いちのよん 雨上がり
夕立が、雷と共に来て去ったのはただの半刻ほど。
雨がやめば、そこには紺の幟が幾本も、立ち上がり、明け煌々と、篝火に狐火が門柱を照らす。
春霞の背丈の倍はありそうな、大きな牛頭に着物を端折った半纏姿の大男が二人、仁王立ちして立ち守る大きな黒塗りの門を潜るのは実に7年ぶりのことで、少しだけ腰が引けた。
大江戸の中で最大の遊郭『葦原』
女の情念に男の嘘を塗りこめた、色恋と金と欲望渦巻く偽りの極楽世界は、天を破るほど高い黒壁の向こうにある。
遊郭唯一の出入り口とされる巨大な門は『葦原大門』と呼ばれ、茶屋揚屋それぞれの店が開いている時間、朝泊まりの客が帰って一度閉められた大門は、昼見世の始まる正午過ぎにもう一度閂が抜かれる。
そうすると、まだかまだかと待ち構えた冷やかし、見物、色恋に呆けたモノが我先に、そろぞろと入り乱れて入って行く。が、それは男の話。
女はまず、大門の右端に一列に並ばなければならない。
それは、特別特別と思われている細石屋主人であっても同じようである。
「はいよ! 女一人! 気ぃつけて!」
女の並ぶ方には入ってすぐに木戸番小屋のようなところがあり、女の出入りを管理するように通行用の木札を渡している。これが遊女が年期明けを待たずに逃げ出す「足抜け」の予防策なのである。が、そんな木札一枚でどうして防止できるのだろうかと、首をかしげる。
「ふふふ」
木札を受け取った細石屋の主人が、面白そうに笑いながら春霞の元に歩いてくる。
「あぁ、面白いねぇ、こういうやりとりは久しぶりだぃなぁ」
手のひらに乗る、赤の木札を春霞に見せる。
「春霞、ほら、よう見てごらん」
朱塗りの、形は神社で下賜される絵馬のようで、女人一人 葦原通行手形 と彫り黒く墨を入れられた木札をぶら下げる。
「これが葦原遊郭の女人手形だ。これには呪がかけてあって、こうして受け取ったものと、出るときに手放すものが変わっていると手形の中に引き込まれる。遊女の足抜きを予防するためものものなんだよ」
にこにこと笑いながらそれを懐に入れると、さて、と、歩き出した。
「ちゃんとついておいで、迷子になる年でもなぃだろうが人が多いからねぇ」
はい、と頷いた春霞は、仲ノ町を先に歩き出した主人に置いていかれないように早足で歩き出した。
仲ノ町は、真ん中に季節の大木を植え、左右に大きな引手茶店が立ち並ぶ。
今は春、大きな桜の大木が、この日のためにしっかりと植えられている。
その桜の大木と、引手立ち並ぶ茶店の店構えを煌々と照らすのは朱塗りの灯篭で、覗き込めば中で白焔がゆらりゆらりと揺れながら時折その色味を変えて客たちの心を惑わせる。
夜出歩くことを許されない城勤めの武士などが多い昼見世が終わり、黄昏を過ぎた暮六つ頃、通りの灯籠に狐火が灯ると、籬のなかで当番の遊女かお抱えの芸者が清搔をかき鳴らかしはじめると、幻想的な夜見世が始まる合図となる。
春霞たちが大門をくぐったのはまさに暮六つ。
客の波に合わせてぽうぽうと、左右、両の赤灯篭に順序よく灯が入って行く。
こういう形で見るのは初めてだ、と、 周りを見回したときだった。
「太夫だ!」
一際大きな声が響いた。
「珠月見太夫の道中だ!」
「いよぉ! 珠月見太夫!日ノ本一!」
その叫び声で、仲ノ町の喧騒は水を打ったように静まり、ごった返していた人垣がふたあつに割れた。
しゃららららららら……
笏丈が鳴り響く。
しゃん!
