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四章

四章


 グロリアがウルリヒの花嫁となってから一週間が過ぎた。

初日の宴以来、ウルリヒは一度もグロリアを尋ねて来ない。おかげでシャーロットとジャスティンはグロリアの警護に専念できたけれど、その代償に城を捜索する余裕などまるでなかった。

 一方で一刻も早く二人をグロリアから引き離したい城の召使達は、あの手この手でグロリアに近付き、彼女の好みや性格を把握していった。

「極めつけは監禁ですか」

 シャーロットはため息を吐いた。

 早朝。日の出と共に起き出してみると、部屋の扉が開かなかったのだ。扉を押しても何かに引っ掛かってそこで止まってしまう。彼女に魔術の心得があることを考慮して、結界の類ではなく物理的な方法で閉じ込められたようだ。背後の窓には最初から鉄格子が嵌められている。これも相当に頑丈だ。

(今の護衛はジャスティンのはずだけど、この様子だとあの子も捕まってるかな。そしてグロリアのお世話は城の侍女達がして、もう私達は必要ないとお役御免を言い渡す腹づもりでしょうね)

 どうしたものかと頭を捻る。正直なところ、シャーロットは魔術が得意ではない。それというのも、イドがシャーロットを弟子ではなく助手として扱っていたため、魔術という技術ではなく薬学などの知識に生活の重点を置いてきたからだ。

 守りの術に心得はあっても、破壊の術には経験が浅い。

 できないことはないだろうが、扉を吹き飛ばしてこれ以上立場を悪くすれば、グロリアの側に復帰する機会も失われる。

「ここ、三階よね」

 内開きの窓を開き、格子の隙間から外を見下ろす。窓は城の裏手に面していて、召使らしき魔物達の往来はあるけれどそう頻繁ではない。加えて窓の近くには木が生えていて、下からこの窓は見え難くなっている。

 長い間森に住まい、木に登りそびえ立つ崖に生えた薬草を日々採取してきたシャーロットにとって、この高さも大した問題ではない。残るはこの頑丈な鉄格子だけだ。

「扉は壊せばばれそうだけど、この高さにある鉄格子ならまだ勘付かれ難いかしら」

 気付かれないことを祈るしかない。立場は気にしなければならないが、かといって毎日をここで大人しく過ごすこともできないのだ。

 意を決し、シャーロットは窓を開けた。下を見下ろして、目撃者がいないことを確認する。

「よし、やりますか」

 シャーロットの荷物には大量の薬品が詰め込まれている。イドに教わって作ったもの。独自で考案したオリジナルのものなど様々だ。その中の一本に、鉄の腐食を急激に促進させるものがある。以前イドに出された課題で調合したものなのだが、まさかここで役に立とうとは。

「上手くいってよね」

 小瓶を傾け格子と壁の接合部分に薬をたらす。熱した鉄で焼きつける音がした。鉄格子は上から溶岩をかけられたように、硬度を感じさせず穴が開き、溶けて千切れた。これを接合部分上下合わせて四箇所に行い、最後に落下した鉄格子で脱走がばれないように部屋の中へ回収する。

「イドのレシピは効きすぎて怖いわね」

 同時に、彼の考える複雑怪奇な調合手順を再現できるようになった自分の順応ぶりにも驚いた。彼の助手になったばかりの頃は、こんなものは作れるはずがないと何度も折れそうになったというのに、人は成長するものだ。

 シャーロットは念のためにいくつかの小瓶と道具、荷物に詰めておいた鉤爪付きの縄をポケットというポケットに放り込み、窓枠に足をかけた。

 力強く枠を蹴り、近くの木に飛び移る。思いの外大きな音がして、咄嗟に周囲を見回したけれど目撃者の影はない。ほっと一息ついて、すぐさま木から飛び降りた。

 人目を避けながら城内に戻り、まずはジャスティンの部屋を目指す。彼もきっと同じように閉じ込められているはずだ。

 何度か物陰に隠れながら部屋の前に辿り着くと、彼の部屋の扉を内側から叩く音がしていた。彼もめげずに抵抗を続けていたようだ。

「ジャスティン、あなたも閉じ込められていたのね」

 部屋を閉ざしていたのはかんぬき一本。自分とは随分と扱いに差があるようだ。かんぬきを抜いて扉を開くと、ジャスティンが飛び出してきた。

「シャーロットさん! ご無事だったんですね。今朝から閉じ込められてしまってこの様です。シャーロットさんは何ともなかったのですか?」

「閉じ込められたから鉄格子を破壊して窓から抜け出してやったわ」

 シャーロットは、話しながらジャスティンを部屋の中に押し込んだ。

「シャーロットさんの部屋って、ここと同じで三階でしたよね」

「物置を挟んだだけで実質お隣さんだからね」

 召使の部屋は、魔物達も含め三階に集められている。上級使用人ともなればまた別の場所に部屋があるのだろうが、あくまでも下級であるシャーロット達は手狭な部屋がご近所同士で与えられていた。

