第2話 閉じた世界の扉から
「オイ、岬。全部パレットに積んどいてくれ」
「はい、分かりました」
どんだけあんだよ?
16パレットか、…… 仕方ない
1パレット(24kg x 4箱 x 4段)を積み上げたら、荷崩れしない様にラップを巻いて一つ完了だ。16パレットも造れば、6tを超える作業量になる。
今日の荷役作業はもう終わっている。これは明日の朝の準備、また残業だ。
高校を中退した 岬 一燐 は近く倉庫でバイトをしていた。好きとか嫌いとかじゃなく、近くで募集していたから始めただけ。
バイトでもある程度は稼げたが、まともな生活を送るにはほど遠い。ただこれがずっと続くのだろうか? と、この疑問に 岬 一燐 は、何となく詰まらなさが募るだけで、まだ言語化するには至っていなかった。
家に帰れば父親がニートをしている。母とは小学6年生の時に離婚して、男手一つで2年間は育ててくれた。その後、職を失い再就職も上手くいかずに 岬家は、納税という社会システムではバグった存在となり、貧困街に掃き寄せられてしまう。
父親の 岬 岳生 は、全て上手くいかなくなってしまた生活に、精神疾患を起こしてしまい向精神薬なしでは白紙の日常が訪れなくなっていた。
「オヤジ、夕飯置いとくぞ」
帰宅途中で、近くのフードバンクから食べ物を少額で購入するのが日課になっていた。父親の貯金は直ぐに底をついて夢はもう買えなく無くなっていた。
生活保護では全ては賄えない。
全ての中に 岬 一燐 の将来は一応含まれている。
父親が部屋から出て来るか来ないかなんて、もう気にも留めなくなっていた。キッチンの空いたスペースに父親の夕飯を置くと直ぐに自室に籠った。
食べて風呂に入って寝る。朝になれば明日の続きをロードする。この社会システムはリセットを許さない。詰まるのは息だけで、他の何もかもがダダ漏れで閉じない。
中身が詰まっていなければ、失うスピードは早くてどうにもならない。
「ぬがああああああぁッえぁぁああッーー!」
ベットに横になった 岬 一燐 は枕を耳に当てて目瞑った。
ピンポンピンポンピンポンピンポン
「こっちも我慢してんだからよッ」吐き捨てながら玄関に向かって扉を開けた。
「いい加減にしろッ、おいガキ! 黙らせろッ」
「すみません。薬が切れてて明日病院で貰ってくるんで今日は、」
「何が今日はだテメぇ! 口塞ぐなり出来んだろッ」
「分かりました。今日のところは、すみません」
バタンッ ガゴッン(ドアを蹴らた音)
「ぬェエエエェェッ、ッがオェぇえええッ」
「オヤジ、明日薬貰ってくるから、もう寝ろよ」
「ううううっがぁ っっんっがェぁ! ゲボッ うえぇッ」
「黙れよッ、もう黙ってろよ!」
「飯食えよ、オレ明日早いから寝るからなッ」
何もかもがギリギリだった。
岬 一燐 は、布団を被って包まって目を閉じた。
「だげっぁぁぁあッー、っわらああぁッーーー!」
ガゴッン
ピンポンピンポンピンポンピンポン
ガゴッン ドコンッ
ピンポンピンポ
バンッバンッバンッバンッ
ピンポンピンポンピンポン
ドコンッ
頼む、皆んな…… もう消えててくれよ ────
ヂリリリーン プコプコプコ デリリリーン リコリコ •••
アラームは容赦なく昨日の続きをロードする。父親と顔を合わさずに、隣の住人と出くわさずに、ここから出て行くことしか今は叶わない。
「一燐 はぁはぁ、お前… どこへ行くんだ?」
「オヤジ…、仕事だよ。帰りに薬を貰ってくるから」
「嘘をつくな…、オレを騙す気だな」
「はぁ…、何言ってんのもう行くよ」
早く行かなきゃ さっさと行かなきゃ
「オマあぁっああああああぁッ待てえぁぁああッーー!」
「いい加減にしろよッ」
揉み合いになった父親を振り解いて 岬 一燐 は玄関を出た。ガチッ、内側から鍵をかけた音がする。確認しようとノブを握ろうとした時、横から低い声で怒鳴られる。
「オイ、お前いい加減にしろ! どんだけ我慢してると思ってんだッ」
