知ったかぶりのあなたへ
終わりって淋しい。どうしてか考えていくつか理由を並べてみても、なんだかどれもしっくりこない。すべてがなくなってしまうこともないし、記憶が消えてしまうことも、築かれた今がくずれ落ちることもないので何がそんなに淋しいのかわからなかった。けれど、終わってしまえばそれはもう戻ることはできない確実な過去になって、不可侵な領域に行ってしまう。だからなのだろうか。終わりに対する淋しさというのは郷愁を伴う感傷的な心なのだろうか。
クーラーがごとごとと音を立てているけれどそれは無視できる範囲内で、壁掛け時計の秒針に至っては目を瞑ってそちらに意識を集中させなければ聞こえてこないという不思議なものだった。きっと耳の仕組みで雑音はなかったことにできるのだろうけれど、あるものを私の中ではなかったことにするというのはなんだか怖い気もした。枕からずり落ちた頭をそのまま、ベッドに横になって綿の毛布を抱きしめる。足と足の間に挟んでみたり広げて胴を覆ってみたりして、眠れそうな体勢を探った。枕に頭を乗せ直して鼻から勢いよく息を吐いた。そのまま体をパタリと倒してうつ伏せになって、お腹の辺りに腕を潜らせて押し潰した。腕に加わるその重さが心地いい。しばらくすると腕にひりひりと痺れるような感覚があって、引き抜いてマットレスの上に真っ直ぐに伸ばして置いた。手のひらを大きく広げてみると、腕をまな板の上に置いているようなほのかな緊張感が指の関節に籠っていた。腕の中を飛び回る熱が指先のほうに移動していく。左腕に比べてだいぶん重くなった右腕を再び胸のすぐ下に差し込んで体重を重しにする。腕の厚みで、うつ伏せに寝るのに窮屈な胸らへんに余白ができて、胸の膨らみを潰さずにいられるのと楽に呼吸ができるのとでもともとうつ伏せで寝るのが好きな私はこの体勢を気に入っていた。足元で絡まる布団を引き上げて肩まで被せる。時計の長針は私がベッドに体を滑り込ませてから何周しただろうか。うつ伏せになっている体を横向きにして腕を頭の下に入れ込む。頭を丸め込むように抱えて手のひらで若干湿気った髪を撫でた。
妙に秒針の音が大きい。クーラーが静かだ。目を瞑って瞼の裏の熱を深くまで拾い上げる。そして、失った恋のことを考えた。恋を失うと書いて失恋と呼ぶのなら、これはれっきとした失恋だった。けれどそれは静かなもので、今日も窓一枚を隔てた外では雨が強く降りしきっているというのにわたしは涙を一滴も零さなかった。大切に抱えていたはずの感情を失って、どうして涙を流すことさえできないのだろう。
わたしの代わりに空が泣いてくれているのだ、と思おうとしたけれど、勝手に空がそうしているだけで決して私が求めたからではなかった。
永遠など存在しない。感情はいつか忘れてしまうものだ。けれどなぜ忘れてしまうのだろう。忘れてしまわぬよう、あんなに大切に抱きしめていた思いを。私の感情だけが一気に色褪せてしまったみたいで、鮮明な思い出の中でそれだけが浮いて見えた。
脳は簡単に恋を手放してしまった。知っていたはずなのに認めきれずにいた事実が腹の内側でのたうち回っている。
永遠はなくとも、もっと悲しんでいたかった。どうしてわたしは客観的に現実を見つめ、過去のものとして懐かしんでいるのだろう。永遠に好きでいることはできなくとも、確かに恋だったそれを認めてほしかった。わたしはもう恋を失ってしまったというのに。あったはずの感情を、持っていたはずの感情を愛おしむばかりで、そこに悲しみも怒りも恨みも何一つなかった。食事が喉を通らなければよかったのに。その事ばかりを考えて夜も眠れなくなれば、わたしは先輩を好きだったのだと実感できたのに。まるですっかり忘れてしまったみたいだ。この感情の沈みがそのまま先輩への思いに繋がっている気がして、この程度だったのかと思い知らされた気分になる。