「一度一階まで下りて、ここまで隠れながら戻ってくるのは骨が折れたわ」

「お役に立てなくてすみません」

「気にしないで。貴方は魔物達に気付かれないようにグロリアの様子を探りに行ってくれる? 彼女に危険が及ばないようならそのまま待機。部屋から抜け出したことを悟られないようにね」

「シャーロットさんは行かないんですか?」

「良い機会だから、奴等の腹を探ってくるわ。事の目的、過程、辿り着く結末。疑問は一つずつ潰していかなくちゃ」

 この城へ来てから一週間。やってきたことといえばグロリアの召使としての仕事だけだ。自分達の知らぬ所でグロリアを危険に晒さないために。グロリアの心が折れないようにと動いてきたが、ウルリヒ達が強硬手段に出るならこちらもただ指を加えて事の次第を見送ってやる道理はない。

「危険な調査を女性に押しつけるわけにはいきません。グロリア様の側にはシャーロットさんが行ってあげてください」

 数えるほどの交流しかなかったはずのシャーロットに、グロリアはよく懐いていた。同性の方が安心できることもあるだろうし、何より以前から仕えていた自分よりもシャーロットを頼りにしているグロリアの様子を見れば、どちらが彼女の側にいるべきかは一目瞭然だとジャスティンは訴えた。しかし、シャーロットは笑顔で首を横に振る。

「姫を守るのは騎士の務めよ。自分の役割を吐き違えないで。――それにね、私なら多少の事態なら穏便に対処できるの。適材適所というやつよ」

 穏便に。攻撃的な手段を使わず、薬品でお休みいただいて少しばかり記憶が混濁するような薬を嗅がせてやり過ごす。魔物相手においても死人が出ないのだから、これ以上の平和的解決はないだろう。人間との体質的差異でうっかり全てを忘れてしまう可能性も無きにしも非ずといったところだが、ある程度はご愛嬌だ。

 自信満々に胸を張る。そうでもしなければこの弟は折れてくれないと、過去の経験から既に知っていた。

「あなたは姉にそっくりだ。昔、よくわがままを言っては同じようにやんわりと窘められました。明確に、でも傷つかないように。あなたみたいに優しい人でした」

 墓穴を掘っただろうか。眉間に皺がよりそうになるのを堪えながら、シャーロットはジャスティンの目を見詰め続けた。

「きっと姉は生きている。生きてあなたのような女性に成長しているはず――あ、またつまらない話をしてしまいました。すみません。シャーロットさんの言い分はわかりました。ごもっともです。僕がグロリア様の様子を見てきますから、どうかシャーロットさんはグロリア様を助け出す術を探しに行ってください!」

 心配は杞憂に終わったらしい。自分の役割に意気込むジャスティンは、すぐに覇気を取り戻した。

 まずは二時間で部屋へ戻ることを取り決めて二手に分かれた。

 ジャスティンは外の樹木を利用して外から彼女の様子を窺うことにしたようだ。

「じゃあ、気を付けてね」

「はい。シャーロットさんも」

 シャーロットはまず城を出ることにした。王城にもあったのだが、ウルリヒの城には別館が複数存在する。グロリアの世話の傍ら城内を歩き回っても何一つ有益な情報は見受けられなかった。ならば、城内を漁る前に別館を調べるのも一つの手だと考えたのだ。

(そういえば、初日の宴で魔物達がアースラ様がどうこう言っていたわね。魔物達がへりくだるということはそれなりに位の高い人物のはず。グロリアの存在がその人を喜ばせる。もしくは元気にさせるということは、その人物がこの一件の鍵を握っていると考えるのが自然だわ。まずはアースラについて調べるのが妥当かしら)

 しかし、アースラとはいったい誰なのか。宴以降、その名を耳にした記憶はない。

(喜ぶとか、元気になるとか言っていたわりには接触もしてこないのよね。だとすると、グロリアとその人物を会わせることは目的に含まれていない?)

