五章
五章
一度部屋に戻って逃亡中に使えそうな小瓶をいくつか調達し、すぐさまグロリアの部屋へ向かう。まだ眠るにも早い時間だし、十中八九、二人は一緒にいるはずだ。
廊下で擦れ違う魔物が一様にシャーロットを睨みつけ、時に罵声を浴びせてきた。おそらく、オズによってシャーロットとアースラの接触が報されたのだろう。
ウルリヒに仕える魔物は、魔物という種族のわりに知能が高く理性的だ。だが、さすがに今回の邂逅は彼等にとっても歓迎できないものだった。今にも手が出そうに殺意が滲み出しているにも関わらず、誰も突っかかってこないのはいったい誰の配慮なのか。
シャーロットは、先を妨害するものがいないのを良いことに、ずんずんと廊下を突き進む。
グロリアの部屋の前には侍女が一人控えていた。
「こんな時間に何の用事かしら。今日一日碌に顔を出さなかったくせに」
「あなたの厭味に付き合っている暇はないわ」
声を上げる暇さえ与えず、侍女の鳩尾に拳を叩き込む。
呼吸を乱すには充分だ。叫ぼうにも息も吸えない。シャーロットは眠り薬の小瓶を取り出し、胸を押さえて蹲る侍女の鼻元にあてがった。
「女性に乱暴するのは趣味じゃないのよね」
香りを嗅いだだけで昏倒するような劇薬だ。口をつけてしまえば二度と目覚めないような代物なのだが、香りだけなら数時間で目覚めるだろう。
「グロリア、いる? 入るわよ」
返事を待たずに扉を開け放つ。中を確認してみると、他の侍女は皆退出させられた後らしく、部屋にはグロリアとジャスティンだけがきょとんとした顔で立ち尽くしていた。
「どうしたのですかシャーロット。そんなに怖いお顔をして?」
「シャーロットさん、その人に何をしたんですか?」
「詳しい説明は移動しながらね。取り敢えず彼女を隠しましょう。丁度良いからグロリアのベッドに放り込んで灯りを消しておきましょうか。ジャスティン、脚を持ってくれる?」
二人がかりで侍女を抱えてグロリアのベッドに転がし、布団をかけておく。
「シャーロット。こんなことをして、誰かに見つかったら……」
「困るわね。だから城を出るわよ。さっきイドから連絡があったの、迎えを寄越すから城を出ろって。山に逃げ込めばイドが見つけてくれるわ」
「いつの間に。……あの、じゃあ。私達は帰って良いのですか?」
「勿論。王子殿下も心配しているから、早く帰りましょう」
「――はい!」
この一週間、気丈に振舞いながらもどこか不安を抱えていたグロリアの表情が屈託なく輝いた。
「ジャスティン、武器はある?」
「短剣なら常に携帯していますが、長剣は部屋に。召使という立場上、帯剣できませんでしたから……」
「でしたらあれを使ってください。お兄様が嫁入り道具にとくださったものです」
グロリアは壁にかけられた一振りの長剣を指差した。
嫁入り道具に長剣とは物々しい。しかし、鞘と柄に施された黄金の彫刻。いかにも王家由来であると激しく自己主張を繰り返しいるおかげか、堂々と壁に飾ることを許されていたようだ。
「握って振り回していれば時間稼ぎくらいにはなる、ですって。私は剣を握ったこともありませんのに」
「何と言いますか、アーサー殿下らしい発想ですね。ですが助かりました。ありがたくお借りします」
アーサーは軽く見えて、その実周到な男だ。こういう事態に陥れば彼の秘められた有能さを思い知らされる。
大方、他にもグロリアの嫁入り道具に色々な仕込がなされていたことだろう。
おそるおそる剣を取り上げたジャスティンは、鞘を腰のベルトに差し込んだ。一度手にしてしまえばもう物の価値に腰が引けることなどなく、きりりと騎士の顔付きになった。
「前は私が引き受ける。後ろは任せたわよ、ジャスティン!」
「了解しました!」
戦闘は最小限に。人目を避けながら、城の中を西へ東へ忍びながらじりじりと出口を目指す。途中で遭遇した少数派はもれなくシャーロットの眠り薬で夢の中だ。
