる魔物達の動きが鈍った。主の妻が主の戦いを否定することに困惑しているのだろう。
「アースラさん?」
アースラは手を伸ばし、シャーロットの背に腕を回した。数度頭を撫でて、ウルリヒへと振り返る。
「アーサーさんから聞いたわ。あなたがオズをお城に迎え入れた理由。私の身体を他の誰かと入れ替えることで、病気を治そうとしてくれたんですってね」
「そうだ。それしか手がない。もう一度歩きたいのだろう? 病が治れば、かつての生活を取り戻せる」
「でも、オズの考えた手段では犠牲者が出るわ。私は自分の病気を他人に押し付けても尚平然と、いつものように振舞えるほど図太くないつもりよ。嫌だわ。誰かから奪った身体でお散歩しても楽しくない。料理を作ってもおいしくない。何も元どおりになんてならないわ。救おうとしてくれてありがとう。でも、こんな方法で助かっても嬉しくないの。わかって、ウルリヒ」
アースラは目尻に涙を溜めながらも、決して流すまいと堪えた。この争いの根源たる自分が泣いて逃げ出すことは許されないと自分に言い聞かせているのだ。
「あなたまで彼女達に毒されておいでですか? 綺麗事ばかりの偽善者と、国を影から操作してきたお偉い宮廷魔術師と。あなた達の苦悩を何一つ知らぬ小娘共に騙されてはいけませんよ」
「犬も食わぬ夫婦喧嘩に首を突っ込みたがるとは、その先に別の思惑があると宣言しているようなものだぞ」
再び魔力を練り始めるオズに、イドは剣の切っ先を突きつけた。
「そうだな。どうしても信じられないと言うのなら、オレが命を懸けても構わない」
唐突にアーサーが言い放った。彼はシャーロットとイドを見比べ、不敵に微笑む。
ウルリヒは訝しげに眉を顰めた。
「簡単な話だ。あんた達はアースラ殿の治療をイドに預けてくれれば良い。彼女が助からなければ、侘びとして王族であるオレの首を差し出そう。ついでにイドシュタインと助手殿もな。これ以上の誠意となると国王の首を懸けねばならなくなるんだが、生憎とあの人がいなくなると国が乱れるのでな。まぁ、オレ達で勘弁してくれ」
治せなければ首を差し出すなど尋常ではない。病の治療に絶対はなく、ましてや多くの医師が匙を投げるような症例だ。オズによってかけられた呪いは既に身体の奥深くまで侵食し、今すぐ治療したとしても必ず助かるとは断言できない状況。それなのに、アーサーは自分の首を懸けるとまで言ってのけた。相当に厚い信頼だ。
(イドが診察したわけでもない。アースラさんの病状は完全な私の見立て。私達を信じてくれるのは嬉しいけれど、王族が簡単に首を懸けちゃ駄目でしょうに)
夫妻が唖然とする傍で、シャーロットとイドは同時に呆れて肩を竦めた。これが未来の国王だというのだから先が思いやられる。しかし、この傲慢なまでの確信が夫妻にはうけたようだ。気が付けば、ウルリヒとアースラは肩を震わせてくすくすと笑っていた。
「おかしな奴だ。人間の、それも王族が首を懸けるだと? どこの世界にそんな戯言を信じる馬鹿がいる」
「オレは本気だ。何なら先払いしてやろうか?」
「王子殿下。それを実行されると自軍が混乱しますから」
「自分の立場を考えろ馬鹿が」
彼の視線が剣と自分の手首を行き来し、覚悟の証明として片手を切り裂く意思を見せた。その瞬間、イドによって彼の後頭部に容赦ない拳骨がお見舞いされた。
「ウルリヒ、私達は本気よ。この無益な争いを止められるならこの首を懸けることも厭わない。とはいえ、死ぬ気はないのよ? 治療を施すのは私じゃなくてイドだけど、イドだからこそ私達とアースラさんを救ってくれると信じてる。私は子供の頃、アースラさんと同じ病に倒れた弟をイドに救ってもらってる。その時の対価は私の人生だった。だから、私はまた命を懸けるわ。イドに捧げた命だけど、イドを信じているから懸けられるの」
