9. 勇者と狼
「グレー……ズ……?」
その名を聞いた瞬間、心臓が早鐘のように鳴り出した。
──どうして、その名前を?
まさかこの子が……?
いや、そんなはずは──
「……アレン?」
はっと顔を上げると、不安そうな表情の彼女がこちらを見ていた。
「どうかしたの……?」
「いや……」
今は、やめておこう。
考えるのは後だ。少し、混乱しているだけ。
「何でもないよ……グレーズ」
「うん……?」
「出よう、ここはもう危ない。あいつが暴れ回ったせいで、どこもかしこも崩れかけてる」
「そうだね。…………」
グレーズは後ろを気にかけながら、どこか煮え切らない返事をした。
母兎は、まだ微かに息がある状態で倒れている。とどめを刺すべきか迷ったが、魔力源を失った今、もう暴れることもないだろうと判断した。
そしてその巨体を、遠巻きに見つめる子兎たちの群れ。
「……気になるか?」
「えっ……その……」
「まあ、面倒見てたんだ、情が移るのもわかる。だけど、連れて行くわけにも行かないだろ?あいつらはあいつらで、またどこかで今まで通り生きていくよ」
「……うん、わかったの」
グレーズは頷くと、ラビュールたちの元へ駆け寄り、抱きしめた。
キュウキュウと寂しげに鳴くラビュールの頭を撫で、別れを惜しむように触れ合う。
やがて彼女は僕の隣に戻り、小さく「もう大丈夫」と言った。
「行こう、アレン」
「……ああ」
瓦礫の散らばる通路を抜け、僕らは井戸の出口を目指して歩き始めた。来た時のような罠もなく、思ったよりも出口は近い。
外はすっかり夜。
月が高く、静かな光を地上に降り注いでいる。
その光の下、風に揺れる銀の髪が、彼女の横顔をより儚く映していた。
月明かりの下の彼女は、さながら狼だ。
静寂に満ちた夜の、その沈黙を破ったのは、グレーズのか細い声だった。
「アレン、お願いがあるの」
立ち止まった彼女が、こちらを向く。
その銀の瞳が、まっすぐ僕を射抜いた。
「私を、アレンのそばに置いて」
その声は小さく、それでいて、胸の奥に爪を立てるように沁み込んでいく。
それは願いであり、祈りであり、誓いのようでもあった。
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・
「……ちゃんと説明をしろ、アレン」
フィズが仁王立ちで立ち塞がる。
その剣幕にすっかり怯えたグレーズは、僕の後ろに隠れてしまった。
「フィズの言う通りよ?」
ノエリアも困ったような顔で僕を見る。
「仲間に何の相談もなく、獣人の女の子を連れてくるなんて……いくら勇者様とはいえ、少し勝手が過ぎるわ」
「俺も同感だな」
オリバーも腕を組みながら頷く。
「いや……」
──お前らに言われたくない。
その言葉はなんとか飲み込んだ。
母兎との戦いで負った傷が、急に痛み出す。
「お前らがいない間に、色々あったんだよ……」
あれから夜が明け、僕はグレーズを連れて宿に戻った。
僕が死闘を繰り広げていた間、三人がどんな泥沼劇を繰り広げていたのか──想像するのもやめておく。
僕は三人に、店主から頼まれた事件のこと、井戸での出来事、それからグレーズのことを一通り説明した。
「それは分かったけど……その子は一体、どこから来たの?」
「それが……」
僕は視線を後ろにいるグレーズへ向ける。
「……それは言えないの。でも、ずっと一人で旅をしてきたから、仲間はいない……」
「そう……なのね」
ノエリアの顔に、またも困惑の色が浮かぶ。
「魔術なら、少しは使えるの……!みんなの邪魔にならないようにするから……」
「いいんじゃねえか?連れてっても」
オリバーが肩をすくめて言う。
「行くあてもなく、仲間もいないってんなら、一人にするのは気の毒だろ?それにアレンの命の恩人じゃねえか」
「そうだな。私たちの代わりにアレンのそばにいてくれたんだ」
フィズも同意する。
「……助けられたのは、むしろ私の方なの」
そう小さい声で言ったグレーズの言葉は、僕の耳にだけ届いた。
「……そうね。私たちからも、お礼を言わなきゃ。ありがとう、グレーズ。歓迎するわ」
ノエリアが手を差し出す。
「私はノエリア・リッチ。このパーティでは魔術師をやってるわ」
グレーズは、少し照れたようにその手を握り返す。
「俺はオリバー・ハリス、騎士をやってる!」
「フィズ・バートランドだ、よろしく」
フィズと握手を交わしたその時、グレーズが「あっ」と声をあげた。
「昨日の、泣いてたお姉さん……!」
「えっ……ええ?」
フィズが、素っ頓狂な声をあげる。
「……?知り合いなのか?」
二人の顔を交互に見やる。
フィズも、何か思い当たったようだった。
「あの時の……!」
ノエリアが怪訝な顔でフィズを覗き込む。
「フィズ?泣いていたって、どういう──」
「ひ、人違いだろう?!私は昨日、ずっと宿にいたんだ!」
「……確かにそうね。私が戻った時には、もう寝てたもの」
その言葉に、僕はついフィズをじろりと睨む。
食事に行ったノエリアとオリバーを、追いかけに行ったんじゃなかったのか?
フィズは僕の視線に気づき、バツが悪そうに視線を逸らす。
「そう……なの?」
グレーズは不思議そうに首を傾げたが、それ以上追及はしなかった。フィズが、ホッと胸をなでおろす。
「それにしても、装備がボロボロだな」
オリバーの言葉に、ようやく自分の装備に目をやる。
鎧の類はどれもひび割れているし、母兎のあの硬い体を斬り続けた剣も、刃こぼれがひどい。
「砂狼の皮を売った金は、今回はアレンの装備に充てよう。異論はないよな?」
「もちろん。それと、グレーズの分もいろいろ揃えないとね」
ノエリアがグレーズの手を取る。
「私とフィズで選んであげる。一緒に買い物に行きましょう!」
「うん、でも……この姿じゃ……」
耳と尻尾を押さえ、不安げに目を伏せる。
「私のマントを貸すわ。……でも、本当は、隠さなくても大丈夫だと思うの」
そう言いながら、ノエリアは微笑む。
けれど、グレーズの大きな耳は、しゅんと垂れたままだ。
「私、街に出るととても目立つの。獣人は珍しいから……変な目で見てくる人もたくさんいるの」
あの時、彼女が着ていた大きすぎるマントと深く被った帽子が、頭に浮かぶ。
──きっと今まで、何度も傷ついてきたのだ。
「私たちのそばにいれば、大丈夫だと思うぞ」
フィズが、そっと彼女の肩に手を置いた。
「ああ、そうだ。なんたって俺たちは──」
三人が揃って僕を見る。
こんな流れで言わされるのも癪だが──
不安げな新入りの目を見て、僕はひとつ、深く息を吐いた。
「 "勇者パーティ" だからな」
次回は、明日の夜21時頃に更新予定です。