あの感情はうそだったの。偽物だったの。
そんなはずは、ない。そんな、はず——。
いつから眠っていたのだろう。カーテンの隙間からベッドに落ちた柔らかな陽光がその境界線を揺らした。ベッドに仰向けになったまま顔の向きだけを変えて、海水面のように意味もなく流動するそれと海底に差し込む日光のベールのようなカーテンを見ていた。
天気予報によると向こう一週間、もしくはそれ以上晴れが続くらしい。
頭の内側で熱を帯びた靄が大きく対流している。それは後頭部の各所に痛みをもたらしていて、あるはずの意識が後ろに引っ張られている感覚だった。頭蓋骨とか脳の形状とか頭の中身なんて知らないけれど、想像のままに意識を向けるとそれは味噌汁のようだった。箸を浸したりせずに注がれた味噌汁を見ていると下側からぐわりと循環があって、いわし雲のような模様が浮かぶ、そんなイメージ。
その現象に名前がついていたよな、と思ってスマートフォンを探してみたけれど見当たらなかったので諦めて、ベッドにうつ伏せになって大きく息を吸った。頭の重みに合わせて沈んだマットレスが顔全体を覆って、鼻から吸い込んだ空気は柔軟剤のような、けれど鼻腔を刺すようなものではなくて酸っぱいとも感じないし食欲が掻き立てられるわけでも吐き気を催すわけでもない。
きっとこれは、世界でいちばんわたしが安心できる香りなのだろうと思った。首を回転させて頬と左耳をマットレスに押し当てる。そのままじっとしていると、後頭部のぐにゃりとした熱だけが不安がっている気がして頭を少し浮かせてそこから腕を通し、髪の毛の下から両手をくぐらせるとうなじに触れた。髪がどうしても邪魔しているからか、感じていた熱は気のせいだったのか、手のひらに熱は感じなかった。
シャワーを浴びなければ。昨日は帰ってきてそのまま寝てしまったから、制服のままの格好でどうにも居心地が悪い。起き上がろう、と心に念じてだるい頭をゆっくりと持ち上げた。
廊下を五、六歩歩いて洗面所に繋がる右手のドアを開けた。浴室に続くドアと、ほどよい大きさの空間がそこにはあって、おおきな鏡の中にはわたしをまっすぐに見つめるわたしがいた。寝癖の頭を掻き、前髪をひとなでした。束になった前髪をほぐそうと根元から手櫛をかけてみたけれどそれは意味をなさなかった。脱いだ衣服を床に落としたまま拾いもせず、浴室のドアを開けた。
シャワーから広がる冷たい雨が足の甲やふくらはぎに当たって、シャワーヘッドを掴むと向きを勢い良く変えた。目の前に広がる鏡に映るのは、額に張り付いた前髪を整えているわたしだった。髪の束を軽く引っぱってみるものの手をはなすと波打ってそこにとどまる。目の前にいる自分は、せつなさやら憂いと安堵の表情をしていた。
そろそろ頃合いかと見込んで小さな集中豪雨の中に手を突っ込む。お湯になっていたので椅子をガラガラと引きずりながらシャワーの前に置き、そこに座った。頭からシャワーの水を浴びて、目を閉じたまま先輩のことを考えようとした。けれど何から考えればいいのか、どんな感情を持つのが正解かわからなくてとりえず顔を思い出そうとしたけれどうまく像を結べなかった。
あの時話したこととか、表情とか笑うときの癖まで再現できるのだけれど、顔のパーツと配置だけがぼんやりとして思い浮かべることができない。部室の雰囲気とかわたしたちの距離感とか背景にうつっていた窓ガラスがくすんでいるあの感じとかはよく覚えているというのに。
先輩の写真の一枚でも持っていたら、きっとその時の先輩しか思い出せないのだろうと思った。
シャンプーを泡立てて指の腹に髪の上を滑る感触を感じながら、わたしは心の中で悲しいよ、と口にしてみた。悲しいよ、どうして平気でいられるの。好きだったんじゃないの。なんで涙の一つも流しやしないのよ。悲しくないの。
