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だって、この結婚は仕事だから

作者: 坂町ミナト
掲載日:2026/05/11

「…離婚してください、旦那様」


 それは、妻ルクレティアの突然の発言から始まった。

 結婚から四年。婚約から七年。珍しく時間を作ってほしいと神妙な顔で頼まれ、場を設けて早々、妻から離婚を切り出された。


「…どうして?」


 内心の動揺を顔に出さないようにしながら、僕はルクレティアに尋ねる。


 僕は、何かルクレティアにしてしまったのだろうか。


 僕、エドワード・ファウラーと、僕の妻、ルクレティア・ウェントワースの結婚は見え透いた政略結婚だった。

 高位貴族と縁を結びたいファウラー子爵家と、傾いた家を立て直すために資金がほしいウェントワース伯爵家。貴族ならば珍しい話でもない。


 これは愛のない政略結婚だ。それでも、長い付き合いになるだろうから、良い関係でいたいものだ。だからこそ線引きはしっかりとする。結婚して、僕らは約束を交わした。貴族としての務めを果たす限り、他は自由にしていてかまわない。互いに干渉しない。どちらも家の事情という、貴族ならば避けようのない荷を背負っている。これ以上縛るものを増やさなくてもいいだろう。


 僕はルクレティアにしっかりと生活資金は渡していたし、ルクレティアの行動にも口出ししなかった。ルクレティアには不自由はさせていないつもりだった。


 何がいけなかったのだろうか。


「もう、愛のない結婚生活には耐えられないの」

「そういう約束だったでしょ。これは愛のない結婚で、妻としての役割を果たすのならば、君は好きにしていていい。君も納得したはず」

「したわ。したけれど…」


 ためらっていたルクレティアは顔を上げると、真っ直ぐに僕を見つめた。


「私はやっぱり、愛する人と結ばれたいの。ごめんなさい」


 その言葉は、鋭い矢となって僕の心をぐさりと刺した。

 ルクレティアに努めて冷静に返す。


「それが何を意味するかはわかってる?」


 ルクレティアはぐっと言葉に詰まった。


 表情を見てわかった。これは、わかっている顔だ。わかっていて、ルクレティアは離婚を切り出している。


 ルクレティアは自分の意思をしっかりと持っていて、それを貫こうとする人だ。それによって生じる問題にも、真摯に向き合える人だ。僕が言わんとしていることについても、しっかりと考えているに違いない。


 少し、意地悪をしてやろうじゃないか。


「僕と君の結婚は互いの家の利益がかかっている。僕の子爵家は事業が成功して金はあるが、これから貴族界で幅を利かせていくためには由緒ある肩書が必要だった。君の伯爵家は歴史の長い由緒ある家だが、多額の借金を抱えていて財政改革が不可欠だった。僕と君が結婚することで、子爵家は肩書を手に入れられるし、伯爵家は子爵家の資金援助と人材派遣を受けられる。この結婚は利害の一致なんだよ。君の望みは、これまでの利害関係をひっくり返すものだ」


「わかってるわ」


「本当に?もし僕らが離婚したら、伯爵家は子爵家からの援助を一切受けられなくなる。しかも非は君にあるわけだから、慰謝料も払わないといけなくなるだろう。隠居しているとはいえうちの父のことだから、今までの支援を全て返せと言いかねない。申し訳ないけれど、僕もうちの面子を保つためにそれは止められない。財政再建途中の君の家が、それを受け入れられる?君はその責任を負える?」


 これまで子爵家が伯爵家にした支援は莫大だ。資金援助はそう簡単に返せる額ではない。傾きに傾いた伯爵家の財政を立て直すために、幼い頃から当主である父のもとで領地経営を叩き込まれ経験もあった僕が、結婚して爵位を継ぐまでの間、伯爵家の財政顧問を一手に引き受けていた。自分で言うのもなんだが、救いようもなく傾いていた伯爵家は無事復活を果たした。とはいえ再建途中でまだ危なっかしい伯爵家には、今もアドバイスをしている。投じた資金だけでなく、これまで僕が伯爵家に割いた時間と与えた利益を踏まえれば、伯爵家が全て返済するまでには数代かかるだろう。そもそも、没落せずに済むだろうか。


