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二章

二章


 グロリアと出会い、別れてから一週間が過ぎた。

 二人の日常は彼女との出会いで何かが変わることもなく、以前と同じく魔術や薬の研究。生活費を稼ぐための調合に時間を費やす毎日が続いていた。ただ一つ変わったことがあるとすれば、イドが新たなる家を探す傍ら、シャーロットが引越しの準備を始めたことだ。

 森の中にひっそり建てられた屋敷とはいえ部屋数はそれなりにあるし、本来客室である部屋にまでびっしりと書物と怪しげな魔道具が収められているため、引越しの準備もなかなか進まない。何より、引越しの準備を理由に家事を怠ることなど許されないのだから、余計に時間もかかってしまう。

(まだ次の家も決まらないみたいだし、今日くらいはさぼっても平気よね。食材も切らしてるし、町まで買いに行ってこなくちゃいけないもの)

 昼食までにはまだ時間があるが、往復の時間を考えると食事に間に合わないことは明白だった。数種類のサンドウィッチと温めるだけで食べられるスープを作り置いて家を出る。イドは今日も作業場に篭っているので、声をかけるよりはメモを残しておいた方が賢明だろう。

 出かけてくる旨を書き残して森へ入る。

 もう少しでこの薬草溢れる静かな森を離れるかと思うと感慨深くなる。この森に住んだのは一年程だ。最初は見覚えのない植物のオンパレードで、ひたすら食用の野草と薬草、毒草を見分けるために、図鑑片手に奔走した。

 新しい土地に行けばきっとまた見知らぬ植物を多く見つけることだろう。そうなれば、この森へ来たばかりの頃と同じ日々がやってくる。

(植物を探しては調べるのも嫌いじゃないんだけど、いつも図鑑無しで見分けられるようになった頃に引っ越ししちゃうのよね。それだけが残念だわ)

 今度はどこに行くのだろう。どんな植物が生えているのだろうかと、もうすっかり魔術師の助手として染まってしまった自らの思考に苦笑を浮かべていると、突然彼女の歩く獣道の傍で草むらが揺れた。

 風は吹いていない。ならば獣か。

 袖の中に忍ばせた短剣に手を添えながら、視線を逸らさず距離を取る。

 がさがさと音を立てて移動するそれは、結構な大きさがあるようでいくつもの草むらを音を立てながら近付いて来た。

 刹那、一つの草むらから枝や葉が切り払われた。背丈ほどの植物で視界を覆われていたはずなのに、今では向こう側がはっきりと目視できる。

 そして、そこにいたのは獣などではなく、れっきとした人間だった。

 目があって見つめあうこと数秒。シャーロットの頭は、予期せぬ人物との邂逅にどう対処したものかと回転を早める。

(この人、グロリアのお兄さんよね?)

 目にしたのは一度だけ。けれど、印象的な白い猫っ毛は、思いの外鮮明に、記憶の中に焼きついていた。

 回れ右をしようにも状況的にあまりにも不自然。何より王子を目の前に無視を決め込んで逆走するだけの度胸を持ち合わせていない。

「あ、あの。ここで何をなさってるんですか?」

 シャーロットは、枝葉を切り裂いた剣を片手にこちらを凝視する王子殿下に恐る恐る話しかけた。

 じっとこちらを観察したあと、彼は剣を納めて口を開いた。

「その派手な髪、あんた、一週間前にイドシュタインと一緒にいた女だろう。付け加えるならグロリアを保護してくれた恩人だ」

 イドが見えていたなら自分の姿も見かけていて当然だ。そして、あの口ぶりだとグロリアからも何かしらのタレコミがあったと見た。

 ばれているなら誤魔化す必要はない。

「――ご挨拶が遅れてしまい申し訳ございません、王子殿下。魔術師イドの助手をしております、シャーロットと申します」

「イドな、今はそう呼ばせているのか。まぁ良い、オレはアーサー。知っての通り王族だ。この間は妹が世話になったな」

「いえ、姫君がご無事で何よりでございました。して、今日はどういったご用向きでこの森においでなさったのでしょうか?」

「奴の助手が無能であるとは考え難い。よって、あんたはオレの言わんとすることをおよそ察していると思うのだが?」

 白々しい笑顔も、枝葉同様一刀両断されてしまった。

 言われずとも、この森に入った時点で誰を求めて来たのかくらいは察しがついている。

「イドの下へ案内しろと仰いますか」

「わかってるじゃないか。ここまでは辿り着けたんだが、この奥への道のりがどうにも見えない。案内してくれると助かる。もっとも、案内してくれずともその内辿り着くだろうがな。怠惰な時間の浪費は好きでも、延々迷って時間を潰すのは好きじゃないんだ。疲れるだろう?」

 王子らしくない気だるげな声音。やる気のない顔つき。なるほど、これなら気分屋で面倒くさがりのイドとも付き合っていけそうだ。

「……そうですね。では、ご案内しましょう。どうぞこちらへ」

 ここは森の奥深く。屋敷はそう遠くない。ここまで追い返されずに結界を抜けて来た彼なら、その言葉どおり屋敷に辿り着くのも時間の問題だっただろう。

 森を抜けられるのは余程幸運な者か、一流の魔術師くらい。例外は彼の助手であり、結界の抜け道を教えられているシャーロットくらいのはずだったのに、これはいったいどういうことなのか。

(王子殿下が魔術師なはずないわよね。ただ運だけでこの森を抜ける自信があったなんて、そんな馬鹿な話はないだろうし。この間の様子から察するに、イドは王子殿下にこの結界の抜け方なんて教えてない。どちらにせよ、あとの判断はイドに任せるしかないか)

 考えれば考えるほどわからない。

 屋敷へ向けて逆戻りする道すがら、ちらりと後方を振り返ると、アーサーはしっかりと後ろをついて来ていた。口数の多い方ではないのか、話しかけてくる様子もない。

 ものの数分で屋敷へ出戻ってきてしまった。

「ここがイドの屋敷です。どうぞ中へ」

 振り返ると、アーサーは挙動不審な程に庭を見回していた。

 庭はイドの支配下たるこの森において、唯一シャーロットが支配権を持つ場所だ。

 屋敷を取り囲むくらいに広い庭の裏手には、野菜を中心とした家庭菜園が広がり、正面と側面には薬効のある植物を中心に色とりどりの花が咲き乱れている。この屋敷に引っ越してきたときから庭の花壇は石畳によっていくつかに分断されていたので、それを利用して株を植え替えたり、背丈を整えたりと手入れを繰り返してきた。その結果、シャーロットの庭は貴族の庭とは違う意味で年中華やぎが絶えない。

