いちのいち 飴色
こここここ、こここここ。
啄木鳥が住処を築く仕事のように、子気味よく何度も重ねて鳴るのは、槌で鏨を叩く音。
「この音は、錺師に師事されてるというこちらの息子さんのモノですね」
あぁ今日も、細石屋の息子が店の二階で何やら錺り物作りに精を出しているのですねぇと、一階の店に訪れていた客はまぁまぁと笑いながら、番頭を務めている黒振袖に禿頭の少女に懐紙に置いた金を差し出した。
「こちらの息子さんも、錺り物を上手く作れるようになられましたねぇ」
渡された金を勘定と合うか数え終えた禿番頭がこくり、一つ頷いた。
「養子に入られて随分と立つと思うんですけどね、年は幾つになられました?」
さらり、大福帳の端っこに、少女番頭はさらりと筆を走らせた。
「十五! それはそれは、もうお嫁さんをもらっても良いお年頃ですねぇ」
ぽん、手を打つ音がして、そうそうそれならば、と艶々とした毛むくじゃらに、これまた艶々した長い黒爪が見え隠れする着物の端から、今思い出しましたよ、というには不釣り合いな、この日この時のためにと準備万端用意され、今か今かと出番を待っていたであろう、香で焚き染めた上に花まで添えられた文をひとつ取り出した。
「改まるようなものでもないんですけどね」
膝の上にきちり、揃えられた少女番頭の手に無理やり持たせようとしながら、客の貉女は改まって口を開く。
「ご存知の通り、うちは日本橋側の呉服屋を営んでいるんですよ。ありがたいことにうちには息子はおりませんが、四人ほど娘がおりましてね、一番上の娘が番頭を婿にもらって跡を継ぐ予定なんですよ。それの他にも二番目の娘は海苔問屋の美浜屋さんに、三番目は廻船問屋の長崎屋さんに嫁に行ったんですけどね。末の娘がねぇ……。いえ、直に十四になるんでどこかにいいお店の息子さんがと話を進めてみたところ、嫁にはいかないと言い出して。問いただしてみればどうやらこちらの息子さんに懸想しているようなんですのよ」
矢継ぎ早に話しながらも、ぐいぐいと押しつけられる文を頑として受け取らぬようにしっかと手を揃える振袖番頭。
しかし相手は負けていない。
「えぇもちろん、もちろん存じておりますよ。こちらの息子さん、実はこの世界のモノではない、只の人だってことは。色々いうものだっておおくおりましょう、そうでしょう。しかし!」
どん!と、胸元を叩いてそれくらいはちゃぁんと心得ているし、そのうえで、と、胸を張る。
「そんなものは、惚れた腫れたには関係ありませんよ! 当家は先にも言いました通り、日本橋に間口十間を構える老舗の呉服屋。 まぁ最初は、反対もしましたし、それなりのお店のご子息との縁談をと本人にも行って聞かせたんですけどね、娘はそんなのは嫌だというんです。その上、乳母の話では恋煩いでお稽古事も身に入らないくらいには、こちらの息子さんに岡惚れなんだというんです。それでうちの亭主とも話をしたんですけれど、あの子は可愛い末の娘。一人くらい好いた相手に嫁にやってもいいんじゃないかとなりましてね。こちらとしては、細石屋さんの息子さんと添い遂げさせたいと思っているのでございますよ。あぁ安心してくださいませ、こちらからの申し出でもございます、持参金はうちから、二人、日本橋かどちらかで小間物屋くらい開ける金をお出しするつもりですし、お互いのお店の格を気になさるんでしたらそれは杞憂。中通りのお店といえど、江戸にお名前を知られた小鉱石川の細石屋さんとのご縁なんて、どこのお店でも喉から手が出るほど欲しいもんですからねぇ。ですから…」
「申し訳ありませんがね」
ひとつ。
まくし立てる狢の口が止まった。
「春霞はうちで小僧として働きながら錺師の修行を始めた青二才の半人前。まだまだ他所様に婿に出すつもりはありませんでね」
店の奥から不意に降ったやわい声に、二人は視線を向けた。
「いつもご贔屓ありがとう存じ上げます。そしてまた、ありがたいお話ではありますが、申し上げました通りあれは半人前の上、まだ下げ髪の頃より、将来を誓った娘さんがおりましてな、あぃ申し訳ありませんが、親としては長い間思い合った二人、しっかと添い遂げさせたいと思っているのですよ」
音も立てずにきちりと座り、指をついて頭を軽く下げたその声の主は、きっぱりと言い切った。
「お嬢さんとのご縁はなかったもんと諦めてくださぃな」
「そうは言っても細石屋さん」
きっぱり言い切られ、それでも負けじと客は大きく問う。
「自分で言うのもなんですがね、細石屋さんにとっても、こんなに良い縁談、他にはきっとありませんよ! しかと仲人もそれなりのお方にお願いしますし、そもそもうちは日本橋呉服屋の中でも1、二を争う大店で…」
「琉璃や」