 そんな事態を色恋なんかで引き起こしたルクレティアを、伯爵家が許すはずがない。ルクレティアはただでは済まない。


「負うわ。これは全て私のせい。私が全て負う」


 ルクレティアはきっぱりと言い切った。


「…わかってないよ」


 そっと息を吐いた。ルクレティアに対する落胆ではない。上手く説得できない僕への落胆だ。

 仕方がない。


「君が全てを負えば、君はせっかく手に入れた愛する人との生活を失いかねない。相手がその負担に耐えられるとも限らない。愛を取って愛を失ったら、本末転倒だとは思わない?」

「そうならないように策は考えてあるわ…、ちょっと待って」


 ルクレティアははっとした。菫色の瞳が揺れる。

 気付いてくれたか。


「私、結ばれたい愛する人がいるって、あなたに言った?」


 言ってない。

 なんとなく仄めかすようなことは言っていた。けれど、それだけだ。君は上手く隠してくれていた。けれど。


 ずっと気付いていたよ。ごめんね。


 僕はルクレティアににっこりと笑いかける。


「お相手、来てるんでしょ。いつまでも待たせるわけにはいかない。役者は全員揃って話し合いといこうじゃないか」

「…」


 ルクレティアの顔が歪んだ。そこに悲痛さが見えたのは、僕の見間違いだろうか。


 ルクレティアは諦めたようにうつむくと、背後に控えていた侍女に手で合図をした。侍女は軽く礼をすると、部屋の外に出ていく。


 ほら、やっぱりね。君も初めから、相手の男も交えて話すつもりだった。君が相手を隠したままにするなんて、誠意のないことをするはずがない。まあ、自分から僕ではない愛する人がいるって言うつもりだったんだろうけどね。それは少し、僕には残酷すぎる。


 僕は悠然と足を組み、侍女が戻ってくるのを待つ。会話のない僕らの間で、カップからゆらゆらと湯気が立ち上る。

 少しして、扉をノックする音がした。


「失礼いたします。お連れいたしました」

「入れ」


 侍女がルクレティアの相手の男を連れて入ってくる。


 男は黒髪に青目の好青年だった。ガチガチに緊張しているくせに、その青い瞳には強い光が宿っていた。父の言う通りに勉強し、結婚し、当主の道を歩いている僕のよどんだ黒い目には宿ることのない光だ。なんだか面白くなかった。


「貴方がヘクター・レノン殿か?」


 僕の問いに、ルクレティアはぎょっとして僕を見た。


「…知っていたの?」


 僕は答えない。ルクレティアのことを見ることはなく、ヘクターから視線を外さない。

 突然、ヘクターがその場で土下座した。


「この度は大変申し訳ありません、エドワード・ファウラー子爵閣下!」


 面食らってしまう。

 驚いた。まさか、謝罪を最初にしてくれるとは。


「…発言をお許しいただけますか?」


 少し先走ったとはいえ、礼儀もしっかりしている。さすがはルクレティアの選んだ男だ。


「許そう」


 ヘクターが安堵したのがわかった。


「だがその前に。このままだと話しにくい。座ってくれ」

「ですが…」


 ヘクターはおそるおそる顔を上げ、僕の顔色を窺う。

 僕は笑顔で圧をかける。どうぞ座って、と手で席を勧める。ルクレティアの隣を。

 ルクレティアと目を見合わせ、少しためらってから、ヘクターはルクレティアの横に腰を降ろした。


「ヘクター男爵子息、今日はわざわざ来てくれてありがとう。君、彼にもお茶を。悪いが、お茶を出したら下がってくれ」

「かしこまりました」


 侍女は頭を下げると、手際よくお茶を出し、部屋から退出した。部屋の中は僕とルクレティア、ヘクターの三人だけになる。

 彼女はルクレティアが連れてきた侍女だ。信頼していないわけではないが、情報がどこから漏れるかはわからない。これから先の話を知るのは、当事者だけでいい。


「さあ、遠慮せず飲んでくれ。うちのお茶はルクレティアが選んでくれているんだ。貴方の舌にも合うんじゃないかな」

「…いただきます」


 ヘクターの顔から血の気がなくなっている。少し棘を含ませ過ぎたか。

 ヘクターがカップを置くのを待って、話し始める。


「ヘクター殿。レノン男爵家の三男で、継ぐ領地も婚約者もない。現在はガラード商会に勤めているで間違いないだろうか?」

「…間違い、ありません」

「…エドワード、調べてたの?」

「悪いね」


 僕はカップの中のお茶を口に含む。


「君が愛人を作ろうが作るまいが、僕の知ったことじゃない。君の自由だ。けれど、相手がうちの政敵だったりしたら困るし、契約違反になるからね。一応調べさせてもらったよ」