絶対的な救いなどない。けれど、彼ならきっと助けてくれるとシャーロットは信じている。かつて、人生を諦めるかのように命を捧げると言った自分に、「ならば生きてその覚悟を証明しろ」と生きる道を示してくれた彼だから。
「ねぇウルリヒ。治療を受けるのは私なの。私にも選ぶ権利があると思うわ。私はシャーロットさんを信じてみたいの」
一度戦になってしまえば、もう取り返しがつかないことはアースラにもわかっていた。それでも、一人でも犠牲を減らす道があるのならそうしたいと、彼女もまた戦を終わらせるために自分の命を懸けたのだ。
ウルリヒは、真っ直ぐ自分を見据えるその姿が、グロリアよりもシャーロットに似ていると感じた。そして、自分がシャーロットを殺すことを躊躇してしまうのも、元気だった頃の妻を彷彿とさせられるからだと気が付いた。
「アースラ様、彼等の口車に乗っては……」
「アースラが死ねば、アースラが寂しくないようお前を殺して共に埋める。その覚悟はできているのだな? シャーロット」
「ええ。本人の前で縁起でもない話はしたくないけれど、死ぬ時は皆一緒ですよ。アースラさん」
まあ、死にませんけど。と付け加えると、アースラが嬉しそうにくすくすと笑った。
夫妻の取るべき道は決まった。ウルリヒはイドとシャーロットへ向かい、大きく頭を下げる。
「アースラを助けてやってくれ。私にもできることがあるなら助力は惜しまぬ。夫として、彼女が笑って生きられるのなら、それ以上は何も望まない」
「頼まれずとも生かしてやる。それが最も簡単にこの戦を終わらせる方法だからな」
イドが鼻を鳴らすと、夫妻はもう一度頭を下げた。同時に、周囲の魔物達は戦意を喪失した。
「戦は仕舞いだ。皆にもそう伝令を」
ウルリヒは伝令役の魔物を捕まえ、そう命じた。直に城下にも命令は伝わり、皆剣を治めるだろう。
敵の総大将が戦いの終わりを宣言して、周囲の兵士達はおそるおそるも剣を下ろし、安堵した。負傷者の救護や城下の復旧があるにしても、もう魔物達が襲ってこないと知って穏やかに顔を見合わせる。そんな中で一人だけ、あきらかに不満を隠せずにいる男がいた。オズだ。
「まったく、その忌まわしいところはイドシュタイン様にそっくりですね」
オズが袖の中から短剣を引き抜いた。その視線がシャーロットに固定されていることから、イドは咄嗟に彼女を背に隠す。けれど彼の視線ははったりに過ぎず、本当に刃の向かった先は、ウルリヒの脇腹だった。
「ウルリヒ!」
呻き声を上げるごとに、ぼたぼたと血が滴り、小さな血溜まりを作っていく。
アースラの絶叫と同時に、イドが無数の氷のつぶてをオズへ向けて射出した。
魔物達が主を守ろうと駆け寄ってくる。アーサーはその中の一人にアースラを預けて自らも剣を引き抜いた。
「単なる悪あがきではなさそうだな」
「血の中にも魔力は宿るわ。竜があれだけの血を流したとなると、内包された魔力は相当なものです」
楯の魔術ですべてのつぶてを弾き返したオズは、ウルリヒを差した短剣の背に指を這わせた。その刀身には、魔法陣と細かな文字が所狭しと刻み込まれている。
「なら、何かする前に片をつける!」
アーサーが剣を振り上げるが、不可視の壁に阻まれて重い一撃も届かない。
オズとウルリヒの足元に魔法陣が浮かび上がり、淡い赤色の光が二つの魔法陣を繋いだ。人の目にはただ光っているようにしか見えないけれど、魔術師であるシャーロット達のめには、魔法陣を通してウルリヒの魔力がオズに移し変えられている様が見えていた。
「止めるぞシャーロット!」
「はい!」
剣が届かないのはオズが障壁を張っているからだ。しかし、障壁は魔力の壁であり結界。アースラの療養していた塔と同じで、どんな結界にもむらはあり、破れやすい場所が存在する。
