一章
一章
『薬に使うジムソンウィードが切れてたな。シャーロット、町に出て買ってこい』
幻覚剤にも使われる毒物を調合して、いったい何を作る気だ。そんな疑念を口にする暇も与えられないままに家を追い出されて半日ほどが経過した。
初夏が訪れ春の花々が一度散り、夏の花が顔を出す前の鬱蒼と茂る深緑の森。その中にひっそりと建てられた屋敷には、一人の魔術師とその助手が住んでいた。
屋敷の主たる魔術師は人間嫌いで、当然の如く集団生活嫌い。口も目つきも悪ければ、自分に助けを求めて森に入り込んだ人間が、いつまで経っても屋敷に辿り着けない様を水晶玉を通して覗き見しては嘲り笑うという性格の歪みっぷり。しかし腕は一流で、かつてはこのセフィラス王国の宮廷魔術師を勤めたという如何にもな経歴の持ち主だ。対してその助手は至極平凡な人間だった。
魔術師の助手にして弟子。その実得意なのは薬の調合でも精霊達と言葉を交わすことでもなく、炊事や洗濯といった家庭的な仕事と庭園の手入れ。唯一変わっていると言えば、それは髪の色くらいだろうか。ピンクと茶色の混ざり合った不思議な色彩の髪は、以前主の作った染料実験の犠牲にされて以来、元の茶色い髪が生えてこなくなったのだ。
奇妙な色の髪は人目を引き、主の気まぐれで転居するたび、あっという間に魔術師の助手として町中にその噂が広まってしまう。その繰り返しに、少女は何度うんざりさせられたことだろう。今現在の数少ない救いは、住処が国一番の面積を誇る大都市、王都の近くにあるため住人が多く、待ち行く人皆が自分を知っているわけではないということくらいだろう。
貴重な魔術師の助手という立場は、ただそれだけで人を寄せつける。主に魔術師の恩恵にあやかりたい人々に絡まれ易いのだ。それ故に、人口が多く、他人の姿形など把握しきれないくらい大きな町の方が助手にとってはありがたい。
その助手、シャーロットという名の少女は、ようやく帰路につけたことに安堵の息を吐き出した。
日の出と共に起き出し、家事や森での薬草採集を終えてほっと一息ついたのも束の間。主である魔術師、イドから有毒植物を調達してこいと放り出されてしまったのだ。
王都近郊の森には自生していない植物な上、そもそもこの国の行商人が取り扱うような代物でもない。
シャーロットは朝早くから片道一時間をかけて王都へ赴き、表の商人から闇の商人まで、手当たり次第に毒草を求め彷徨う羽目になった。
路地裏に看板も出さずひっそりと営業する闇商人からようやくそれを入手することに成功し、王都を出たのが日没の一時間ほど前。街道を脇に逸れて森の入り口に辿り着くと、空は太陽ですっかり赤く燃えていた。屋敷に帰り着く頃には、星のよく見える夜空に変わっていることだろう。
「遅くなっちゃったな。早く帰って洗濯物を取り込まないと。夕食の準備も急がなくちゃ。どんな小言が飛んでくるやら」
一歩森へ踏み込むと、夕陽も通さぬ暗闇が視界を奪う。
日差しの差し込む安全な道もあるけれど、そちらを通れば非常に大回りになるうえ、短いながらも途中から薄暗い獣道へと逸れる必要がある。棘のついた野薔薇も自生するその道から屋敷へ戻るにはいつもの倍の時間を要するだろう。ならば、暗闇の、しかし歩き慣れた近道を選ぶのは当然の選択だ。
森に入ると、イドの張った延々連なる結界から彼の魔力を肌に感じた。敬愛する主の、非常に巧妙な術式。この気配に包まれると、そこはもう自分の庭だ。イドの魔術によって、他者を排する場所。誰の干渉を受けることもないイドの庭。