わたしは自分が思っているよりも存外薄情な人間なのかもしれない、とそう思った。恋を失ってしまったというのに悲しめずにいる自分自身が悲しかった。
このまま過ぎ去ってしまうの。恋ってのは完全燃焼して燃え尽きて、灰になるんじゃないの。まるでこれじゃあわたしが先輩のことを本当は好きじゃなかったみたいじゃない。どうしてくれるの、こんなに雑に終わってしまったら忘れてしまうじゃない。
激しい感情を抱けなかったら、忘れてしまう。全て。先輩のどんなところが好きだったとか、どんな話をした、どんな表情をしていてどんな時に笑っていたのか。全てを。もし忘れてしまったら、私は何をもって先輩との記憶を思い出せばいいの。感情が動かない事実を覚えているほど脳は暇じゃないのに。
この恋の行方なんて、どうだっていい。どうだってよかった。ただ覚えていたい。こんな幸せな記憶があったことを、感情が揺さぶられたことを。事実としてではなく、思い出として。
春の残酷さが恋にとどめを刺せずにいて、宙ぶらりんで今も知らない場所を揺蕩っている。春のせいだと思った。そんなはずはないのに。
わたしは最低な人間だ。
頭からお湯をかぶる。泡が目のすぐ横を流れていって、頬を伝い、首元で停滞した。髪を手で解きながら目に見える範囲の泡を流していく。シャワーの栓を止めてわたしは浴室乾燥のボタンをオンにして、バスマットを敷いた上に乗り、そこからバスタオルが置いている棚まで手を伸ばした。一番上にあったタオルを一つもぎ取ると、広げて頭にかぶせた。下に垂れたタオルの端は肩にかけた。
乾燥器から取り出したばかりでもないのにそのタオルはあたたかく感じて、湯船につからなかったから体がしっかりとはあたたまっていなかったのだろうと思った。
洗面所に置いたままにしていた眼鏡をかけて鏡を覗き込む。前髪が左右に流れていたので櫛を使って真下にすとんと落とす。ドライヤーをかけようか迷ったけれど、結局そのまま洗面所を後にした。着替えて自室に戻ると、ベッドに浅く腰かけた。そして後ろに倒れるようにして寝転がる。濡れたままの髪が首の後ろ辺りに当たって冷たかった。
目を閉じると秒針が時を刻む音が聞こえる。秒針の音はそちらに意識を向けない限り聞こえない音だなと思う。普段の生活ではノイズとして無意識のうちに排除されているのだろう。
一秒が経つごとに頭がマットレスにどこまでも沈んでいくような感覚になった。ゆっくりと落ちていく。このままでは寝てしまう、起き上がろうと思ってはみたものの、しばらくこのままでいた。
もしかするとわたしは失恋したという現実を受け止め切れていないからぼんやりとした感情しか湧いてこないのではないかと思った。未だに期待する心がどこかにあって、捨てきれていないのではないか。ああ、もしそうならばこの状況の説明ができる、きっとそうなんだ、わたしはまだ終わっていないと信じたいのだ。
春から夏へ移りゆくグラデーションのように、春に明確な終わりはない。だからどこかで今日から夏の始まりだと誰かが決めてやらないといけないのだ。わたしの恋はまだ、失われていなかったとすれば。
もしそうであるなら、終わらせよう。
今じゃないといけないと思った。
わたしは勢いづけて起き上がると制服をかけているハンガーラックまで早歩きで行き、長袖のシャツを一枚はぎとってスカートも引っ張って腕で抱えた。来たばかりのスウェットを脱ぎ捨てるとシャツに腕を通し、ボタンを上から止めていき、スカートを腰の位置まで持ち上げてチャックを上げた。濡れた毛先がシャツに触れて肩のあたりがひんやりとしたけれど、今日のような晴天であれば乾くだろう。