障壁の薄い場所を狙って、魔力を纏わせた剣を突き立てる。剣は抵抗を受けながらも障壁を貫通し、オズの左腕を掠めた。オズにはかわされたけれど、シャーロットはそのまま剣を横に払い、障壁に亀裂を走らせる。その亀裂目がけて、イドが二本の氷の刃を叩き込む。うち一つがオズの右肩を捉えた。
よろめいたオズの足が魔法陣から踏み出した。それによって魔力の移行は中断されたけれど、ウルリヒの消耗は相当なものだった。ウルリヒが消耗しているということは、それだけオズが多量の魔力を得たということだ。
次の瞬間には、小手調べと言わんばかりに漆黒の火球が放たれた。
シャーロットとイドが瞬時にいくつもの火球を飛ばしその進路を上空へと逸らしたが、その所為で何羽かの鳥型の魔物が巻き添えになって命を落とした。進路を逸らしていなければ、少なくともシャーロット達五人と、射線上にいた兵士達は一掃されていたはずだ。
「ふむ。今まで宿したことのない量の魔力を得ると、その気がなくてもつい大袈裟な魔術になってしまうようですね。もっと制御しなくては」
「はっ、大した許容量もないくせに身に余る魔力を宿したんだ。身体が魔力を放出しようと、無意識に魔術を強大化してるんだよ。お前がウルリヒから奪った魔力を使い果たすのも時間の問題だな」
「ご忠告どうも。やれやれ、やっと成功したかと思えば、まだまだ改良の余地がありますね。では、せめて使い切る前に、私を追放した王宮の皆さんにお礼をさせていただくとしましょう」
オズが手を頭上に掲げ、振り下ろす。それを合図に広場全体に炎の槍が降り注いだ。
宮廷魔術師達が再び結界を展開し、防衛を試みた。けれど、竜から奪い取った魔力は強大だった。
「伏せて!」
強力な魔力をもって結界を突き破った槍は、多くの兵士と魔物を貫いた。
シャーロットは自分の周囲に更に結界を張り巡らせる。槍を防ごうと思えば必然的に効果範囲を狭めるしかなく、アーサーやウルリヒ、アースラを含めた一部の者達を守るのが精一杯だった。
「十秒堪えてくれ!」
アーサーが再びオズへ切り込んだ。優秀な魔術師でも複数の魔術を同時展開するのは難しく、できたとしてもどちらかに集中すればどちらかが疎かになる。彼はその特性を知っていていたのだ。
一足飛びにオズの懐へ飛び込み、剣を宛がう。目に見えない障壁が邪魔するのを感じたが、先ほど弾き返されたときほどではない。更に力を込めて剣を引くと、障壁が弾けてオズと刃を隔てるものがなくなったのを感じた。
「観念しろ!」
アーサーの剣がオズを捉えたかに見えた。けれど、それは彼の皮膚を掠めただけで、あと一歩及ばず避けられてしまった。しかし、空から降り注ぐ槍は途絶え落ち着いた。
シャーロットは結界を解き、すぐさまウルリヒの止血にあたる。
アーサーは彼女達に背を向けながら、なおもオズに剣を向ける。
「魔術師相手に一切の防御なく切り込んでくるとは、あまり賢い選択とは思えませんね、アーサー殿下」
「失敬な。これでもオレは、昔イドから受けた教えを活用しているつもりだ」
「その教えとは?」
「一つ、術を発動中の魔術師は無防備だ。二つ、次の術に移行する間を与えるな」
不敵に笑んだアーサーは回避されることすらも読んだ上で、刃を切り返し次の一撃を繰り出した。今度こそ、刃がオズの左腕を切り裂いた。
「この場で処刑されるか、投降して生きながらえるか、好きな方を選べ」
「嫌ですねえ。国一番の大魔術師とうたわれたイドシュタインと、王国きっての剣の名手へと成長された殿下を相手に何の策も弄していないとでも?」
「懲りない奴だ。俺は気が長い方じゃない。忘れたか?」
前方からアーサーに、後方からイドに切っ先を突きつけられても、オズの笑顔が消えることはない。
シャーロットが初めて彼と接触したときの悪寒は、このどこまでも底の見えない強かさによるものだったと痛感させられる。
(何かおかしい。いくらオズでもあの状況では術を使う前に殺される。それなのに、あの余裕は何?)
