第3話 その先にある君の自由
仕事を失ってしまったとはいえ、失うものは時間給に他ならない。17歳の 岬 一燐 にとっては返して貰った時間の方が何よりも貴重でかけがえのない今だ。
「どうする、仕事探さなきゃ……。ふぅ、、、弁償」
ここの裏手側にある公園へ向かう足取りは重く、それに見合う時間だけは十分に手に入った。こんな事でもなければ昼間にこの道の先なんて、歩いたことは無かっただろう。警察官へ被害届けを出した家は三軒。
一軒一軒廻って謝罪と弁償の話しをするというのは気が重い。一軒目は爺さんが出てきて窓はもう新しくなっていた。張り替え当時の話し散々繰り返しされて、4万4千円の領収書を見せられた。
手持ちのお金では払えないので取りに戻ることを伝えて一度後にした。
ガラス代だけじゃなくガラス撤去費に纏わる費用や作業代、消費税、リサイクル税に廃棄税。税金は種類も税率も増える一方で生きてくだけで税金がかかる。死ねば税金、焼くのも税金、納骨にすら税金がかかる。
10万円を超えそうだ。この8ヶ月で手元に残ったのは19万円。18歳を過ぎれば更に納税は増えて、手元に残るお金は激減してしまうだろう。もう生きるのでやっとになるのは必至、早かれ遅かれ今のバイトでは無理だろう。
家に戻ってくると 父親の岳生 とキッチで鉢合わせた。
「なんだ。仕事はどうした」
「クビになった」
「お前ぇーッ! 飯は、、、薬はどうする気なんだ」
「何とかするしかないだろ」岬 一燐 は心なく応えると部屋に入った。
押し入れに詰め込んだ通学に使っていたカバンを引っ張り出して、底に隠していた紙幣をズボンに仕舞い込むと、腰を下ろして目を瞑って俯いた。
へたり込んだワケじゃない。ただ頭の中がいっぱいに詰まって重くなっただけ。
金が足りなきゃどうなるんだ?
足りたとして幾らから始めるんだ?
また、やるのか……
立ち上がて膨らんだズボンのポケットを上から押さえた。部屋を出てキッチンで水を飲み、コップを濯いでいると 父親の岳生 が顔を覗かせた。
「おい、一燐。お前あの女の子で稼いでるのか?」
「馬鹿か? そんなワケないだろう!」
「本当はもっと金があるんだろ、飯も飲みもんも酒も薬も買えるんだろ?」
「金なんてねぇよ」
「お前、割ったガラスの金はどう工面する気だ?」
「取り敢えず謝ってみてからだな、一緒に来てくれんのかよ?」
「自分の尻も拭えないなんて……、学校で何してたんだお前は!」
「何もしてないから辞めたんだよ、もう行くから」
父親の岳生 が正気のうちに入院さて、何処か違う所で違う生活をしないと、やり切れるなくなってしまう。岬 一燐 は考える前に行動した方が早いタイプだ。やっとけば良かったと思うより、やるんじゃなかったと思うことの方が多い。
急いで家を出ると他の二軒へと向かった。手持ちの金で足りない場合、高い方から弁償して安いのは誤って許して貰うか、待って貰うしかないと考えていた。
今まで家のやり繰りの経験から、そう凌げば何とかなる事が多かったからだ。二軒の合計が19万を超えてしまえば、今はどれも返さずに待って貰う様に頼み込むしかない。
15時を過ぎた頃、三軒合わせて14万8千円だと分かった。手元に4万2千円を残して示談で済みそうだ。払ってしまって『この話しはもう終わらせよう』、もうそう決めていた。別の場所で仕事するにしたってその方が良い。
示談合意として修理に掛かった領収書にサインを貰う。これでもう清算が済んだのも同然。手元に残ったお金のうち、2千円は自分の事に使うことにした。
2千円で出来る事なんてたかが知れている。食べ物なんて買っても今は満たされはしない。だから何に使おうかと考えて歩くしかなかった。
足は品川区のターミナル駅に向かっていた。そこには良き国民が住まう邪馬台区への電車が発着する。反対に中央区側への電車はというと、スラム化が進みそこは人類の坩堝となってしまっている。
そこには世界中がある ────
岬 一燐 が願うのは、邪馬台区で小さくても自分の家と呼べる部屋に住まうことだ。そのためにも、この国の納税システムへ復帰を果たし、そこに住む権利を獲得しなければいけない。
稼ぐ方法を考えなければ……。