「…そう」


 ルクレティアはうつむいた。


「子爵閣下、誠に申し訳ありません」


 ヘクターが深々と頭を下げる。


「貴方という存在があることを知りながら、私は貴方の妻との関係を続けてしまいました。挙げ句の果てに、私は貴方の妻を奪おうとしている。こんな私を許してほしいとは言いません。私は自分の罪を自覚しているつもりです。責任は全て自分にあります。どんな罰でも受ける所存です」

「…へえ」


 謝るべきことはしっかりと謝る。自分の求めていることの重さも自覚している。その責任も負う。その上で自分の意思を曲げない、強い男だ。ルクレティアが好意を寄せるのもわかる。


「ルクレティアも言ってたけど。自分が全てを負うって」

「私もともに負います」


 頭を下げたままのヘクターに、僕は冷たい視線を浴びせる。


「ヘクター殿。貴方は何を負うのかわかっているのかい?」

「わかっています。これまで子爵家が伯爵家に投じた資金と時間、生み出した利益、そして賠償。これら全て、自力でお返しします」

「そこに世間からの非難も加わるよ」

「承知しています」

「本当に?貴方はどうやってそれらを返すつもりだ?実家にも頼れないだろう」

「働いて返します」

「醜聞持ちの男を商会が雇い続けてくれるとでも?しかもガラード商会はうちとも取引がある。うちはそこそこ大きな取引先だ。貴方はクビを切られるだろうね。かばってやるほど僕もお人好しじゃないよ。貴方は莫大な負債を返せるほどの給金を得られるところで働けるのかい?」

「…」


 ヘクターは悔しそうに膝の上の拳をぐっと握った。


「なんとしてでも、お返しします。どんなところでも、死ぬ気で働きます」

「あ、そう。貴方の覚悟はわかった。素晴らしい」


 ぱちぱちと乾いた拍手を送る。


「ルクレティア、君の選んだ人はたいした男だね」

「…ありがとう」


 複雑な顔をするルクレティア。


「それで、君は?彼との人生を歩むために、どんな策があるの?」

「個人資産を増やしてあるわ」

「なるほど?」

「私、あなたからもらった生活資金はほとんど手を付けていないの。むしろ投資して倍以上に増えている」


 倍とはなかなかだ。彼女が伯爵家の当主になっていたら、自力で立て直せたんじゃないか?


「だから、少なくとも私がこの家でお世話になった分はすぐに返せる。私個人の資産も増やしてある。すぐに全額とはいかないけれど…。必ず全て返すわ」

「…まるで、こうなることを見越していたみたいだね。いや、こうするために動いてたって言うべきかな?」

「…否定はしないわ」


 ルクレティアは心苦しそうに僕から顔を背けた。膝の上の手のひらがぐっと握りしめられている。

 少し意地悪しすぎたな。僕の良心がちくちく痛みだした。二人の覚悟もわかったことだし、そろそろやめておこう。

 僕は二人ににこりとほほえみかける。


「すまない、前置きが長くなってしまった。本題といこうか」


 ピリ、と緊張が走る。


「ルクレティア、ヘクター殿。君らの僕への要求は?」

「私とあなたの離婚を」


 迷いのない答えだった。ズキリと心が痛んだ。


「断ろう」


 僕は即答する。

 それに二人が気圧された。


「…なぜか聞いても?」


 ルクレティアがおずおずと尋ねる。


「なぜ、ね。逆に君はどうして離婚という手段を取ったの?これまで通り隠し続ければよかったじゃないか」


 僕はルクレティアの問いをかわす。


「不誠実だからよ。私から離婚を切り出すのは、今まで伯爵家に尽くしてくれたあなたの恩を仇で返すようなものだけれど…。あなたはすでに辣腕(らつわん)を世間に知らしめた。子爵家は伯爵家の権威は必要ないくらいになった。伯爵家とのつながり()はもう必要ないでしょう?もともと子爵家の側に負担の大きい結婚だったわけだし。あなたの温情に甘えて、貴族の妻という立場にありながら恋人を持つ私はあなたに不誠実すぎるわ」


