1.10
森の中へ数歩足を踏み入れた途端、濃密な霧が四方から立ち込めてきた。
一歩踏み出す前までは、他の三人の姿をはっきりと目にできていたはずなのに、次の瞬間には、あたり一面が灰白色の霧に包まれていた。
ケヴィンは前方の小さな光を頼りに、慎重に足を進めていく。
ホークの言った通り、霧は音を遮ることはなかった。
足元で枯葉を踏みしめる音、風に揺れる枝葉のざわめき――それらは確かに聞こえている。
だがその音は、時に耳元で、時に遠く離れた場所から響いてくるように感じられた。
この不思議な感覚に、最初こそケヴィンも興味を覚えたが、次第に苛立ちを覚えるようになった。
視覚と聴覚のズレだけなのに、踏み出す一歩一歩が、どこか深い不安を掻き立てる。
その違和感は骨の髄まで入り込み、じわじわと心を蝕んでくるようだった。
そのとき、ふとケヴィンは思いついた。
――この霧の魔術、もしかして自分の能力で打ち破ることはできないだろうか?
だが、村でのあの激しい頭痛を思い出すと、彼の背筋が自然と強張った。
あの【反動】の記憶はまだ新しく、無理をすれば何が起こるか分からない。
しばらく熟考したのち、ケヴィンは今回は慎重を優先することにした。
心の中のざわつきを押さえ込みながら、光を頼りに歩みを進めていく。
退屈しのぎにと、彼は足取りを数え始めた。
一歩、二歩……そうして、76歩目に差しかかったときだった。
前方の光がぴたりと止まった。
もう一歩だけ踏み出すと、その瞬間――霧が一斉に晴れ、ルナたちの姿が目の前に現れた。
ケヴィンは思わず後ろを振り返った。
そこには鬱蒼とした森林が広がり、三〜四階建てほどの高さを持つ巨木たちが、空を覆い隠すように枝を伸ばしていた。
だが、霧の気配はまるでなかった。
ケヴィンはようやく理解した。
この霧の魔術は、実際に霧を生み出して迷わせるのではなく、限定された空間内に足を踏み入れた対象の感覚に【幻覚】を見せる術だったのだ。
彼は正面を向き直り、目の前にそびえる古塔に視線を移した。
森に隠されるように佇むその魔術師の塔は、周囲を巨木に囲まれている。
青灰色の石で築かれた塔の表面には、びっしりと蔦が絡みついていた。
その蔦は塔の基部から頂上まで伸び、まるで塔全体を緑の外套で包み込んでいるかのようだった。
正面には、重厚なオーク材の扉が一つ。
その扉へと続く道は、ひび割れた青石の敷石で作られており、その隙間からは野草や小さな花が顔を覗かせている。
その道がまっすぐケヴィンの足元まで伸びていた。
視線を戻すと、ルナが微笑みかけてきた。
「ようこそ、傭兵さま。ここが私たちの【秘密基地】です」
「秘密基地」――なんとも可愛らしく、同時に本質を突いた言葉だとケヴィンは思った。
子どもの頃、誰もが一度は憧れ、あるいは実際に作った【小さな世界】。
誰にも見つからず、誰にも壊されない、自分だけの居場所。
そこに大切なものを隠しておけば、永遠に守られる気がした。
だが大人になると、現実は容赦なくその幻想を打ち砕いてくる。
力も金も、昔よりはあるはずなのに、世界はまるで狭くなってしまったように感じられる――
もはや【夢】や【秘密基地】の入る余地すらないような、そんな現実が突きつけられる。
だが、魔術師たちは違った。
常識や現実に抗い、「ノー」と言い続ける者たち。
そして、彼らが力と時間と財産を注ぎ込んで築くのが、この【魔術師の塔】なのだ。
生きている間は、術を磨き、知識を深め、財産を守るための砦であり、
死が近づけば、それは後継者へと遺す【遺産】となる。
自身の知識と技術の結晶を、望まぬ者に奪われぬよう、
多くの魔術師は最期の力をもって、塔を幾重にも守る術で覆うという。
だが幸いなことに、ケヴィンたちはその塔の承認された訪問者だった。
ルナはすでにこの塔の【後継者】として認められていたのだ。
教会の書物にも、魔術師が亡くなる前に後継者を見つけられず、
そのまま塔に仕掛けを残して、未来の【縁ある者】を待つという記述があった。
ルナは塔の扉の前に立ち、手のひらをそっと扉に当てながら、呪符を描き、開門の呪文を低く唱え始めた。
まるで一つの儀式のように、それは時間を要した。
しばらくして――重々しい扉が、ゆっくりと後方へ開かれていった。