ほどなくして駅に辿り着いた。何かを主張し訴える者、頭下げて座り込み施しを求める者、ダスンにスケボー、殴り合いに万引きに引ったくり……、これらは全て同じ空間に同居してしまってもしっくりとくる街。
喧騒の中、駅構内を見回してゲートへと向うため階段を下りた。腹は減り過ぎると何も思わなくなるから逆に助かる。
飢え切った方がシンプルなものしか求めなくなり生きる上では都合がいい。直線的に喰らい付いた方が答えも早く出るというもの。
中央区行きのターミナルへと足は傾く。治安の悪化が深刻化したと言われたのは何十年も前のこと。通常の生活をしていれば先ず行く必要がない場所。だからこそ 岬 一燐 であっても就ける仕事は沢山あったりもする。
未成年の国民であれば、手持ちのICタグなら無料でゲートを潜る事ができる。だが反対側の邪馬台区へのゲートは、住民でなければ未成年であろうと、6千5百円が必要となる。
岬 一燐 が向かう先は、壁に何語かも分からない落書きだらけ。色んな国の旗が張り付けら、何かを主張した文字が上塗りをする。通路の両脇は空き缶とテイクアウトされたゴミで土手を造り、人と靴が同じ数だけ転がっているのかさえ怪しい。
中央区へのホームは、この先の地下街を抜けてゲートを潜った先。以前は邪馬台区の三級市民だった 岬 一燐 は、中央区へ行ったのは高校に入った頃にニ度のみ。それも7、8人で気分を味わうために向かったのを覚えている。
階段を降りると通路の先で広がる店と露店に人集り。警察官が誰かを引きずって連行している。色んな人々が吐く二酸化炭素に、屋外から送り込まれた酸素が混ぜらて異国の空気まで再現している。
後ろから三人組の男達が 岬 一燐 の少し後で歩調を合わせる。
早速、進行方向の先から騒ぎ声だ。一人の女性が人にぶつかりながら、猛然とこちらに向かって走って来る。この女性を避けて脇へ飛び退くと、後ろを歩く三人組にぶつかって女性は転げてしまう。
岬 一燐 は『何から逃げてたんだ?』と女性が走ってきた先に目を凝らす。
ぶつかられた男の一人が女性を起こし親切に介助している。岬 一燐 より親睦を深められそうな女性を連れて行こうという魂胆は見え見えだ。
前方から恐らく女性を追ってきたであろう男達が走ってきた。四人はいる。ここらで蔓延っているラオスかベトナム辺りの東南アジア系マフィアだ。
後ろの三人組はネパールかバングラデシュ辺りから出稼ぎにきた口だろう。走ってきた女性は中国語と思しきイントネーションだ。
彼らに何があったかなんて想像するだけ無駄でしかない。巻き込まれない様にさっさと中央区へ急ごうと視線を先に戻した。
「おや、一燐くん。元気だったかな?」
「お、お前、、、あん時のッ」
「今日はお父様はいらっしゃらないのかしら?」
「てめぇ……。 急いでるんだ」岬 一燐 は冷静に無視して真っ直ぐ向いた。
「やめといた方がいいよ。 さっさと立ち去らないと巻き込まれるよ」
「知るかッ」
向かい合った二人は互いに歩みはじめると、行き交う二人としてすれ違った。
岬 一燐 が足を進めてゲート付近まで近づくと、よくある乱闘騒ぎを超えた様相だ。血まみれで倒れている者が何人もいる。通行人や露店主も近くの店内に逃げ込んでいる。
ゲート付近の詰め所から走ってきただろう警察官三人が、何処かに連絡をしながら倒れた者に声を掛けている。この先でマフィア同士の抗争による銃撃があった事が警察官達の会話から読み取れる。
あのクソ女の 湖凪 クレハ の忠告通り、踵を返すこととなった。
少し急いでもと来た道を戻ると。その先で銃声が聞こえる。
「くっそッ! 何やってんだよ警官は!」
何も不思議な話しではない。そもそも警察官の人数は年々減少し現在は22万人だ。その内、約2万人はお偉いさんときている。事務方を除けば現場は18万人程度しかいない。
では移民の数はというと702万人。現場警察官は一人辺り、39人のベストパートナーを選ばないといけない計算になる。ランダム集められた奴らが良い人ばかりだった事なんて人生の中では稀な筈。
そこに訪日観光客を加えればお察しの状況だ。
◇
通路の先で中国女に親睦を深めようとしていた男達の内、二人が撃たれている。ピクリとも動いていない。一人は逃げたのか? 女の方ももういない。
追ってきた男達が撃ったのだろうか? 女を追って行ったのだろうか?