主に物資の搬入に使われる裏口から城を抜け出す。空は半端に欠けた月が、それでも尚煌々と闇のはびこる地上を薄明かりで照らしていた。
「隠密行動にはうってつけの月夜ね。グロリア、足は大丈夫?」
「お気遣いなく。同じ失敗は繰り返しませんわ!」
「逃亡経験者は頼もしいわね」
城を離れ、木や別館の陰を渡り歩いて山を目指す。
気が付けば、城の方が騒がしくなりつつあった。次第に揺らめく灯りが現れ始め、数を増やしていく。追っ手だった。
「もう気付かれた。いくらなんでも早すぎる!」
「こちらが慎重を期した結果、迅速さに欠けてしまったようね。山は目と鼻の先。急ぐわよ」
三人は姿勢を低くして進み、敷地を抜けて山に入った。
元々山の一部を切り開いて建てられた城だけに、どの方向に逃げても木々の生い茂る森林が身を隠してくれるのは好都合だった。
イドとの約束まで一時間を切った。草むらに身を隠してやり過ごす。
残り三十分。まだ動かずに済みそうだ。
あと十分もすれば迎えが来るだろうというところで、視界の端に松明の灯りがちらついた。急いで遠ざかろうと反対側を確認すれば、そちらからも複数の足音が近付いて来ている。
東西に追手。北は城に逆戻り。となると、残る選択肢は南に逃れるしかない。
「来てますね。グロリア様、お辛いでしょうがもうしばし我慢してください」
「心配御無用です。シャーロット、どうしますか?」
「南へ抜けるしかないわね。自力で下山する必要がないのが救いね」
「しかし、わかり易い場所にいなくて良いのでしょうか。迎えと言っても見つけてもらえなかったのでは……」
「問題ないわ。イドなら私がどこにいても見つけ出せるから。私達はただ逃げ回っていれば良い」
「シャーロットは、彼のことを信頼しているのですね」
微笑むグロリアの純粋さに眩暈がした。イドがシャーロットを見つけ出せるのは彼女に埋め込まれた呪いが原因だ。信頼どころか、逃げ出す可能性を排除するためにかけられた束縛の証なのである。
「――早くここを離れましょう。長居するのは危険だわ」
『その必要はない』
ぞくりと背筋に悪寒が走る。ジャスティンはグロリアを抱き寄せ、シャーロットへ向けて剣を構えた。シャーロットは錆びついたからくりのようにゆっくりと振り返る。
「毎度人の背後を取らないでいただきたいわね。ウルリヒ?」
「人の子とは鈍いものだ。その体たらくで、よく私に歯向かおうなどと考えたな」
彼の手に灯りになるものは握られていなかった。けれど、それだけが接近を許した原因とは思えない。イドさえも警戒した竜の実力といったところだろう。
ウルリヒと目を合わせているだけでも足が竦む。城の中で対峙した時、アースラと共に卓を囲んでいたときからは想像もできない迫力が今の彼にはあった。
「窮鼠猫を噛むのよ。私が魔術師と知っていたあなたなら、私達が黙って殺されるのを待つはずがないとわかっていたはずよ」
「我等とて無益な殺生など望まぬさ。黙って待っていれば生かしてやったものを」
「そこにグロリアが含まれていたのなら、考えないでもなかったんだけどね」
彼が愛しているのはアースラだけだ。彼等の目的は未だ不明。だが、イドは彼等の立てたシナリオを読み解いた。だから撤退命令を出したのだ。
怯え、震え、屈服したその先に、グロリアの生きる道はない。
ウルリヒが大人しく薬の餌食になってくれるはずもなく、シャーロットは上着の袖に隠していた短剣を抜き払い逆手に握った。
「魔術師が剣を握るか」
「強力な魔術を使いたいなら、膨大な魔力の消耗に耐えうるだけの強靭な肉体が必要なのよ。頭でっかちで魔術一辺倒の魔術師は二流だと教わったわ。それに、この場において警戒すべきは私だけではないでしょう?」