人間と面倒事を嫌うイドが、人避けとして張り巡らせた半径二キロに及ぶ大規模な結界。この結界は希代の魔術師に助けを求める人々でさえも屋敷から遠ざけてしまっているが、それこそ彼の望むところ。
彼の元へ辿り着けるのは、この結界を見抜いて上手く避けながら歩ける魔術師か、相当に運の良い人間だけ。それ以外は、歩けど歩けど森の外へと追いやられてしまうのだ。永遠に森の中を彷徨い続ける仕掛けにしなかっただけ、彼にしては良心的だった。
「あれ。こんな時間に迷子?」
ふと、木陰に見つけた人影に、シャーロットは小首を傾げた。
昼間に迷い込んだならとっくの昔に森から追い出されている。
こんな時間に何の用なのだろう。シャーロットはその人影をの死角から、そっと様子をうかがった。
太い木の根元に蹲る人影は、彼女と同じ年頃の少女だった。
上等な絹のドレスにふんだんにあしらわれたフリルとレース。袖口や裾に施された刺繍の精密さが、彼女の裕福さ。果てはその身分の高さを表している。ただし、派手に転んだのかあらゆる箇所が泥に塗れて台無しになっていたのだが。
更に観察してみると、彼女の足元にヒールの折れた靴が転がっているのが見えた。片手でドレスに隠れた足を押さえている。
(足でも挫いたのかな? どうしよう。勝手に声をかけたらイドが怒るだろうし。それがお客さんだった日には罰としてどんな無茶ぶりされるやら。でも女の子だしなぁ。怪我してるみたいだし。夜になると狼も出てくるし、危ないわよね?)
森に迷い込んだ人間を見つけても声をかけるな。それがイドの言いつけだ。自力で辿り着いた者の望みには応える。逆にそれ以外の者の望みを叶えてやる義理はない。それがイドのやり方だった。
大抵の人間は放っておけば諦めて帰っていくだろう。しかし彼女は足を傷めているのでそれができない。
この森で身分の高い家の娘を死なせるのは都合が宜しくない。森全体に結界を張り巡らせた魔術師など怪しいことこの上ないし、娘の親からどんな言いがかりをつけられるかもわかったものではない。何より、ここで彼女を見捨てて行くことは、シャーロットの良心が痛んだ。
どうにも、自分は他人を切り捨てるのが苦手でいけない。そんなことだから、いつまで経ってもイドの小言から抜け出せないのだ。――と、自覚はしているがやはり理屈と感情は別物だった。
一つ深呼吸して主に叱られる覚悟を決め、シャーロットは静かにその少女へと歩み寄った。
「足を怪我しているの?」
シャーロットが背後から話しかけると、少女がびくりと肩を揺らして振り向いた。
一瞬怯えたような表情を見せた後、自分とそう歳も変わらぬ少女であることに気付いて目元が緩む。
「あなたは?」
愛らしい少女だった。透き通った肌。金糸の髪。くりくりとした大きな瞳。まるで絵本の中から抜け出した姫君のようだなどと、シャーロットは場違いな感想を彼女に抱いた。
「シャーロットよ、この森に住んでいるの。あなたは?」
「――グロリアと申します」
「よろしくグロリア。それで、その足は大丈夫? ずっと押さえているようだけど」
改めて足を指差すと、少女、グロリアの顔が苦悶に歪む。
「ちょっと見せて。ああ、やっぱり捻ったのね。こんなヒールの高い靴で足場の悪い森の中になんて入っちゃ駄目じゃない」
ドレスの下に隠れた足は、熱を帯びて腫れ上がっていた。おまけに靴はきちんと舗装された場所しか歩けそうにない程踵が高い。これでは怪我をしに来たようなものだ。
「ごめんなさい」
「手持ちの薬を塗っておくけど、あまり無理はしない方が賢明ね。誰かお連れさんがいるのなら、夜が深くなる前に迎えに行ってあげましょうか?」