「見事な庭だな。イドは植物の手入れなどしないだろう?」

「お褒めに与り光栄です。ここは私の管轄なのですよ、王子殿下」

「グロリアも、ゆっくり見てみたかったと話していたぞ」

「お城の庭園の方がご立派でしょうに」 

 シャーロットは肩を落として苦笑した。グロリアなら言いかねないが、彼女には野草の寄せ集めよりも、大輪のバラやユリの方が似合うだろうに。

「宮廷の庭師には作れない庭だ。どちらが優れているかなど、そんなものは見る者によって変わるだろうよ」

「ありがとうございます」

 その庭も貴方の所為で捨てる羽目になります。とは言えるはずもなく、シャーロットは笑顔で濁した。

「こちらで少しお待ちいただけますか? イドを呼んでまいりますので」

「ああ、頼む」

 物置にならずに済んでいた応接室にアーサーを通し、イドを呼びに行く。

 イドは結界内に入り込んだ人間全てを感知できる。グロリアの存在に気付いた彼がアーサーに気付かないなどおかしな話だ。

 いったい何を考えているのか。小首を傾げつつも作業場の扉を叩く。

「イド、少し構わない? お客さんが来てるんだけど」

 十秒待ってみる。返事はない。

「イド、いないの?」

 そっと扉を押し開いてみると、足元に砕け散った水晶玉の残骸が転がっていた。

 彼らしからぬ感情的な事態にびくりと肩が震えた。

 やはり怒っているのだろう。申し開きは聞いてもらえるだろうか。恐る恐るイドへと視線を向けると、彼はかつてない程眉間に深い皺を作っていた。

「イド……?」

「あのクソガキ、自力であそこまで抜けてきやがった。ったく、余計な技術を与えるんじゃなかったぜ。――シャーロット、あいつをとおしたのは応接室だな」

 ただでさえ悪人面のイドが、悪人のような台詞を吐き捨てた。

 自分のことなど目に入っていないかと思いきや、唐突に話を振られて反応が遅れてしまった。

「え、ああ、はい。えっと、私はお茶を淹れてくるね」

「必要ない。一緒に来い」

 お茶だけ出してさっさと引っ込んでしまおうと考えていたのに、イドはあっさりと却下した。

 仮にも顔見知りの客人でしかも王子殿下なら、礼儀として気持ちばかりのもてなしはするべきではないのだろうか。シャーロットの顔にありありと書かれた不満を読み取りイドは再度吐き捨てる。

「奴は客じゃなくて疫病神だ」

「そもそも、私がいる必要はないんじゃない?」

「どうだかな。奴の狙いが俺一人とは限らん。奴は平然とした顔で窓から他人の家に侵入するような変り種だ。お前を目の届かない場所に置いているうちに、勝手に取引など持ちかけられても厄介だ」

 ここに案内する間に見せていたあのやる気のない表情からは、とても行動的な人間には見えなかったのだが、この口ぶりだとイドには経験があるのだろう。

(いや、ここがイドの住まう森と気付いていて足を踏み入れるくらいなら、充分行動的な人ってことなのかしら)

 イドの後ろについて応接室に戻る。ところが、戻ってみるとアーサーの姿は消えていた。

「おかしいな。ここで待ってるように頼んだんだけど」

「ああ、悪い。厨房を使わせてもらったぞ」

 背後から声が聞こえたかと思うと、アーサーは盆にティーポットと三つのカップを載せて帰ってきた。もしも一人で厨房に行っていれば、自分でお茶を淹れる王子殿下と遭遇して言い知れない空気に呑まれていたことだろう。

 片手に盆を持ち、もう片手で背中を押して応接室に押し込まれる。

 無言で目を逸らすシャーロットの肩に、イドの手が乗った。

「言いたいことがあるなら言え。こいつはお前の知る王侯貴族からかけ離れた存在だ。不敬罪という言葉を知っているかも疑わしい」

「まぁ落ち着けよ。とりあえず座って茶でも飲もうじゃないか」

「……いただきます」

 もう誰が家主で誰が客かわからない。

 きっと、口を出せば出すほど疲れるだけなのだと、シャーロットは過去の経験から判断した。主にイドと過ごしてきた毎日が判断基準だ。

 自分が無駄口を利くのはイドの望むところではないはずだ。シャーロットは自分にそう言い聞かせ、紅茶色のお湯を喉に流し込む。

(うん、まずい。まずいけど言えるわけもないのよね。やっぱり私が淹れてくれば良かった。というか、どうしよう。王子殿下にお茶汲みさせちゃったんだけど)

 イドはどんな反応をするだろうかと横目で様子を窺うと、一口飲んだだけでもう手をつけるのを止めていた。

「シャーロット」

「必要ないと言ったのはイドでしょうに」 

 イドの言いたいことはわかっている。「淹れ直してこい」だ。なければないで平気でも、まずいものを口にするのは気に食わない。とことん自由な人だ。

「上手くいったと思ったんだが」

「色だけだろうが馬鹿野郎」

 アーサーにもイドの気持ちは通じていたらしい。彼は残念そうな顔でティーカップをこちらに寄越した。

 厨房でお茶を淹れ直して戻るまでに要した時間は数分。

 砂時計が落ちるまでしっかり待ち、その間に用意したお茶請けのクッキーを籠に並べて応接室に出戻ると、二人はその間に会話があったのかも怪しいような姿勢で、お互いに目を合わせることすらしていなかった。

 イドはどこからか取り出した本を読んでいるし、アーサーに至ってはソファで横になって、半分目が閉まっている。二人の関係性がまるで見えない。

 紅茶とクッキーをテーブルに並べ、イドの隣に座り直す。

「あの、話は進んだの?」

「こいつの状態を見てそう思えるなら、俺はお前にしばらくの休暇を申し付ける必要があるんだろうな」

 先程の紅茶色のお湯の口直しに新しいお茶を一口飲み下す。次いで吐き出されたのは安堵の息でも賛辞でもなく皮肉だった。

「貰えるなら貰うけど」

「その口ぶりなら正常な精神状態だな。安心した」

 端から休暇を与える気などないことを、シャーロットは知っていた。

 彼の生活能力が低いわけではない。ただ、雑事を他人に任せることを知った今、自分で炊事洗濯などの雑事をこなすことにイドが耐えられるはずがないのである。

「グロリアから聞いてまさかとは思ったが、相当に仲が良いみたいだな。どういう風の吹き回しなんだ? イドシュタイン」

「使い勝手が良かったから重宝している。それだけだ」

 これは褒められたととって良いのだろうか。ようやく本題に入りそうな雰囲気をかもし出し始めた男性陣の隣で、シャーロットはほんの少しだけ頬を染めた。

「アーサー。お前は世間話がしたくてわざわざ俺の結界を抜けたわけじゃないんだろう? いったいどんな面倒事を持って来た?」

「予想はついているだろう?」

「そうだな。お前に結界の見破り方を含めた、魔術の回避方法を教えたことを後悔する程度には察しがついている」

「なら必要ないんじゃないのか?」

「うちの助手が話について来ていないからな」

「王子殿下が最上級の難問を抱えてきたらしいことだけは把握してるんだけどね」

 アーサーが現れて以来イドがよく喋る。彼の口数が増えるのは、面倒事を回避する言い逃れを並べ立てるときが多い。彼の実力と性格から、大概の人間はそれで折れて逃げ帰ってしまうのだが、さすが次期国王というべきか、アーサーは一歩たりとも引けを取らない。