ウルリヒの視線がジャスティンに移る。グロリアを危険に晒した元凶を前に、彼の瞳は怒りと憎しみに揺らいでいた。懸命に、ただグロリアを守りたい一心で敵うはずのない相手にも躊躇いなく剣を向ける。そんな彼の姿に、ウルリヒの表情が一瞬翳る。
「僕達二人でならグロリア様を守りとおせる。そうですよね、シャーロットさん」
「勿論よ。そのための私達だもの」
グロリアの未来と、父である国王に逆らってまで自分達を信じ、送り出してくれたアーサーの気概を無に帰したくない。
(それに、イドが帰って来いって言ってくれたんだもの)
帰還を待ってくれている人。信じてくれた人。守りたい人。彼等の存在は、どんどんシャーロットの抱く自らの存在意義に負荷されていく。
「お前達が姫のために戦うと言うのなら、私はアースラのためにお前達を殺そう」
「私には、あなたが私達を殺そうとしているようには見えないわ。本当に殺したいのなら、あなたは私達に存在を感知される前に片を付けるべきだったわ、ねっ!」
ポケットからそれぞれ乳白色と紫色の液体が入った小瓶を取り出し、ウルリヒの足元に投げつける。小瓶が割れ、二種類の液体が混ざり合うと、急激に紫色の煙が噴出し始めた。
「走って!」
煙は焼け焦げた臭いを放ち、吸い込むと鼻や喉の粘膜を刺激して激しいくしゃみに見舞われるよう調合してある。
煙の噴出と同時にジャスティンに目配せし、グロリアの手を取り走り出す。
「アースラの寵児を殺したくはなかったんだが」
ウルリヒが煙から抜け出してくるのは早かった。薬品は、煙幕として視界を遮る以外の効果は発揮してくれなかったようだ。
彼は怒りに満ちた表情で片手を天高く掲げた。その手の平に深紅の炎が宿り、どんどんと熱を増していく。
「シャーロットっ!」
「振り返らずに走って!」
子供の背丈にも及ぶ直径に膨張した火球を、ウルリヒは躊躇いなく投げつけた。
その顔には絶対的な自信が現れていた。例え本気で殺しにかかっても、シャーロットとジャスティンがグロリアだけは死なせないと確信している表情だ。
いよいよ火球が差し迫ったとき、ジャスティンはグロリアの名を叫んだ。
彼はグロリアの手を引き自分の腕の中に閉じこめるが、シャーロットは二人を火球の進路上から突き飛ばした。
「私一人なら……お願い精霊達、炎を弾いて!」
今まで温存を続けた魔力を全て解き放つ。竜の魔力を相殺することなど敵わない。ならば、自分自身に対象を限定した結界を張って持ち堪えるしかない。
それさえも、極めて生存率の低い可能性だったとしても。
火球が結界にぶつかり、呼吸一つで肺の焼け付くような熱気が襲う。
実力の過信。いや、ただ無謀だったのだと気付いたとき、全身を炎に飲まれているにも関わらず、ひやりと流動する冷気を感じた。
「――イド」
名に呼応するように、シャーロットを中心として無数の氷柱が四方八方へと突き出した。氷柱は瞬く間に炎を掻き消し、辺りには熱を帯びた蒸気だけが残された。
「御人好しもここまで来ると滑稽だな。俺は死を許可したおぼえはないぞ!」
「死ぬ気はなかったよ。そろそろ約束の時間だったから、助けてくれるかなって」
「信頼も度が過ぎればただの妄信だ」
空に輝く月夜を巨大な影が覆う。その影が羽ばたく度、森に突風が吹き荒れた。
影の正体は、人間が五人は乗れるほど大きなかごを背負った巨大な怪鳥。その怪鳥の背からこちらを援護したのは、他でもないイドだった。彼は怪鳥の背中から飛び降り、死ぬ気はなかったと主張するシャーロットの頭を小突く。一週間ぶりの応酬がひどく懐かしかった。
「……何者だ」
ウルリヒは突然現れたイドを睨み付ける。
「イド。この無謀な小娘の所有者だ。竜よ、悪いが今はあんたに構ってる暇がないんだ。そんなに望みを叶えたければ、王都まで追って来い」
イドが中空で手を漂わせると、シャーロット達の身体が浮かび上がった。突然の浮遊に慌てる暇もなく三人は怪鳥のかごに放り出され、声を上げる間もなく怪鳥は羽ばたき天を舞う。