背筋に汗が伝う。嫌な予感がした。
不得手な治癒魔術は、本来傷を癒すものにもかかわらず止血程度の効果しかない。
ウルリヒの治療を続けながらも、シャーロットの視線は周囲への警戒を続けていた。
「どうして、まだ敵意が消えていないの?」
ウルリヒとの和解が成立したことで、魔物達の戦意は失われたはずだった。けれど、シャーロットはその中に未だ剣呑な光を瞳に宿すものがいることを気取った。
「ウルリヒとアースラさんをお願い。まだ争いは終わらないわ」
真っ先にウルリヒとアースラに駆け寄ってきた魔物達に二人の護衛を任せる。
咄嗟の事態ほど本性が現れるもの。シャーロットは、この魔物達には敵意がないと信じることにした。
「ふん、人間に言われるまでもない!」
「お二方は我等がお守りするわ。お前の出る幕などない!」
「こら、あなた達!」
「良いんです。ぽっと出の小娘にしゃしゃり出てこられても面白くないのは、万国共通でしょうから」
立場が違えば見る目も変わる。彼等が最初から敵でなかったとすれば、気の良い猛者として頼りにしていたことだろう。
魔術師として養った勘がざわりと冷たい空気を感じ取る。
ざり、と摺り足を引く音が聞こえた。シャーロットは身体を捻り剣を薙ぐ。しかしその一撃は振り抜けず、代わりに襲い掛かる凶刃を受け止めていた。
「シャーロットさん!」
「心配ご無用です。皆さんは隅っこにでも隠れててください!」
二足歩行をする魔物は武器を扱うことが多い。自分よりも遥かに巨大な魔物が上段から振り下ろした刃を受け止めるのは相当に骨が折れた。おまけに背後には病人と負傷者だ。不用意に剣を薙いでやり過ごすこともできず、かといって弾き返すほどの力もない。ましてやこんな状況で魔術を使うなどもっての外だ。
ぎりりと歯を食いしばるシャーロットを救ったのは、駆けつけたジャスティンだった。
威勢の良い雄叫びと共に現れたジャスティンが、がら空きだった魔物の横腹を切り裂いたのだ。
「ご無事ですか!」
「助かったわ、ジャスティン!」
「これでも騎士ですから。城下の戦闘は収束しましたよ。今は火災の消火活動中なんですが、こちらはまだ決着がついていない様子ですね。問題はあの魔術師ですか」
所々で、再び剣のぶつかり合う金属音が鳴り始めた。見れば魔物の約半数が再び武器を取り人間を襲い始めたのだ。
収まりつつあった戦いがまた始まってしまった。一つ違うのは、残りの半数が仲間だった魔物達の前に立ちはだかっていること。
今や、魔物の軍団はウルリヒに忠誠を誓う一派と、オズに寝返った一派とに二分されてしまっていた。
「いつの間に魔物共を手懐けたんだか。なかなか骨が折れただろう?」
「いえいえ、それほどでもありませんでしたよ。何の力も持たない人間の女に骨抜きになった腑抜けの竜より、好きに暴れさせてくれる人間の魔術師と手を組んだ方が面白そうだと考える魔物も多かったので」
何度とない剣戟を回避し、魔術を相殺して、イドとアーサー二人がかりでも未だオズを捉えきれない。
「あなた達、この場は頼みましたよ。どうぞお好きに楽しんでいってください」
「待て、オズウェル!」
かつてセフィラス王国一の魔術師と謳われたイドでも歯が立たない。
イドの放つ氷の刃を障壁で弾き、オズはふわりと浮き上がった。
中空へと飛翔したオズを守るように鳥型の魔物達が集まってくる。こうなっては、地上の兵では手も足も出ない。
城壁の上の弓兵と宮廷魔術師が打ち落としにかかるが、やはり障壁で落とされてしまう。イドは舌打ちして城の天辺を指差した。
「シャーロット、お前は屋根へ上れ」
「屋根に何を仕掛けたの?」
「何十年も胃の痛むような場所にいると、時折すべてを吹っ飛ばしてやりたくなることがある」
「……イドの悪戯に懸けるしかないわね」
五十年という歳月を国に捧げたイドだが、彼が純粋に国を思って一心不乱に働くはずもない。その結果、彼は我慢の限界に至った際には国賊となってでも報復しようと仕掛けを用意していたらしい。それも、あろうことか王城の天辺に。