「俺としては、お前がその難題すら耳にする間もなくこいつが帰ってくれることを祈ってるんだが」

「そう簡単に引き下がれる事態ならお前を訪ねたりしないさ」

「俺を頼らずとも現任の宮廷魔術師達がいるだろうが」

「その現任達がお前に縋っているんだよ。自分達の手には負えんから、先任のお前を説得して欲しいと泣きついてきた」

「役立たず共め」

 話にまるで入っていけない。

 彼等の会話を整理するに、どうやら本来なら現在の宮廷魔術師達が処理、もしくは何かしら関与しなければならない事態が発生しているものの、それは国でもトップクラスに位置する宮廷魔術師達ですら抱えきれない大事である。そこで彼等はその難題の処理ではなく、難題を解決してくれそうな人間の捜索に精を出し、発見されたのがイドである、ということらしい。

 王族の誰かに凶事の予言でも下ったのだろうかと考えたところで、シャーロットはアーサーの妹、グロリア姫の身の上を思い出した。

「グロリア、竜の花嫁。他の動物や魔獣と血の混ざってしまった亜種ならともかく、本物の竜が相手なら太刀打ちできる人間は少ない。もしかして、王子殿下がイドを尋ねて来たのって……」

「正解だよ助手殿。オレは、妹を救う術を求めてイドシュタインを尋ねて来たんだ」

 イドが心底面倒くさそうに眉根を寄せた。

 竜は人間が地上の覇権を得る遥か昔から世界に存在した者達だ。今でこそ僻地に引っ込み、人前には滅多に姿を現さないが、もしも彼等が人間に戦争を仕掛けてくるような事態になれば、人は成す術もなく駆逐されるだろう。

 身体は家よりも大きく、独自の竜語に加えて人の言葉を解し、人より優れた記憶力と、それに見合うだけの膨大な知識を持ち合わせる。加えて人間など足元にも及ばない程の魔力を有するともいわれ、中には魔術を行使できる竜もいると言われている。

 単体と争うだけでも死傷者の数が予測できない。なるほど、宮廷魔術師達が匙を投げるのも納得だ。

「そもそもお前達は俺を何だと思っている。俺なら竜を殺せるとでも?」

「そうですよ王子殿下。いくらイドでも、竜と戦うなんて無茶です。彼だって一応人間なんですよ?」

 一応という単語に、また一本イドの眉間の皺が増えた。

「イドシュタインが宮廷魔術師を勤めた期間は五十年。その間、こいつにやれと言って達成できなかった案件は一つもない。正直な話をしよう。オレ達王族は、現任の宮廷魔術師達よりもイドシュタインを信頼しているし、宮廷魔術師達もその現実を理解している」

「五十年。――イド、今いくつ?」

「助手殿、何故今だけ空気を読まなかったんだ?」

「おっと、失礼しました王子殿下」

 思考するよりも早く口が動いてしまった。シャーロットは慌てて居住まいを正す。

 しかし、彼が元宮廷魔術師とは聞いていたが、任期五十年とは初耳だった。

 宮廷魔術師を勤めていた時間だけでも五十年。生まれてすぐに宮廷魔術師になれるはずもなく、人には成長し学ぶ時間が必要だ。そして宮廷魔術師を辞めてからシャーロットと出会い、生きてきた時間もある。少なく見積もっても八十年近く生きている計算になる。見た目は二十代半ばにしか見えないというのに。

(失敗したわ。イドの年齢なんて聞いたことがなかったからつい反応しちゃった。あの人、私を助手にした日からまるで老けていないんだもの)

「話を戻すぞ。現在のこのセフィラス王国には竜に関する文献が少ない。伝承もまたしかりだ。奴等と相対するとなると、有識者の手を借りる必要がある。頼りになるのはお前達だけなんだ」

「断る。お前達の仕事だ。隠居した人間にいつまでも縋りつくんじゃねえ」

 尤もな言い分だが、これでは堂々巡りではないだろうか。

 イドはもう国の仕事を引き受けるのが嫌だと言う。国はイドしか頼れないと言う。

 どちらかが譲歩しなければ、掛け合いの間にグロリアは竜に連れ去られてしまうだろう。それではグロリアが不憫で堪らない。そんなことを考えながら二人を見詰めていると、ふいに正面に座るアーサーが立ち上がり、シャーロットの二の腕を掴み上げた。

「お、王子殿下!?」

「だったら助手殿を貸してくれ。今のグロリアは情緒不安定だ。だが、助手殿の話をする時だけは元のあいつに戻る。言うなれば安定剤だな。相当気に入られているぞ。少しばかりオレに雇われてみないか? 助手殿」

「アーサー! ふざけるのも大概にしろ!」

 声を荒げるイドなど初めて見た。それだけ竜が危険な存在で、関わり合いになりたくないのだろう。自分にはイドの意志に従う義務があると知りながら、それでもアーサーの言葉が脳内で反芻した。

 自分ならばグロリアの安定剤になれるかもしれない。逃げ出してしまうくらい怖かったくせに、それでも勇気を振り絞って城へ帰った彼女の助けになれるかもしれない。

 シャーロットにとって、グロリアはただ一晩保護しただけの赤の他人だ。けれど、一人では眠れない程の不安を抱えた少女の命で国の安寧を守るなど、本当に正しいことかどうかと問われれば、答えを出すことなどできなかった。

(あの子一人の犠牲で竜は身を引く。これで選ばれたのが一般人なら、軍は総出を上げてでも捕らえて差し出したはずだし、一人の犠牲で国民全てが守られるなら安いもの。でも、全てを背負わされる一人の恐怖はどんなに大きいんだろう?)

 かつてイドに手を差し伸べてもらった自分が、誰かを切り捨てるような真似をしたくない。ただ運が悪かったのだと、そう言い聞かせて手を離すような人間にはなりたくない。

 一生助手という立場から逃れられないシャーロットにも目標がある。それは、イドのように、誰かを救うだけの力を持った人間になること。例えイドが誰かを救いたくて魔術師になったわけでなくとも、彼に手を差し伸べてもらったというその過去こそが、彼女の意志の向かう先を決定付けていた。

「行きます。王子殿下! 私でお役に立てるのなら、グロリアの傍にいてあげたいです!」 

「あんたと違って話のわかる助手じゃないか。イドシュタイン」

 掴まれていない方の腕でアーサーの腕にしがみついて宣言する。アーサーが口角を上げる傍らで、小さな舌打ちの音が聞こえた。

「シャーロット。俺がいつお前に決定権を与えた?」

 ただでさえ低い声が、このときに限っては地を這うように低く低く呟かれた。

 途端に胸に激痛が走り、嗚咽を漏らしてシャーロットは蹲る。

 アーサーは何をしたのかとイドに詰め寄るが、彼は耳を貸す様子もない。 

「お前はその命を俺に捧げ、死ぬまで俺の命に従うと誓ったはずだ。それなのに、俺の意に反してアーサーに従い、あの小娘に仕えるつもりか?」

「イ……ド……。それでも、私、は――!」

 シャーロットは、かつて不治の病に冒された弟を救うことと引き換えに、イドに生涯の忠誠を誓っている。この痛みはその忠誠の証。誓いを立てたからには逃亡は許されない。その証拠として、彼女の心臓には、イドがいつでも自分に反した彼女を殺せるように呪いが刻み込まれているのだ。