竜であり、空を飛べるはずのウルリヒが追ってこなかった。
松明を持った魔物達がウルリヒの下へ集まりつつあり、事態が本当に間一髪だったことを思い知らされる。
音が届かなくなるその前に、シャーロットは声を張り上げた。
「ウルリヒ! イドならアースラさんの病気を治せるよ! 彼女を助けたいのなら、王都へ連れて来て!」
どこまで届いたかわからない。けれど、彼の驚いた表情を見る限り、まだ彼女に未来があることだけは伝わったはずだ。
「御人好しめ」
「だって、一人でも多く助かった方が嬉しいじゃない」
一瞬でも自分達を殺すことを躊躇ってくれた。それが、和解の道標になると信じている。
シャーロット達はグロリアを守り、ウルリヒ達はアースラを守っている。
どちらか一方が滅びる必要などないのではないか。
二人が生きて救われるなら、国を揺るがしてしまったこの事態も収束できる。
そう信じて疑わない助手を、イドは再び小突きながらも口元に小さな笑みを浮かべていた。
グロリアの嫁入りの日と同じような闇夜を飛び、王城へ帰還したのは真夜中のこと。まだ月は天高く、しかし突然訪れた突風とグロリアの帰還に多くの者が重たい瞼を押し上げることとなった。
王城前広場に着陸した怪鳥の背中から飛び降りると、王城から複数の人影が走ってくるのが見えた。
アーサーと、彼に賛同していた宮廷魔術師や騎士達だ。
「お兄様!」
シャーロットとジャスティンが手を貸して下ろしてやると、グロリアは一目散にアーサーに駆け寄って抱きついた。
「よく帰ってきたな。無事で嬉しいぞ」
二人が直接話しているところを間近で見るのはこれが初めてだが、随分兄弟仲が良いらしい。妹のために単身イドの下へ乗り込んで来るくらいなので、険悪ではないと思っていたが。
「良かった、グロリア様……」
「お前こそよくやったな、ジャスティン!」
ジャスティンが、嬉しそうに笑うグロリアを見つめながら呟くと、集まってきた騎士達が次々と彼の肩を叩いて労いの言葉をかけていった。
まだ若いながらも任務を全うした彼を、騎士達は素直に賞賛し、その実力を称えたのだ。
ジャスティンにとっても、これほど嬉しいことはない。
「皆浮かれてるわね。一度は竜に捧げてしまったグロリアを取り戻せたんだから、当然と言えば当然でしょうけど」
すっかり肩の力の抜けてしまった年少達を眺めていると、無事帰ってこられた幸運に安堵する反面、これから起きるであろう出来事に頭が痛くなってくる。
「喜んでいるのはあいつらだけだ。国王はグロリアの帰還を頑として認めんつもりらしいからな」
「ウルリヒの逆襲を乗り切らなければ、私達は国を危機に晒した大罪人。王子殿下もただじゃ済まないでしょうね」
「当然、俺達もな」
「今更手を引くなんて言わないよね?」
「俺が引くと言えば、お前は大人しく従うのか?」
「大人しくは無理かなあ」
「ならいっそ解決まで居座った方が好都合だろう。北方の森もかかってるしな」
そこに当初の難色はなく、イドはあくまでもシャーロットの意志を尊重する姿勢を見せていた。
この一週間で何かあったのかと問えば、イドは微笑を浮かべてこう答えた。
「俺の助手はお前にしか務まらんということを実感させられたよ」
一同は会議室に移動し、円卓を囲んだ。
アーサーがこの一件を預けてもらえるよう国王に嘆願しに行ってから、もう随分な時間が経つ。空は濃紺が薄れ白み始めていた。
グロリアは、今私室に帰せばウルリヒに突き帰される可能性もあるとしてここに留まっているが、慣れない徹夜に頭が舟を漕いでいる。
「イド、作戦を立てたりしなくて良いの? 朝になればウルリヒ達が追ってくるはずだよ。ううん、夜の内に来なかったことが奇跡なくらい」
シャーロットは円卓から離れ、壁際に佇むイドの隣で心配そうに袖を掴む。