ゴッ! 隣の住人に胸の辺りを殴られ、「痛ッ」思わず声が出た。
「オレに言われても……、中にいるから直接、言ってくれよ」
「気狂いに言ってもわかんねぇーだろうがッ」
「オレが言っても分からないですよ」
「お前ッ、ふざけてんのか!」
隣の住人は、胸ぐらを掴む住人だ。
「すみません。今日、病院で薬を貰ってくるので、すみません」
「今日、黙らせないとお前殺すぞ」
隣の住人は、殺害予告する住人だ。
バイトに遅れる。その事だけで頭の中を埋め尽くして今だけは何も考えない。無意識で足を速めて階段を走り下りた。こんな朝が毎日じゃないのは薬のおかげだ。薬が無ければ明日も今日になる。
バイト先へは走らなくても十分に余裕がある。ジェネリックだとうとプラセボだろうと頭の中をちょっとだけ騙せたらいい。バイト先で作業をしている間だけは、何も考えなくて済むから一生懸命に働いた。
「オイ、岬。明日の分、パレットに積んどいてくれ」
「すみません。今日病院にオヤジの薬取りに行かないといけないんで」
「なんだよ使えねェなー。 オイ、高橋ッ。明日の準備頼むわ!」
今日はもう終わった。後は病院に向かって足を傾けてればいい。病院へは急がなくても間に合う距離にあって、岬 一燐 の閉じた世界はどこにでも直ぐに手が届く。
「岬さーん、岬 一燐さん 中待合にお願いします」
先生に呼ばれるのを長椅子に座ってただ待っていた。いつもの事ではあったが『早く』だなんて思わない。いつも願うのは『よく効く薬を多目に出して欲しい』それだけだ。
「岬さーん。中へどうぞー」
「はい」口の形がそう動いたが声が出てたか本人も自覚がない。
「岬くん、お父さんの調子はどうかな?」
「昨日、薬が無くなって発狂して……、もう手に負えなくなってて」
「うん。僕もね、いよいよ入院させた方が良いと思うんだ」
「はい、そうですね。でもお金とか」
「岬くんはまだ未成年だし、お父さんの症状から無償で病院に入れると思う」
「そうなんですか」
「食事代や日用消耗品の負担は必要になるんだけどね」
「幾らくらいなんですか?」
医師の田中先生は、机から用紙を取り出し 岬 一燐 に手渡した。
「診断を受けて貰わなければいけないけど、お母さんには相談できないのかい?」
「いえ、連絡先も知りませんし、父のことでは無理で…… 」
「手に負えなくなる前に生活課に相談した方がいいよ」
「ありがとうございます」
「あの、先生。薬を多目に貰えませんか」
「出せる量をいっぱいまで出してるから、無くなったらまた来て欲しい」
「そうですか。ありがとうございました」
定期の薬を受け取り、フードバンクに今夜食べるものを買いに向かった。
田中先生から貰った入院プランの用紙を手にうな垂れてしまう。
「はぁ……、病院の飯ってこんなにかかるのか、、、無理だ」
今、知っている現実だけで考え終えればそうなってしまう。入院させたとしても1日3食では生活保護をオーバーしてしまう。そういう金額の設定だ。
区営住宅の安い1ルームに移動して、入院食を2食に抑えたとしてもバイト代ではも賄えない。生活を捨てて住み込みでもしなければ自身さえ生きて行けない。
もう何手も前に詰んだ手なのに、それを知らずにずっと打ち続けている。
それでも知識のない子供のままの 岬 一燐 では、行き止まりを見るまではそれを感じることが出来ない。ここまでくればもう悪循環とかではない。
直行だ。分岐線などない。線路が途切れて終わるまで止まりもしない。
それすら知らないで今日を過ごしていた 岬 一燐 は。
一連の日課を省電力モードで熟すことに慣れきった体は、もう自分のものではない。いつもの様にフードバンクの食料を手にし家路につく。
区営住宅に戻るとエレベーターで6階へ上がった。このフロアに降りた途端に歩幅が小さくなるのは、玄関の前にいる隣の住人の所為だろう。
けど今は頭に効く薬がある。
「オイ、お前の狂ったオヤジを叩き出せよ」
「鍵を開けるからどうとでもしてよ」