(実際に使われたのは初めてだわ。とんだ爆弾抱えて生きてたのね)

 声はまともに出なかったが、思考は意外なくらい冷静だった。

 痛みが治まると、息を切らしながらイドを見上げた。彼は片膝をついて、じっとシャーロットを見下ろしている。

「考えを改める気は?」

「ない……よ。どこまで、役立てるかは、わからないけど。それでも、あの子を、見捨てたくない」

「何故。赤の他人だろう?」

「居場所がないのは、昔の私と、同じだから」

 額に玉のような汗を浮かべながら微笑む。イドからまたもや溜息が吐き出された。

「甘さを捨てさせなかったのは俺のミスだな」

「――じゃあ!」

 起き上がり、期待に満ちた目を輝かせる。

「――シャーロット。お前の知る俺はこの程度で折れてやるほど御人好しか?」

 上げて落とす戦法も初体験だ。普段はひたすら小言と嘲笑の嵐に襲われているおかげで、偶の笑顔にだまされた。

「だ、駄目?」

「お前が俺から解放される方法は?」

「イドを倒すこと、です」

「それができないなら諦めろ。俺が従えと言ったら従うんだ」

 彼の助手になったばかりの頃、気まぐれに情けにもならない情けをかけられたことがある。それが、一生イドに仕えるはずのシャーロットが自由になる方法。それは、どんな手段を用いてでもイドを倒すこと。具体的には彼を一日身動きできなくすれば勝ちなのだが、生憎試したことも試そうと思ったこともない。

(イドに挑むなんて、そんな恐ろしいことできるわけないじゃない。唯一可能性のある毒物だって、平気な顔してテイスティングしてるの知ってるんだから!)

 イドを説得する方法など思いつかない。ぐぬぬと呻り声を上げながら悩んでいると、ふいに体が宙に浮いた。そして気が付けばアーサーの肩の上に俵の如く担がれている。

「あの、王子殿下。いったい何をしているのでしょうか?」

「胸の痛みは治まったか?」

「はい。ご心配おかけしました」

「なら結構。では行くとしよう。許可が下りないなら攫うまでだ」

「王子殿下、通常なら犯罪です。職権乱用です」

「オレは王族で君はイドの助手だからな。皆藁にも縋る勢いだ。誰も咎めないぞ」

 どうやらアーサーは自分を誘拐するつもりらしい。それもイドの目の前で、本人に攫いますと宣言して。

「そいつに何ができる。言っておくが、そいつがその辺の魔術師より優れているところといったら庭の手入れと家事くらいのものだぞ。他はどこまでも平凡な小娘だ」

「だがあんたは傍に置いている。オレもあんたの教え子だからな。あんたの人となりは知ってるつもりだ。無能を手元に残したりしない、自分にも他人にも容赦のない男だってことをな」

「藁にも縋るような連中にそんな半人前突き出してみろ、士気が下がっても俺は責任なんざ取らんぞ」

「じゃあこうしよう。これは王族命令だ。セフィラス王国第一王子アーサーの名において命じる。姫の防衛に協力しろ。これに反するならば、お前の有する土地も財産も何もかも没収し、国外追放とする。困るだろう? お前が功績を上げる度に報酬としてくれてやった、貴重な薬草や幻獣の生息する森を取り上げられるのは」

「お前にそんな権限はない」

「今はな。だが、いずれオレが王になれば、即位したその日に実行してやろう。それでなくとも不敬罪くらいには問えるんだぞお前の物言いは」

 両者一歩も引かず、シャーロットはアーサーの肩の上ですっかりただの荷物と化していた。イドの殺人的な目付きで見据えられても微動だにしないアーサーはやはり大物だと、半ば関心さえさせられる。

(今回ばかりは、王子殿下に勝って欲しいなぁ。あ、腹筋が疲れてきた)

 抱えられながらも二人と目を合わせようと上半身を起こしていた所為で、段々と体勢の維持が難しくなってきた。

 早く決着がつかないかと耐えていると、イドが盛大に舌打ちした。

「報酬は北方の森を一つ。泉のある場所が良い。それで手を打ってやる」

「イドシュタインにしてはロマンチックだな?」

「深い積雪の下から芽吹く薬草があれば、雪に阻まれ人の手が入らないことで原始の姿を保ってきた動物もいるんですよ、王子殿下。イドは希少動物を見つけたくても探すのが面倒だから、手っ取り早く動物が集まる水場を指定しているにすぎません」

 動物の中にも爪や牙に特殊な薬効を持つものがいる。イドが所有する土地は、決まって市場では出回らない動植物の生息する場所。森の保護は、結界を張ってまで人の侵入を制限している理由の一つでもある。

 シャーロットの注釈に、イドは無言のまま頷いた。

「なんだ、つまらない。まぁ、協力してくれるなら細かいことは言わんさ。北方の森だな、国王陛下にはオレから話しておこう」

「話が纏まったなら下ろして頂けませんか?」

「ああ、そうだったな。悪い」

 アーサーの肩から下りて、イドの隣に戻る。彼の顔は微妙という言葉がよく似合う、なんとも言い知れない表情をしていた。

「しかし、今日中に会えて助かった。何せ、今夜には竜がグロリアを迎えに来るからな」

『はぁ?』

 シャーロットとイドの二人が同時に呆気に取られるなど過去一度たりともありはしなかった。基本的に、驚くのはシャーロットばかりだったからだ。

「あの、王子殿下。今のは、どういう?」

「善は急げだ。支度をしてくれ。さっそく城へ向かうとしよう」

(ああ、この人が王になったら大臣方が翻弄されて胃薬がよく売れそうだわ) 

 イドなど、早々に諦めた様子で額に手を当てていた。その指の隙間から、時折じとりと睨みつける視線を感じたけれど、シャーロットはさっと目を逸らしてアーサーのあとを追い、家を飛び出した。 


 王都には観光名所が乱立しているが、とりわけ王城は別格の巨大さと緻密さを誇っている。

 城壁と城門によって閉ざされた王城は、祭日の解放日意外には一般人の立ち入りを固く拒んでいる。解放されるのも王城正面の王城前広場のみで、シャーロットもその奥の庭園や、何棟も連なる王城内に足を踏み入れたことはない。