「それは駄目! あの、えっと、隣町へ行く途中、怖い人達に追いかけられて、それで逃げている間にこの森に……」
それならば自分は一人だと言い切ってしまえば良いものを、目が完全に泳いでいる。
この森で懲りずにいつまで経っても森の中を彷徨う人間の大半は訳ありなのだが、彼女も例に漏れず同じだったらしい。
「それは困ったわね。この森、夜になると野犬を筆頭に獣達が徘徊していて危ないのよ。獣は臭いに敏感だし、その足じゃ逃げることもできない。このままそこに蹲ってたんじゃ、明日の朝を迎えられない可能性もあるわよ?」
シャーロットにも経験があった。イドから夜にしか開花しない植物を摘んでくるよう命じられたときに、運悪く熊の親子に遭遇してしまったのだ。あのときのことを思い出すと、未だに自分が生きている奇跡に涙が溢れそうになる。
もっとも、それはこの森での出来事ではないだが、世間知らずのお嬢様に恐怖心を植えつけるには充分な脅し文句だった。
痛みと疲労に恐怖が合わさり、少女の目に涙が滲む。この様子だと、迎えの当てもなさそうだ。
「王都へ帰ろうにもその足では大変だわ。今夜はうちに泊まっていく?」
シャーロットはグロリアの足に軟膏を塗りつけながら提案した。
イドの小言は免れないだろうが、明日の朝になって自分の庭にも等しい森に人間だったものが転がっているよりは余程ましだ。
グロリアは目を丸くしてシャーロットを見上げた。
「私、怪しいですよね? それなのに、助けてくれるんですか?」
「森に住む怪しい女について行く勇気があるのなら、あなたを一晩泊めてくれるよう、うちのご主人様にお願いしてあげる。生憎と、私が家主なわけではないから、あまりおかまいはできないけれど」
正確に言うと、事後承諾で押し切る方針を取ろうと考えている。シャーロットの部屋は一階だ。駄目だと追い出されれば窓からこっそり招き入れてしまえば良い。
「お、お願いします。私を泊めてください!」
「お願いされました。肩を貸して、支えてあげるから」
「ありがとう、シャーロット」
「どういたしまして。グロリア」
当初の予定なら日の入りと共に屋敷へ帰れていたのだが、生憎と手負いの少女を連れた状態では思い通りに事が進まなかった。
グロリアに肩を貸し、通る予定だった獣道ではなく、足場の良い道を選んでいると自然に遠回りになってしまい、結果帰り着いたのは日が落ちてから随分と経ってからだった。
「グロリア。あそこが私の家だよ。もう少しで休めるから頑張ってね」
木々の隙間に人工の灯りが見え始め、やがて開けた場所に出た。
シャーロットの世話する庭園に取り囲まれて、その屋敷は佇んでいる。
古い石造りの屋敷は二階建てで、二階にはイドの私室と作業場。一階にはシャーロットの部屋と二人の共有スペース。あとは書庫と物置と化した部屋が複数ある。今は一階にだけ明かりが点いていた。
(普段は声をかけても作業場から出てこないのに、今日はちゃんと夜が来たことに気付いたんだ)
シャーロットの仕えるイドという男は、典型的な学者肌だ。
一度作業を始めれば、こちらから声をかけるまで、食事も睡眠も取らずにひたすら作業に徹してしまう。部屋の暗さから自分の部屋に明かり灯す位のことはするけれど、それすらも片手間で、ほぼ無意識の行動なのだ。
自分がなかなか薬草を持って帰らないから作業が進まなかったのか、今日は作業場のみならず、一階全体にちゃんと明かりが灯されていた。
(何かおかしいな。いつもは作業に没頭していなくても、不要な部屋にまで自分から明かりを点けたりしないのに?)