通学かばんを持っていこうか悩んだけれど、スマートフォンだけをスカートのポケットに入れてローファーを履いた。玄関に折り畳みの日傘があったので、念のために手に持つ。玄関のドアを開けると、想像より気温が高くて半袖を着ればよかったか、けれどまだクローゼットにしまい込んだままだから今日はこのまま行くしかない、今日にでもクローゼットから出しておこうと思った。
玄関の鍵を閉めて歩き始めた時、今日の土曜授業を欠席していたことを思い出したけれど、クラスメイトに会っても別に構わないだろうと歩みを止めることはしなかった。
家から学校までは歩いて十分と少しかかる。何も考えずとも気づいたら学校に着いているような感覚だから朝の寝ぼけた頭でも、きちんとたどり着ける。シャワーを浴びて頭が冷えたからか冴えていたから、わたしの前を吹き抜ける風が、春の生ぬるい湿気が肌にまとわりついて不快だった。
わたしはどうにも春を好きになれない。曖昧で、柔らかくて受け入れているように見せかけて実のところは優しくなんてない。静かに降り積もって、誰にも知られず溶けた雪の結晶は春を恨むのだろうか。春のあたたかさを、憎むのだろうか。確かに存在したはずなのに、認めてくれない春を。
だから、わたしは春を好きになれない。
四月二十三日。高校二年生にして、学校の駐輪場に踏み込んだのは二度目になる。来週の月曜日からは新一年生の自転車通学が始まり、先輩が使っていたあの区画も、誰かの場所に変わってしまう。その前に空白のままであっても、先輩の姿をそこに見たかった。
自分でもそれが何に対するものかわからないため息を吐いてしまう気がして、口をきつく結んだ。先輩と並んで歩いていたあの瞬間を重ねながら、自転車に囲まれた小さな街を見る。先輩だけがくり抜かれた駐輪場は、すべてがモノトーンで殺風景だった。
まわりを見渡すと、授業がちょうど終わる時間だったようで自身の自転車を押して駐輪場を後にする生徒ばかりだ。わたしだけがひさしの支柱に寄りかかって駐輪場を眺めていた。ひとりが駐輪場に入っては、ひとり出ていく。
たった一度、卒業式の日に先輩と歩いた駐輪場中央の通り。二ヶ月が経とうとしているその日を今も鮮明に覚えている。記憶は薄まることも褪せることもなく、わたしの肺の底でじっとうずくまっている。
卒業式があった三月一日は先輩の誕生日でもあった。先輩は誕生日を高らかに言って回るような人ではないから、つまり先輩の誕生日を知っているのは先輩に誕生日を訊いた人だけで、わたしくらいしかいないと先輩は言っていた。
先輩に誕生日を訊いた時、覚えていたら祝ってよ、あの時期はみんな卒業式のことしか頭にないだろうから、と笑っていた。それ以来、わたしは三月一日をずっと楽しみにしていた。もしかすると、本人より楽しみにしていたかもしれない、と思えるほどだ。
卒業式のあと写真撮影をしたり立ち話をしたりしていた先輩に、すこしお時間いいですか、と言ってふたりでその場を抜け出した。わたしなんかより先輩と関係が深くて、仲がいい友達との間に入っていくのは申し訳ない気がしたけれど、先輩が了承してくれたことに何とも言えぬ高揚を感じていた。
いつもは寄らない駐輪場の入り口を踏んだのはその時だ。先輩がすこし先を歩いていって、私は黙ったままついていった。先輩の自転車が何色かとか、どこに停めているのかを知ったのはその日がはじめてで、先輩が足を止めたので私もすこし距離を空けて立ち止まった。先輩の自転車はカーキ色なんだ、と思った。
カーキに色って付けるっけ。カーキ、と言う方がしっくりくるから今だけはこのくすんだ深緑はカーキだ、と思うことにした。
わたしがぼうっとしているうちに先輩は自転車のかごにかばんを詰め終えたようで、行こうか、とわたしの方を見た。いつもと変わらない、どこまでも透き通った湖のような表情だった。