 歴史を感じさせる繰り返された修復の跡。歴々の建築家が増改築を繰り返し、違う世紀を生きた著名な彫刻家達の作品が一所に集約された空間。圧巻だ。

 城壁の中だけでも小さな村一つくらいは収まりそうな広大さがある。

 アーサーに連れられ、イドと共に城壁内に足を踏み入れたシャーロットは、田舎者に見えないよう、開きそうになる口を横一文字に閉ざすのに必死だった。

「シャーロット、平静を心掛ける努力は認めるが、目が泳いでるんじゃ無意味だぞ」

「うっ。正面広場より奥に入るのは初めてなんだもの……」

「慣れれば無駄に広くて面倒なだけなんだがな」

「ありがとう。その一言で感動ぶち壊しだわ」

 一般人とは感性の違うイドの一言で、冷静さが戻ってくる。

 落ち着いてもう一度辺りを見回してみると、自分達三人がやたらと注目されていることに気がついた。

 城門を通るときに衛兵の声がやたらと固かったのは、第一王子のアーサーが一緒だからだと思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。

 ひそひそと話しながら、時折頬を染めているのは歳若い侍女達で、王子殿下が見慣れない人間を連れていることにきょとんとしているのは同じく若い兵士達。その他、年季の入っていそうな文官武官、その他諸々の方々は、一様に目を丸くしていて、中には顔を引き攣らせている者までいる。間違いなく、これはイドの所為だと確信した。

「イド、あの人達に何かしたの?」

「有象無象の顔なんて憶えてない。誰に何をしたかなんざ知ったことか」

(やらかした記憶はあるんだ)

 五十年もここに留まり、かつ引き止められていたというくらいだから、結構な地位に位置していたのだろう。

 外見と実年齢が噛み合わず、頭脳明晰だが目付きも口も悪い、国内でも貴重な有力な魔術師。なるほど、周りが怯えるのも頷ける。

「連中から見れば、イドシュタインの隣で平然とタメ口利いてる助手殿も相当大物だと思うんだが」

「それもイドの命令ですから。家の中で堅苦しい敬語なんて使われたら息が詰まるんですって」

「そうか?」

「王子のお前と同じ尺度で物事を捉えられるか。四六時中へりくだられて、顔色窺われる生活なんざできんわ。鬱陶しい」

 親以外に上の存在しない第一王子には理解できない感覚だったのか、アーサーはこてんと小首を傾げた。対するイドは、宮廷時代を思い出したのか、酷く眉間の皺が深い。

「あんた、意外と小心者だったんだな」

「お前も毎日のようにゴマをすられ、互いの腹を探りあい、年間休日五日以内、睡眠時間平均二時間の生活を五十年ほど続けてみろ。俺の気持ちが嫌と言うほどわかるだろうよ。普通の人間ならとっくの昔に死んでるぞ」

「書いて字の如く忙殺だったのね」

 想像するだけでも疲れそうだ。彼の人間嫌いの理由がわかった気がした。

「顔色一つ変えずにこなしていた人間が何を言うんだか。ほら、こっちだ」

アーサーに導かれるまま歩みを進めると、城の正面ではなく側面に出ていた。

 正面から入らないのかとアーサーを見やると、彼は唇に指を押し当て、言外に秘密である旨を二人に伝えて外壁の一角を蹴った。すると、彼の足のすぐ傍で、低く石の擦れる様な音が響き、続いて四角く地面が動いて地下へ伸びる階段が現れた。古城にありがちな隠し通路の一つだ。

「何故緊急事態でもないのにこんな通路を?」

「大方、人目を盗んで勝手に城を抜け出したからだろう」

「そのとおり。生憎、今オレが城外へ出ることは歓迎されてないんでな」

「どうしてです? イドの招致は王族の総意なのでは?」

「いやいや。国王陛下はグロリアを差し出して事を済ませるおつもりだ。それを、オレが引っ掻き回して、混乱させている。グロリアを守るか差し出すか、意見自体は二つに割れているが、国王がはっきりと意志を示してしまっている以上、残る半数は口を噤んでいる。宮廷魔術師が泣きついているって言うのは、彼等がオレ寄りの考えを持っていたというだけの話だよ」

「王族でさえ、女はただの道具なのね」

 セフィラス王国には三人の王子と二人の姫がいる。国民の命を第一に考えてか、はたまた姫はまだいるから、一人くらい減っても良い。もしくは、王子さえ無事ならそれで良いということか。いずれにせよこの時代、どこの家でも女の命は軽く見られている。

 かつて、父が病に倒れるのは弟ではなく姉であれば良かったのにと零していたのも、このご時勢、跡継ぎの必要な家においては至極ありふれた発言だったわけだ。

「オレはそうは思わないけどな。でなければ、イドシュタインを脅迫してまで連れて来たりはしないさ」

 通路に転がるカンテラの一つに火を灯し、アーサーは先へ進みながら振り返る。

「こいつは馬鹿だからな。世の常に流されて、見てみぬふりをすれば良いものも、疑問を抱けば逆らわずにはいられない。女だからとか、身分の違いとか、こいつにはその手の判断材料が通用しない。幼少時代を貴族の家ですごしたお前には信じられない話だろう。これが次代の頂点に君臨する男なんだからな」

 貴族よりも庶民に近い感覚だ。いや、庶民でさえ女の立場は男より遥かに弱い。一夫多妻が認められるこの国で、女はただ子供を産むための道具という認識が強い。それなのに、彼は妹を守るために国王である父親に逆らってまで戦おうとしている。

 長い物には巻かれてしまう方が利口なのにと嘲笑するイドは、言葉に反してこの手の人間を好む傾向があった。おそらく、彼でなければ脅されても協力などしなかっただろう。

「かと言って、オレは万人を救いたいわけでもないよ。手の届く範囲、知っている人間。精々その程度だ。王族としては失格なんだろうな。――ところで、助手殿は貴族の生まれか?」

「おっと、失言だった。他言無用だ。なぁ、シャーロット」

「ええ。内緒でお願いしますね、王子殿下。でないと、イドが幼女誘拐という屈辱的な罪状で投獄されてしまいます」

「イドシュタイン。あんた、誘拐したのか?」

「正当な契約に基く主従関係だ」

「私がイドの助手になった時の年齢がまずかっただけよね。未成年だったから」

 アーサーは訳ありかと肩を竦めて笑ったあと、通路の行き止まり側面の壁を押した。

また壁が動き、薄暗い倉庫に出た。ただし、倉庫の中身は金銀財宝。つまる所、宝物庫だ。

「宝物庫? ……私には一生縁のない場所ですね」

「年頃の女の子がよくもまぁ無感動に。さすがイドシュタインの助手」

「いえ、確かにあそこのティアラとか素敵だなぁ、とは思うんですけど……」

 シャーロットは壁際の棚の上、ガラスケースに収められた銀色のティアラを指差した。金細工の王冠や首飾りも魅力的だが、ユリを模した繊細な銀細工に深い緑色の宝石が埋め込まれたそれは本当に見事だった。時間があるならじっくりと眺めてみたいところだ。

 美術館気分で見学するには楽しめそうだが、手の届く場所、触れられる場所に他人の財産があるというのはどうにも落ち着かない。魔が差すことなどありはしないと自負しているが、名高い職人達の芸術には、魔力が宿り、善からぬ誘惑を誘うものなのだ。幼い頃、貴族でありながら金に困って生活した経験があるから尚更に。

