16. 魔王の干渉
重たい扉が静かに開かれる音が、聖堂の静寂を引き裂いた。
マルヴィンの案内に従い、僕たちは祭壇の裏手、関係者しか立ち入れないという区域を抜けていく。
背後で扉が閉まる音がした瞬間、空気が変わった。
聖堂の穏やかな明るさが、後方へと押し流されていくような感覚。
壁に沿って等間隔に設置された燭台には、青白い炎が灯っていた。
だがそれは、昼の聖堂の陽光とは異なり、見た目以上に暖かさを感じさせない。
「聖堂が昼なら、ここは夜って感じだな」
「すごく涼しい……というか、寒いわ」
ノエリアが小さく震え、両腕を擦る。
外から一切の光を通さないせいか、季節が進んだと錯覚するほどに空気が冷たい。
「地下までずっとこのような冷たい場所が続きますが、ご容赦くださいね」
先頭を歩くマルヴィンが、申し訳なさそうに振り返る。
「気にしないでください。……それより、確認しておきたいことがあるんですが」
「なんでもどうぞ」
マルヴィンは柔らかく微笑み、僕の言葉を促した。
「昨日、僕とグレーズの件とは別に、水晶が暴走したことはご存知ですよね?あれは、もしかして……」
「お二人が原因かもしれない、と?」
僕は黙って頷いた。
誰もあえて言わなかったが、立て続けに起きた出来事だ。いやでも因果関係を疑わざるを得ない。
「そうですね……私の推測ではありますが、」
マルヴィンが顎に手を添え、静かに言葉を紡ぐ。
「その二つに、直接の関連はないと思います」
「関係ない……?」
拍子抜けの解答に、思わずグレーズと顔を見合わせる。
「ええ。むしろ、今この街では……それ以上に不可解なことが起きているのです」
魔導灯のかすかな光に照らされ、彼の表情は沈痛だった。
「ある日突然、“一部分の記憶”を失う人が現れました。本人も周囲も、初めはそれに気づきません。なぜなら、“その記憶があったこと”自体を、誰も覚えていないからです」
「……記憶の抜け落ち?」
ノエリアが息をのむ。
「それは単なる老化や、事故ではありません。年齢も、職業も、環境もばらばらです。そして──抜け落ちる記憶にも、共通点は見当たらない」
マルヴィンは歩きながら、静かに語り続ける。
「ただ“ある特定の期間”や、“ある区画にいた時の出来事”──そういった範囲に関する記憶だけが、何の痕跡もなくごっそりと消えるのです」
まるで、誰かが意図的に、それを「無かったこと」にしてしまったかのように。
「これは、数年前から密かに増えつつあります。ただ、一見すると普段の生活にはそれほど支障をきたさない。そのため、表立って問題になることはほとんどありません」
「つまり、“気づいた者だけが気づいている”ってことか」
オリバーが苦々しい声で言う。
「ええ。私たち聖堂側も、正式に記録してはいません。ですが……地下の水晶に関わる問題と、何らかの関連がある可能性は否定できないと考えています」
そこまで言ったところで、目の前に長い階段が現れた。
階段は、地中深くへとまっすぐ続いていた。
石畳は滑らかで、よく手入れされているはずなのに、歩を進めるたびに足音がやたらと響く。
キン、キン、と鳴るそれは、まるで金属を打ったように澄んでいて、どこか人工的にさえ感じられた。
息を吸えば、微かに冷たい石の匂いが鼻をかすめ、肺に届いた空気が内側から身体を冷やすようだった。
「……そもそも、記憶の全てを司っているのは、これから向かう地下にある水晶の方です。聖堂にあるものは、表向きの上澄みに過ぎません。今回の暴走も、記憶の抜け落ちも、元を辿ればこの水晶の異状なのですよ」
マルヴィンがふとこちらを振り返り、僕とグレーズに視線を向ける。
「ですが、お二人の件は……言い方は悪いですが、お二人自身に起因するものです。関連がまったくないとは言い切れませんが、過度に気に病む必要はないでしょう」
「……そうですか。それなら、少し安心しました」
グレーズも僕の後ろで、そっと小さく吐息を漏らした。その音が、やけに大きく響く。
十数段の階段を下り切った先には、より一層冷たい空間が広がっていた。
キン……と、まるで空間そのものが氷の刃のように研ぎ澄まされているようだ。
何かを語るでも、拒むでもない。ただ、侵入者を無言で見下ろしている。そんな圧力が、石の壁の向こうからにじみ出ていた。
フィズが、ぴたりと足を止めて振り返る。
「……ここ、空気が変じゃないか? 音が、響かない」
言われて初めて気づく。
僕たちの足音すら、ほとんど反響しない。
まるで空間そのものが、僕たちの存在を飲み込み、音さえも沈黙の中に封じ込めてしまっているかのようだった。
ノエリアが背筋を伸ばす。
怯えた様子ではなかったが、神経を研ぎ澄ましているのが分かる。
グレーズは僕のすぐ後ろを歩いていて、その耳はピンと上に立っていた。
「もう、すぐそこです」
マルヴィンに声に顔を上げると、前方に重厚な扉が見えた。
堅牢な扉は二枚の石板で構成されており、まるで城塞の一部を切り取ってはめ込んだような重厚さを備えている。
「皆さま、よろしいですか?」
マルヴィンが掲げた銀の鍵がぴたりと収まり、低く重たい音を立てて開いた。
その瞬間、冷たい空気が肌を撫でた。風ではない。温度だけが、音もなく、確かにこちらへと流れてきた。
うっすらと湿り気を帯びた気配は、まるで何か古いものの息遣いのようだ。
「……これが」
思わず声が漏れた。
広がっていたのは、ひとつの円形の空間。
石造りの大天井が半球状に丸く張り出し、その中央に、古代語のような文様が浮かび上がっている。
天井からは細い鎖が何本も垂れ下がっており、そこに吊るされたクリスタル状の灯りが、ぼんやりと淡い白光を放っていた。
壁は一面が滑らかな石で構成され、ところどころに淡く光る魔法陣のようなものが埋め込まれている。
その中心に、それはあった。
半ば空中に浮かぶようにして鎮座する、直径三メートルほどの巨大な水晶。まるで氷塊のようにも見えるそれは、触れるのを躊躇わせる威容で、周囲の空気を凍りつかせるような存在感を放っていた。
が、球体の表面は淡く光を放ってはいたが、内部は不気味なまでに濁っていた。深い霧を閉じ込めたような、いや──水の中に墨を垂らしたような、そんな灰褐色の揺らぎが、静かに渦を巻いている。
「……これが、“本物”?」
思わず口をついて出た言葉に、マルヴィンが小さく頷いた。
「はい。かつては限りなく透明だった水晶です。……今は、この通りですが」
「これも、記憶の抜け落ちと関係が?」
「ええ。この水晶は、古代魔法によりずっと昔にこの地に据えられたものです。今や扱うものはおらず、解読すら不可能な古代魔法──ただ一人を除いては」
マルヴィンがコツコツと足音を立て、水晶へと歩を進める。
「この水晶に干渉できる者はただ一人──古代魔法を今なお司る、魔王だけです」
「魔王……」
その名を口にした瞬間。
水晶の奥が、呼応するように黒く揺らめいた。
続きは、明日の夜20時に更新予定です。