鍵を開ければドアチェーンが掛かっている。
「オヤジ、薬だッ! チェーンを外してくれ!」
返事がない。
隣人に顔を向けると「死んどけ」と吐き捨てられた。
◇
父親の 岳生 は、社会経験の長さから生存力は高い。生きる力の高さには色々あるが 岬 岳生 の場合は、気がふれて『避ける』ことに振り切ってしまっている。
社会適合者だったものが野生的に不適合化する事で、澄み切った世界の澱となって底に残り続けるのは社会システムの歩留りの都合だ。
いつまでも滞留し続ける澱は完了するなりして消し込みを掛けなければ。
一方で 岬 一燐 は、『明日を迎える』という短い人生を繰り返すことを選んでしまっている。今日の生存力は高くても明日を迎えない脆さも抱えていた。
隣の住人が散々、玄関を蹴り、インターホンを鳴らしまくっただろう事は分かる。絶対にこの玄関が開放されることがないのは状況証拠からも明らかだ。
「オヤジ! チェーンを上げろよッ」
「一燐、薬は? 食いもんはどうした?」
「チェーンを上げてくれ」
「薬と飯をよこせッ! ぬがああああああぁッえぁぁああッーー!」
「うるせーぞッ、クソジジイ! 黙れぶち殺すぞッ」隣人は威嚇でしかコミュニケーションを取れない類の人類だ。
「分かった、薬と飯だ、開けてくれ」ドアの隙間から薬と食料を手渡す。
「一燐、チェーンを上げるから扉を閉めろッ 早く閉めろーッ」
ドアを閉じた。 ガチャ 岳生 は奥へと気配を消した。
鍵の掛かったドアノブをガチャガチャと回したが、ため息しかでない。また鍵を開けたとしても、チェーンカッターで切断でもしなければ開きはしないだろう。
「はぁ、薬を渡したからもう静かにしてくれると思います」
「お前、死ぬか、殺すかしねぇーと、殺されるぞ」
隣の住人は帰ってくれた。『お前が死ねよ』それが真っ先に浮かぶ 岬 一燐 は、麻痺では片付けられないくらい頭は無力な空だ。
暫くドアの前にいた 岬 一燐 だが、エレベーターで下へと降りた。
父親に手渡したのはレトルトカレーだったから、どうせ外で食べても上手くはない。「腹減ったなぁ」コンビニへ向かうために疲れた足を動かした。
コンビニなんてここ半年くらいは、ゴミ袋を買う意外に訪れていない気がしていた。バイトで稼いだ金は少しはあったが、コンビニやスーパーで売られている賞味期限切れ間近の品の大半は、フードバンクで購入して食べている。
だから惨め過ぎる少年という訳でもなかった。纏まった自由がないだけ。
そう、それにさえ目を瞑れば一日単位で生きていける。
棚を眺めていると熱いラーメンが食べたくなってきた。普段は食べない、今日だけは特別にチャーシューが沢山のった味噌ラーメンを購入する事にした。
「温めますか?」
「はい」
箸と手拭きを取って、レンジが温め終わるのを待つ間、他の客と目が合わない様に掲示されている広告を眺める振りをする。そろそろだ。
「熱いので気をつけて下さい」
「どうも」
外に出ると店から漏れる明かりを避けて、丁度いい場所で壁を背に座り込みラーメンの蓋を取った。急いで食べるのは癖になっているからか、今も急いで口に流し込んでしまう。この歳なら食べたいものを買う嬉しさがあっても良い。
食べ終わった容器をゴミ箱に入れると寝る場所をどうするか。線路沿いにあるショッピングモールの近くには児童公園へがあり、無意識に向かって行く。でもそれは、職場の近くだからでしかない。
児童公園が近づくと数人の騒ぎ声がする。恐らく外国人だろう4人が、カップルの男を暴行し女の方を連れて行こうとしている。
「冗談じゃない」そう言い聞かせてた。 関わるなと。
こんな貧困街なら警察官の詰め所が近くだろうとたまに見かける。そう、至るところで騒ぎがあれば、建物の陰で女が攫われようが優先的に取り締れなくなる。それよりも、ショッピングモールで今起きてるだろう殺人未遂と強奪が先だろう。
女にはまだ同情はしない、暴行された男には同情するよ。
そういう事でいいんだろ?
