8. 名前
振り下ろした剣が、肉に食い込む感触を返した。
だが──足りない。刃は浅くしか入らず、白い毛皮を掻いただけだった。
「ッ、どんだけ分厚いんだよ……!」
間髪入れず、母兎の前脚が薙ぎ払ってくる。
大木すらなぎ倒せそうな一撃を、咄嗟に身を捻ってかわす。風圧だけで壁にヒビが入った。
「アレン!!」
背後で少女の叫び声が響く。
僕は母兎と距離を取りながら、ちらりと後ろを見やった。ラビュールたちは怯えたように身を寄せ合い、彼女の足元に縮こまっている。
ラビュールの親玉かとも思ったが、どうやら違うようだ。もしくは、暴走した姿に怯えているだけかもしれないが。
母兎が跳ねた。
巨体に似合わぬ速度で空中を舞い、床が悲鳴を上げる。
「うぉっ……!」
間一髪、飛び退く。着地の衝撃で床が崩れた。
粉塵が舞う中、僕は木刀と剣を両手に構え直す。
力も速さも桁違い。
正面からじゃ、削りきれない。
なら──
「こっちから行く……!」
足元の瓦礫を踏みしめ、走る。
母兎がこちらに気づき、巨大な顔を向けてくる。
その瞬間、僕は左手の木刀を投げつけた。
「グゥ……」
不意打ちに、母兎の瞳が一瞬だけ泳ぐ。その隙を逃さず、滑り込むように懐に飛び込んだ。
「うおおおっ!」
渾身の力を込めて剣を振り上げ、首元を狙って斬りつける。
刃が肉に食い込む──今度は、確かな手応えがあった。
「……よし!」
母兎が獣の咆哮を上げる。
反撃の前脚が迫るが、防御は間に合わない。
「っぐあ……!」
腹をえぐられるような衝撃。
僕の体は宙を舞い、壁に叩きつけられた。
肺から空気が抜ける。
「……っは……まだ……!」
必死に立ち上がろうとする僕を、少女が駆け寄って支える。
「無理しちゃだめなの!魔力が……!」
「平気だ……!」
目の前には、血のにじむ首元を警戒する母兎。
一撃、通った。
なら、まだいける。
「こっちだ、化けウサギ!」
僕は瓦礫の間をすり抜け、狭い通路へと駆け込んだ。後ろから響く重たい足音が、空間全体を震わせる。
この先は、傾いた通路と壊れかけた足場。あとは……。
足場の一部に、キャベツの葉がわずかに散っていた。見覚えのある、あの罠──確か重量感知式の落とし穴だ。
踏ませりゃ、いける。
僕はあえて通路の中央を走り、誘導する。思惑通り、跳ねてきた母兎の巨体が着地した瞬間──
バキィン!!
床が崩れ、巨体が大穴に落ちる。
「よし……!」
だが、すぐに前脚をかけて這い上がってくる。完全には落としきれない。
「そんなことはわかってんだよ……!」
すかさず腰の木刀を引き抜き、今度は構えたまま突進する。
「見せろ……"逸品"の力を」
すれ違いざま、木刀を逆手に構え、母兎の口元へと押し込む。次の瞬間──
「ギュウゥゥン!!」
耳を劈く悲鳴。
木刀が、巨大な前歯をへし折った。白い破片が飛び散る。
その反動で僕も吹き飛ばされたが、転がりながら体勢を立て直す。
「……入ったか」
母兎が暴れる。その首元から魔力の触角が二本、ゆらゆらと揺れているのが見えた。
あの触覚を介して、周囲の魔力を吸い取っているのだろう。ラビュールたちが飢えていたのも、取り込んだ魔力をこいつに奪われ続けていたからだ。
こんなに膨大な魔力を有しているというのに、近付くまで気が付かなかったというのも恐ろしい。
「あれを切り落とせれば……」
あの触覚が、母兎の生命線であることは明白だった。が、あの暴れる巨体を止めないことには、近づくことすら難しい。
しかも──
「魔力が、もう……」
先の攻撃で、魔力は底をついていた。
徐々に正気を取り戻した母兎が、僕を視界に捉える。
その赤黒く濁った瞳が、何かに取り憑かれたような殺意を孕んでいた。
「……このまま、やるしか──」
その時。
足に何かがコツンと当たった。
転がってきた赤い果実──内側から、魔力がこんこんと溢れているのがわかる。
考えるより先に、齧りついた。
魔力が剣に宿り、青白い光が強く脈打つ。
「……少し、借りるぞ。魔力」
母兎が怒りに満ちた咆哮を上げて突進を始める。
僕はその正面に立った。
「制圧領域──!」
足元から広がる魔力の波動。
空間がねじれ、重力が変わったような錯覚さえ覚える。
「止まってくれ……!」
空間魔法による強制的な抑圧。
その一瞬の隙を突いて、僕は一直線に駆けた。
重ねた斬撃が、母兎の肩口を切り裂く。
咆哮がビリビリと響いた。
「まだ……!」
返す刀でさらに一撃、腹部へと叩き込む。
しかし、母兎は崩れながらも咆哮と共に反撃。
巨体をうねらせ、跳びかかってくる。
「──っ!」
その瞬間、少女の魔術が僕の足元に展開される。
「援護、間に合って……!」
青緑の光が弾け、体が宙を滑るように後方へと引き寄せられる。
回避一閃。
僕は剣に魔力を込めた。
彼女から貰った、この魔力。
跳躍。
敵の背を蹴り、首筋へ──
「うあああっ!!」
触角が、二本とも空中で千切れる。
光の尾を引きながら、床に落ちた。
さっきまで暴れ狂っていた母兎の瞳から、ゆっくりと光が消えていく。数歩よろけたあと、その場にドサリと崩れ落ちた。
荒れた空気が、ようやく静寂に包まれていく。
「……はぁ……やっ……た……か?」
剣を支えに、膝をつく。もう、立てそうになかった。
「なんて無茶を……!」
少女が駆け寄ってくる。
「魔力を使い切っていたら、死んでいたかもしれないのに……!」
その声は怒っているようで、それ以上に、震えていた。
「……あのりんごに助けられたよ。それに、援護も。ありがとう」
「……もう、こんなことはしないで欲しいの……」
泣きそうな顔で俯く彼女の頭に、思わず手が伸びそうになって──慌てて引っ込める。
不器用な手つきで、代わりに肩を軽く叩いた。
「……助かった、本当に」
彼女はゆっくりと顔を上げた。頬にはまだ、うっすらと涙の跡が残っている。
ふと、その表情に、どこか懐かしい気配を感じる。
……そういえば。
「まだ、名前を聞いてなかったな」
少女が目を瞬かせる。
「名前、なんていうんだ?」
ほんのわずかの沈黙のあと──
「グレーズ」
そう彼女は答えた。
──グレーズ
心臓が一度、強く脈打った。
その響きは、僕の心の奥底に眠っていた記憶の霧を、静かに晴らしていくようだった。
次回は、明日の夜21時頃に更新予定です。