 ルクレティアの言うことは間違ってはいない。


 子爵家はもうすぐ昇爵というところまで来ているし、貴族界でもかなりの影響力を持つようになった。伯爵家への援助を利用して、子爵家の力を世に知らしめた。正直、これ以上伯爵家に恩を売る必要はない。というか、伯爵家は子爵家に頭が上がらない。こちらの方が立場は上だ。


 だからこそ、ルクレティアのしようとしていることを止めたい。危険すぎる。


「それで離婚、ね。恋人と別れる方にはならなかったんだ」

「別れたとして愛のない結婚よ」

「もとからそういう結婚だ」

「あなたはそれでいいの?」

「…」


 思わず言葉に詰まってしまった。

 それがいけなかった。


「…ほら。良くないんじゃない」

「…」


 ルクレティアはきっぱりと、嘘偽りのない声で言った。


「私はあなたにも幸せになってほしい」


 君が言うのか。それができたら苦労しない。こんなことになっていない。


「…僕の話はいいんだよ」


 話を無理矢理終わらせる。このままじゃ、僕が何を言い出すかわかったもんじゃない。


 それに、ルクレティアの横で気まずそうにしているヘクターの前でする話でもない。ヘクターは置物ですと言わんばかりに気配を消している。この状況では一番正しい振る舞いだとは思う。けれど、そんなヘクターに無性に腹が立つ。そんな自分にも、腹が立ってくる。やめにしたい。


「離婚は断る。けれど僕は、君らの関係性を認めないとは言っていない」

「え?」


 二人が目を丸くする。


「僕らが離婚するか君らが別れるかの二択じゃないよ。そもそも、ルクレティアが恋人を作ろうと契約違反にはなってない。だから不誠実じゃない。この状態を続けても、君らの関係性が僕公認のものに変わるだけだ」


「…どういうこと?」


「ルクレティア、君がヘクター殿と結婚しているも同然の恋人関係でいてかまわないってこと。別に僕に隠れて会わなくても良いし、なんならヘクター殿はここに住んでくれてもかまわない。たまたま僕と仲良くなって、この屋敷の一角を借りていることにすればいい。もちろん、噂が立たないようにはしてほしいし、社交には一緒に来てもらいたい。要は、君らの関係を認めるし邪魔はしないから、今までの契約を続けてほしいってことだ」


「え…、ちょっと待って」


 ルクレティアが静止してくる。


「私が浮気してたこと、怒ってないの?」

「怒らないよ。愛のない結婚だから、そもそも浮気ですらないじゃないか」


「子爵家にとって伯爵家への援助は重荷でしょう。切れるならば切ってしまいたいものではないの?」

「まあ、そうだね」


「私は契約を反故にしようとしたのよ。賠償をとった方があなたに利点が大きいんじゃないの?」

「否定はできないな」


「それなのに、私はこれまで通り、貴族の妻として最低限の仕事をしていればいいっていうの?」

「その通り」


「私がヘクターと関係を続けるのを公認すると?」

「するよ」


「結婚を継続してまで?」

「うん」

「…理解できない」


 まあ、そうだろうね。

 僕だって、何を言っているんだろうと思う。良く言えば懐が広い、悪く言えばお目出度(めでた)阿保(あほ)


「たしかに、君と離婚すれば僕は莫大な賠償金を得られる。伯爵家への支援もする必要がなくなるから、他の仕事に手を回せる。僕にとってもメリットが大きい。けれどきっとね、僕は妻に逃げられたっていう醜聞を負うことになるんだよ」