「なら、グロリアが無事助かれば見せてやる。しっかり働いてくれよ、助手殿」

「仰せのままに、王子殿下」

「一分一秒でも長居はしたくないんだがな。おい、さっさと行くぞ」

 イドは内側から施錠されていた鍵を開け、足早に城内の廊下に出た。

 ほんの数分だけでもカンテラの明かりだけを頼りに歩いたのだ。窓から差し込むよう陽光が、いつもの数倍眩しく光の残像を残し、シャーロットは思わず眉を顰めた。数秒我慢すると、ようやく王城の長い廊下が認識できるようになった。

 白い壁と金で縁取りされた重厚な扉、等間隔で飾られた絵画と花。ふかふかの赤い絨毯。まるで、絵本から飛び出してきたかのような光景である。

「すごい」

「気に入ってもらえたなら嬉しいよ。――とりあえず、助手殿はグロリアの部屋へ行ってくれないか。早く顔を見せてやって欲しい。イドシュタインはオレと来てくれ。現状の説明を済ませておく」

 アーサーは外側から宝物庫の施錠を済ませ、近くを歩いていた侍女を呼び止めた。

 彼の命令を受けた侍女は、「こちらへどうぞ」とシャーロットに笑顔を向ける。 

「王城で弱味は見せるなよ。俺の弟子というだけで、近付いて来る人間なぞざらにいる」

「怖がらせるなよ。グロリアを頼んだぞ、助手殿」

「はい。お二人共、またのちほど」

 気安く手を振ってくるアーサーに、侍女もさすがに戸惑った。同時に、この女は何者なのかと、ほんの僅かに目が細められる。

(うわぁ、目が怖い)

 王城内を歩くには場違いな、庶民染みた装いのシャーロットは単体でも人目を引いた。本音と建前がまるで真逆の場所なのだ。笑顔の侍女も、腹の中では何を思っているのかと考えると不安になる。

 こういう世界は久しぶりだ。

「こちらでございます」

「ありがとうございます」

 侍女が足を止めたのは、渡り廊下を進んだ先。天へ向かって突き出した塔の一つだった。聞けば、王子、王女殿下は皆塔の中に私室を構えているのだとか。

「王女殿下、お客様をお連れしました」

『お帰りいただいて。今は誰にも会いたくないの』

 侍女は扉の脇に控える衛兵にシャーロットがアーサーの客人である旨を告げてから、ノックと同質の無機質な声で中にいるグロリアへと客人の来訪を告げる。対するグロリアも、すっかり冷め切った声で突っぱねた。

「申し訳ありません。殿下はここ数日、ずっとこの調子でして」

「不安で胸が張り裂けそうなんだもの、仕方ありませんよ。ちょっと失礼しますね」

 扉とシャーロットの間に立つ侍女を避けて扉に手を伸ばす。勝手に開けるのはさすがにまずそうなので、侍女に倣って扉を数度叩いてみた。

『誰? 会いたくないと言っているのです!』

「そう言わずに会ってくれないかな、グロリア。折角アーサー殿下が連れてきて下さったのよ? せめて一杯だけ、お茶に付き合っていただけないかしら?」

『その声、――シャーロット!? 待って、今開けるから!』

『王女殿下! お待ち下さい、お客様のご案内なら私共が!』

 途端に静まり返っていた部屋が賑わいを取り戻す。

 一晩同じベッドで眠ったり、食事やお手製の菓子を振舞ったりもしたけれど、ここまであからさまに反応してもらえるとは驚きだ。そして何より、彼女が自分のことを憶えていてくれたという事実に、確かな喜びを感じた。

 がちゃりと扉が音を立て、同時に嫌な予感がよぎる。咄嗟に一歩下がったシャーロットとは違い、反応し損ねた侍女は、乱暴に開かれた扉と額を接触させていた。鈍い音を立て、額を押さえながらよろめく様には同情を覚えた。

「グロリア、はしたないわよ」

「ご、ごめんなさい! あなた、大丈夫!?」

「――問題ありません。お気になさらず、王女殿下」

 一瞬言葉に詰まったものの、侍女は涼しい顔で頭を垂れる。

「本当にごめんなさいね。つい、気持ちが高ぶってしまって。――お久しぶりです、シャーロット。会いたかった。でも、お兄様が連れて来たって、いったいどういう経緯でそんなお話になったのです?」

「それも含めて、少しお話しましょうか」


 王城に仕える人間達は優秀だ。とりわけ、王族の傍に控える者ともなれば殊更に。

 グロリアが声をかけると、すぐさま侍女が一人、お茶を淹れに下がった。ものの数分で戻ってきた彼女の押すワゴンには、芳醇な香り沸き立つ琥珀色の紅茶と、三段プレートに彩られたアフタヌーンティーのお茶請けが鎮座していた。さすが王城。一度だけ奮発して購入した王都一と名高い菓子職人のケーキにも引けをとらず、四角いショートケーキの上に乗せられた苺と、飾りのチョコレートが絶妙なバランスで自己の美しさを主張している。

「何と言うか、この間は庶民のお菓子など振舞ってすみませんでした」

 身分の違いを一瞬で思い出させられ、シャーロットは苦笑した。本来なら王女殿下にタメ口など恐れ多いのだが、今更余所余所しい話し方をしないで欲しいと懇願されてしまったばかりだ。

「あら、私、シャーロットのクッキー好きですよ? シンプルな物ほど誤魔化しが効きません。機会があれば、また焼いて頂きたいですわ」

「ええ、是非。その未来を紡ぐために、イドと助手の私が呼ばれたのだから。イドのことも憶えているわよね? 彼は元宮廷魔術師なの。お城に勤めていた頃は、イドシュタインと名乗っていたそうよ。アーサー殿下とも交流があるわ。その関係で彼が呼び戻されて、そのおまけで私がついて来た形になるわね」

 一口飲み下した紅茶の香りに表情を緩めながら、事の経緯を説明した。

「あの方、宮廷魔術師だったの?」

「当代の宮廷魔術師様方に泣き付かれる程優秀だったそうよ」

「言われてみれば、見かけたことがあったかもしれませんね。でも、シャーロットはそんな大魔術師様の助手なんでしょう? あなたも凄い人だったのね」

「恥ずかしい話だけど、私は魔術よりお料理の方が得意なの。竜にどこまで太刀打ちできるかわからない。けど、アーサー殿下のおかげでしばらくはあなたの傍にいられるわ。私にできることがあるなら何でも言って」

 イドの助手として、深く人に立ち入ることを避けてきた。今回イドがアーサーに協力することで、一時的にその決まりが破られることになった。

 年の近い少女と、こうやってお茶をするのはいつ以来だろう。もう遠い昔のことだったような気がする。イドの助手になってからは、彼を失望させまいと毎日必死だったから。

(不謹慎なんだろうな。こんな瞬間を楽しいと感じてしまうのは)