理由など知りようがない。治安が悪いというのはそういう事だ。因縁を付けられるとかでは無く、理由なき巻き込まれ頻度が高いという事だ。防ぎようがない。
柱の影から 湖凪 クレハ が出てきて撃たれた男に呼びかけている。
「大丈夫ですかッ! 誰かAEDを!」
岬 一燐 はそばに歩み寄って見ていた。
やっぱりだ、このクソ女!
助けるふりしてICタグを掠めてやがる……
店の店主が近くに設置されたAEDを持ってきた。
「持ってきましたが使ったことなんて、」
「安心してください。私、看護士です」
店の店主はクソ女のその一言で背負う必要のない責任から解放された安堵の表情を浮かべている。口から出まかせを言っている様には思えない手際の良さでボタンを押した。
酸素缶を口に突っ込み、心臓マッサージをする様に店主に促す。その間にもう一人の方にも声を掛け、救護出来るからAEDを探してくると言って 湖凪 クレハ は人混みの中をすり抜けて行った。
岬 一燐 もその後を追う ────
予想通りというか当然だろうというべきか。速攻で駅の出口へ向かって走っている様に思える。
岬 一燐 は見逃していなかった。さっきAEDのボタンを 湖凪 クレハ が押した際、ICタグを2枚出して男に密着させていた。ワザと焼きつかせる為に。
そして焼いたICタグを、それぞれのポケットに戻していた。恐らく掠めたものとは違う何処かで手に入れたICタグだろう。あの銃撃された二人の身元は当面は分からないままだろう。
入り組む地下街の脇道に入って足を止めた 湖凪 クレハ にようやく追いついた。
髪と肩が揺れている。
「探しものならそこの壁にあるぞ」壁に設置されたAEDを指差した。
「ありがとう、それ持って先に準備はじめててよ。後で追いつくから」
「嘘つけよッ! お前……、ホントに看護師やってんのか?」
「君にそんなこと言ったは覚えはないなー」
さっきの店主に言ってたのは出まかせだろか? もしこのクソ女が看護師で薬を充てがってくれるのなら、クソでは無くなる。どっちなんだ?
「お前さっき、」
「クレハ という名があってだね、一燐くん」
「ん? ああ」
「君の自己紹介、未だだったよね」
「はぁ(大きなため息)そうそう、そうだった。岬 一燐 だよ」
「ふーん、岬 一燐 くんね。それで君はストーカーなの?」
「いや違う」
「私に用があるのかな?」肩の揺れは治まり、髪だけが揺れている。
喋り方からして生まれも育ちも日本で間違いない。目の色から想像するなら不法入国者の二世か三世かだろう。だからICタグを持っていない。
「病院施設とかに、務めてたことあんの? それとも嘘言ったの?」
「嘘だよ。もし何か期待してたんならゴメンね」
岬 一燐 は『だろうな』という顔を向けると、もう用は無いとばかりに手を横に振って立ち去ろうとした。
「じゃぁさ、君は邪馬台区に詳しいのかな?」
「じゃあってどういう意味だよ」
「質問に答えてあげたじゃない」
怪訝な顔を見せつつも、何故かこの女のクソな部分は直ぐに流してしまえた。質問の答えはYESだ。三級市民とはいえ高校を中退するまでは邪馬台区に住んでいたからだ。
残念だが今の区営住宅から、片道6千500円のゲートを潜り続けるのは無理な話しだ。
もし邪馬台区から追い出されなかったのが正規ルートだったのなら、今の 岬 一燐 はオルタナティブを生きているという事になる。そう考え続ければ惨めでしかない。
この現状をメインストリームとしておく方がよっぽどのクソだって、まともに出来るというものだ。
「2年くらい前まで住んでた。詳しいかは場所によるけど」
「それでか、うん、分かった。戻りたいんだね」
「そうだよ。こんなゴミみたいなところで、後何年続けるんだ?」
「?」湖凪 クレハが首を傾げてその髪を揺らせている。
そうだよ、 20年かよ? それとも30年かよ!