 ルクレティアとヘクターがはっとする。


「まあ、長年実家を支援して立て直したのに裏切られた被害者としては振る舞えるけどね。世間の同情を買えるだろう。でも、それだけだ。きっと、妻を留めておけなかった無精者、エドワード・ファウラーは取引先に裏切られる程度でしかないという評価になるだろう。ここまで評価を上げてきたのに、それは非常に不都合だ。このまま結婚生活を続けて、終わりだと言われた伯爵家を立て直した実力者という世間の評価を享受し続けられた方がメリットが大きいんだよ」


「…」


「君らにとってもおいしい話じゃないかな?君らは結婚できないし、僕という邪魔者はいるわけだけれど、僕と離婚することで発生する莫大な負債を負うことなしに、君らの関係を続けられるんだ。結婚なんて所詮、紙切れ一枚の薄っぺらい関係だ。そんなもののために重荷を負うよりかは、この話に乗るのが最適解だと思うんだけど」


 ルクレティアとヘクターは顔を見合わせる。きっと二人は、僕がごねるとは思っていなかったのだろう。もしくは、本気で説得するつもりだった。僕の提案は思ってもいないものだったらしい。二人の交わす目線の間で、僕にはわからない会話がなされる。


「ああ、同じ屋根の下で過ごしたくないと思うほど、僕に何か非があった?できる限り直すから、教えてよ」


 やめろ。そう思うのに、口が止まらない。

 落ち着け、エドワード。あくまで、冷静に。感情的になった方が負けだ。余裕を見せつけろ。


 ルクレティアはあわてて言う。


「いいえ、あなたに非なんてない。悪いのは私よ。私の我がままなの」

「いえ、私が全て悪いのです。非があるのは私です。閣下に非など、けっして…!」


 ヘクターも同時に弁解する。仲の良いことだ、まったく。


「そっか。それはどうも。じゃあ、僕の案を受け入れてくれるかい?」

「それは…」


 口ごもる二人。


 まあ、そう簡単にはいとは言えないだろう。僕の提案は、とても(いびつ)なものだ。受け入れがたいだろう。幸せな結婚生活を望む二人にとっては、特に。


 障壁を取り除いてみるか。


 そういえば、と僕は口を開く。


「ああ、子どもはヘクター殿と作ってくれてかまわない」

「え」


 二人そろって、間抜けな声を上げる。僕はそれを気にせず続ける。


「跡継ぎがいないというわけにはいかないからね。けれど、愛してもいない男と子を成すだなんて嫌でしょ?ヘクター殿も愛する人が他の男に抱かれるのを耐えられるか?幸い、ヘクター殿の髪の色は僕と同じ黒髪だ。子どもの瞳の色がヘクター殿の青色になったとしても、僕の母も青色だから、まあ誤魔化せるだろう」


 二人は信じられないものを見るかのように僕を見ていた。

 気持ちはわかる。僕だって、僕が何を言っているのかわからない。僕の腹の中で、何か得体の知れないものが(うごめ)く感覚がした。気持ち悪い。吐きそうだ。


「ヘクター殿には申し訳ないが、二人の子は子爵家の跡取りとして、僕とルクレティアの子として育てるし、周知する。これは君らの関係性を守るものでもある。こればかりは譲れないな」

「…貴方は、それで良いのですか?」


 震える声でヘクターが尋ねる。


「貴方のおっしゃる条件では、貴方の、子爵家の血は次代に残りません。子爵家の血が流れていない者が子爵家を継ぐことになるのですよ」

「そうだね」

「なぜ、平然としていられるのです…?」

「ヘクター殿、貴方は何かを勘違いしている」


 混乱しかけたヘクターを遮って、僕は言う。


「最も大事なことは、家を継ぐ者がいることだ。継承が安定するだけで、血の繋がりは二の次。実際、遠縁の養子を迎えて跡を継がせて存続している家は山ほどある。それに」


 僕は口角を上げた。


「何代か前に、君の家にうちの娘が嫁いでいたそうだね。これで貴方と僕は遠縁だ。何の問題もない」

「…」


 そういうことではない、と言いたげなヘクター。


 ヘクターが遠回しに言おうとしたことはわかっている。自分の妻が他の男と作った子を自分の子として、後継者として育てるだなんて正気か、耐えがたくないのか、てところだろう。