小首を傾げながらもゆっくりと屋敷へ近付いていく。ふと玄関に目をやると、一人の男性が腕を組んで仁王立ちしていた。
闇に溶け込む濃灰色の髪。必要最低限にしか外出しない為に女性のシャーロットよりも白い肌。切れ長の目は彼の気難しさを体現するかのように目付きが悪く、しかし顔立ちは端整だ。彼こそがシャーロットの主、イド。
覚悟は決めていたはずなのに、いざ相対するとなるとつい顔が引き攣ってしまう。
不機嫌そうに歪められた眉と横一文字に結ばれた唇。あれは完全に怒っている。
「ただいま。遅くなってごめんなさい」
「ジムソンウィードがそう簡単に手に入るとは思ってない。想定内だ」
つまり怒っている理由は他にあるということ。言わずもがな、グロリアの存在だ。
招かれざる客人を迎え入れた。その負い目を感じるシャーロットは罰則待ちで目を瞑る。しかし、イドの口から放たれた言葉は、シャーロットとグロリア、双方の予想からおよそ程遠いものだった。
「それで? 一国の姫がこんな町外れで何をしているんだ」
「――? 一国の姫?」
シャーロットの頭上に疑問符が浮かぶ。
いったい何の話だろう。
一国の姫。それが自分を指し示すはずもないのなら、当然ながらその言葉の向かう先はグロリアだ。
シャーロットはイドとグロリアの顔を交互に見やる。
「何を、仰っているのかわかりませんわ」
「それはこっちの台詞だな。何故竜の花嫁に選ばれたお前がここにいる。それもうちの助手を巻き込んでだ。王城を抜け出すことなんざ許されんだろうに」
呆れ半分、残りは不機嫌さを内包して、イドは玄関を塞いでいる。
一国の姫。竜の花嫁。何やら思い当たる話を聞いたような気がした。それもつい最近だ。
「もしかして号外の話?」
入手したジムソンウィードや財布を収めた肩掛け鞄を片手で漁ってみると、右手にかさりと乾いた感触が伝う。これだと確信して引っ張り出したのは、町でばらまかれていた号外だ。興味本位で手にしたそれには、この国の姫君が、竜の花嫁として求婚された旨が記されていた。
号外によると竜は代々国を守護する聖獣だなどという大層な存在ではなく、むしろ数週間前に地方の村に大打撃を与えた邪悪な存在であるらしい。この事態に際し、姫の兄である第一王子は竜の討伐隊を編成して姫の保護に励むそうな。
記事には姫の名も顔も載ってはおらず、読み流していたシャーロットは彼女の正体にまるで気付いていなかった。それなのに、自分達が家に辿り着いた時点で既に状況を把握していたイドの実力は本当に底知れない。
はてさて。この流れにどう割って入ったものかと頭を抱える。
「私は姫などではありません!」
「国事の式典で顔を見てるぞ。昨年の豊穣祭だ」
「テラスの奥に控える王族の顔を、階下から見上げる民が見止めることなど――」
「グロリア姫は第一王子の隣に座っていたな。ドレスの色は太陽の恵みを意識した黄色だったか。俺は魔術師なんだ。魔術師の目が人のそれと同じとは考えない方が利口だぞ」
グロリアが口を噤む。よく一年近く前の式典で見た姫のドレスの色を覚えていたものだと、シャーロットは嘆息した。
昨年の式典には確かに行った。式典の日は国民にとっては祭りの日。祭りとなれば人が集まり、人が集まれば商人が集まる。あの日、二人は朝から薬の調合に使う薬草を調達しに王都に繰り出していた。式典を見てみたいとごねたシャーロットにイドは珍しくも付き合い、王城前まで人混みに紛れて歩いた。式典に際して、王城前の広場を見下ろす形で国王が現れ、演説したこともおぼえている。ただし、その時はグロリアの言ったとおりに下から見上げる自分達に、王族達の顔など見えていなかった。
顔を認識できる距離からではテラスの際に立つ国王しか見えない。
テラス全体が見えるほどに距離を置いてしまえば王族の顔など見えやしない。
後者で国王の演説を見物していたシャーロットは、当然ながらグロリアの顔など見ていない。そして、その隣に立っていたイドにも彼女の顔など見えていたはずがないのだ。
(魔術を使ってまでイドが王族見物していたとは考え難いわね。だとすると、昔の仕事中に見かけたことがあったのかしら?)