自警団でもないのに知るかよ、冗談じゃない! この反応はここで生活する限り、正常な自己防衛で間違いない。それが嫌なら邪馬台区で暮らせるチケットを手に入れれて視界に入れない様に生きればいい。
「助けてーーッ」
岬 一燐 には寝る場所を変えることしか選択出来ない。外国人に『何食ってそんなにデカクなってんだよ』という疑問を抱くのは負けた者の発想でしかない。
コイツらは奪うために闘う体つきになっただけ、逃げる様に進化していない。
「きゃあああーー、たす、、、」
石を4つか5つ掴み、見える窓ガラスのあちこちに投げつけて大声をあげた。
「火事だッ! 火がついてるぞッ!」
走って逃げた。何をやっているのかも十分に分かっていた。不思議と笑いが込み上げてくる。あの女がチャンスを掴んだかどうかは知らないし、それはもういい。
けど、ちょっとは確率上がっただろ? 何とかしろよ。
ッへふふッ はは あははーーッ
岬 一燐 の寝床は結局、自宅のある区営住宅の屋上手前の行き止まった階段だった。疲れてひっくり返ったら、直ぐに朝が続きをロードする。
ヂリリリーン プコプコプコ デリリリーン リコリコ •••
念のため自宅の鍵を静かに回してドアをそっと引いた。未だドアチェーンが掛けられているのが見える。鍵を閉めると職場へと向かった。
風呂にも入ってない。けど今日は大丈夫、布団で寝れるだろう。流石に夕飯を食べたいがためにドアチェーンを外していることは薄々分かっていた。
「オイ、岬。明日の準備しておけよ」
「はい」
色々あったが『いつも』が帰ってきた、そんなハズだった。
警察官が3人、班長の 石田 を尋ねてきていた。警察官たちを誘導してはい作業中の 岬 一燐 の元へとやって着た。
「君は 岬 一燐 くんかな?」
「はい」
「同行願いたいんだけどいいかな?」
「続きは高橋にやらせる」班長がそう言って警察官への同行を促した。
恐らく隣の住人が長らく父親の事を訴えた続けた頃合いでもあった。パトカーに乗せられて所轄の警察署へと向かう事になる。
到着すると暫く待合所の椅子に座って待たされた。騒がしい常態だ。色んな国の人が大声で喚き散らしている。小柄で大人しくしている 岬 一燐 なんて場違い過ぎる。
ようやく取調室に案内されて事情聴取が始まった。
「君は昨晩12〜1時頃、何処にいましたか?」
「家にいまいした」
「本当ですか?」
「はい」
「君の父、岳生さんは昨晩、君は帰ってきていないと」
「、、、昨日、その時間はお腹が空いてコンビニに行ってました」
「君がバイトしている倉庫裏手にある線路沿いの児童公園へは?」
「、、、行きました」
「石を投げて近隣住宅の窓ガラスを割った、理由を聞かせてくれないかな」
「外国人にカップルが襲われていたから助けるために」
「うん、そのカップルは助かったのかい? もしそうなら連絡を取りたい」
「連絡先は知らないです、ただ相手が4人いたんで注意を引いて、」
「石を投げつけて窓ガラスを割った。そういうことかな」
「……。 助けたつもりだったんです」
「防犯カメラで4人が公園付近から逃げるのは確認したよ」
「そうですか…… 」
「次からは先ずは警察に連絡をして欲しい。それで、」
器物破損だとか弁償だとかが並べ立てられても、もう頭には何にも入らない。岬 一燐 が未成年だったため、弁償すれば相手が示談に応じてくれるという事の様だ。
保護者である父親の岳生へ、身元引受人として連絡がされた。
「お父さんは電話に出ない様だけど、お母さんは?」
「母はいません」
「お父さんを迎えに行くので、ここで待っていなさい」
「オヤジは精神疾患で狂っていて入院させる状態だから無理だと」
「近くの詰め所に確認させに向かわせるので待合所で待機してて貰おうか」