それで 2、300百万ぽっち貯めて革靴でも買うのかよ?
もう無理だろう、病院に薬、飯に弁償 ────
「詳しかったらなんなの?」岬 一燐 はその目を見つめた。
「私、行ったことないんだよね、案内してくれる」
「金ないんだ。正確にはほぼゼロ」
「一つ協力してくれたら、一つ協力してあげる」
「じゃぁゲート潜るための金をくれよ」
湖凪 クレハ はポーチを取り出すとICタグを取り出して投げてよこした。
ポーチの中には幾つもICタグが入っている。恐らくあのポーチはスキミング防止材か何かで出来ているのだろう。だからこの女はゲートで怪しまれない。
岬 一燐 には到底想像の及ばぬ生き方をしている。
こいつは好き勝手、自由に生きてる訳じゃない
失うものなんて初めから持ち合わせちゃいない
だから、ありのまま偽り、ありのまま奪ってる
「どこ案内して欲しいんだよ?」
「イーストビレッジにあるサジキと呼ばる区画なんだけどね」
「ああ、セントラルブロックから直ぐ近くの場所だ」
「そこまで電車で行けるの?」
「いや、モノレールかバスに乗り換える」
昔住んでいたブロックからそれほど遠くもない。
邪馬台区は旧東京湾の形を残した謂わば巨大ダムだ。中央部分を隆起させて平地にしたすり鉢状になっている。海水を抜いたレモン絞り器の構造に近いと言って良い。
その巨大ダムは3層の生活層からなる多層構造都市が構築されており、2800万人が生活をしている。それは日本国籍を持つ約32%にあたる。
邪馬台区に住む事の出来ない国民は、旧都市部に生活拠点を集約される。
それは国民のホワイトカラー、ブルーカラー化だ。
地方と呼ばれる場所は、多民族国家を形成させる名目と財政の下支えをさせるため他国への売却を可とした。各国がインフラを含む市町村単位での土地購入に名乗りを上げ、入植が早まり多民族国家形成の足掛かりとなる。
日本国籍取得者とそうでない者への福祉還元はICタグを通して行われる様になる。更なる高福祉を求めた結果、重税が格差とスライムを広げて行く。
「このICタグの持ち主は残金あんのかよ?」
「未だ3万円くらいは残ってたはずだよ」
「オレのICタグをどうにかしないと」
「預かっとこうか?」これ以上ないくらい優しい微笑みを浮かべた。
「まだ信用してないから、今はやめとくよ」
「ぁははは。 へー、頭いいんだね」
岬 一燐 は、馬鹿にされたとは思わなかった。無論、頭がいい奴だと思ってもいないだろうけど、単に『そうだね』と言われた気がしたからだ。
取り敢えずこの女といる間は、自分のICタグを持っているとマズイだろう。何かの際に直ぐ追跡されて所持者を特定されてしまう事は避けたい。
「いや、悪いけどやっぱり預かって欲しい」そう言ってICタグを渡した。
「わかったよ、仕方ないなぁー」そう言って笑みをこぼすとポーチに仕舞った。
これでいい。もしこの女が逃げれば、盗難されたと言って再発行すればいい。それに盗んで残金確認したところで生憎、来月5日まで口座は空のままだったから。
◇
準備はもう十分だ。しかし流石に他人のICタグを使ってゲートを潜るだなんて、一発で社会復帰が難しくなる行為には気が引ける。
前を泳いでく、クラゲ頭の女にとっては日常だろうけど……。
「後ろから4両目に乗れば降りた時に直ぐ階段を上れる」
「流石だねぇ、元住民! 色んなこと知ってるのね」
知るも何も言った本人も、くだらない受け売りでしか無いと思っている。前もそう言われて直ぐに昇ったというだけ。帰ってくれば世界を知った気になって友達と一緒に騒いでいた、その時は。
いよいよゲートだ。近くに警察官の詰め所もあり、人数も多めで体裁は整っている。こうでなければと思うのは貧困街に移ったからだろう。本当のギリギリというのはそんな事にすら手が回らない。
