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にのいち 日の出

 細石屋の朝は、明け六つ(ごぜんろくじ)に始まる。


 遠く聞こえる寺の時鐘(ときのかね)が鳴るのと共に起きた春霞は、手短に身支度を整えると、別の部屋でまだ眠っている零や主人を起こさぬように静かに一階の台所へと降りる。


 そうするとそのわずかな気配に気づいた細石屋主人の式神である振袖番頭・琉璃が、跳馬で夜通し行なっていた仕事から一旦手を休め、顔を洗い終わった頃合いを見て梅干しひとつ落としたお白湯差し出してくる。


 なんで梅干し湯なのかはわからないが、この家に引き取られてからずっと続いている習慣だ。


 そうして梅干し湯を飲みくだすと、お礼を言ってから食事の支度に入る。


 まずは米櫃から五合の白米を取り出すと手際よく研ぎ、羽釜にいれ竃にはめるのだが、そうすると見計らったかのようにころころと、土間の下から出てきた五徳猫が竹つづを振り上げ、今日も台所の火は自分に任せてくれと言わんばかりに座り込むのでその言葉に甘え、味噌汁の具を考え始める。


 そんな頃には裏の長屋に棒手振(ぼてふり)たちが卵や煮物、野菜に豆腐と色々売りに来る声が聞こえ始めるので、笊を二つ抱えて長屋に向かえば、今日も獺男(かわうそ)のしじみ売りや、手長足長(てながあしなが)水菓子(くだもの)売り、河童の川魚売りに、小豆洗いが納豆や小豆の炊いたのをたくさん持ってきて広げている。


 井戸端では起きたばかりの旦那衆が歯磨きしたり、髭を剃ったりしながら春霞に手を振ってくれる。


「あら、春霞ちゃん!」


 棒手振りたちに色々進められている嫁衆のうち、鳥女のお鴇が、少し遅れてやってきた春霞を見つけて手を振った。


「いいとこきたね!また、うちとお豆腐半分こしてくれるかい? うちは宿八とあたし、ふたりだろ? いっこじゃたべきれないんだよねぇ!」


 と、毎朝同じことを言っては世話を焼いてくれるのが嬉しくて、今日は買う予定はなかったけれど、冷奴にすればいいかな、と、思って頷く。


「ぜひに」


 そうすると、そんなやりとりを見ていた豆腐小僧が、まかしとけ!と言わんばかりに菜切りを取り出し、両手いっぱいの豆腐を半分に切り、お鴇と春霞の笊に大きな笹の葉と一緒に乗せてくれる。


「春霞さん! 今朝は納豆! 納豆がいい塩梅に仕上がったんで父ちゃんが是非食べて欲しいって言ってたっす!」


 そんなやりとりを見ていた、まだ春香より年若い小豆洗いが差し出して来る笹に置かれた納豆は、お豆が大きくふっくらしていて確かに美味しそうである。ではそれと後とは…、と、納豆に煮豆、そして漬物に桃をひとつを買うと金を払って皆に手を振り、お勝手口から台所に戻る。


「琉さん、みて、初桃だよ」


 片手いっぱいの、産毛の多い桃を見せる。


「親父殿、喜んでくれるかな」


 うん、と、笑顔で流璃が笑うと、春霞もつられて笑う。


 炊けたご飯は大きなお櫃に入れてしゃもじでしっかり隅までほぐし膨ら空気を入り込んでしっかり絞った綺麗な布巾をかけてから蓋をすると、湯の沸いた鍋に、昆布を通し、里芋と、大根、人参を入れて箸が通るくらい柔らかくなるまで煮てからそっと麦味噌を溶いて味を見る。


「琉さん、どうかな?」


 小さな器にうつして渡すと、箱膳を用意し始めた振袖番頭は口をつけ、笑ってくれる。


 よかった、美味しいんだ、と安心すると、用意された箱膳に、香の物、納豆、冷奴と載せて行き、三人分を奥座敷に並べると、自分たちのものより少し小さい箱膳に、納豆の代わりに焼いたししゃもを一匹をそっと乗せて土間の上がりに置いた。