「シャーロットさん。今のやり取りでよくわかりましたね」
「イドシュタインめ、勝手に人の家をいじくるんじゃない」
「お怒りはごもっともですが苦情は後でお願いしますね。では、行って参ります」
刃と刃、あるいは牙や爪が飛び交う戦場を駆け抜け城へ走る。
「邪魔、退いて!」
途中何度となく襲いかかられ、そのたびに回避してやり過ごす。それでお追いかけてきた魔物達は、ウルリヒ側の魔物や兵が引き受けてくれた。
城の扉は閉ざされている。イドの置き土産が屋根にあることなど皆は知らず、いつ攻め込まれるかもわからない状況の中で扉を開けてはくれなかった。顔なじみなど数えるほどしかいないシャーロットは、誰かに事情を説明する伝令役でも頼めば良かったと後悔した。
いっそ窓でも壊して侵入してやろうと柄を逆手に握り直したとき、背後から翼の羽ばたく轟音が聞こえてきた。
見ると、そこには一般的な家ほどもある巨大な黒竜が翼を下ろしてこちらを見ていた。
「私の背に乗れ。運んでやる」
竜が言った。その言葉が、彼がウルリヒなのだと物語っている。
「ウルリヒ! 動いて平気なの!?」
「お前のおかげで血は止まっている。たかだか屋根まで飛ぶくらい問題ない」
首をもたげ、顔を近づけてウルリヒが言う。
元々が竜なのだ。偽りなのは人の姿の方。竜の姿の方が消耗が少なくて済むのだろうと納得して、シャーロットは彼の翼を伝って背中に乗った。
「すまない。私が意地になったばかりに……」
「人のことわざに『恋は盲目』という言葉があるわ。誰かを思うあまりに周りが見えなくなっちゃうなんて、ウルリヒは人間みたいだね」
ウルリヒの背中は大きく揺れた。安定して飛ぶために、一度屋根よりも高く飛び上がってから下降する。
城の屋根にはシャーロットの二倍近くも背丈のある古い天使の彫像が飾られていた。
長年雨風に晒されてもなお純白を貫く石膏の天使像は、槍を構えた好戦的な姿勢をとっていて、よく見ると台座が回転する仕組みになっていた。
「あの魔術師が言っていたのはこれか?」
屋根に降り立ったウルリヒは、自分の重量と屈強な爪で城が大打撃を受けていることに気付き、舌打ちしつつ人型に戻る。
「見たところ、かなりの魔力を秘めているようだが」
「間違いなくこれね。屋根の掃除とか修理をするのは魔術の心得のない人間ばかりだから、誰もこの像に魔術が仕掛けられているなんて気付かなかったんだわ」
天使像を調べていると、背中に彫られた文字を見つけた。
「ああ、王子殿下じゃなくて私を来させたのはこのためか」
彫り込まれた文字は人間の使う文字ではなかった。人と共に世界に生き、しかし人の前には滅多に姿を現さない自然界の魔力集合体たる精霊達が使う文字だ。
「精霊文字か。しかしこれを読み上げるだけで使えるのなら、心無い魔術師に利用される危険があるだろうに」
「イドはちゃんと対策しているわよ。この像に秘められた魔術を発動させるには、認証が必要なの」
原理はウルリヒの城で使用した鏡と同じ。違うのは血ではなく魔力で認証するというところだ。
「おい、小娘。何を考えている」
シャーロットはおもむろに服のボタンを外し、胸元をくつろげた。当然ウルリヒに背を向ける形ではあるが、突然の行動に彼は不可解そうに眉根を寄せる。
「言ったでしょう。認証が必要なの。必要なのはイドの魔力。イドなら手を添えるだけでも発動できるのだけれど、生憎と私はイドじゃないの」
「それがその不埒な行動とどう関係する」
「好き好んで男性の前で脱ぐものですか。私の心臓にはイドにかけられた呪いが根付いているわ。そして、その証拠である痣が胸元に刻まれている。呪いはイドが生きている限り、この痣をとおしてイドから魔力の供給を受け、永続的に機能し続けるの。つまり、認証に使うのは痣を切りつけて採取した、イドの魔力が混入した私の血液ということよ。お解りいただけたかしら? いただけたなら向こう向いてて」
ウルリヒが背中を向けたことを確認して向き直り、シャーロットは自身の左胸に軽くナイフを滑らせた。