 言うなれば友情、なのだろう。

 たった一晩だが言葉を交わして、笑い、励まし、一緒のベッドで眠りについた。彼女の心に巣食う闇を知りながら、人と接するのを楽しいと感じてしまった。望みのために捨てた時間を夢見てしまった。叶うことなら、彼女とまた話したいと。それが今日叶った。そして今は、この時間を守りたいと願っている。

(この子さえ生きていれば、またいつかお茶くらいできるかもしれない)

 身分の違いはある。竜の花嫁たるグロリアを守りとおせば、自分はまたイドと森に戻るだけだろう。けれど、生きてさえいればまた、と、その希望が彼女の背中を押しているのだ。

「嬉しい。そんなふうに言ってくれたお友達はシャーロットで二人目だわ」

 初めてでなかったことに、心がちくりとして複雑な気分になる。しかし、裏を返せば彼女には他にも信頼できる人間がいるということ。それは良いことなのだからと、落ち込みそうになる自分を叱咤した。

「でも、女の子でそう言ってくれたのはシャーロットが初めて」

「最初に言ってくれたのは男の子なの? まるでお姫様を守る騎士ね」

「ええ。彼は本物の騎士なの。誠実で頼れる子なのよ。もうすぐ交替の時間だから、ここに来るんじゃないかしら。後で紹介しますね」

「ええ、グロリアのお友達なら、是非」

 性別の違いについ邪推してしまうのは女の性だろうか。姫君と騎士。その組み合わせに、つい物語のような展開を想像してしまう。現実にはそう簡単に許されるものではないので、むしろお互いに友人と認識してくれている方が平和なのだが。

「騎士様といえば、アーサー殿下が討伐隊を編成すると聞いたけれど、そのお友達も参加するの?」

「志願すると聞いています。止めたのだけれど、一緒に戦うからと押し切られてしまいました。ああ、噂をすれば来たみたいですね」

 グロリアの視線が外へ向かう。外からは護衛の交替時間であることを告げる声が聞こえていた。若く、緊張を伴った固い声が上官に向けるように張り上げられる。まだ騎士団に入って日が浅いのだろう。

「お部屋に入れてあげて頂戴。本来なら、室内にも護衛を置かなければいけないそうだから」

 手近な侍女に声をかけ、外の騎士を招き入れる。どうやら、我が侭を言って護衛を外に追い出していたらしい。

「志願はするそうですけど、今はまだお兄様の命令で護衛のままなの。いらっしゃい、ジャスティン」

「王女殿下、また護衛を追い出してしまわれたのですか? 御身は危険に晒されているのですから、兵をお付け下さいとあれ程申し上げましたのに!」

 部屋に入ってきたのは亜麻色の髪の少年だ。年はグロリアと同じくらい。騎士と呼ぶには頼りない程細く、背もそう高い方ではない。この年頃の少年にしては少女的な印象を纏っている。

(……亜麻色の髪の、グロリアくらいの年の、騎士ってことは貴族生まれの、女の子顔のジャスティン?)

 シャーロットの記憶に一人の人物が引っ掛かった。それは、かつて不治の病に侵されて病床に伏していた少年。イドによって救われた、一つ下の生き別れの弟、ジャスティンだ。

 浮かべた笑みが自然と引き攣っていくのを感じた。

(他人の空似? いやいや、あの髪の色とか顔付きとかお母様そっくりだわ。家を離れて久しいからって身内の顔くらい憶えてるわよ。間違いなく私の知ってるジャスティンじゃないあの子は!)

 この一週間予想外だらけではあるが、これは最上級に想定の範囲外だ。

 ここで正体がばれるのは大変よろしくない。

 八年前、どんな病も治してしまうという噂のあった、森に住まう魔術師イドを尋ねたシャーロットは、幸運にも森の結界を抜けてイドに辿り着いた。しかし彼に支払える対価を持っていなかった彼女は、自分の命と弟の命を秤に掛け、自分の人生を差し出してイドへの忠誠を誓った。ただし保護者には無許可で。その後一度も家に帰っていないので、完全に失踪者扱いになっているはずなのだ。

(王子殿下は訳ありで納得してくれる人だったけど、実の弟はそうもいかないわ。下手をすればお父様とお母様が私を連れ戻そうとするかもしれないけど、そうなると契約不履行でジャスティンだけじゃなくて家族全員がイドの怒りを買うことになる)

 とるべき方針は一つ。初対面の他人のふりをする。それが、全てを平和的に解決する方法だと、シャーロットは判断した。

(ただでさえグロリアを狙う竜のことでばたばたしてるんだもの。今、私の事情を持ち込むべきではないわ)

 家族の顔を見たくないのではない。それよりも、守るべきものがあることを知っているだけだ。

「シャーロット、彼はジャスティン。今お話していた私の友人です。時々、騎士のお仕事で護衛をしてくれたりもするんですよ。ジャスティン、彼女はシャーロット。お兄様が連れて来たイドシュタイン様の助手で、私のお友達です」

「はじめまして、ジャスティンさん。魔術師イドシュタインの助手、シャーロットと申します。以後お見知りおきを」

「騎士団所属、ジャスティンと申します。イドシュタイン様のお噂はかねがね聞き及んでおります。ご協力感謝します。ところで、あなたはシャーロットさんと仰るのですよね?」

 さっそく食いついてきた。髪の色はイドの実験のおかげでピンク混じりの奇抜な色に変化してしまっているけれど、生まれついた顔はそう簡単に変えられない。シャーロットは父親似で、ジャスティンは母親似。救いなのは、どんなに父親似でも男性と女性では違う顔付きになって判別し難いというところだろう。

「ジャスティン、どうしたのですか?」

「いえ、姉と同じ名前だったもので、つい」

「ジャスティンさんには、お姉さんがいるのですか?」

「ああ、シャーロットさん。僕のことはどうぞジャスティンとお呼び下さい。敬語も結構です。姫君と対等に話しておられるお方が、僕などに気を使われる必要はございません」

 体が弱い所為で外に出ることも叶わず、友達の一人もいなかった弟が立派に成長したものだ。姉と名乗ることができるのなら、今頃感涙していたことだろう。

「確かに僕には姉がいましたが、今は行方知れずなんです。それが事件だったのか、事故だったのかすらわかりません。責任感の強かった姉のことです。自分の足で家出したとは考え難いのですが、今でもその答えは出ないままです」

 その考え難い可能性が一番正解に近いとは口が裂けても言い出せない。

 彼の隣では、グロリアが「いつかお姉さんにも会えるますわ」と励ましている。今すぐこの場から逃げ出したくなる衝動を押さえ込み、同情を装う。

「ごめんなさい。悪いことを聞いてしまったわ。お姉さん、どこかで元気にしていると良いわね」

「いえ、僕こそ初対面の方に、つまらぬ話をしてしまい申し訳ありません」

 ジャスティンは哀愁に満ちた目で謝罪した。今でも自分を慕ってくれているのか、はたまた自分が病弱だったために不自由な思いをさせたことを負い目に感じているのかはわからない。ただ、彼が自分に再会したとき、いったい何を語るつもりだったのか。その言葉には興味があった。