 木陰や庭園の植え込みを利用して、いくつかの別館を回る。今日のところは外観だけで済ませるつもりでいた。

 建物の手の入れ方。人の出入りした様子。それらを観察した上で目星をつけるのだ。

 まず城の南側から反時計回りに別館を二つ回った。一箇所目は重厚な石造りをしているものの、大きさは一般的な庶民の一軒家程度。周囲の地面にもあまり出入りした形跡が見られず、雑草の処理や外壁の補修も甘い。二箇所目は中流階級の屋敷といったふうで、何人かの使用人の寄宿舎として使われていた。今まで城を離れる余裕がなかったので、城内以外にも召使の部屋が設けられていることすら気付いていなかった。

(次で三箇所目。城の窓から北側に塔が見えていたわね。少し遠いけれど、そういう場所ほど確認しておかなくちゃ)

 次に目をつけたのは北の塔。自然を切り開いたこの城の敷地において、唯一小規模な疎林を抜けなければ訪れることのできない場所だ。

 目測すると片道十分。木々の密度も低く、今まで住んできた森と比較すると見通しが良い。ある程度近付けば、見上げただけで塔が見えてくるだろう。

 初夏の新緑の中を黙々と進み、目測どおりに十分で視界が開けて塔に出た。しかし、それ以上に近付くことができない。引き返すことは可能だが、塔の方へと疎林を抜けることができないのだ。

「これは、結界? ますます意味ありげね」

 眼前には見えない壁。触れれば水面に波紋が広がるように、大気中を同心円状の波が走った。

「――大丈夫。これなら抜けられる」

 破壊する必要などない。結界は魔力の塊で、必ずどこかにむらがある。隙間があるならそこを狙ってすり抜ける。ないのならば魔力の薄い場所を狙い、人一人分だけ術式を解いて通り抜ければ良い。

 本来なら難しいことだ。けれど、イドの張った多種多様な結界を毎日見て、毎日のように通り抜けてきたシャーロットは、結界を破ることに関しては他の魔術師よりも長けていた。

 刺激を与えないようにじっくりと侵食して、穴が開いた瞬間に素早く滑り込む。

 目の前に佇む塔は美しい場所だった。一階を飛ばして窓が縦に五つ並んでいるので、おそらく六階建て以上だろう。赤いレンガに覆われた遊歩道が四方に広がり、周囲には花壇が設置され、色とりどりの花が視界を彩る。塔自体を這う蔦にも、赤い花が咲いていた。

(ちゃんと剪定されてる。結界を張ってまで何かを守っているにしては、つい最近人の手が加えられた形跡がある。かといって、今は人っ子一人見当たらない。ここは何をする場所なんだろう?)

 一階部分には出入り口の鉄の扉しか見当たらず、中の様子は覗けない。覗けないからこそ、ここが何のための施設かもわからぬまま無策で踏み込むのははばかられた。

「さて、どうしたものかなあ」

 今日は様子見だけ。そう決めていたけれど、ここはいかにも怪しすぎる。

 調べたい。その衝動と理性が葛藤を繰り返していると、ふいに頭上から声が降ってきた。

「そこの可愛らしい髪のお嬢さん。ここで何をしているの?」

 その鈴を転がすような声につられて顔を上げると、下から二つ目。三階の窓から女性が顔を出し、こちらを見下ろしていた。

(グロリア?)

 その女性はグロリアとよく似た顔立ちをしていた。まるで、十年後のグロリアを見ているような印象を受ける。そして何より――

「この城の敷地に、人間?」

 彼女は人間だった。オズと呼ばれた男は魔術師だったのでウルリヒにとっても利用価値があるように見受けられたが、彼女はその気配からも普通の人間にしか見えない。

「わかるのね。あなたも人間でしょう? 人の女の子に会うのは久しぶりだわ」

 楽しそうに微笑む彼女は何者なのだろう。グロリアに似た容姿をしていることも気になる。やはり、探りを入れてみるべきなのだろうか。

「はじめまして、先日からお城にお仕えしているシャーロットと申します。失礼ですが、あなたは……?」

「あら、ウルリヒから聞いていないのね、私はアースラ。ウルリヒの妻よ。本当はちゃんと顔を合わせてお話したいのだけれど、ごめんなさいね。私、足が悪くてお部屋から出られないの」

「つ、妻!?」

 彼女の足が悪いという発言も、彼女がかつて魔物達の噂していたアースラ様であることも驚きのあまりすっ飛んで、シャーロットは召使を演じることを忘れ去った。

(グロリアを妻扱いしないと思ったら、本当の奥さんは他にいたのね。これは側室とか愛人とかではなく、もっと別の意図がありそうだわ)