先輩、と声をかけた。周りの喧騒に揉まれて消えてしまいそうなほど弱々しくて、それでも先輩には聞こえていた。
「どうした?」
えっと、と小さく声を漏らしたきり、その後に続ける言葉が出なかった。両手に持った通学かばんの中には、先輩に渡す誕生日プレゼントがあった。手のひらがヒリヒリと痛んで、かばんを握る手に力が入っているのが分かった。訴えるように先輩を見つめても先輩は見つめ返してくるばかりで、なにか言葉を紡ごうと思考を巡らせる。
巡らせるといっても結局辿り着く先はプレゼントを渡すことなのだけれど、その勇気が出なかった。賑やかに笑う卒業生たちの声は聞こえていたのに、その人たちとわたしたちがいる場所とで膜が一つ隔てていたかのように静かだった。
結局わたしが小さな紙袋に入れたそれを渡すまでに、どれだけの時間を要したかはわからない。緊張で時間感覚は麻痺していたし、なにしろ曖昧だった。覚えているのは、渡したプレゼントに向ける、綻ぶような先輩の笑顔と私に見せたはにかむ仕草だけだった。けれどそれで充分だった。
第二ボタンのことは口に出さなかった。忘れていたわけでも、この期に及んで腰が引けたわけでもない。ただ、先輩の制服のボタンがついてあるはずのところに何もなかったからだった。ああ、先輩は抜けているところがあるから、どこかにひっかけたりでもしてボタンが取れたのだろう。そう思った。
終わりは水たまりに浮いた桜の花弁のように、かすかに揺れていた。そこに音はなかった。そんな曖昧さがわたしを蝕んでいるというのに、それを誰かは優しさだと言った。
追い風が乾ききっていない前髪を乱した。春のくせに生意気で、柔らかい真綿のような陽射しが、ぷくりと頬を刺している。柱にこめかみを当ててみると冷たかったけれど、わたしを拒絶するものではなかった。錆びた鉄の匂いがするかと思って、抱きしめた支柱の灰色に鼻を近づけてみたけれど、なにもない。頭の表面に広がる冷たささえ心地よくて、抱きしめる腕の力を強めた。
めいっぱい息を吸うと、森林の澄んだのとも、都会の排気ガスに揉まれたのとも違う優しい、どう優しいって肺に満たされた空気からぽつぽつと安心感が浮かんでくるような冷たさが鼻腔の奥に当たって、それと引き換えに目の奥が熱を帯びた。
あたたかい春の空気になぜか鳥肌が立った。
その時、終わったのだ、とどこからかそう思えた。そしてこの胸をこそばゆくさせるどうしようもない淋しさは、ああ、好きだったから、なのだろうと思った。好きだったから、そうか、旅の終わりも夏の終わりも恋の終わりも。わたしはちゃんと好きだったのだ。あの日々をわたしは。そう認めてやると、なんだか嬉しさのような少し恥ずかしいような気がして、口元が緩んだ。
日差しがそこまで強くなかったので、手に持ったままだった日傘をさした。顔を隠すように傘を前に傾ける。どうして優しいの。わたしのこと好きじゃないくせに。どうしてほかのすべては受け入れてくれたのに、わたしの好きだけは——。
泣いていた。はじめは嗚咽を漏らさぬように歯を食いしばっていたけれど、抑えきれなくなって口を大きく開けて迷子になった子どもみたいに、ここにいることを知らしめるみたいに泣き続けた。右手は日傘を持つ手でふさがっていたから、左手で涙をぬぐった。その場から立ち去るように駐輪場を抜けて西門を潜った。
だから、わたしは春を嫌いになれない。
開いた日傘を揺らしながら、涙を乾かすように家に帰ることにした。あの日先輩と別れた十字路をまっすぐに向いて、ここら一帯に敷き詰められた春をゆっくりと裂いて歩いていく。曖昧さがわたしを殺すとしても。足元の水たまりがいつか消えてなくなるまで。
春は雪を溶かし続ける。