息を飲むグロリアの隣で、シャーロットはあっさり主の嘘を看破した。
シャーロットと出会う少し前までのイドの職業は宮廷魔術師。王宮に詰めて国を守護するのがその役目だった。
シャーロットが彼の助手として迎え入れられたのが八年前。その頃のグロリアもシャーロット同様に幼い子供だったはず。とはいえ、今尚あどけなさを残す彼女達だ。子供の頃の印象くらいはイドにも残っていたのだろう。
「――で、お前は町外れで何をしていたんだ?」
不敬罪にも問われかねない不遜さでもって問いただす。グロリアは言い訳が思いつかないのかだんまりを決め込んだ。
隣町へ行く途中に悪者に追われこの森に迷い込んだ。彼女はそう説明していたが、この嘘に関してもシャーロットは見抜いている。シャーロットは、嘘の事情を信じ込んで、助け舟を出すような真似はしなかった。余計なことを口走って彼女の嘘が露呈すれば、それこそ彼に追い返されかねないからだ。
すっかり日の暮れた暗がりの中、三人が三人目を合わせずに沈黙を貫いた。
遠くで狼が吠えたのを合図に、イドは小さく溜息を吐いた。
「もう良い。明日になったら城まで送ってやるから今日は泊まれ。シャーロット。拾ったからにはちゃんと面倒みろよ」
それはもう不満げに、諦め混じりに申しつける。対して二人の少女は花が咲いたような笑顔を浮かべ、手に手を取って喜んだ。
「ありがとう、イド。良かったね、グロリア」
「お二人ともありがとうございます。お世話になります!」
森の屋敷は生活手段のあらゆる場所に魔術式の設備が組み込まれている。
例えば庭園に水をやるためのじょうろ。これは大気中の水分を自動的に取り取り込み、水を入れなくても水遣りができる便利な道具だ。
かまども魔力を注いでやると、薪もないのに燃え上がる。
風呂場は地下から自動で水を汲み上げる設備と、かまど同様の魔力で湯を沸かすシステムを採用し、全自動で風呂が沸く。
中には魔術で補わなくても業者を呼んで工事してもらえば文明で補える設備もあるが、それさえも拒むのは家主が業者という名の部外者を家に入れたがらないからだ。
家に入ると急いで夕食の支度をして三人で食事を摂った。風呂をその間に沸かしておき、現在はグロリアが入浴中だ。
「グロリア、一人で大丈夫かな。怪我のこともあるし、足を滑らせたりしていなければ良いんだけど」
テーブルを挟み、イドと向かい合って紅茶を啜る。
グロリアが姫だというのなら、城には何人もの侍女がいたはずだ。貴族ですら入浴時に侍女が付き添う。姫たる彼女にそれがなかったとは考え難い。手伝ってやった方が良いのではないかと考え至り席を立とうとすると、イドがじとりと睨みつけた。
「過剰に世話を焼いてやる必要はない。情も移すな。明日の朝には城へ返す。それ以降、もう関わることはないと思え」
「イド。私、号外で見たよ。この国のお姫様が竜の花嫁に指名されたって。あの子はそれが嫌で逃げてきたんじゃないかな? たった一人で。誰も信じられなくなって」
彼女を指名した竜はどこかの町で暴れたという話だ。そんな竜に嫁ぐのは、当然花嫁ではなく生贄としての意味合いの方が強い。これから自分がどうなるのか。何故自分でなければならないのか。その理不尽な運命を思えば、逃げ出したくなる気持ちもわかる。
「情を移すなと言っているんだ馬鹿者が。お前に同情されてあれの事情が変わるのか。竜は危険だ。人よりも丈夫で賢く、魔力も強大。例え一国の姫といえど、人間一人を差し出して竜が鎮まるなら安いもんだ」
「イドは昔宮廷魔術師だったんでしょう? 王族や国を守ってきたんでしょう? グロリアのことだって知っていた。本当に見捨てちゃうの?」
「俺はもう引退した身だからな。厄介事に巻き込まれるのは御免だ。それともお前は、何のメリットもないままに命を危険に晒したいのか?」
片肘を突いて目を細めたイドの顔に嘲笑が浮かぶ。彼はシャーロットが初めて自分の下を訪れた日のことを思い出していた。
「ああ、お前は何のメリットもないままに自分の命を差し出せる御人好しだったな。だが、今回は認めないぞ。お前の命は俺のものだ。命令違反は許さない」