慣れない痛みに軽く奥歯を噛み締めながら、傷に指を走らせ血を掬う。血を精霊文字の一文に擦りつけ、呪文を読み上げる。
「絆紡ぎし精霊達よ、我、イドシュタインの名において命ず――」
読み上げながら台座を回し、中空で鳥に守られながら魔力を練るオズへと槍を向ける。
「四大の精霊。サラマンダー、ウンディーネ、ノーム、シルフ。相反することなく織り交ぜよ。燃ゆる炎、流れる水脈、連なる山脈、吹き荒れる嵐。目覚めては眠る天地万物が様に従い調律せよ、調律せよ!」
天使像に刻まれた呪文を唱えると、高速で魔力が充填されていくのを感じた。
大地が、大気が、朝日が。自然界に存在するすべてがイドの組み上げた術式に従い己の魔力を天使像へと注ぎ込む。
高濃度の魔力の渦は、目視できるほどに色を帯びていた。相反するはずの属性を帯びた魔力までもが一つところに収束し、調和を保ったままに混ざり合う。
純白の像がまるで生きているかのように色を得て、本物の天使が光臨したのかと見まがうくらいに幻想的な光景だった。
魔力の充填が終わると同時に、その重みからか世界から音が消えた。いや、人よりも感受性の高い魔術師と竜だからこそ、あまりにも存在感の強い純粋な魔力の塊に魅せられて、一瞬他の雑念を意識の外へと追い出されてしまったのだ。
次の瞬間、世界が音を取り戻した。
しんと静まり返った空気が一転し、魔力の塊と共に大気が絶叫する。
そのすべてが、あますところなくオズへ向けて放たれた。
今まで放たれたイドの魔術とは比べ物にならない魔力の圧縮率だ。
イドの合図で散開した兵士達は、命からがらその一撃から逃れて見せた。
命を喰らう魔力の塊は中空のオズを大地に落とし、王城前広場の石畳を抉り、彼の姿を覆い隠す。
数時間とも感じる数秒を乗り越えたのち、砂埃が風に散った。
クレーターのように大穴を明けた広場の中央では、両腕を黒く焦がしたオズが未だその足で立っていた。しかし消耗は相当なもののようで、頭や足からは血が流れ、ぜえぜえと肩で息をしている。
「――あの娘か!?」
「ここは俺の庭だからな。あいつに俺が残したおもちゃを貸してやったんだ」
高濃度の魔力の塊を照射され、ウルリヒから奪い取った魔力が凄まじい勢いで削られていく。
数々の猛攻を防いだ自慢の障壁も、維持するのが精一杯。徐々にその壁は縮小されていき、天使像から放出された魔力が尽きるのと同時に砕け散った。
「上手く、いったの?」
「そのようだな。オズから漏れ出していた私の魔力がかなり減少している。およそ使い切ったのだろう。まったくお前の主はとんでもない男だ」
竜から奪った魔力が底をついたということは、つまり竜にも太刀打ちし得る可能性を秘めた魔術ということだ。
竜とは争いたくない。グロリアを差し出してまで争いを回避するべきだなどと散々憎まれ口を叩いておきながら、その実非常事態のための布石はきっちりと用意していたわけである。
「自慢の主よ。あの人だからこそ、私は躊躇わずに命を捧げられる」
懇親の一撃を放った天使像は、急激に劣化してどす黒く変色した。
一撃限りの大技だが、確かにあれを辺り構わず撃っていれば王城前広場や周囲の建物は火の海と化していただろう。
「イドの所へ戻りましょう。決着をつけなくては」
屋根へ上るには苦労するが、下りるのは簡単だ。重力に従えば良い。
ウルリヒが再び竜の姿に変じる前に、シャーロットは屋根の縁を蹴った。
着地の直前に風を起こして衝撃を和らげる。あまりにも手馴れたその姿にウルリヒは肩を竦めて苦笑した。
「怖いもの知らずで愚直なまでに純真な娘。殺せなかったはずだ。お前は、病に伏す前のアースラに似すぎている。アースラも、私と同じ思いだったのだろうな」
シャーロットに遅れてウルリヒも地上に降り立った。相変わらず傷は痛むし、出血で頭もふらつく。けれど、アースラを守るのは自分の役目なのだと鼓舞して歩く。
本来ならば竜の姿の方が楽なのだが、アースラの顔をよく見たいがためにいつも人の姿を取り続けた。それで彼女が笑ってくれているのだから尚更だった。