◇
取調室は順番待ちで盛況だ。待合所もキャンセルが出なければ椅子には座れない。次から次へとオリンピックの開会式でも始まりそうな顔ぶれと雰囲気だ。
この国では税金を納めていても、警察署内にあるベンチシートは自由席で座れないのは当たり前だと覚えておく必要がある。今日は幸い留置所へ連れて行かれる奴らが多くて回転がいいので助かる。
ようやく空いたベンチシートに座ることが出来た。
岬 一燐 の身に降り掛かったのは理不尽ではない。
こんなことで嘆くのなら、歩くことさえ諦めてもいい。
署内の電話が鳴り響き、地べたに寝っ転がってる奴、大声で喚き散らしてる奴、警察官に殴り掛かり取り押さえられている奴、日没後の礼拝を始める奴、ここに拘束されてやってくる奴らは今も好き勝手にやれている。
騒がしい周囲はすべてモノクロームの世界。自分だけがカラーフィルムで映しだされているように、一人だけ冷静に落ち着いていた。
隣で両手を組んで祈っていた老人にお迎えがきた。黒い制服を着た奴らが両脇を抱えて連れて行く。空いた席には次の奴が連れて来られる。
両手に手錠をかけられて真っ直ぐに正面を向いたままゆっくりと座る。
髪がゆっくりと広がって揺れている。ホワイアッシュで真珠のような輝きの隙間から横顔を覗かせる。蔓のようにしなやかな首が華奢で緩やかに伸ばした体を繋ぎ留めている。
こいつも未だカラーフィルムが映した世界に生きている。
「君はなにしたの?」
この女の顔は正面を向いたまま口だけを動かす。
瞳がこちらに向けられたから暗黙で口が動いた。
「何もしていないよ」
「あはははっーーー、それ悪いヤツがいうセリフだよ」
「ふざけんなよ」岬 一燐 はボソっと吐くと、少女に顔を向けて顰めた。
「君さ、協力してよ」
「はぁ? 誰だよお前…… 」
「 湖凪クレハ 君は」
「知るかッ」
「一つ協力してくれたら、一つ協力してあげる」
「ぅんじゃさぁ、オレを邪馬台区のタワマンに住めるように富豪にしてくれよ」
「わかった。じゃぁ次は私に協力して」
この女が嘘つきのゴミだといことは瞬時に理解できる。
「私を連れてく警官がきたら、床に倒れて痙攣するフリしてよ」
「はぁ、なんでオレが」
「そしたら君を確認するために屈むから、そこを羽交い締めにする」
「で、お前は何するんだ?」
「こいつの鍵を抜いて帰らせて貰う」
「バカか? テメぇだけ逃げてんじゃん」
「後で保釈してあげるから大丈夫だよ、安心して」
「残念だけど、オレは今から帰るんだよ」
くだらない大人がこの女を仕込み、紐を付けて泳がせている。悪い奴らは報いを受ければいい。こんな顔して何人騙してきた? 捕まって死んでろよ ────
「ゴミ」最後の部分だけ言葉が漏れ出てしまった。
「ふーぅ ん、まぁ怖いのは仕方ないよ、君いくつ?」
岬 一燐 は『何言ってんだこの女』から『違うレイヤーの人間』だと認識し、正面を向いて無視をした。こちらを見ていた 湖凪 クレハ の瞳も正面を向いたのが感覚的にわかる。
数分も経たない内に警察官に連れられて 父親の岳生 が到着した。ベンチシートから立ち上がり、警察官と一緒に歩み寄ってくる父親の顔を見た。
そこに感動の再会なんて無い。そして互いに今の心境を理解し合い、慈しみ合うことも、互いに昔を思い出す事なんてさらさら無い。
怒鳴られるのなんて御免だ、勘弁して欲しい。
どうせなら『ツイて無かったな』と労って欲しい。
「なぁオヤジ、」
「一燐ッ! お前ぇ、、、、お前えぇッ 飯ぃはどうしたぁぁああ!」
「へぁ ?」ため息が混ざった変な声がでてしまた。
ゴミ女は大笑いで両足でダンッダンッと床を踏みつけている。
父親の武生 が 一燐 の胸ぐらを掴み、押し倒して取っ組み合いが始まった。勢い余ってさっきまで座っていたベンチシートに押し付けれて 岬 一燐 が踠いている。