「アーサーが国王を上手く説き伏せられるかどうかによっても方策は変わる」
「そうだけど、イドは何か掴んでるんでしょう? 説明くらいしてくれても……」
「せっかちな奴だな。まぁ、アーサーも戻ってきたし、休憩は終わりにするか」
イドがそう言った三秒後に扉が開き、アーサーが戻ってきた。
舟を漕ぐグロリアの頭が上がり、進展のない会議にただ口を噤んでいた騎士や宮廷魔術師達が一斉に立ち上がる。皆一様に、アーサーが口を開くのを待っていた。
「皆喜べ、国王陛下の許可が下りた。これより俺達は討伐隊を正式に編成し、来たる竜との対決に挑む。時間がない、気を引き締めろ!」
会議室内が湧き立った。僅か十数名の抵抗が、国王を動かし姫の未来に可能性を紡いだのだ。
皆一様に胸を張り、日が昇ると共に起こるであろう決戦に鼓動が高鳴る。
「今までこちら側に賛同してこなかった者達とも合流することになるが、皆国を守らんと志を同じくするものであることを忘れないでくれ! 詳しいことは皆と合流してから話す。三十分後に王城前広場集合。以上、解散!」
集合までの時間は短い。彼等は身支度を整えようと兵舎へ走った。
ジャスティンは先輩騎士達と共に兵舎へ走り、残ったのはシャーロットとイド、王族二人の四人だけだ。
「あの、お兄様。私に何かできることはありませんか?」
「自分の立場はわかっているな。安全な場所で身を隠して待っててくれ」
グロリアは叱られた子犬のようにしゅんと縮こまった。自分の所為で巻き起こってしまった争いで、当の本人が一番力になれないというのが不甲斐ないのだ。
「だけど、そうだな。どうせ戦が終われば腹が減っているだろうし、侍女達と一緒に食事の用意をしてくれていると助かる。兵の数が多いからな、猫の手も借りたいような目まぐるしい作業になるだろう。できるな?」
「お任せください! とっておきの食事をご用意して見せます!」
グロリアは大きく頷いて会議室を飛び出した。その後姿を、アーサーは「料理なんてしたこともないくせに」と苦笑しながら見送った。
「一週間も魔物の巣窟に放り込まれておいて、存外元気そうじゃないか。これも助手殿のおかげか?」
「いいえ。私達が思う以上にグロリアが逞しかっただけです」
「ふむ。グロリアといい、君といい、女は冷静で強かだな」
「褒め言葉ですよね?」
「勿論。――それで、助手殿はどうするんだ? 朝になれば連中が攻めてくるだろう。乱戦が予想されるが、君は一緒に戦うのか?」
「戦いますよ。差し当たって剣を一振り貸していただけると助かります。私のように未熟な魔術師には、魔術より剣の方が素早く対応できる場合もありますから」
王都全域に被害を拡大させないよう兵を配置するとなれば、激戦が予想される王城前広場に裂ける戦力はそう多くない。当然宮廷魔術師達も出動することになるだろう。それなのに、同じ魔術師の自分がグロリア達と一緒に決着を待つわけにもいかないし、それは自分の役目ではない。
一切の躊躇いなく戦場に身を投じると断言するシャーロットに、アーサーは噴出し、腹を抱えて笑い出す。
「あっははは! さすがイドシュタインの助手だ。魔術だけでなく剣も嗜むか。なぁイドシュタイン、彼女の腕はどれ程なんだ?」
「お前程じゃないが、騎士団に遅れはとらんさ。事、獣や魔物相手ならお前の部下達より役に立つだろうよ。人よりも獣の多い場所を駆けずり回って育った女だからな」
シャーロットの剣の腕はイドにも認められていた。むしろ魔術より剣、剣より調合、調合より家事の才能があると、魔術師失格紛いの評価はこの数年間一度も覆せたことがない。
「人を野生児みたいに言わないでくれないかしら」
シャーロットは憤まんやるかたない表情でつんと顔を背けた。獣や魔物の多発する場所で育ったのは、イドが人里を避けた所為なのだ。自分には一切の責任が存在しないと主張する。