「……わかってるわ」
たっぷりと間を置いたその返事には、一切の納得が含まれていない。
「わかってるならそれで良い。折角育てた助手を犬死にさせるのは惜しいからな」
彼女が納得していないことを知りながら、イドはそれ以上の会話を続けることはなかった。
カップを置いて、さっさと二階の自室へと引っ込んでしまう。
「御人好しに犬死にかぁ」
シャーロットはぽつりと呟いた。
魔術師の助手になってもう結構な時間が経過したけれど、相変わらず自分にできることなど高が知れている。そもそも、シャーロットにはグロリアを助ける理由などない。あらゆる知識とあらゆる力を手にする魔術師が感情のままに動くことは、かえって事態を悪化させるだけだと、イドは言外にそう忠告していたのだ。
「ちゃんと割り切ってるから、イドはあんなに凄いのかな」
魔術の進歩には実験や犠牲も付き物だ。シャーロットは他人を巻き込むことも、誰かが傷つくことも好まないし、可能な限り避けようとする。だからこそ、何をするにも遠回りになり、実験という過程が足りずに満足な成果が得られない。それは魔術師にとって紛れもない欠陥であり、弱点だ。
「私も、割り切らなくちゃ。私の命は、イドのものなんだから」
グロリアを客室に案内するも、夜になってまた不安になったのか、彼女はシャーロットの部屋を訪ねてきた。その結果、広くもないベッドを二人で使うことになったのだが、久々に人間の体温を感じて存外寝心地は悪くなかった。
日の出と共にグロリアの眠るベッドをそっと抜け出し、日課の家事や薬草摘みに励む。起き出してきたイドとグロリアに朝食を用意し、紅茶を飲んで一息ついた頃、イドが今日始めて口を開いた。
「そろそろ行くか」
どこに、などと問うまでもなく、グロリアの肩がびくりと強張る。
「あの、本当に戻らなければ駄目ですか……?」
怯える瞳に、シャーロットは庇い立てしたくなってしまった。しかし口を開く前にイドの目に射すくめられ、口を閉ざす。
「駄目だ。元々一晩という約束だったろう。お前を匿って軍と睨み合うのは御免被る。またしばらく歩く。シャーロット、靴を貸してやれ」
「――わかった。グロリア、家を出る前にもう一度薬を塗っておきましょう。本来は出歩かない方が良いような状態なんだから」
「シャーロット」
「ごめんね、グロリア。私には、決定権がないの」
縋るような視線に、シャーロットは咄嗟に目を逸らしながら謝罪した。
決定権がない。例え自分で今後を決められたとしても、イド無しで彼女の役に立つことはまず不可能だろう。
彼女を連れ戻そうとする王国軍を退けてやることも、彼女に憂いをもたらす竜と戦ってやる実力も持ち合わせていないのだから。
一度部屋に戻り、夜の間に洗って、魔術で乾燥速度を上げておいたドレスを着付けてやる。シャーロットは日頃の炊事洗濯その他諸々の雑用に煩わしさを感じてコルセットを軽くしか締めていないのだが、昨日の様子から察するに、グロリアは日々内臓に悪影響を及ぼしそうなほどコルセットで腰を締め付けていた。これを自分でやれというのはいささか無理があるだろう。
「歩くから、少しだけ緩めておくわね」
「シャーロットは、何でもできるんですね」
「主に雑用全般は。ドレスの着付けに違和感はない? そんなに布を重ねたものを扱うのは久々だったから、いまいち感覚が掴めなくて」
「久々?」
「ええ。久々」
やはり生地やレース、フリルの少ない庶民的なドレスの方が着せやすい。そもそも、その手の服は一人で着られるようにできているのだから。
グロリアの聞きたいことは理解できている。初めてではなく久々。では、いつこんな上物のドレスに関わる機会があったのか、だ。
もっとも、その問いに回答することはなく、シャーロットは「久々」という真実のみをオウム返しして微笑む。
薬を塗り、ドレスを着付け、不似合いではあるけれど、シャーロットには少し小さかったブーツを彼女に履かせて、二人は再びイドの下へ戻った。