一度、大きく鳴り止まる。
道中が始まったのだ。
からからから、かっかっ!と、高い駒下駄を引きずり踏む音が聞こえる。
と、大きく傘を張る音が響いて、女たちの黄色い歓声が上がった。
「桜の君!」
太夫の後ろ、濡れ羽色の長身の男が、外は黒塗り、赤は朱塗りの珠月見太夫独特の長柄傘を広げてて立つのをみると見物の女たちの黄色い歓声が上がる。
「桜の君!今日も素敵!」
「おや、零だね。道中がこちらへ来るのか」
そんな声が聞こえたのか、ふふと、春霞の前を行っていた細石屋主人は足を止める。
遠目に見える養い子に目を細める。
「あぁしていると、あれはいい男だねぇ」
笏丈を鳴らし、先を歩く男の後ろに、二人立ての禿が歩き、その後ろを朱塗りの煙管盆や身の回りのものを持つ新造や男衆たちがそぞろと並ぶ。人の数も、着物も、随分豪奢な道中で、やれ、今晩はどんなお大尽が呼び出したのかとひそりひそりと声が聞こえる。
「ほら、きたよ! 太夫ぅ!」
誰かの声で通り絵を見れば、道中の真ん中、艶やかで華やかな白面に、玉虫色に輝く紅を掃き、柳眉の下に橘の瞳が輝けば、白狐の描かれた帯を前に立て、立兵庫に髪を結い上げ鼈甲の櫛に笄、簪を幾本も重ねた珠月見太夫が狐火に照らされた桜吹雪を練り歩く。
時が止まったかと思うほどの妖艶に華を添えるは黄色い声を受ける長身の傘持ち。
中朱塗りの傘を持って連れ立って歩く零は切れ長の目元と口元に朱を入れ、とても美しかった。
「親父殿」
前を通り過ぎていこうとした零は、目のあった春霞にいつもの粗野で愛嬌のあるものではない、あだっぽい流し目で見据えながら薄く微笑む。
「零ってあんなでしたか?」
太夫が葦原でも一等大きな茶屋に入ったのを見届けると、ちりじりと蜘蛛の子を散らしたように大門へ、または冷やかしに籬通り、または目当ての娘のいる見世へとモノ影が散ってゆく中、見知った同じ屋根の下に住むモノの、怖くて、美しい姿に高鳴る胸を抑え動けずにいた春霞の背を撫でながら、大丈夫だよ、と微笑めば、そのまま太夫の入った茶店の中に入っていった。
「おう!春霞!こっちこい!」
「零」
ため息混じりに諌める声。
「わっちの旦那さんの前ぇ、ご挨拶終わってからにしなんし」
「あー。はいはい、っと。うっせぇなぁ……」
今日は貸切だという茶屋の二階の奥座敷に促されて入った春霞の姿を見かけ、大きく手を振る零は、上座に座るお大尽の横に従う太夫にたしなめられてと腰を下ろした。
さっきの、怖いまでに美しかったのは多分彼じゃなかったのかもしれない……と、先ほど感じた怖さも不安も全くないいつも零のその姿に春霞は、思案にくれながら先を進む細石屋主人に従い座敷の奥へ足を進めた。
「お久しぶりにございます」
座敷の上座、珠月見太夫を横に従え朱の盃を傾ける、ぱっと見て高位の武家とわかる漆黒に赤い襟を入れた着物姿の青年の前に座ると細石屋主人は頭を下げた。
「加州様には、本日は息子共々、お招き頂きありがとう存じ上げます。また、お待たせしてしまい申し訳もございません」
「ひさしいねぇ、細石の。なかなか呼んでもきてくれないし、今日もなかなかこないから、また振られたんじゃないかと太夫と話していたんだよ」
「申し訳ございませんな、なかなか忙しく」
「まぁ、お前だから許してるんだけどねぇ。あぁ、二人とも顔をあげて。この葦原では身分年齢関係なしが慣例だよ。だからここに呼んだんだ」
嫌味ではなくそういい笑った青年は、主人に習って頭を下げた少年を見る。
「それで、その子が例の人の子かい? 綺麗な鋼色の髪だ、羨ましいなぁ」
「春霞と言ぃまして、ことし十五になります」
顔を上げ、春霞に視線をやる。