 間違いなく正気じゃない。普通ならあり得ない。だからこそ、僕は今、妻であるルクレティアを愛さない非情な夫になれているだろう。こんなのは本意じゃない。けれど必要なことなんだ。僕にとっても、彼女らにとっても。


 二人はまだ、踏ん切りがつかないらしい。


 仕方がない。最終手段に打って出るか。


 僕はふう、と息を吐くと、表情を無くしてルクレティアに尋ねた。


「ルクレティア、ヘクター殿が亡き者にされてもいいのかい?」

「…え?」


 ルクレティアの菫色の瞳が揺れた。その隣で、ヘクターがびくりと震える。


「どういう意味?」

「そのままだよ。ヘクター殿が殺されてもいいのかってこと」


 ルクレティアの隣でヘクターがごくりと息を飲んだ。こっちは意味に気付いたか。


「今までの話でわかっただろう?この結婚は子爵家にとっても伯爵家にとっても継続したい契約だ。それを壊すことになった君らの色恋は許されない。ない方がいい。幸いなことに、相手の男はほぼ平民と言っていい男爵家の三男だ。ならば、相手の男を消してしまうのが一番手っ取り早くて波風立たないじゃないか」

「な…っ」


 ルクレティアは血相を変えた。


「そんな野蛮なこと、するはずが…!」

「どうかな?君のお父上は伯爵家の再興に躍起じゃないか。娘を売り飛ばすくらいにはね。それを台無しにするような存在は容赦なく消すと思うよ。暗殺者一人雇うくらいの余裕は生まれてるしね」

「たしかにお父様ならやりかねないけど、けれど…。離婚が成立した後なら関係ないでしょう?」

「覚えてない?これは家同士の結婚だ。僕と君の間だけで済ませられる話じゃない。離婚の成立には伯爵家の当主である君のお父上にもお伺いを立てなきゃいけない。ごねて時間稼ぎをしている間に始末されるってことは十分にあり得るよ。うちだって黙ってないしね」

「あなたも手を下すってことなの」

「まさか。僕はやらないよ。君らの関係自体は認めているわけだし。ただ、うちの父が黙ってない」


 僕の父は当主の座は退いたとはいえ、家の名声や権力にはうるさい人だ。真っ先に刺客を放っても不思議じゃない。


「…」

「その辺りの根回しはしていないんだろう?」

「…ええ」

「駄目だよ、こういうことは先に外堀を埋めなきゃ。真っ先に僕に話してくれたことは嬉しいけれど、詰めが甘すぎる。僕が伯爵と共謀して君らを引き裂こうとしたらどうするつもりだったんだい?君は良くも悪くも真っ直ぐで善良すぎるんだ」


 僕はルクレティアの菫色の瞳をじっと見つめた。なんて綺麗で高貴な紫だ。


「やめておきなよ、ルクレティア。君じゃ離婚して負うものの重さに耐えられないよ」


 ルクレティアはうつむいてしまった。


「…ルクレティア」


 ヘクターが心配げに、けれども説得するようにルクレティアに呼びかける。


 自分が殺されるかもしれないって話がされていたのに、他人を気遣えるだなんて本当によくできた男だ。男の僕だって感心してしまう。


 あらためて、僕は二人に尋ねる。


「打ち明けてくれてありがとう、ルクレティア。謝罪と覚悟をありがとう、ヘクター殿。僕は君らの関係を認める。何なら支援しよう。だからこの結婚という契約を続けてはくれないかい?」


 圧倒的に優位なのは僕だ。二人は僕の案にうなずくしかない。うなずかなければ、その先に待つのは莫大な負債の取り立てに終われる生ける地獄だ。そこに二人で立っている未来すら存在しないかもしれない。僕はじわじわと外堀を埋め、一つしか選べない選択肢を二人に迫っている。嫌な男だ。