少々時間がかかってしまった為、イドはすっかり読書に没頭していた。
こういう時のイドに声をかけると後が怖い。さてどうしようかと眉間に皺を寄せるシャーロットを他所に、グロリアが「遅くなってごめんなさい」と謝罪する。グロリアだからか、こうなることがわかり切っていたからか、彼は眉間に皺を一つ寄せただけであっさりと本の世界から帰ってきた。
「なら、行くぞ」
屋敷を出て、比較的平坦な方の道を通る。昨日、シャーロットがグロリアを案内した道だ。それでも足元の覚束無いグロリアの手を握り、時々休憩を挟みながら森を抜けた。時刻は正午頃。視界が良いだけで随分歩き易い。
「どうやら王都まで送る必要はなさそうだな」
王都へ続く街道へ出ると、イドがぼそりと呟いた。
彼の視線を辿ってみると、普段衛兵などいない街道に、何人もの兵士の姿が見受けられた。どうやら一部の兵士は森への侵入を試みては外に追い出されてしまっているらしい。
誰かを探しているような素振りを見せる兵士達。単純に考えると、探しているのはこの国の姫たるグロリアだ。
「グロリア、心配して探してくれてたみたいだよ。脚の怪我もあるし、素直に出て行って送ってもらう方が良いと思うんだけど」
「そう、ですよね。帰らなくちゃいけませんよね」
グロリアはもう何度目になるかわからない絶望的な希望を零した。
折角王都から脱出できたのに、また連れ戻される。望みもしない竜の花嫁にされてしまうかもしれないのに。
グロリアの顔は昨日から恐怖に翳りっぱなしだ。一度は縋り付こうとしたけれど、今はただただシャーロットやイドを巻き込むまいと、納得したふりをしている。
「私、帰ります。一晩お世話になりました。シャーロット、優しくしてくれてありがとう。とても嬉しかったです」
泣きそうに笑う少女に、今度はシャーロットが折れそうになる。それでも、彼女が勇気を奮っているのだから、自分がその邪魔をしてはいけないと、平静を装って自分の肩にかけた鞄を探る。
「あのねグロリア。これ、足に塗る軟膏。もしまだ痛むようなことがあれば使って。それからこっちは私がブレンドしたハーブティー。香りが嫌でなければ飲んで。きっと落ち着くから」
「これ、昨日の?」
「そう。こんなものしかあげられないけれど」
「ううん、嬉しい。ありがとうございます」
昨日の夜も寝る前に一杯のハーブティーを淹れてから眠りについた。結局グロリアはシャーロットの部屋にやって来てしまったけれど、同じベッドに入ってからはすっかり落ち着いて眠りに落ちていた。彼女がこのハーブティーを気に入ったと言っていたため、彼女の着替えが終わった後に急遽包んで鞄に押し込めてきたのである。
軟膏とハーブティーの瓶が入った紙袋を抱え、グロリアは一歩踏み出した。
「縁があれば、また会いましょう」
「はい。是非」
最後に言葉を交わし、彼女は遠目に見える兵士達の元へと帰っていった。
兵士達の群れの中に、一人雰囲気の違う青年の姿が見えた。年の頃はシャーロットよりも少し上のようでだが、あどけなさの抜け切らない顔立ちの所為か、実際には青年とも少年とも形容し難い。
森に一歩踏み込み、木陰からグロリアの様子を窺っていると、彼女が青年に近付いていくのが見えた。
「上手く知り合いに会えたみたいね。これで一先ずは安心かしら?」
「……おい、シャーロット。いつまでも見送ってないでさっさと帰るぞ。連中に見つかると面倒だ。ただでさえお前の頭は目立つんだから」
「この髪はイドの所為だったと記憶しているんだけど」
「良いから帰るぞ。時間の無駄だ」
とことん他人には無関心な男だ。
しかしこれ以上ここにいて得がある訳でもなし、シャーロットはイドの指示に従って森の中へと踵を返す。
「イドシュタイン!?」
そんな折に声が聞こえた。まだ若い男性の声に振り返ってみると、そこにはついさっきまでグロリアと話していた青年が立っていた。
背丈は平均的で、猫っ毛の真っ白な髪が印象的な青年だ。
彼はこちらへ向かって駆け寄ってくる。それも全速力で。駆け寄るほどの仲なのかとイドを見上げるも、当の本人は苦虫を噛み潰したような様相だ。