「そんなに驚くことかしら?」

「い、いえ。その、ウルリヒ様に奥方様がいらっしゃることも初耳だったのですが、竜が人を妻に娶ったことにも驚いてしまいまして……」

「うふふ、やっぱりおかしいわよね。正直私自身も驚いたわ。ねぇ、シャーロットさんはこれからお暇? 折角会えたんですもの。私、あなたとお話してみたいわ。ねえ、良いでしょう? ウルリヒ」

 アースラの視線がシャーロットからその背後へと移された。息を飲んで振り返ると、そこには鬼の形相を湛えたウルリヒが腕を組んで立っていた。

「ウルリヒ……様」

 結界を抜けたことがばれたのだろう。眉間に深い皺を寄せたウルリヒは、今にもつかみかかってきそうな声色で問い詰める。

「ここで何をしている、小娘」

「……」

「私の暇潰しに付き合ってもらっていたのよ。ねぇ、ウルリヒ。この子を塔に入れてあげて。ちゃんと顔を見ながらお話したいの」

 シャーロットは目を逸らし、言い逃れを考えながら唇を噛み締める。その表情が見えていないアースラは、朗らかな口調でウルリヒに願い出た。この言い分だと、塔に入るにはウルリヒの許しが要るのだろう。彼は逡巡してから、渋い顔で口を開く。

「……アースラが、そう望むなら」

(弱点身一つ発見だわ。この男、奥さんには甘いのね)

 横目で隣に移動したウルリヒの顔を覗き見ると、射殺さんばかりの目で睨みつけられていた。指一本でもおかしな仕種をすれば、次の瞬間には現世とさよならすることになるだろう。

「誰か、アースラの部屋へ茶を持て!」

 ウルリヒが二度手を叩いて告げると、どこからともなく現れた召使が、一礼して塔の中へと入って行った。

(監視されていたのか、ウルリヒについて来ていたのか……)

「お茶なら私が淹れますのに。一応、私も侍女なんですが」

「お前は姫の侍女だからな。信用ならん」

 彼の後ろについて塔に入り、アースラの部屋を目指して螺旋階段を上る。踵を踏み鳴らす音が静かな塔に大きく響く。どんな音も隅々にまで行き届いてしまいそうなこの空間で、二人は内緒話のように声を殺した。

 部屋は各階一つだけ。ウルリヒに連れられ、三階の部屋へ招き入れられた。

 高い塔にも関わらず、彼女のアースラの部屋はその真ん中よりも下に位置し、見晴らしはそうよろしくない。精々遊歩道と森が見渡せる程度である。

「邪魔するぞ」

「失礼します」

「いらっしゃい。どうぞ座って」

 アースラは窓際のベッドに腰掛けていた。淡い金色の髪と柔和な笑顔。近くから見ると、ますますグロリアによく似ている。

 勧められるがままに、ベッドの側の丸テーブルに着席する。間もなく、鱗を生やした侍女がポットとティーカップを持って現れた。あからさまに、何故人間がここにいる。と、顔に書いてある。理由は自分が聞きたいくらいだ。

「冷めないうちにどうぞ」

「……いただきます」

 紅茶の淹れ方は人間顔負けのようだ。

 イドを満足させるようと日々特訓を重ねてきたけれど、アースラ付きの侍女はシャーロットよりも上手にお茶を淹れていた。互いに腹を探り合う関係でなければ、是非ともご教授願っていたことだろう。

「凄くおいしいですね。私ももっと精進しないと」

「お城に仕えていると言っていたものね。頑張っておいしいお茶を淹れられるようになってちょうだい。何なら、私がお付き合いするわよ。ここには見た目ほど若い女の子がいないんだもの。偶には可愛らしい女の子とお茶したくなることだってあるわ。あ、でも、あなたはこんなおばさんとお茶してもつまらないかしら?」

「アースラ様はお若いですよ。それに、可愛らしさで言うなら、可愛げのない私よりもアースラ様の方が余程お可愛らしいじゃないですか」 

「もう、可愛げがないなんて自分で言っちゃ駄目じゃない。女の子なんだから」

 微笑むアースラは無意識に自分の足を擦っていた。その様子を、ウルリヒはただ無言で見守っている。

「足が痛むんですか?」

「え? いいえ、今は大丈夫よ」

「あの、聞いても良いですか? その足、どうなさったんですか?」

 この塔を守る結界は、間違いなく彼女のためのものだ。そして自分がここへ近付いた直後にウルリヒが現れたということは、彼にとってアースラが何よりも重要な存在であるということ。ならば、何故もう一人妻を必要としているのだろうか。

(ウルリヒの目的は何? 純粋に跡継ぎを残す女が欲しかったから? それとも、グロリアの存在が彼女の利益になるというの?)