 ルクレティアは何か考えているようだった。しばらくして、顔を上げる。

 ルクレティアとヘクターは互いに顔を見合わせ、深くうなずいた。


「わかったわ。あなたの案を受け入れる。いえ、貴方の案に乗らせて下さい」


 ルクレティアは深く頭を下げた。それに合わせてヘクターも頭を下げる。


「ありがとうございます、エドワード・ファウラー子爵。あなたの寛大さに感謝いたします」

「仰々しい言葉はいらないよ。この結婚を続けてくれれば、僕はそれでいい」


 そっけなく言うと、ルクレティアは泣きそうな顔で僕を見た。


「ごめんなさい、エドワード。あなたを裏切るようなことをして。あなたはこんなに優しいのに、あなたの妻をやめようとして、ごめんなさい」

「…いいよ。気にしてない」


 僕は優しくなんかない。むしろ、非情な人間だ。家の利益のために君を縛り付けるこんな僕を優しいと言ってくれる君の方が、よっぽど優しい。


「ねえ、ルクレティア」


 ずっとずっと、気になっていた。でも、怖くて聞けなかった。今だって聞くのが怖い。口をつぐんでしまいそうな自分がいる。けれど、この機を逃せばもうチャンスはないだろう。意を決して口を開く。


「君は僕のことを、どう思っているの?」

「…え」


 予想外の問いだったのか、ルクレティアは目を見開いた。

 その反応が全てだった。

 ルクレティアの中で、僕は意識を向けることすらしない存在だ。


「やっぱり、僕のことが憎い?君に恋人がいることを知りながら、家のための結婚をやめなかった利権にがめつい僕が。憎まれても仕方がないよ」


 これは、自己防衛だ。彼女の口から冷酷な現実を突き付けられることを避けるための。


「いえ、違う、違うわ。私はあなたのことを憎んでなんかいない」


 それこそ、予想外の答えだった。


「…え?」

「…いえ、憎んだことはあった。あなたという存在がいることで、私の恋は叶わないって。でもこれは、私の身勝手で理不尽な恨みよ。だって、あなたは最初から優しかった」


 頭がついていけない。今僕は、とても間抜けな顔をしているだろう。


「私を婚約者として、大事にしてくれた。家のための結婚で、私の家が助けてもらう側なのに、あなたは私自身を尊重してくれた。結婚して、あなたが「これは愛のない結婚だ」って言った時、私、正直ほっとしたの。結婚しても、私はヘクターに恋し続けていて良いんだって。あなたは伯爵家に尽くしてくれたのに、私はあなたを裏切った。私はあなたの優しさに甘えたの」


 ルクレティアはほほえんだ。


「あなたは学園でも片手に入るほどの優秀な人で、成人前から実務に携わって周囲から期待されている人で、もう終わりだと言われていた伯爵家を立て直した有能な人で。それでいて人もできている、素晴らしい人。心から尊敬している。そんなあなたを、憎めるはずがない」


 ああ、僕はなんて単純なんだろう。

 君のその言葉だけで、浮かれている自分がいる。ならいいかと、満足してしまっている自分がいる。


「…ありがとう」


 それ以上の言葉が出てこない。何か言いたいのに、上手い言葉が見つからない。

 …いや、いいか。僕が彼女に気の利いたことを言う必要はない。それは僕の役目じゃない。


 僕はルクレティアとヘクターにほほえみかける。


「それじゃあ、これから僕らは共犯者だ。この関係を墓の中まで持っていこう。それまでよろしく」

「あらためてよろしくお願いします、エドワード」

「よろしくお願いいたします、子爵閣下」


 僕は二人と握手を交わす。もう、後戻りはできない。

 一息つくと、ルクレティアが僕に尋ねた。


「…一つだけ聞かせて、エドワード」

「何?」

「いつから、私たちの関係に気付いていたの?」


 僕はほほえんだ。


「最初からだよ」


 ルクレティアの瞳が揺れた。


「結婚した時に言ったでしょ、君を愛することはないと。あれ、君が愛する人と好きにして良いって意味だよ。知ってたよ、君に想い合う恋人がいたの。婚約が決まる前から恋人どうしで、婚約が決まった後も、結婚した後もその関係は変わらなかったことも」


 淡々と告げる僕の言葉が癪に障ったのか、ルクレティアは声を荒げた。


「どうして…!知っていたならどうして、結婚なんかしたの。婚約破棄しなかったの。あなたほどの才ある人なら、私のような重荷づくしの女でなくたって、権力を与えてくれる女はたくさんいたはずよ…!」