「うむ、君の苦労が見てきたように想像できたよ。剣なら好きな物を選んでくれて構わないから持って行ってくれ。イドシュタイン、武器庫の場所はおぼえているな。案内は頼んだぞ」
「はいはい。わかったからお前もさっさと行け。指揮官がいないと困るだろうが」
イドはシャーロットの腕を掴んで廊下へ連れ出しながら、アーサーにも早く部下達と合流するよう促した。
「――シャーロット、お前まで前線に出る必要はないんだぞ。この一週間、お前は密偵としてよく働いた。後は騎士団に任せておけば良いものを」
アーサーのいなくなった廊下で、イドは振り向くこともなく言った。
「確かに、戦力的には私の代わりなんてたくさんいるわよ。でも、放っておけないの。グロリアを守る手伝いがしたいっていうのもあるけど、ウルリヒ達に纏わりついてる矛盾も気になる。自分の目で確かめさせて欲しいの」
「やれやれ。お前はどうして他人のことでばかり俺に逆らうのか……」
イドは呆れるばかりだった。我が身可愛さに逆らうことはなく、彼女が命を張ってまで守ろうとするものはいつだって自分以外なのだ。おまけに本人はそれを自覚しているし、そうして命を懸けようとする彼女を前に、最後には折れてしまう自分が馬鹿らしく思えた。
「ごめんねイド。これが私の性分だから」
「早死にしてくれるなよ」
「当然よ。私、長生きしたいもの。大魔術師の助手なんて、誰にでも辿れる人生じゃない。満足いくまであなたの傍を歩かせてもらうわ」
この人生に不満などあるものかとシャーロットは笑った。
命のやり取りさえも自分の選択で、嫌なら逃げても良いと言ってくれる彼だからこそ、自分は彼と共に戦える自分でありたいのだ。
武器庫で剣を調達して王城前広場に向かうと、そこには既に見渡す限りの兵士が整列していた。騎士団が前列に並び、その後ろに一般の兵士達が並ぶ。
騎士を名乗れるのは貴族生まれの兵士だけで、服装も兵士とはまた違っている。個別に見ている時は気にしていなかったが、一所に集められればその違いは一目瞭然だ。
また、戦力としては人数が少なく心許ない宮廷魔術師の面々は、後方支援を買って出たらしく城壁の上で待機していた。
「凄い人数。よく一つの町にこれだけの兵がいたものね」
「王都の駐屯部隊と、お前達が向こうにいる間に召集された近隣部隊の連中だ。数だけは大したものだが、実際に奴等と渡り合える奴は一握りだろうな」
驚嘆の声を上げるシャーロットとは対照的に、イドは冷めた目で一軍を見渡した。
国王は戦力差を冷静に分析し、一度はグロリアを手放すことで戦闘を回避しようとしたし、自分達とてそれは同じだ。国王とて、物量が通じる相手なら最初からそうしたことだろう。
人間とは善悪も価値観も違う竜が、たった一度望みを叶えてやっただけでこの国から手を引くとは限らないことなど、皆わかっていたのだから。
それでもこうして戦に興じることになったのは、ひとえにイドの存在が大きかったからだ。五十年以上も国に仕え、宮廷魔術師達を率いてきた賢者の智恵と魔力を借りて、初めて王家は竜と戦えるようになったのだ。
「だからイドが呼ばれたんだよ。王子殿下はイドを信頼しているようだったし、竜と戦うことを正式に認めてくれた国王陛下も、イドがいれば戦えると考えたから許してくれたんじゃないかな」
「俺は引退したんだよ。面倒はこれで最後にして欲しいものだ」
イドが遠い目で吐き捨てると同時に、広場の空気が緊張に張り詰めた。何かと思って兵士達の視線の先を追ってみると、兵士達の正面に設置されたお立ち台に上るアーサーの姿があった。
近衛の騎士が「注目!」と声を張り上げる。兵士達の私語は完全に封殺され、今この場において発言を許されるのはアーサー一人となった。
『セフィラス王国軍の諸君。同胞たるはずの人間とばかり剣を交えてきた我々は、かつてない相手との戦に挑もうとしている!』