「五徳猫、今朝もありがとう、晩もよろしくね。朝ごはんはここに置いておくね」


 一緒に座敷では食べないと知っているから、そう声をかけて座敷に戻った。




「…え?」


 ご飯を口に運んでいた箸を止めて、上座に座り朝餉に箸を進める細石屋主人を見た。


「僕が…葦原に、ですか?」


 ぽろり、箸でつまんでいたご飯が落ちて、慌てて茶碗と箸を膳箱におき、落ちたご飯をひろう。


「お、いいねぇ。とうとう春霞も男になるの…いて!」


 豪快に笑いながら、ご飯に味噌汁をかけた零の頭を琉璃がお玉でこついた。


「加州様からのたっての願いなのだよ」


 ぽりこりと、今朝、棒手振りから買ったばかりの香の物(つけもの)をかじりながら、細石屋主人はにこりと笑う

「おや、今朝の大根はおいしいねぇ」


「はい、今朝、大岩村の獺坊の棒手振りから買ったんですよ」


 いやそんなことより、と、慌てる。


「一人でですか?」


「あぁ、昨夜遅くに使いが来てねぇ…今日の昼前に、加州様から使いの籠を送って下さるそうだから、それに乗ってお誘いいただいた葦原の茶屋・繊月楼においき」


 汁椀をすっと横に差し出すと、心得たようにそばに寄った琉璃がそれを受け取り、そっと味噌汁を足して渡す。


「今日は味噌汁もうんまいねぇ」


 嬉しそうに具の里芋をつまむ


「出汁が変わったんかな?」


「零が昨日、利尻の昆布をもらって来てくれたので」


「ねぇさん方が干物問屋の旦那さんからもらったそうですよ」


 ずずっと味噌汁をすすり、零は足を崩した。


「ねぇさん方は料理しませんしね、船箱いっぱいにもらったら、そりゃおすそ分けもありますって『零や、零、これさ、持っておかえり』とくれたんで」


「では味噌汁もおまぃが作ったんかい?」


「それは」


 遊女の真似をしながら笑っていた零は、途端、口ごもる


「春霞と、琉さんが…」


「だろぃねぇ」


 ふふふと、わかってて聞いたと顔をする。


「おまぃがやるはずないものねぇ。しかし零、おまぃもこの家の子なら、ちゃぁんと家のこともちゃんとやるんだよ」


「はいはい…」


 こりゃとんだ藪蛇、という顔をした零の正面で考え込んだ顔をして箸が進まない春霞にそっと、琉璃が急須を出す。


「え?」


 慌てて顔を上げると、茶碗のご飯にゆっくり、お茶を注いでくれる。進まないご飯を心配して、茶漬にしてくれたようだ。


「ありがとう、琉さん」


 困ったように笑うと、香の物を使い、さらさらと一粒残さずご飯を流し込む。


「そんなに心配することはなんだょ、春霞」


 一足先に食事を終え、箸を置くと湯呑みを受け取った主人は困ったように眉を下げて笑った。


「加州様はおまぃに無体を働かないし、無茶も言ったりしない方だ。ただ、ちょいと頼みたいことがあるそうだからね、いってさしあげておくれ。大丈夫、猫代をくれるわけでもありゃしないよ」


「なぁんだ」


 箸を置き、茶をすすり出した零はつまらなそうに頭をかいた。


「猫のところに行くわけじゃねぇのか」


「猫…って?」


 押し込むように食事を飲みくだし、箸を置いた春霞の問いに、おめぇはそんな事もしらねぇのか?という顔をする。


「葦原はちと違うけどな、両国や本所の岡場所では、銀二朱で買う遊女を銀猫、小判一枚で買う遊女を金猫っていうんだよ」


 とん、と、湯呑みを置いて笑う。


「だから遊女を買うことを猫を買うっていうんだ」


「岡場所って?」


「…なぁ、おまぃは本当に男か?」


 驚いた顔で零は続ける


「葦原遊郭は、大江戸の幕府公認の遊郭だ。だからな、揚代も大籬だと下の女郎でも金一両とかなんだよ。で、だ。寝るだけでも金一両なのにだな、まぁ、床花(とこはな)代とか、台の物だとか、そもそも床入りまでには作法として三回通ったり、とだな、旦那さんって呼ばれるまでにゃぁ、たんと金がかかるんだ。だからそんなもんすっ飛ばした、気軽に女と遊びたいってな私設の遊郭が岡場所だ。」


「ふぅん…」


 どうだ!すごいだろう、俺は物知りだなぁ!という顔をした零とは対照的に、一気に興味を無くした、という顔をした春霞、双方の顔を見た細石屋主人はあっはっは!と、大きな笑い声をあげた。


「春霞も、緊張が抜けて元気が出たようだぃな。 零、朝の膳を用意しなかった分、おまぃが片付けと店開けを手伝うんだよ」


 ぽんぽん、と、手を叩いた。


「さって、お天道さんがあんまり高くなる前に暖簾を出しておくれよ」


 はぁい


 二人の小僧が慌てて箱膳を引き上げ始めた。

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