「…そうかもね」


 その通りだ。


 僕とルクレティアの関係性がそこまで良いものではないことは周囲も薄々察していた。僕の家の資本と、僕の能力目当てに婚約者持ちの僕にすり寄ってきた令嬢は一人や二人ではない。その中には、うちにとって都合の良い家の令嬢もいた。それでも、僕がなびくことはなかった。


 普通に考えて、僕のやっていることは不可解だ。


 大きな声を出して少し冷静になったのか、ルクレティアはばつが悪そうにしながら口を開く。


「あなただって幸せになりたいはず。婚約しても、結婚しても恋人を持ち続け、挙句の果てには貴族としての務めを放棄しようとする愚かな私に、もう見切りをつけたっていいはず。それなのに、あなたは私を見捨てるどころか、相手の男も一緒に助けてくれる。いくら離婚しない方が都合が良いと言ったって、あなただって幸せな結婚生活を手にする権利があるのに」


 ルクレティアはおそるおそる僕に尋ねた。


「エドワード。あなたはなぜ、この結婚生活を続けるの?」


 …なぜ、か。

 なぜ、僕はこんな不毛な結婚生活を続けるのだろう?


 答えは明白だ。


 僕は、ルクレティア、君に恋しているからだ。


 初めて君に出会った時。婚約が決まって、初の顔合わせの時。

 僕の心は君に射落とされた。


 可憐でおしとやかに見えた君は、はつらつとしていて、無邪気な笑顔が眩しい人だった。自分の芯をしっかりと持っていて、揺らがない人だった。それが、父の言いなりで示された道を進むしかできない僕にとっては、まばゆいほどに輝いて見えたんだ。


 僕は君に落ちた。婚約者になった君と、仲良くなって、結婚して、互いに愛し合うようになって、幸せな人生を歩めるのだと思った。


 けれども、僕の浮ついた理想は儚くも崩れ去った。


 君にはすでに、愛する人がいた。


 君からすれば、僕との婚約は家のために恋人と引き裂かれる非情な宣告だった。婚約したての頃は君の気を引こうと必死だったけれど、君の心が僕に向くことはなかった。それでわかった。僕の初恋は破れたんだって。君との幸せな未来が訪れることはないんだって。


 そこで諦めればよかったんだ。けれど、どうやら僕は自分が思うよりも諦めが悪い男だったらしい。


 君の隣にいられる権利を、手放せなかった。


 大人しく身を引けば良かったのに、できなかった。それなのに、君には幸せになってほしかった。愛する人が隣にいる幸せを、享受してほしかった。


 だから君が恋人を持つことを黙認した。


 君の隣に僕以外の男がいることを、しかもその男が君の愛を全て受けることを、良しとできるはずがなかった。でも、君がそれで少しでも幸せになれるのなら、それで良いと思った。思ってしまった。


 僕のやっていることも、論理も、筋が通らないことは重々承知だ。恋は人を盲目にすると言うが、本当にその通りだ。僕は君に堕ちた。君が僕以外の男を愛することだって、可愛い君の我がままとして受け入れることができてしまった。惚れた僕の負けだ。


 それでも、離婚は受け入れられない。僕は君の夫という、君の隣に座れる席を譲れるほどの器は持ち合わせていなかった。そのせいで、妻に恋人がいることを容認しつつ離婚はしないという(いびつ)な状態を生み出してしまった。


 どんなに(いびつ)で不毛なものだとしても、僕はこの結婚生活を続けよう。

 それが、未練がましい僕が君の隣に居続けるための、唯一の手段だから。


 僕はルクレティアにほほえみかける。


 なぜ、こんな結婚を続けるのか。

 だって、ルクレティア、僕は君を愛しているから。


「だって、この結婚は仕事だからね」


 僕は君に想いを伝える度胸すら持ち合わせない臆病者だ。貴族の責務を持ち出して君を縛る卑怯者だ。紙切れ一枚の薄っぺらい契約にしがみつかないと君を留めておけない軟弱者だ。


 君を幸せにしてあげられない僕でごめんね。


読んでいただきありがとうございます!


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― 新着の感想 ―
究極の愛ですね 相手を愛し尽くしてる
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