何事もなく通り抜けて邪馬台区行きのホームに着く。そこは国際空港並みに広く、人もそれなりの数だ。それに明らかにこちら側は、ゲートの通行料金の事もあってか搭乗者は厳選されてしまう。
だがそれでも明から様に『何しに入って来たんだ?』という雰囲気の奴も多い。大抵は羽振りの良い旅行客が高級ホテルを利用するためだ。それ以外は邪馬台区に住所を持っている外国人の親類枠で入ってくる者達。
「こっちはこっちで世界が違うね」
「まぁ、あんだけ高けりゃなぁ」
湖凪 クレハ 頷く様にして微笑んだ。
「本当にひもじい人は食べ物を買うからね。そう人はいない」
「そりゃそうだけど」
「幾らか払ってもしたい事がある人は、ここ来ちゃうんだよ」
「そりゃぁ、お前みたいにか?」
「一燐くん、お前なんて名前のクレハさんは居ないんだよ」
「ぁそうか、悪かった。クレハさん」
「ところで一燐くんはいくつなの?」
「17だけど」
「はーん、なら互いに呼び捨てにしよっ、気を使わなくていいしね」
「ああ、分かったよ」
邪馬台区の階層別に向かう電車は6つ線路に別れてピストン運行をしている。ちょうど下層からきた電車がホームへ入って来ていた。降りてくる人は疎らだ。その光景に 岬 一燐 も懐かしいさから少し目をやった。
二人は上層へ向かう線路へと足を運んだ。
電車は既に到着していて、二人は後ろから4番目の車両に乗り込む。観光客は前の車両に乗りたがるからなのか、前方へと客は走ってゆく。
中央部への架け橋を通過するのは絶景である事は確かで、区もこれ見よがしに観光アピールに勤しんでいるからなのかもしれない。
岬 一燐 と 湖凪 クレハ は空いた席に並んで座り、今はただ発車の時を待つ。
お金だけ持っている馬鹿は何処の世界でも現れる。隣の車両で集団でダンスをし、そのライブ配信でもし始めた様だ。この車両でも格闘技か何かのシャドーを始めるガタイのいい女とその取り巻きが何かを喚いている。
アナウンスと共に、パシューウゥゥッ! と音を立ててドアが閉まった。
吊り革アクロバティックなんて小学生ですらしない技を披露する始末。目の前で実演さえしなければ、別にどうだって構わない。
「一燐は何をして捕まってたの?」
「捕まった訳じゃない、窓ガラスを割ったら弁償しろってだけで」
「そりゃ当たり前だよ、弁償した?」
「して金が無くなった」
「うん、そっか」
「クレハは?」
「公務執行妨害だって」
「だって? 何すりゃそうなるんだ」
「調べさせろと言うんだ。失礼しちゃうよね」
「そうだな」
警察官は正しい。調べれば 湖凪 クレハ が大量にICタグを所持している事と、不法滞在が判明するだろう。犯罪者となり在留特別許可も下りなければ強制送還となる。
「なにしてるの?」岬 一燐 が最も知りたい何して暮らしてるかを質問した。
「そうだね。今は人探しをしている」
「いや、そうじゃなくて何して食ってるの?」
「……、うーーん。それは話せる間柄じゃないと……、ね」
「ならいいんだ。気になっただけだから」
聞きたい事はいっぱいあるけど、この位で丁度いい。恐らく知っても参考にならないだろうし、多分マフィアの下っ端か何かだろう。
そうこう言ううちに中央部への架け橋に差し掛かった。
「ーはぁ」吸う息に乗せた小さな声が 湖凪 クレハ から漏れた。
横にいた 岬 一燐 はそれがこの少女から無意識に出たものだと分かった。周りも感嘆の声を上げるのは納得がいく。ガタイのいい女は狂った様に騒いでいる。こついらは言葉と体の動きも合わせて言語とする連中だから仕方がない。
ヒートアップしてバク宙をしてコケたその女は周囲に当たり散らしはじめた。それも束の間、こっちに向いてシャウトしている。二人で完全に無視を決め込んでいると、前に座っている老婆に何かを言い出した。