(いや、感謝して欲しいわけじゃない。後悔だってしてない。元気な顔が見られただけでも充分だわ)

 一生会うことはないと思っていた家族の顔を見られた。それだけで満足だと自分に言い聞かせ、グロリアとジャスティンの遣り取りに笑みを零していると、ふいにノックの音が響いた。

「どなたかしら?」

『アーサーだ。入るぞ』

「お兄様、どうなさったの?」

 壁際に控えた侍女によって扉が開かれると共にグロリアは立ち上がった。

 やってきたのはアーサーとイドだ。

「助手殿を借りるぞ。今後について作戦会議だ」

「作戦会議? そういうことならお断りできませんね。行ってきます」

 イドとアーサー自ら迎えに来るとは、余程事態が切迫しているようだ。一つ頷き、シャーロットは椅子を引く。

「シャーロット、行ってしまうのですか?」

「これからもグロリアの友達を続けるための作戦会議だもの、手は抜けないわ」

 不安げに手を掴むグロリアに、シャーロットは微笑みかけた。

 自分はグロリアの安定剤として連れて来られたが、それ以上の役目を与えてもらえるのなら、どんな手段を使ってでもやりとおそう。今度は、自分から手放す必要などないのだから。


 作戦会議なら自分も参加させて欲しいと名乗りを上げたジャスティンをアーサーが制し、三人は会議室へ移動した。会議といっても、今この場にいるのはシャーロット達三人と、騎士と宮廷魔術師が各四名ずついる程度だ。

「作戦会議というわりに、参加者は少ないのね」

 城内の半数はアーサーに賛同しているのではなかっただろうか。目測縦十五メートル。横十メートルに及ぶ巨大な空間に大きな円卓を備えた会議室にしてはあまりにも空席が目立つ。気になってイドに耳打ちすると、彼は目で室内を一巡して嘲笑した。

「俺が竜を殺すなんて芸当はできないと言った途端に逃げ出した」

「つまり、対策が間に合わないなら竜に反抗するのは危険で、それなら無駄に王様に歯向かって自分の立場まで危ぶめるのは得策ではないから離脱してしまったと?」

「ああ。元々王城なんて場所に良心で誰かを救おうなんて奴は多くない。アーサーに賛同していた連中も、多くは次期国王に取り入ろうって腹だったんだろ」

 シャーロットは眉根を寄せた。正直者は馬鹿を見る。ここはその典型だ。今この城に、本気でグロリアを守りたいと願っている人間が何人いることやら。

「皆注目してくれ」

 アーサーが円卓を囲む皆に呼びかけた。

「もう一人、協力を申し出てくれた仲間がいるので紹介しておく。イドシュタインの助手のシャーロット嬢だ」

 円卓がざわりとどよめく、残った者達は口々に『彼の助手だと?』『まだ小娘ではないか』と口々に囁き合う。この城におけるイドの影響力が一目瞭然に見て取れた。

 シャーロットはイドに背中を押され、一歩前へ踏み出した。

「現状対策は未定。竜の思惑もわからん。俺の知る限り、竜は人間なんぞ食わん。かと言って、このやり口では花嫁と呼ぶわりに好意も見えん。いったい何のための花嫁なのかまるで読めないのが実情だ。そこで、俺達は一つ提案しよう」

「――グロリアを竜に引き渡す」

 最後の一言をアーサーが引き継いだ。同時に、皆がうろたえる。

 グロリアを差し出すのは国王の意向だ。アーサーはグロリアを守るために討伐隊の編成まで提案したというのに、いったいどういう風の吹き回しなのか。

 シャーロットはまだ続きがあるはずだと、目を細めて二人を睨みつける。案の定、イドはその真意をすぐさま公表して聞かせた。

「ただし、グロリアには護衛をつける。あちらはあくまでも花嫁としてグロリアを欲しがっているんだ。なら、姫の輿入れに召使がついて行くのは当然だろう? その召使として、シャーロットをつける。そいつには逃亡を防ぐために魔術によるマーキングがしてある。だからどこに逃げても居場所がわかる。逆に言えば、どこに連れ去られても見つけ出せるってことだ」

「グロリアに直接マーキングする方法も考えたんだけどな。生憎と相手は空の賢者である竜。仕掛けに気付かれても厄介だし、何よりあいつ一人にして軽率な行動でも取られたら助け出そうにもそれまで命の保証がない。そこまでをふまえて助手殿には引き続き、グロリアの安定剤として傍にいてやって欲しいんだが、頼めるか?」

 だが、しかし、と周囲から批判の声が投げかけられたが、全てイドのひと睨みで封殺されてしまった。

「お前は俺の助手であると同時に弟子だ。竜を殺せなんて無理な要求はせん。求めるのは竜があの姫を狙うその理由。グロリアに付き従うふりをして、竜の真意を探れ。できるな、シャーロット」

「――できるなと問われて、できませんだなんて答えられるはずがないじゃない。拒否権なんてないし、そんなものを行使するつもりもないわ。ここへ連れてきて欲しいと願ったのは私自身。今更怖気づいたりしないわよ」

 かつて守りたかった人は、自分の力では守り切れずイドを頼った。けれど、あれから月日が過ぎて、自分にも少なからず魔術という力が宿った。今度は自分の手で友人を守れる。シャーロットには、それが嬉しくて堪らなかった。

「決まりだな。お前の後任を育てるなんて面倒は御免だ。死ぬことは許さんぞ」

「わかってるわよ」

「召使が一人というのも貧相だな。騎士団からもジャスティンを出そう。グロリアが懐いているし腕も立つ」

 シャーロットが硬直するのに対し、騎士達が「それは良い」と活気を取り戻す。シャーロットの隣では、イドが聞き覚えのない名前に小首を傾げていた。

「私の弟よ。いつの間にか騎士団に入団していたらしくて、グロリアとも親しいみたい」

「ああ。あいつか」

「ねえ、イドの権限で召使役を別の人に変えられないかな? 私、さっき会ったけど姉だって名乗ってないのよ。むしろ別人を演じている真っ最中なんだけど」

「無理だな。俺はジャスティンという騎士を知らんことになってる。それなのに外せだなんて言えるはずがないだろ。精々ばれないように注意しろ。でないと俺が面倒なことになる」

 伊達に八年も仕えてきたわけじゃない。彼の返答など尋ねる前からわかっていた。

 案の定な言葉に肩を落としたのも束の間、シャーロットは顔を上げて自分の頬を一度、両手でぱちん叩き気合を入れた。

「そうよね。手段も人員も選んでいる余裕なんてないものね」

 弟に正体がばれるのが嫌だからと引き下がるような真似はしない。自分はグロリアを守るのだ。

「私は、私にできることをするだけだ」

 再度自分の覚悟を確認するように小さく呟く。その隣では、イドが不愉快そうに眉根を寄せていた。

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