「小娘、不躾にも程があるぞ」

「良いのよウルリヒ。彼女はお城で働いているのでしょう? なら遅かれ早かれ耳に入ることじゃない。シャーロットさん、私は病気なの。動かないのは今のところ足だけだけど、もう異常は全身に広がり始めているのよ。あとどれだけ生きられるかもわからないのが惜しくて堪らないわ」

 足に掛けられた布団がめくられ、アースラの足が露になる。

 膝から下が大きく肥大化し、太腿の二倍近くにまで膨れ上がっていた。つま先が薄っすらと黒く変色を始め、遠くないうちに完全な壊死を迎えるであろうことが見て取れる。よく見ると、手の指も所々が真っ赤に腫れ上がっていた。

「悲観するな、アースラ。オズが治療法を見つけてくれた。もうすぐお前の病は治る」

「そうだと、良いのだけれど……」

「……これ、どういうこと?」

 シャーロットの目が細められる。その表情を同情、もしくは恐れと勘違いしたのだろう。アースラはさっと布団を元の位置に戻す。

「ごめんなさいね。折角楽しいお茶会ができると思ったのに、つまらないものを見せてしまって。私の体のことは気にしないで。ストレスを溜めないことも大切だってオズが言っていたの。だから、もう少しだけ付き合ってくれるかしら?」

「――お邪魔でなければ、ご一緒させてください」


 アースラとの別れた頃には、ジャスティンと約束した二時間を過ぎてしまっていた。

 一刻も早く部屋に戻りたかったのだが、一緒に塔を出たウルリヒが未だ隣を歩いているので、ジャスティンの元へ直行してしまって良いものか悩みどころだった。

「何故、姫の存在をアースラに告げなかった?」

 一瞥さえもくれることなく、正面を向いたままウルリヒが口を開く。

「やっぱりグロリアのことを話していなかったのね。理由は二つ。あなたの意図がわかるまで、いたずらに引っ掻き回すつもりはないのと、知ったらアースラさんが落ち込みそうだと感じたから」

「同情か?」

「アースラさんは、私個人としても好ましい女性だわ。傷つけずに済むのならその方が嬉しい」

 優しい人。一緒にいて楽しい人に嫌われるのは怖い。

 ウルリヒの目論見を暴いて打破し、グロリアをここから連れ出してもなお、まだ彼女に笑っていて欲しいというのは欲が深すぎるだろうか。

(私の目に映る人皆を救う力なんてない。どちらか一方と言われれば間違いなくグロリアを選ぶ。でも、もしも選ぶ必要がないのなら――)

「小娘。お前、早死にするぞ」

「それは困るわね。私の命は私のものではないんだもの」

 命を捧げて許されるのは一度きりだ。シャーロットはすでにその権利を行使してしまっているのだから、イドの許しがない限り死んだりしない。死なないためなら、守るべきもの以外は切り捨てる必要性も割り切っている。

 この城でウルリヒと相対することになったとしても、決して諦めてやるつもりはなかった。その誓いは今でも揺るぎなくシャーロットの中にある。

 勝つのは自分の役割ではない。自分の役割は生き残ることなのだと、彼女は理解していた。

 今なおその真意を見せないウルリヒにも、シャーロットは笑みを浮かべて見せた。そんな時、廊下の向こう側からオズが歩いてくる姿が見えた。

 シャーロットが眉根を寄せるのと同時に、オズは不満と書き込まれた顔で口を開く。

「珍しい組み合わせですね。いったいどういった経緯でその娘と肩を並べて歩いていらっしゃるので?」

 厭味をふんだんにあしらって、口元だけで笑んでみせる。言外に、ウルリヒに対する批判も込められていた。

「アースラの存在が知れた。この娘、結界を破壊するのではなく、一部だけに穴を開けて通り抜けたらしい。お前の言ったとおり、若輩ながら油断できぬ小娘よ」

「あまり勝手な行動を取られては困りますね。そもそも、君は謹慎中の身だったと思うのですが」

「あれは謹慎じゃなくて監禁よ。私には謹慎を言い渡される不始末を仕出かした記憶がないわ」

「癇に障る小娘ではあるが、残念なことにアースラがこれを気に入ってしまったのだ。まったく、始末に困る」

 あんなに楽しそうなアースラを見たのは久々だ。と、ウルリヒは憎さ半分嬉しさ半分の織り交ざった顔で嘆息した。

「アースラ様と接触してしまうとは誤算でしたね。もっと強力な結界を張っておくべきでした。もう行きなさい、シャーロット。姫の周囲をうろついていた従者にも、あまり勝手に出歩かないよう伝えておいていただきたい」

