時的な夜(してきなよる)
深夜一時に家のインターホンが鳴る経験をしているのは、きっと僕だけじゃない。
それに馬鹿正直に出るのも、きっと僕だけな気がする。
少々、夜更かしをすることになりそうだ。多分これは調子に乗っていた罰。
早々に寝てしまわなかった僕が悪い。
よし、やるか。そんな感じで、毛布の山から立ち上がり、玄関までのびた冷たい廊下をつま先立ちで歩いていく。
覗き穴で一応確認。
やっぱり、予想通り。
来客用のスリッパを用意して、扉を開ける。
突然の来訪者――祈百合は、にこにこしてそこに立っていた。
「よっ」
百合は持っていたビニール袋を、ぽいっと投げてよこす。僕はそのビニール袋を右手でキャッチし、手土産が何であるか見る。
中にはコーヒー牛乳一つだけが入っていた。どういうチョイスだろうか。
「連絡ぐらい欲しいな」
前もって連絡をくれていれば、僕が夜食を買っていたというのに。
「さぁ、彼氏君。私を中に入らせておくれ」
それには無視をして、先を促す。
遠回しに、僕が邪魔で入れないと言いたいらしい。
「はいよ。どうぞ」
「お邪魔しまーす」
僕が框に引き返すと、ぴょんと跳ねるように、靴を脱いで廊下に着地する。
なんと裸足で、そのまま奥の居間へ行く。スリッパを用意して置いた意味がなくなってしまった。
百合は毛布の山の上に座った。
座布団やソファーがないから、毛布を代わりにしていたが、こうなったら手頃な価格の家具を検討するのもありだ。
フローリングに直座りすることになるが、しかたない。
「もしよかったら、僕にもその毛布の山からいくつか分けてくれない?」
「やだ。包まりたいから」
自由すぎる。これではどっちがこの家の主か、分からない。
「ね、コーヒー牛乳飲んどけば。途中で眠くなっても困るし。言っとくけど今日は長くなるよ。多分朝までぶっ通しになる」
百合はビニール袋を指で差しながら、毛布を身体に何枚か巻き包まる。
なるほど、眠気覚まし用のコーヒー牛乳。
それにしても、大変だ。なんせこの後、百合は学校にも行かなきゃいけない。
僕は、睡眠時間なんていつでも確保できる。けれど、百合はまだ学生の身で、本来ならこんな時間まで起きていることが問題だ。学業にだって差し支える、なんたって十分な睡眠は頭の整理に使われるのだ。
百合はそこら辺どう思っているのやら。
「あのさ、百合。前から気になっていたんだけど、百合みたいな人たちは、寝不足とかにはならないの?」
「うーん。他の子たちとは交流ないから分かんないけど、私に限っていえば別に大丈夫よ。なにも支障はないしね」
「でも、多少なりとも身体には負担がくるんじゃないかな」
「だから大丈夫だって。多分、夜の魔法使いたちは、皆そういう風にできてるんだよ。身体の構造が頑丈に」
参ったな。そんなことを言われたら、うんとしか頷けない。
僕は何も知らない一般人、百合は夜の魔法使いという別世界に住む住人。知ろうと思っても、そもそもの常識が違う。説明されたところで、僕にはちんぷんかんぷんだ。
言われた通り、コーヒー牛乳を飲むことにする。
味はいまいち。甘いようで苦い、ただ単に僕の舌が貧乏なだけだろうか。
「よし。できた」
僕がコーヒー牛乳の味を評価している間に、いつの間にか百合は着替えていた。毛布に包まっていたのは、そのためかと一人納得する。
百合は、紺色にベージュの線が入った制服のようなものを着ている。こんな服を見たのは初めてだ。これが夜の魔法使いの正装なのかもしれない。
「彼氏君どう? 可愛い?」
「当たり前だよ。百合はどんな服だって着こなすだろう」
「えへへ。照れる」
百合の頬が赤く染まる。