また元の定位置に戻ってシートの上に土足で上がり、網棚の縁を掴んで懸垂をはじめる。今度は車両が揺れて網棚の縁で顔を擦った様だ。またシャウトが始まった。
岬 一燐 は『もういいよ』と内心思っていた。これが 湖凪 クレハ との決定的な違いなのだろう。三級市民だったとは言え、モラルを相手に求めるが故、このサルみたいな女の振る舞いに辟易してしまうのだろう。
このガタイのいい女は、湖凪 クレハ に向かって何かを言いはじめた。完全に目すら合わせてもいない人間相手に、よくもそこまで吠えられると感心してしまう。
だから最悪な出来事が起きてしまう。向かいの席に座っている老婆が『おやめなさい』と言ってしまったのだ。いつだってそうだ。黙ってりゃ終わるのに、始めてしまう。
このサル女は老婆に向かおうとした。
「下車できなくなるよ」湖凪 クレハ が口を開いた。
振り返るなり詰め寄ると、湖凪 クレハ に顔を近づけて大声で喚いたサル女の口の中に光る物が一瞬見えて口を閉じた。次の瞬間、喉元押さえて後ろに飛び退いて転げまわっている。
湖凪 クレハ は4インチほどフォールディングナイフをシートで拭いて折りたたんで仕舞った。何が起きたかは真横にいた 岬 一燐 も正確には分からなかった。
喉を切ったんじゃない
顎の下から突き刺したんだ、その勢いで口が閉じた……
岬 一燐 は、声が出ないのに心臓は飛び出してしまいそうだ。今、目の前で起きた様な出来事は初めて見たわけでもない。どっかの誰かがヤリあっているのは通りすがりに見る事は何度かあった。
だがそれは、どっかの誰かで知らない奴ら同士だ。
湖凪 クレハ をよく知っているのかと聞かれれば、知り合ったばかりの女だ。
「お、おい、はぁ……、はぁ」岬 一燐 が目をやって返事を待った。
湖凪 クレハ は立ち上がって床に転がる女とその取り巻きに忠告した。
「死なないよ、皆んな落ち着けば殺さない」
相手が言葉を理解したかは分からない。だが顎の下から血を垂れ流して震えている女の状況に、お仲間が持っていたタオルで顎の下を押さえたのだから、状態は理解したに違いない。
口の中で見えた刃は横向きだった。多分、舌が落ちてしまっているんじゃないだろうか。お仲間が押さえるタオルを跳ね除けて、口に溜まった血を吐き出すのと一緒に舌も吐き出した。
女は自身の舌を見て気絶し、大人しくなった。
「死んだんじゃないだろうな?」岬 一燐 が立ち上がる。
「心配性だなぁ、大丈夫だって。そのために鍛えてるんでしょ?」
気絶した女に目をやっても返事をする事はない。
「舌をほっぺたに入れてやりなよ。引っ付かなくなるよ!」
「そうなのか?」
「うん、そうだよ」
仲間はビビってしまい落ちた舌を拾えない。いや言葉が分からないのだろう。
「どうなるんだ?」
「すぐに壊死する」
「くっそッ」岬 一燐は、落ちた舌を拾うと女のほっぺたに入れる。当てがっていたタオルを取り上げると飲み込まない様に頭と顎を縛り、病院に行けと怒鳴った。
「そこの二人は友達なんだろし、もう任せておけば」
「言葉分かってんのかコイツら!」
「どうだか」湖凪 クレハは至って冷静に本当の事を言っていた。
勿論そうだろうが、言葉が分からないからこうなったのかもしれない。喋れても分からないのに、喋れ無くなってわかる筈もない。
ただ、岬 一燐 がこの時に分かったのは、この 湖凪 クレハ という女が、人手なしの碌でなしという事と、「手、洗いなよ」と投げた声が優しかったそれだけだ。
◆
第4話へつづく
誰の所為かなんてどうだっていい、何処へでも行ってくれよ。
説明過剰を避けるため、邪馬台区の構造なども描きたい所ですが……、間に合ってません、、、です。
でも今はノベル制作を頑張ります。