「悪いけれど、私達は何度閉じ込められても抜け出すわよ。それじゃあ、私はこれで失礼するわ」

「一つだけ警告しておきましょう。姫の命は保証します。けれど、あなた方の命までは保証できませんよ。死にたくなければ自重することです」

「……命の保証に、心の保証が伴うのかしら」

 小さく呟き、形ばかり一礼して足早に自室へ向かった。

 部屋に戻ってみると、扉の前に積み上げられた荷物は既に撤去され、ジャスティンの部屋からもかんぬきが消えていた。

「ジャスティン、戻ってる?」

 ジャスティンの部屋の扉をノックすると、すぐさま彼が顔を出した。

「良かった、ご無事だったんですね。時間になっても戻られないので、何か起きたのかと心配していたんです!」

「心配をかけてごめんなさい」

 彼の様子を見ていると、警戒すべき親玉とその正妻とのんびりお茶をした挙句、腹心の部下に釘を刺されただなんて到底言い出せなかった。

 ジャスティンには別館をいくつか回ったこと。北にある塔には結界が張られていて、部外者の出入りを拒んでいたことだけを説明した。

 アースラの存在、その病状、ウルリヒの弱点になり得る可能性を持つ人物であることは、彼にもグロリアにも話すつもりはない。情報を共有すべきであることは理解しているが、情報を得れば得るほど最速で死が駆け寄ってくるのはこのジャスティンなのだ。

「結界が張られている以上は私達魔術師の領分よ。近いうちに残りの別館も回ってみるつもりだから、他に目ぼしい場所がなければ塔の調査に入るわ」

「あの、シャーロットさん。今日、戻ってくるのが遅れたのは、何か不測の事態が起こったからなのでは? 明日は僕が探索に……」

「大丈夫。言ったでしょう? 適材適所、他にも結界で守られている場所があるかもしれないんだもの、これは私の仕事なの。それとも、ジャスティンは私が役立たずのお荷物だと思っているのかしら?」

「と、とんでもありません! 僕は、グロリア様の信も厚く、常に冷静な状況判断を下せるあなたのことを尊敬しているんです!」

 からかったつもりが、逆に恥ずかしい思いをさせられてしまった。

「じゃあ信じてよ。私も、ジャスティンだからグロリアを任せておけるのよ」

 もう何年も離れていたというのに、昔の癖が出てしまった。つい諭すついでに頭を撫でてしまいそうになり、慌ててその手を引っ込めた。普通は、知り合って間もない年頃の少年の頭を撫でたりしないものなのだから。

「シャーロットさん?」

「何でもないわ。それで、グロリアの方はどうだったの?」

 グロリアを見守っていたジャスティンから、抜け出したことがばれたこと。そのおかげで堂々とグロリアの召使として部屋に入れたこと。彼女は彼女でウルリヒの使わした侍女達を困らせながら、それなりに楽しく過ごしていたことなどの報告を受けて解散した。


 ジャスティンは情報交換を終えたらまたグロリアの部屋へ戻って行った。本来ならシャーロットも向かうべきなのだが、生憎と今日はそれどころではない。

(隠し事だらけっていうのも、気が引けるのよね)

 シャーロットは探索の折に見つけておいた、人気のない別館の裏手に移動した。

 日が傾きかけて、もうすぐ夜の帳が下りる時間だ。

 別館の壁に背中を預けて腰を下ろし、ウルリヒとアースラ、そしてオズについての情報を頭の中で整理する。

「多分、何も知らないのはアースラさんだけ。他の皆は事情を把握してる。でも、その中でも一人だけ、確実に皆を騙している人がいる」

 小さく独りごちると、頭上から鳥の羽音が聞こえてきた。

 もう暗くなるこの時間に、自分の目の前に降り立つ鳥は、シャーロットの知る限り一羽しかいない。

「こんな遠くまでご苦労様。待ってたよ」

 羽根を広げれば二メートルを越える巨体を、落ちゆく闇に紛れてやって来たのは一羽の鷲。名をつければ自らの所有物と主張することになるからと、名を与えられることもなく、有事の際以外には自由に森や山を飛び回っているイドの顔見知りだ。