シャーロットがイドの下へ戻ると、戦局は逆転していた。
攻勢のイド。劣勢のオズ。それでもオズは、イドに二度も追い出されてなるものかと歯を食いしばって魔術を放つ。身に余る魔力を操り、今度は尽きた魔力を補うために命を削って魔力へと転じる。その反動で、彼は口から鮮血を滴らせていた。
「往生際の悪い男だな。お前の理論は実証され、研究には成功した。だが、世間に受け入れられるものではない。そうでなければ排除されるだけだと何故気付かない?」
「あなたのように、何をやらせても優秀な人間には理解できないでしょう。私のような凡人は、一つの研究に人生を費やすくらいしなければ、人々の記憶にこの名を刻むことができないのですよ」
「賛美されることはないとわかっているのにか?」
「あなたに指摘されるまでは、この研究がこの国を守る手立ての一つになると、信じて疑わなかったのですがね」
魔術師として歴史に名を残したかった。同じ夢を抱いて研究に没頭する魔術師は、世の中に五万といる。オズもその一人だった。
一瞬のひらめきを純粋な感情で追求した結果、淀んだ成果を上げてしまう研究者も少なくない。彼等には後戻りする余裕がないのだ。限られた人生で、いかに自分の理論が正しいかを証明するには、善悪などに揺れ動いている暇などないのである。
「イド!」
「シャーロットか。よくやった。お前は周囲の魔物共を黙らせてくれ」
「はい!」
駆け戻ったシャーロットは、イドの指示でアーサーに加勢する。遅れて戻ったウルリヒも、危なげながらもアースラを守ろうとかつての手下の前に立ちはだかった。
「シャーロット。彼女も大した魔術師ですね。気がつけば人間のみならず、竜までもが彼女に気を許している」
「お前と違って心が広いんだろう」
「そうですね。あなたと違って彼女は寛大だ。だから、あなたのように他人を見下ろすことしか知らない男にも平然とした顔で付き従える。まったくもって忌々しい!」
イドは背筋に悪寒を感じた。直後、オズの魔術はシャーロット目掛けて放たれた。
「シャーロット!」
イドの声に振り向いたシャーロットは、反射的に刀身に魔力を纏わせ、その魔術を紙一重で受け流した。
魔力が底をつき、冷静さを欠いたオズの攻撃は荒っぽく、単純だ。ウルリヒの魔力を得る前のオズの攻撃ならば、ひとたまりもなかっただろうが。
驚きつつも回避したと思った攻撃は、しかしかなりの衝撃を与えていて、シャーロットの右腕はびりびりと痺れて感覚が鈍っていた。
自身の術が見るからに格下の小娘に流されたのを見て、オズは苛立ちをつのらせる。
「ああ忌々しい。忌々しい主従め。私のあとへ続く者達のために、あの小娘だけでも始末して――!」
言いかけたオズの背中にどすりと衝撃が走る。彼の背後、吐息が迫るほどの至近距離にイドの顔があった。腹からは鮮血で赤く着色された銀色の刃が突き出していた。
(何ということだ。これが私の末路なのか。何とあっけなく、何と愚かしい)
「あんな小娘にも通用しないほど取り乱すとは、感情とは邪魔なものですね」
刃が荒々しく引き抜かれた。不思議と痛みは感じない。傷口が焼けるように熱く、身体から力が抜けていく。
自らを追放したイド。自らの計略を暴きだしたシャーロット。
二人に対する怒りは死に向かう絶望を通り越して、道を踏み間違えた自らへの嘲りに至る。
死の間際になって思い出すとは馬鹿馬鹿しい。
自分が誰を目指して魔術を学び、誰を目指して宮廷魔術師になり、誰を目指して名を残したいと願ったのか。誰に認めてもらいたくて、寝る間も惜しんでその人生を費やしたのかを。
オズの目にシャーロットが映った。揺らぐ視界の中で一瞬映った彼女は、魔物を切り捨てたときのような罪悪感に溢れた顔をしていた。これでは彼女に切り捨てられた魔物と同じだけの印象しか与えられない。日が経てば立ち直り、いずれは忘却の彼方だ。それでは癪だと、オズはくすりとほくそ笑む。
最後の力を振り絞って、残った微かな命の灯火をそのまま火球へと作り変え、もう一度シャーロット目がけて投げつけた。