「イド、知り合い?」
「知り合いだがお前が知り合うべき相手じゃない。走れ!」
「走れって、森ではそんな必要は――」
「あるんだよ。あいつに限っては!」
手を取って走り出す。といえばロマンチックで聞こえは良いかもしれない。しかし、イドが掴んで走り出したのはシャーロットの手の平ではなく手首。
手首を掴んで引き寄せられ、足のコンパスに多大な差があるにも関わらず、全力で森を駆け抜ける羽目になった。おかげで屋敷に戻るには行きの三分の一も時間がかからなかったし、足を止めて数分は、体が呼吸以外の全機能の使用を拒否してしまうありさまだった。
ようやく息が整った頃に、既に屋敷の中に帰っていたイドを追いかけてみた。
薬の作業場で、早速調合に取りかかろうと薬草を準備していた彼の姿を見つけ、作業に入ってしまう前にその袖を引いた。
「イド、仕事の前に聞いても良い?」
「あの男についてか?」
「うん。あと、あの人が呼んでた『イドシュタイン』って呼び方について」
シャーロットはイドのことをよく知らない。八年間仕えていても、彼が自分について多くを語ることはなかったし、彼女自身も切欠もなしに尋ねて良いものか図りかねていたからだ。しかし、今回はその切欠がある。決して不自然に探っているようには見えていないはずだ。
質問されることは予想していたのだろう。イドはいつものように眉根を寄せることもなく、むしろ諦観めいた溜息と共に手を止めた。
「イドシュタインは俺が宮廷魔術師をしていたときの名前だ。俺には本名がないと話したことがあったろう。あれが、一番古くから使っている、俺を指し示した呼称なんだ。ちなみに言うと、イドシュタインは俺が生まれたと思われる街の名前。かと言って、俺がそこで親を見つけることも、友人を作ることもなかった訳だが」
「淡々と語るには重い内容ね」
イドには本名がない。その話は彼の助手になって間もない頃に聞いていた。変わった名前だと呟いてしまったのが発端だったはずだ。
本名がないというのは、親がいない為に親のつけた名がわからないということ。彼が魔術師として成長していく最中にも、彼を育てたというお師匠様は彼に名前をつけることはなかったそうだ。
「重きを置くものは人によって違うだろうが。俺にとっては名前なんざ判別できればそれで良い。家を捨ててまで俺にすがったくせに、名前を捨てられなかったお前とは違うんだよ」
「悪かったですね中途半端で。それで、あの男の人がイドを宮廷魔術師時代の名前で呼んだってことは、そのときの知り合いなの? 見た感じ、他の兵士さん達とは服装も違っていたけど。周りは軍服なのに、あの人だけ私服っぽかったわよね?」
青年は白い頭ばかりが目立っていたが、思い出してみると服装が違っていた。間近で見てはいないので細部まで観察することはできなかったが、あれは貴族の服装だった。ともすれば貴族だけで編成される近衛隊の騎士かと推察するシャーロットに、イドはさらりとその推理が間違いであると訂正した。
「ああ、あいつはこの国の第一王子だからな。グロリアの兄。順当に行けば次の国王になる男だ。有事となれば軍服を着て一軍率いることもあるだろうが、堅苦しいことを嫌がる奴だ。基本的には軍服など着んだろうな」
「イド。王子様から全力逃亡を図るとは何事かしら」
「王家は厄介事ばかり押し付けてきやがるからな。関わらずに済むならそれに越したことはない。所在がばれたから、近々引っ越さないとな。面倒くせえ」
今まで繰り返された引越しは、全て王家から逃げてのものだったのかと問うと、イドは珍しい笑顔でもって無言の返答を返した。沈黙は肯定とみなしておけば正解だ。
イドは、ここは薬草がよく採れるから気に入っていたのにと愚痴を零しつつ、話はここまでとばかりに作業を再開した。
これ以上は何を聞いても碌な返答が返ってこないであろうことは予想できた。シャーロットは王子殿下を怒らせていなければ良いのだけれど、と、小心者らしい不安を抱えつつ、渋々とイドの作業を手伝うことにした。