彼女が素直で可愛いなんて、僕はやっぱり恵まれているなと思う。
「照れるところも可愛い」
「がぁー! 彼氏君の意地悪」
ぷくーと頬を膨らませる百合。その膨らんだ頬を両手でサンドしてしまいたい。
「って、いちゃついてる場合じゃない。そろそろ行かないと」
「実は今日は、任務ではないんだ」
家を出てしばらく住宅街を歩いていた時、不意に百合はそう言った。
僕はじゃあなんだろうと思って、外に出た目的を百合に問う。
「決まってるじゃん。彼氏君とデートするため。目的地は内緒だけど」
しっしっし、といたずらそうに微笑む百合が、なぜか眩しく映る。
懐かしい気がした。
目的地が分からない。
さっきからずっと同じ場合を行き来しているだけで、一向に先に進まない。
「百合」
「待ってて。もうちょっとで着くよ」
百合の言葉を信じるなら、あと三十秒ぐらいか。ポケットにしまっていたスマホを取り出し、電源を入れて時刻を確認する。
二時五十九分。もうすぐで丑三つ時。
百合は何をするつもりなのだろう。僕には百合の後をついていくことしかできないが、少し考えてみる。
もしかしたら、サプライズかもしれない。明らかに三時が来るのを待っている感じだから、夜空に流れ星とかが降るタイミングを見計らっているのかも。
「彼氏君」
百合はふと立ち止まり、手を差し出してくる。
僕は黙って、その手を繋ぐ。
僕の手よりも温かく、生きている証がする。
遠くから鐘のような音が聞こえた。これは、そういうことらしい。
目的地は始めから、あるようでなかったのか。僕はそんなことすら忘れていた。
嗚呼、夢を見ているようだ。
「……そっか。僕はずっと勘違いしてたみたいだ。振り回してたのは、僕の方だった」
「ううん。それは勘違いとは言わないよ。きっとずる休みって言うと思う」
「確かに。そう思うと、素敵な響きになるね。僕はいい言葉も思いつかないな」
「だって寝起きなんでしょ? 彼氏君にはハンデがある」
「僕の彼女は甘々だ」
「その通り」
くすくす。
静謐な夜――いや、時が止まったこっちの世界で――僕たちは笑い合った。何もおかしくないのに、笑いは不思議と込み上げてくる。
好きだ。
本当に好きだ、君が。
たとえ、また明日という時間が来て僕が消えてなくなろうとも、好きな想いは永遠に続いていくはずだ。
「僕は持ってあと一分かな」
「そうね」
「じゃあ楽しい話をして、終わろう」
「どんな話?」
「そうだな、これは君にはまだ遠い話になるよ」
「いい、聞かせて」
「…僕には未来の百合も見える。今よりも豊満になった百合の姿を見ることができる」
「変態」
「痛っ。ごめんごめん」
「早く続けて」
「えっと、未来の百合は、なんて言うか。荒んでる。誰かを傷付けてしまいそうなぐらいに」
「……」
「僕はそれを見て思った。百合は強くて賢い。でもその分、人一倍背負い込んで、交わした約束は何でも守ろうとする
ねぇ、百合。僕のことは忘れて欲しい」
「………………そう、分かった。考えとく」
「だめだよ。ちゃんと答えてくれ」
「お願い、今は許して」
見ると、百合は泣いていた。
目から溢れる雫が、次から次へ、宙で小さく分離して止まっていく。百合の周りに、星屑にも満たない輝きがひそかにできあがる。
僕はそれを美しいと思うべきか、悲しいと思うべきか迷った。
だからこう切り出すことにした。
「今までもこれからも、百合のことが好き」
百合は一瞬、戸惑うような顔をした。
けれど、すぐ微笑んで言う。
「……私も、未来過去君のことが好き」
それが二人だけの合図。
僕は百合の手を離す。
その途端、僕の世界は暗転した。