「きゃっ――」
「下がれ」
一足飛びに間に滑り込んだイドが、いとも容易く火球を払い退けた。
最後の足掻きにしては殺気がまるで感じられなかった。だからこそ反応し損ねたともいえるのだが、シャーロットはオズの不可解な行動にまだ何か企んでいるのかと不安になる。
「心配しなくても、もう、あなたにだって殺せる程度の力しか、残っていませんよ」
口を開くたびに傷口から血が噴出す。片手で傷口を庇いながらふらふらとイドとシャーロットに近付いていく。剣を構えて警戒するアーサー達を、他でもないイドが制止した。
「命乞いをするなら助けてやらんでもないが、どうする?」
「ご冗談を。私のような人間は、醜態を晒すのを、何よりも恐れる、ものです」
二人の前に辿り着くも、オズの膝からは力が抜けて肩膝をついた。今にも倒れそうなオズを、ウルリヒとシャーロットが両側から支えてやる。
騙した者と殺そうとした娘。善人ぶって嘘をつく自分と、本物の善人との差はここにあるとオズは思った。
彼女達は、自分に危害を加えた相手にさえこうやって手を差し伸べてしまうのだ。ある意味では救いようがない愚か者だ。
「シャーロット」
すっかり血の気の抜けた顔色で、オズはシャーロットを見上げた。
「私はあなたになりたかった」
「それは、どういう意味なのかしら。私はあなたよりも余程未熟な小娘よ」
イドの教え子ではあるが弟子ではない。あくまでも助手なのだ。魔術に人生を費やさないからには、本当に魔術師を名乗って良いのかすら危うい自分に、何故なりたかったなどと口走るのか。シャーロットは訝しげな目でオズを見据えた。
「羨ましいと、言っているのですよ。イドシュタイン様の、お側に仕え。対等に口を利き。必要とされ。あまつさえ、彼自らが、あなたを守った。羨ましい。――私は、そこにいたかった、のに」
話す言葉は途切れ途切れで、声は震え、声色は弱まっていく。
「私は、こんなこと、を、してまで、彼に認められたかった、のに――」
堪らなくなって、シャーロットはイドとオズを何度も見比べた。それがオズの仕組んだ最後の意地悪だとも気付かず、彼女は自身を羨ましいと連呼する彼に心臓が締めつけられるような痛みを感じた。
「あなたは、私のようには、ならないで……くださいね」
その言葉を最後に、オズの意識はぷつりと切れた。死の間際、霞んだ瞳に映ったのは、罪悪感と自らの言葉にとらわれ苛まれる少女の歪んだ表情。
名を残すことはできなかったばかりか、憧れていたはずのイドに国を追われ、挙句命を奪われた。けれど、彼は頭の中でそれなりに充実した人生だったと締めくくった。
シャーロットがオズにとらわれている限り、彼女と共に生きるイドもまた、彼女のその表情を見るたびにオズを思い出すだろう。
オズは間違いなく彼女達の記憶の中に名を残した。
オズを失ったことで反乱していた魔物達も抵抗を止めた。今度こそ終わりを迎えた争いに多くの兵士達が歓声を上げる中、シャーロットの表情は凍りついたままだった。
「性格の悪い男だ。最後の最後に、俺の助手を傷つけて逝くとは」
オズの身体を魔物に預け、イドはシャーロットの手を引いた。
自分のローブを頭から被せ、顔を隠して抱き寄せる。
「泣きたければ泣け。たまには可愛げくらい見せてみろ」
イドには、これがオズの仕向けた最後のささやかな復讐であることがわかっていた。かといって、今それをシャーロットに話したところで、彼女の心が晴れることはないだろう。
「うるさい子供は嫌いだと、昔言ったじゃない」
震える声でシャーロットが毒づいた。
イドは抱き締める腕を強めて微笑んだ。
「いつもはお断りだ。今だから許してやると言ってるんだ。それとも、無様な泣き顔を晒したいのか?」
「……嫌」
シャーロットはイドの胸で嗚咽を漏らし始めた。
アーサーもジャスティンも、皆があえてシャーロットの涙を目にするまいと顔をそむけた。そんな中、イドだけがシャーロット本人にすら見せたことのない優しい表情でその頭を撫でていた。