アーサーの演説が始まり、兵士達の意識が彼一点へと集中する。
『これは人と魔物との戦いだ。そして、魔物を率いるは竜である。竜は我が妹グロリアを差し出すよう強要した。我々は一度は奴等の脅迫に屈してしまった。認めよう、我々は一度奴等に屈したのだ。しかし、我等はまだ負けたわけではない。何故なら、我等は姫を取り戻し、今こうして奴等を迎撃する手段を整えた!』
最後尾の更に後ろで演説を聞いていたイドが口を開いた。
「真に警戒すべきは竜じゃない。お前が会ったオズという魔術師だ。お前の読みどおり、黒幕は奴で間違いない」
彼の声はアーサーの演説に掻き消され、シャーロットにしか届かない。好都合とばかりにイドは続ける。
「オズ、本名はオズウェルという。あいつは昔宮廷魔術師で、俺の部下だった」
「宮廷魔術師。あの人が?」
「そう、切れ者だった。知的探究心旺盛で野心家。そしてそれを決して人に気取らせない理性を持ち合わせた、巧妙な男だった」
「イドが人を褒めるなんて珍しいね。あの人、そんなに手強いんだ」
褒めるということは、その者の行いによってもたらされた結果を認めるということ。オズは、イドを認めさせるだけのことをやってのけた経験の持ち主だった。
「奴は禁術に手を染めた。いや、俺達が奴の研究を禁術と断じ、追放したんだ」
「その研究内容が、グロリアが選ばれた理由と関係あるの?」
「ああ。奴の研究は交換魔術。違う肉体に宿る魂を入れ替える研究だったが、転用すれば他人から魔力を奪ったりもできるし、使い方によっては罪を他人になすりつけることもできると奴は豪語した。だから俺達は財産、資料、市民権。奴がこの国で生きていく上で必要なものを根こそぎ奪い取ってこの国から追放した。はずだったんだがな」
「追い出したはずなのに帰って来ちゃってたのね。でもおかげで納得したわ。何故ウルリヒがグロリアを選んだのか。病気の奥さんに、自分とよく似た健康な体を用意してあげたかったのね」
それが許されることではないと多くの者は理解するだろう。しかし、ときには理解に納得が伴わないこともある。
何故アースラでなければならなかったのか。何故アースラが不自由な身体になって、命を削られなければならなかったのか。どんな手段を使ってでも彼女を救いたい。ウルリヒはその優しさに付け入られたのだ。
「月並みだな。恋情で思考が鈍るのは竜も同じか。自分もただの実験動物だと気付かずに、ご苦労なことだ」
壇上ではアーサーの演説が終わり、騎士によって部隊の配置と作戦についての説明が始まっていた。一仕事終えたアーサーは、後ろで神妙な顔で話し合う二人の姿を見つけて歩みを進めた。
「こんな離れた所で何をこそこそと話しているんだ。二人共、オレの演説をちゃんと聞いていたんだろうな?」
「指揮系統が違うんだ、付き合ってやる必要はない」
「愛想のない奴だな。いったい何の話をしていたんだ?」
「オズのことを聞いていたんです。この戦いで、彼はウルリヒよりも危険ですから」
「オズウェルか。オレの記憶にはない男だな」
アーサーは頭を捻るが、どう頑張っても該当者は浮かび上がらないようだった。
無理もない。イドがオズを追放したのは彼がまだ宮廷魔術師だった時代だ。当時のアーサーはまだ十歳足らずの子供。王族としての公務もまだ知らなかった幼い頃のことなのだから。
「危険な魔術師とだけ認識しておけ。奴を叩きのめす種ははからずもシャーロットが撒いてくれたことだし、向こうに竜がいたとしても勝ち目はある」
「――助手殿、君は何をしたんだ?」
「まったく記憶にございません。イド、種って何?」
シャーロットは小首を傾げた。自分がオズにとって不利になるような仕込をしたおぼえはないし、意図して誰かを蹴落とせるほど策略家でもないからだ。