 一見するとただの鷲なのだが、その実もう百年近い時を生きているのだとか。人語が話せるのならば是非とも経験談を聞いてみたい。

 鷲の足には小さな袋が結び付けられていて、袋の中には銀の縁に、真っ黒に塗りつぶされて本来の機能を失っている手鏡が入っていた。

城をたつ前、一週間後に連絡を入れるとイドに言われていた。

 その手段を最初から与えられなかったのは、万に一つ荷物を漁られたときにその手段を奪われてしまうのを防ぐため。グロリアやジャスティンがこのことを知らないのは、彼等の感情の機微からこちらの情勢を悟らせないためだ。

 隣にちょこんと羽根を落ち着かせた鷲の頭を軽く撫でてから、手鏡の縁をなぞってみると、黒が覆っていた鏡面に白い文字が浮かび上がる。

「血を捧げよ。血? ああ、もしかして」

 常に隠し持っている短剣で指先を切り鏡面に落とす。黒が波紋を打ちながら晴れ、代わりにこの場においては映るはずのない、イドの顔が浮かび上がった。

「お久しぶりです。血で使用者を認証するなんて、徹底してるのね」

『途中で連中に強奪される可能性も考慮しているからな。その様子だと、思いの外上手くやっているみたいだが、何か情報は掴めたか?』

 間接的とはいえ一週間ぶりの再会だ。にもかかわらず、主と助手は一切の感慨なく淡々と言葉を交わし始めた。その様子にいち早く横槍を入れたのがアーサーだ。

『――イドシュタイン。自分の命令で旅立った助手に、まず一言労いの言葉をかけてやろうとは思わなかったのか?』

「ご無沙汰してます。王子殿下、そちらはお変わりありませんか?」

『こいつの帰還で医務室の胃薬が品切れ状態なこと以外はな。それよりイドシュタイン――』

『時間がないんだ、黙ってろ。シャーロット、報告を』

「すみません王子殿下。ではまず――」

 小さな鏡に映るようにイドを端に追いやっていたアーサーが、イドの手によって突き飛ばされフレームアウトした。シャーロットは苦笑しながらも、いつ魔物達に見つかるかわからない状況であることを理解して報告に移る。

「敵の頭の竜はウルリヒという名前よ。私も何度か接触したけれど、常に人の姿をしていたわ。一応グロリアへの配慮らしいけれど、実際の理由は別の人物への配慮だと思われるわ」

『別の人物?』

「アースラさん。ウルリヒの正妻よ。結界に守られた塔の中で療養中の人間の女性。年は二十代後半から三十代前半。グロリアとそっくりな容姿をしていたわ」

『お前、結界の中に無理矢理侵入したりしてないだろうな?』

「残念ながら私の正体は初日にばれてるの。ウルリヒに仕えている魔術師がいてね、その人にあっさり見破られちゃったわ。だから、今更気を遣う必要はないかなーと」

『よく生きてたな』

 イドは見るからに呆れた表情で腕を組む。彼の隣では、アーサーが「助手殿は大物だな」と呟いていたのだが、それはイドにしか届いていない。

「あの人、私が結界に穴を開けた挙句にアースラさんの存在を感知してしまったのに、まるで手を打つ様子がないのよね。今日一緒にお茶したけれど、ただの愛妻家にしか見えなかった。おそらく、人型を保っているのも彼女のためなんだと思う」

(敵と、茶……? 俺はこいつの育て方を間違えたのか?)

(助手殿は肝が据わってるな。間違いなくイドシュタインとの同居の所為だ)

 一言一言に口を挟みたくなる衝動を堪え、男性陣は必要な情報のみを拾い上げることに専念した。

『愛妻家ね。それで、そのアースラとやらは療養中だと言っていたが、何を患っているんだ?』

「私もそれがグロリアと関係していると考えているんだけど、その、おかしいの」

『おかしい? 何がだ』

「アースラさんの病気、昔ジャスティンが患っていたのと同じ魔力の循環障害みたいなの」

 人間のみならず、生きとし生けるものすべてには魔力が宿っている。

 魔力は血と同じように体内を循環しているが、時にその流れが滞り、肉体に変調をきたすことがある。その原因は様々だが、循環が滞って現れる症状は比較的似通ったものが多い。

 最初に体調を崩し、次に流れの滞っている部位を中心に機能が低下する。それに合わせて新陳代謝も低下し、次第に体内の老廃物を排出できなくなる。その結果溜まった老廃物によって皮膚が肥大、やがて壊死し、最終的には死に至る。

「ウルリヒに仕えている魔術師はオズと呼ばれていた。当然、彼もアースラさんのことを知っていたわ。私の正体を簡単に見抜くような魔術師が、彼女の病の原因に気付かないはずがない」

