Record.001 記録の欠落
西暦3021年。
世界は静かだった。
静かすぎるほどに。
都市は再建され、交通網は完全に自動化され、経済はAIによって均一化されている。
人々は“問題がない世界”に生きていた。
だがそれは、問題が解決された世界ではない。
問題そのものが「見えない形に再編集された世界」だった。
龍の朝は、毎日同じ形で始まる。
7時。
端末が静かに起動し、通知も音もなく業務が並ぶ。
《市民記録補正:12件》
《統合ログ再照合:3件》
《非整合領域チェック:1件》
龍はそれを見て、指を動かす。
承認。
保留。
削除。
思考はほとんど必要ない。
コーヒーは自動で出る。
味は毎日同じだ。
違いがあるとすれば、それを違いだと感じるかどうかだけだった。
外では都市が動いている。
しかしそれは“動いているように見えるもの”だった。
人の会話は一定の間隔で切り替わる。
車は衝突しないように最適化された軌道を滑る。
空は曇ることを許されないように制御されている。
世界は整いすぎていた。
そして誰も、それを異常だとは思わない。
その日の最後の業務で、一つだけ異常が残る。
《ドラゴン戦争関連データ:一部欠損》
龍は画面を見て、軽く息を吐く。
「またこれか」
それは習慣だった。
興味ではない。
処理ログの一つにすぎない。
しかしその日は違った。
ログを開いた瞬間、途中で止まる。
《再構築不可領域》
画面がそれ以上進まない。
龍は眉をひそめる。
「壊れてるのか……?」
だが違う。
壊れているのではない。
そこだけ存在していない。
その夜。
龍は端末を再起動する。
同じデータ。
同じ欠損。
そして一瞬だけ、別の情報が混ざる。
《観測が不安定化しています》
龍は目を細める。
「観測……?」
その単語は、業務には存在しない。
コップを机に置く。
コト、と音がする。
はずだった。
しかし音は遅れて鳴る。
数秒後。
世界が一瞬だけズレる。
龍は手を止める。
「今の、なんだ」
誰もいない部屋。
返事はない。
次の瞬間、記憶が揺れる。
今考えていた言葉が思い出せない。
何を考えていた?
その問いだけが残る。
都市は変わらない。
人も変わらない。
だが龍だけが気づいている。
この世界にはズレがある。
ある瞬間。
窓の外の人間が振り向く。
振り向いた結果だけが先に見える。
動作があとから追いつく。
龍は立ち上がる。
「ふざけるなよ……」
だがその声すら、少し遅れて届く。
そのとき画面が再び反応する。
神崎零士:記録不整合
同一人物ではありません
観測結果が一致しません
龍は画面を睨む。
「誰だよ、お前……」
その瞬間、部屋の空気がわずかに重くなる。
机が、ほんの少しだけ違う存在に見える。
すぐに戻る。
戻ったことだけが確信できない。
龍は気づく。
これは壊れているのではない。
遅れている。
ズレている。
確定していない。
そして理解する。
この世界は、まだ一度も完全に決まっていない。
端末が静かに表示する。
《再構築不可領域:拡張中》
龍は呟く。
「これ、仕事じゃねえだろ」
その言葉に答えるものはない。
ただ世界だけが、静かに遅れていく。