「加州様には、先だってのお力添え、誠にありがとう存じ上げます」
「俺は何にもしてないよ」
ふふっと笑い、脇息に体を預ける。
「適材適所と、殿に申し上げただけだ。それにお前はいつもいろんな面白いものを見せてくれるからそのお礼だ。これからも楽しみにしているよ」
「ありがとぅ存じます」
挨拶が済むと、店の女に促され、仲ノ町が見える席の、主人の下座に座った。
目の前には、新造や幇間など、太夫とともに呼ばれたものたちが座っている。
「零とは反対なんですね」
「席のことかい?」
ふふっと笑う細石屋主人は朱の盃に注がれた白酒を見る。
「あれは今、仕事中だからね、酒宴が続けば場も緩む、そうすればあれのことだ、こちらに来てくれよぅから、そんなに固くならないで安心おし」
はい、と頷いた春霞は、自分たちを招いてくれた人を見た。
闇色の髪。血の瞳。
自分と同じ人の形をしているが、あの人はどんなモノなのだろう。親父殿がかしこまった話し方をしたり、こんな大盤振る舞いをしたり。将軍様の要人か、それとも……
「親父殿」
そっと、話しかける。
「加州様とは一体何を…」
「お揃いですかな?」
春霞の問いを遮るように、純白の、氷山のようなうら若い女人が一人、静かに座敷の隅に膝を揃えた。
白銀の髪を背中で一つにまとめ、胸元から銀の扇子を取り出し前に置くと、三つ指をつき、静かに頭を下げる。
「ご挨拶させていただいても、よろしゅうございますか?」
加州が頷くのを確認し、扇子を手に二人の前に静やかに座敷の奥へ足を進めると、まずは上座の加州へ、そして細石屋主人へ頭を下げた。
「『繊月楼』主人六花四郎兵衛にございます。本日は当茶屋への起こし、誠にありがとう存じ上げます。加州様におかれましては格段のご贔屓をいただき恐悦至極。 加州様、細石様、これからも末長いおつきあいをお願い致しとぅございます」
「うん、ありがとう」
盃を高杯に置く。
「でもまあ、堅苦しいのはもう良いよ」
加州の声に、すっと、六花四郎兵衛は顔を上げて笑った。
「口上を、最後までさせていただきとぅございましたな」
「お前の口上は何度も聞いているし、もういいかな。ほら、禿も、傘持ちも、ここにいるみんな、澄ました顔してるけど退屈そうだし、料理は熱いものは熱いうちに、冷たいものは冷たいうちに食えってね」
ちらり、細石屋主人の方を見た。
「ほら、小僧くんも退屈そうだしね」
ぱちん、片目を閉じて微笑めば、やれやれわかりましたとわざとらしく息を吐き、六花四郎兵衛が二つ手を打つ。
了、と声。
「台の物もすぐに届きますれば、どうぞ、ゆるゆると今宵は宴を楽しみ下さいませ」
そぞろ、何人もの揃いの着物を身に纏ったモノたちが大小様々な料理の膳を運び込み始め、そうすれば待ってましたとばかりに幇間は三味を取り出し爪引き始め、それでは、と振袖姿の新造が頭を一つ下げて舞を始める。
「ほら、食え食え」
「え? 零?」
春霞の横にはいつのまにかにやりと笑った零がいて、手招きされてよってきた可愛らしい禿が二人、和やかに酒と料理を勧めてくる。
どうやら男としてまだかなり幼いと思われたようで、そのまま禿たちとの投扇興や貝合わせが始まり、買ったものには加州よりと紙花や南蛮菓子が並べられ、そのうち幇間や新造たちまで芸事を置いて楽しみはじめ、大人たちは可愛らしいねぇとその姿を肴に盃を傾ける。
そんなものだから、いっとき、そこからいなくなった大人たちのことなど誰も気づくことはなく、ただただ、今宵の葦原一番大判振る舞いが行われたお座敷は、色恋情念とはかけ離れたなんとも和やかで穏やか、純な宴が大門閉じる時間までゆるゆると行われたのである。