「お前はウルリヒに言っただろう。アースラを王都へ連れて来いと。あの時は真性の御人好しと呆れたが、あれは好都合だ。お前の話を聞いている限り、アースラはウルリヒとオズの計画を知らないか乗り気でない可能性が高い。俺が彼女の病を治せることを報せ、彼女が俺という可能性を取ればウルリヒは戦う理由を失う」
「ウルリヒが戦線から引けば戦力は大幅に下がるし、元々がウルリヒの部下である魔物達も戦う理由がなくなる、ってこと?」
「なるほどね。オズウェル一人なら、対処のし様はいくらでもある、か。助手殿は優秀だな」
「そんなつもりじゃありませんでした。アースラさんの存在を利用するなんて」
頬を膨らませるシャーロットに、イドが珍しく毒気のない笑顔を向けた。
「そのつもりがないからこそ、奴はお前の言葉を真摯なものとして受け止める。お前の御人好しは人生八割を損させるが、残りの二割はその美徳が救ってくれる」
褒められているのか貶されているのか、複雑な心境に陥るシャーロットに、アーサーはくつくつと喉を鳴らしながら耳打ちした。
「あいつは素直じゃないだけだ。助手殿も知っているだろう? あれも立派な褒め言葉だよ」
「聞こえてるぞ馬鹿王子。そいつを甘やかすな」
「甘えているのはどちらだか。助手殿のいない一週間のお前の荒れようと言ったら」
背の高いイドからアーサーの頭上へ、容赦なく拳骨が振り下ろされる。思わず声を上げたアーサーに、隊列後部の数名が振り向いたが、笑って誤魔化しておいた。
「アーサー。戦闘中にうっかり巻き添え食らって消し飛ばされたくないのなら、俺の頼みを一つ聞いてくれないか?」
イドの口元が意地悪げに歪んだ。この顔は人に特別難しい無理難題を押し付けるときの顔だ。軽口を叩くアーサーの顔が引き攣って硬直する。
「何、少しばかり単独で戦場を駆け回ってもらうだけだ。そう難しい話でもない」
「いえ、それ相当難しいと思うのだけど。そもそも王子殿下は指揮官でしょう? 戦列を離れるなんて……」
シャーロットは難色を示す。最初に討伐隊の編成を宣言したのはアーサーで、この戦いでも彼は最前線であるこの王城前広場で指揮を取りながら剣を振るうことになっていた。それを戦列から離れろとは、イドは何を考えているのだ、と。
「――オレが戦列を離れるに足る提案なら引き受けてやる。言ってみろ」
アーサーはおよそ諦めた顔でイドを見上げた。
無理難題を押し付けられるのは想像できたが、何よりそれを自分に頼むということは、他に遂行できる人間の心当たりがないということでもあると判断したからだ。
イドがその内容を告げると、アーサーは柄にもなくため息を吐き、わかったよと肩を竦めて笑った。兵達が作戦行動を始めてしまう前に戦列に戻り、部下の騎士達に指揮官の変更を告げる。騎士達はかすかにたじろいだものの、日頃培った経験を生かしてやりとおすとアーサーに宣言した。
「どうしてあんな無茶な頼みを?」
「俺は戦線を離れられんし、お前には荷が勝ちすぎる。アーサーなら剣の腕も申し分ないし、肝も据わってるからな。奴以上の適任を思いつかなかったんだ」
「イド、何だかんだで王子殿下のこと信頼してるよね」
不意打ちを受けたようにイドの目が丸くなる。次の瞬間には眉間に皺が寄って拳骨が飛んできた。
(なるほど。王子殿下の言うとおり、イドは素直じゃないのね)
目尻に涙を浮かべながらも、シャーロットは噴出す衝動を堪えられなかった。
戦いに挑む直前だというのに、緊張感は欠片もない。戦力的にはこの上なくこちらが不利だ。けれど、イドやアーサーが一緒だと考えると恐怖の一つも湧いてこない。
彼等となら上手くいく。全て完璧にとはいわずとも、きっと後悔のない未来を掴み取れる。
「私も負けてられないね」
太陽が昇り、雲ひとつない快晴が世界を覆った。その中に一点、黒い影が迫りつつあることを、王都に集ったつわもの達は見逃さなかった。