話を遮るように、正座していた足をだらりと崩し、近くにあった脇息にもたれかかかると煙草盆を手繰り寄せ、乗っていた赤い羅宇の長煙管に火を入れた。
ふかり…煙を吐く。
「お客さんがおかえりだぃな、お見送りを頼むょ」
こくん、うなづく振袖番頭はそっと、暖簾を押し上げて頭を下げた。
「お話はまだ…っ」
話を続けようと詰め寄った狢女は、にこりと自分に向けて微笑む美しい笑顔の奥にある冷えた瞳に肝を冷やす。
「気ぃつけてお帰りくださぃな、伊勢屋さん」
「…きょ…今日のところはこの辺にしておきますわ」
冷や汗を毛に落としながら、買い求めたばかりの大きな包みを抱えると、それでも一言、絶対に諦めませんからね、となんとか口にして暖簾をくぐり出た。
「やれやれ」
ぱらり、暖簾が降りると、主人の口元の笑みがふっと消える。
「狢のなんと忍耐深いことか。それとも獲物は逃さないといったところか。あぁほんにめんどうくさいねぇ。最後にきちんと言い残すところとか、頑張りは認めるけどねぇ」
置いてった文を指先で持ち上げ、そっと煙管盆の火にくべながら、ふかり、もう一つ煙を吐く。
「あぁ、ありがと」
ん、と、振袖番頭が声なく差し出した茶を受け取りすすりながら暖簾の向こうの土埃を見る。
「しかしまぁ、年をとるんは早いねぇ」
ふふふ、と、細石屋の主人は笑った。
「もうそんなにたったんだねぇ」
こくん、髪を揺らして番頭が頷く。
血まみれの赤子を葦原で拾って15年。8年ほど葦原の養児院で過ごした後に引き取ったあの子にも、もう縁談を持ち込まれるようになったのだ。あぁ、年月が立つのは早いものだと舌を巻く。
大遊郭・葦原の、白天宮の小社の片隅。
生きるか死ぬかのところをたまたま通りかかった葦原一と名高い珠月見太夫に目を止められ、そのまま自分の腕にすぽりと落ちたあの日は、自分たちが店に入ってすぐに滝のように雨が降り全てを洗い流して行った。
刺すような日差しと高く青い空を、黒い雲が飲み込んで洗い流して行った。
あの日は何かの転機だった。
モノが通る度、土埃がふわりあがっては落ちていくのを見つめる。
「…雨がくるね…」
あぁいったものではあったが、この店に外から話が持ち込まれてくることは大変珍しい。
「何かがクるんかしれんが、それが良いものか悪いもんかはまだわからないねぇ」
煙管を煙草盆に打ち付け火種を落とすと、ふっと煤を息で吹き出した。
「だが、用心に越したことはなぃ」
ゆっくりと、煙管の先を店の外に向け、ゆるゆると宙に描くように動かす。
蔵にかける、大きな南京錠がかかったような重い音が、どこからか聞こえた。
満足げに一度、頷くと、主人はそっと、煙管を置いて奥を見た。
二階から降りてくる足音は、雨音に似ているな、と、口の端をあげる。
「琉さん、ちょっとお届け物に行ってきます」
階段の長暖簾をあげて店に出てきたのは、先程まで噂に上がっていた少年である。
頷いた少女番頭に手を振りながら上がり框に向かおうとして、はたと足を止めた。
「親父殿!」
店先では滅多に会わぬ、自分の養い親であり、店の主人である人影を見て驚く。
「珍しいですね、店先に出ていらっしゃるなんて」
「そりゃぁこの店の主人なんだから、客あしらいに店先に出ることもあるょ」
こっちにおいで、と言われ、春霞は親父殿、と呼んだ細石屋主人の前にとん、と正座する。
「どこかにいくんかぃ?」
「浅草寺の中通りの小間物屋さんにお品を届けてきます」
「そうかぃ」
うんうん、と、うなづいた主人は、袂から懐紙を取り出すと春霞の手を取りその上に乗せた「あの辺りは近頃ちぃと剣呑だ、此れは身護り、連れていくといい。帰りは使いを出しておくから、浅草寺の草団子屋で待っておいで。零を迎えに行かせような」
とん、と、主人が懐紙の真ん中を指で叩くと、ぐちゃぐしゃばららと形を変え、小さな小鳥の姿になる。
それから、これは道中疲れた時におたべ、と、飴玉の入った千代紙の袋を渡す。
「気ぃつけて行っといで」
「はい、いってまいります」
ひらひらと手を振る主人に見守られながら、春霞は懐紙の式鳥を連れ立って、細石屋の天色の暖簾をくぐって出て行った。
「杞憂…」
煙管に火を入れる。
「杞憂ですめばいぃんだがなぁ…」
雛色の髪を背から流した主人は、ゆるり、他のモノよりうんと聡い目で少し遠くを高く見た。
江戸は花咲く、花柳。
ここは天女、羅刹、鬼、神龍。
日本あまたの妖怪たちが、ひしめき合って住まう国
麒麟天帝が統治する、妖の国日ノ本の中でも、東方守護神・青龍将軍が睨みを効かせてお住まいの、大江戸錦城に見下ろされた、花は大江戸、八百余町、小鉱石川にあります 唐物萬商・細石屋の騒動騒乱の日々でございます。