父親の武生 を連れてきた警察官と、ベンチシートに座っている 湖凪 クレハ を連行しにきた警察官が、二人を引き離そう揉み合いになっている。
湖凪 クレハ は揉み合いに紛れて、警察官の手錠ホルスターから鍵を引き出して手錠を緩めていた。ちょうど手首が抜ける程度に。
どうにか警察官に引き離されて二人は睨みあっている。父親の岳生 は、最早何を言っているのか聞き取れない言語を荒げている。
湖凪 クレハ は立ち上がって 父親の岳生 に身を委ねるように抱きついた。
「お父さん、助けて。一燐が私で商売しよとしてるの」
「一燐ッ! オレに黙って金稼いだなーーーッ、騙してたなぁぁあッ」
凄まじい勢いで取っ組み合いが始まり収拾がつかない。湖凪 クレハ 堪えきれず大笑いしてしまっている。応援の警察官が駆けつけたが、他の勾留者も乗じて騒ぎ立ててお祭り騒ぎを思わせる。
「この子を連れて行って」警察官の一人が 湖凪 クレハ の連行を指示した。
床に押し倒されて抑えつけられた 岬 一燐 を尻目に、一人の若い警察官が腕を掴んで 湖凪 クレハ を連行して行く。
「クソ女ッ、テメェーッ! くっそが離せーー!」
「ぬがああああああぁッえぁぁああッーー!」
奥の通路へと小さな歩幅で歩く 湖凪 クレハ は警察官を見つめて囁く。
「トイレ行きたいんだけど、コレ外せないなら下ろすの手伝ってくれる?」
警察官は脇にある扉を開けてトイレに入っていった。
岬 一燐 と 父親の岳生 は、留置所で一泊することとなり、翌朝パトカーで区営住宅へ護送されることとなった。パトカーの中でも飯の事で喚き散らす父親を宥めるため、コンビニの前で降ろしてもらう始末。
家に着くと直ぐにシャワーを浴びた。頭から熱いシャワーに暫く打たれていると、ふと見た鏡に映る顔は笑っていた。笑ってしまったという方が正しいのかもしれない、あまりにも馬鹿馬鹿しい出来事に。
あの 湖凪 クレハ という女は何だったんだろう、それを考えていたら、せせら笑ってしまうのは当然だ。一体誰があんな女を想像できるというのだろう。貰い事故みたいな余計なトラブルでしかない。
何にせよ疲れていた突然訪れた非日常に。いつもの日課を熟す省電力モードでは追いつかなかったせいもある。逆に 父親の岳生 は叫び、暴れて、コンビニで普段なら買わない飲食物を手にし、大人しく部屋に引き篭もっている。
バイトは昼から向かう連絡をした。2時間ほど眠るつもりが、窓ガラスの弁償の事を考えはじめていた。少しづつ貯めていたお金もくだらない事で無くなってしまう。考えてもどうしようもない事は分かっている。
考えても分からない
幾らかかるんだ?
払わなくて済む方法
本当はあるんだろ?
無いのか
何の意味も無かったのか?
ヂリリリーン プコプコプコ デリリリーン リコリコ •••
どこで朝を迎えようともリロードするのゴミだと思う自分の続きからでしかない。
重い体を起こせば、あとは省電力モードに任せて頭は働かせなくていい。
準備を済ませると玄関を閉じて鍵を締めた。隣の住人に会わないのは生活時間が普段と異なるからだろう。少しずらせば快適なこともある。職場へ向かう足取りは少し早い。
職場に着くと 班長の石田 が待っていた。
「遅くなってすみません」
「ああ、岬。お前、仕事を辞めて貰う事に決まった」
「あぇッ え、どうしてですか?」
「トラブル起こす人間は雇えないって上が言ってる、事情は聞いたけど仕方ない」
「は、 上って誰ですか?」
「あ? 上って俺以外の上の立場の人間全部だよ、察しろよ」
畜生 ちくしょーッ ……、空の頭が真っ白になった。
◆
第3話へつづく
どうしたらいい? 割れそうだよ 頭に何か詰めてくれよ。