『オズ、か。お前は、オズという魔術師が意図的にアースラを治療せずに放置していると?』

「うん。竜と人間の使う魔術は根本的な理が違うと聞くわ。ウルリヒには気付けなくても、私やオズには感知できるし、実力次第では治療もできる。彼は、ウルリヒがアースラさんの病の原因を感知できなことを利用して、何か企んでいる気がするの」

 竜と人間の使う魔術の根本的な違い。それは、世界の理に直接干渉するのか否かだ。

 人間が魔術を使うにはその形態の如何に関わらず術式というものが存在する。

 術式とはいわば魔術の設計図なのだが、人間にはその設計図どおりに理に干渉する力はない。よって、魔力を代価に世界の一欠けら。いわば世界そのものである精霊に魔術を発現してもらうのである。

 対して竜は人間よりも精霊に近い存在で、彼等は人間のように精霊の仲介を得られずとも世界の断りに干渉できる。しかし、それゆえに竜は精霊のように人間の組み上げた術式を解読する力がない。竜にとって、人間と精霊を繋ぐ術式とは一種の暗号のようなもので、解読が酷く困難なものなのだという。

 言ってしまえば、竜は人間にどこまでの魔術が行使できるものなのかを把握するすべがないのである。

 直接自然を操る竜と違って、人間は事細かに状況を観察し、それらを加味して術式を構築しなければならないことから、僅かな魔力の異常も敏感に察知できる。その違いが、今回ウルリヒがアースラの病の原因を見抜けなかった理由だろう。

 そして、恐らくオズはその病を治す術は自分にしかないと嘯いている。その虚偽を見抜けなかったのも、人間の使う魔術を知らなかったころが要因の一つであるはずだ。

『つまり、お前はウルリヒの後ろに、オズという黒幕がいると考えているんだな』

「確信してるわけじゃないけど、可能性の一つとしてはあると思う。ただ、その判断を下すのはイドや王子殿下だよ」

 この城で接触した面々の中で、最も異色を放っていたのが他ならぬオズだった。

 多くを語ることはなく、しかし確実にこちらを牽制してくる人間の魔術師。

 ウルリヒの傘下に下っているように見せながらも、彼の目を欺いている。

 この城で彼がどんな役割を担っているのか一切掴めず、彼の情報を探ろうと城内を歩き回っても彼の仕事場、私室はおろか、彼本人と接触することすら数えるほどしかなかったのだ。

『なぁ、シャーロット。そのオズという魔術師は、ただ真面目で平凡そうな魔術師だったか?』

 不思議な質問だった。

 何度か釘を刺されている身としては、勘の良い警戒対象だ。しかし、彼に初めて会った時に抱いた第一印象は、まさしく平凡な男だったことを思い出し、シャーロットは大きく頷いた。

「ええ。初対面の時はそう感じたわ。ただ、今はそれが勘違いだったと思い直したけれど」

『なるほどな、話が見えてきたぞ。今までは無事だったようだが、俺の推測が正しければグロリアが無事でいられる期限が迫っている。今すぐ姫とジャスティンを連れて帰って来い』

「はい。――え、今すぐ?」

 いつもの調子で頷きかけ、数秒硬直した後に素っ頓狂な声を上げた。

『今すぐだ。迎えは寄越してやるから、取り敢えず振り切れ』

『とんでもない無茶をさらっと言ったぞこいつ』

 イドと付き合いの長いアーサーでさえも一歩引くような唐突さだ。しかし、彼はできないことを強いる人間でないことも知っている。彼がやれと命じるのは、つまりできると判断されているからだ。

(グロリアとジャスティンを庇いながら、ウルリヒとオズと、他の魔物を振り切る。いいえ、戦う必要はない。必要なのは、迎えが来るまで二人を連れて、上手く山の中で身を隠すこと)

『助手殿、無理はせずにこちらから手勢を潜り込ませ――』

「大丈夫です、王子殿下。イド、迎えが到着するまでの時間は?」

『二時間だ。できるな?』

「イドの命令なら逆らわないよ。信じてるから、ちゃんと迎えに来てね」

『ああ、任せろ』

 それを最後に通信は途絶えた。鏡は再び底の見えない黒に染まる。

 シャーロットは鏡をポケットに押し込み、隣で寛いでいた鷲の頭をもうひと撫でしてから、空へ戻るよう指示を出す。

 鷲が控えめな鳴き声を上げながら夜にとけるのを見届けて、シャーロットも城へ戻ることにした。


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