よんのよん 怒涛乱舞
「よぉ、またせたな」
舞を守る春霞に、肩越しに振り返った零は口元をにやり歪ませ、大きな守り傘を肩に抱えてそう言ってた
「おまぃにしちゃぁよく頑張ったじゃねぇかよ、いい男だぜぇ」
と。
そう言ってくれると思っていた、信じきっていたのだ。
彼が現れて、自分の前に立つまでは。
ここは日の本、妖の国。
次の一瞬が、平和なものとは限らないのである。
名を呼べと、いわれた。
幼い頃の約束、その名を呼べと、言われた。
だから、呼んだ。
全身全霊、いま、ここにいることを知らせるように。
そうして名を呼ぶと、神風のような目も開けていられないほどの大きな突風が吹き付けたため、ようやく起こした体は支えきれず月狗舞を守るように意識は遠のき始め、力なく臥せった。
遠くで、あたり中から一斉に、薄いぽっぺんびいどろが割れるような音と一緒に、いまいるこの地に何かが勢いよく飛び込んでくる音がした。
高く遠く、広く深く、ただ、そこにあるものだけではないように。
頬で感じる。
風が、止んだ。
だがそれも、たったの一瞬。
すぐにもっと大きな風のうねりを生み出した。
呪禁も、悲鳴も、旋風の音も、御簾も、その奥に控えた術者たちも、巫女も、落ちていた呪符もなにもかも。
自分たちの周りにあった者の全てを巻き込んで吹き飛ばした。
わずかに開いた瞼の隙間から、目の前に降り立った足を見た後、体の奥底に落ちていく意識、耳の奥底で聞こえた。
それは人型のものではない、遠吠え。
ふとすれば、犬や狼にも似た低く震わせて響く、何かはわからないモノの声。
その声で、突風の中で月狗舞を守りながらも一瞬手放しかけた意識を取り戻すことができた。
じりじりと、焦がすように身体中が痛みを訴える。
「…」
ただ、声なく手を動かした。
「…れ…ぃ、舞…」
片手は脇差を握りしめているのがわかった。
もう反対の手は…? 無くしてしまったかと力を入れると、こつん、 指先に、蓋の開いた矢立が落ちて思わず握った。
月狗舞も、自分の体の下にちゃんといて、そうして突っ伏した自分の頬に規則的に小さく息がかかるのがわかって初めてほっとできた。
風が、押しつぶそうと絡みついていた呪禁を消しとばした様で、鉛のようであった体の隅々までもがすこしだけ軽くなり、しっかと目が開けられた春霞が見たものは、最初は黒い着物の裾から見えた白い足だった。
「れ…」
着物の裾に手を伸ばして…。
「零…」
伸ばした手を、小さな雷に阻まれ、引っ込る。
全身に走る痛みに、とっさに手を引っ込め、顔を上げ…それを、見た。
「零」
体を反り起こす。
「れ…い…?」
目の前の大きな獣は誰なのか。
零はどこに行ったのか。
あの美しい顔はどこにいったのか。
目の前の、この半獣人が零なのか。
朱をさした目元、流し目をくれた時のあの、寒気を感じるような美しさは今はない。
橙色の綺麗な瞳は、赤みをおびた黄金で、軋むような音を立て、まん丸だった瞳孔が針のように細く鋭い。
形の良い、いつも笑浮かぶ薄い唇だった場所は、獣のように耳まで裂け、鋭く大きな牙が剥き出している。
呼び名の由来である美しい桜色は抜け落ち、真白になった鬣は波打ち大きく逆立った。その拍子に飾った簪が落ちて板床に突き立った。
雄叫びが、喉からほとばしる。
「なんなのじゃこの男は!」
風に飛ばされた女御大は膝をつきながらも立ち上がり、巫女の女に叫ぶ。
「おいだせ! はよぉせい!」
「ぎょ、御意!」
壁に叩きつけられ体にかかっていた御簾を払いながら、巫女の女は手刀を切り、印を組み始めた。
「血をひかぬ者よ、排除されよ!」
青い光が鎌首を上げた蛇のように、獲物に向かって飛びかかる。
が、すんでのところで解けるように飲み込まれた。
「くそむしが」
誰の声なのだろう、低く機嫌の悪い声。そうして黒い着物の裾から見える、先ほどとは全く違う、骨と筋肉が張り上げ、刃のような鋼の爪をむき出しにした獣の脚が一歩、床を割って踏み出した。
「弱ぇな、生きる価値もねぇ」
「な…」
巫女の女はわなわなと、白塗りでもわかるほどに血の気が引いた顔をわなわなと震わせる。
「こ、この妖ものは…我らの術が聞かぬこのものは…な、なん…」
「あぁ?」
大きさも、形も変わってしまった獣の腕で、がちり、頭を掴み上げると、己のこの先を知った女が狂乱で悲鳴を上げ始める。
が。
「うっせぇ」
骨が砕ける音がした。
大きく開いた口の上、女に食い込んだ爪が皮膚を、肉を、頭蓋骨をかち割り、血がしぶきを上げた。
そのまま口にと放り込む。
がりん
太い骨が割れる。
ぐちゃりぐちゃり
肉が潰され咀嚼される。
喉仏が動き、長い舌が赤く染まった顔をべろりと舐める。
「なぁんだ、母親ほどには、血肉ってのはうまかぁねぇんだな…くそみてぇな雑魚だからかぇ?」
へっ、と笑った異形の妖は、彼を見ていた女御大へとにやり視線を投げた。
「御大って呼ばれるあんたの血肉は、どうなんだろうなぁ」
べろり、獲物を捉えるように口の周りを大きく舐める。
「化け物が!」
印を組み、呪禁を唱え始める。
「我が娘よ! その身を持ってこのものを止めよ!」
月狗舞に向かい、しっかと先ほどの『一族に迎えるため』呪禁を唱え始める。
「我が娘よ!」
雷鳴つむじ風から体を呈して守っている春霞の下で、いまだ眠ったままの月狗舞はただのぴくりとも動かない。
「誇り高きわが眷属よ、目覚めよっ!」
崩れた祭壇の上、最後の潔斎としてか、かけられた組紐をほどき、神酒を器ごと床に、呪の紋様の中央にそれを叩きつけた。
割れる器。
飛び散る神酒の雫。
大きな地鳴りと、音。
「がぁあっ!」
大きく口を開き、声をあげたのは。
「零!」
零の、喉の、体の奥底から絞り吐き出された遠吠えに、結界は全て吹き飛んで、葦原引手茶屋「梅里屋」には、青くまばゆい雷鳴が落ちた。




