口づけ、むせかえる緑の中にて
アリツェの住まう屋敷には温室がある。
この屋敷は二階建てで、大小五つのサロンがあるが、うち一階南西のサロンは庭の温室とつながっていた。サロンの南側が全面ガラス張りの窓になっていて、その一部が開いてすぐそこに隣接している温室に入れるようになっているのだ。
温室の中では年間を通してさまざまな花が咲いている。冬の今でも、だ。天井のガラスのドームは冬でも太陽の光を集めて、同じくガラスの壁は分厚く寒さを遮ってくれる。中に入ると少し蒸し暑いくらいで、フェルトのドレスを着ているアリツェは少し汗ばむのを感じた。
アリツェはこの温室が大好きだ。美しい花々はいつもアリツェを和ませてくれる。生来能天気な気質のアリツェにそんな深刻な悩みはなかったが、それでも落ち込む日がまったくないわけでもない。そういう日には温室にこもってじっと耐えるものだ。
むしろ、生来能天気だったからこそ、かもしれない。周囲の人間がアリツェにそのままでいてほしいと願っていることに気づいてしまったから、温室に引きこもる時間が必要になったのかもしれない。
明るく元気なアリツェでい続けるためには、温室という隠れ家でこっそり泣いて自分を励ます必要がある。自分自身を保つため、アリツェがアリツェであり続けるために、この温室はなくてはならないのだ。
特に四年前母が亡くなった時は毎日つらかったが、この世の終わりのような顔をしていた父や弟のために、アリツェは極力明るく振る舞い続けた。そうして疲弊していく心を癒してくれたのはこの温室という空間であり、温室で育っている草花であり、また、温室の整備のために働く庭師の親方のヤーヒムとその徒弟たちだった。
今日は出入りの商人が街で人気の焼き菓子を持ってきてくれた。ふんわりと柔らかくバターの風味たっぷりのその菓子は最近この街に入ってきたばかりのもので、王都では一般的な菓子らしい。
王都から遠く離れたこの山間の街にはそういう流行が入ってくるのがちょっと遅い。しかし、領主一族の娘として生まれ可愛がられて育ったアリツェは、それも当たり前のこととして受け止めている。出入りの商人が教えてくれる流行りを遠くから眺めていて、そんなに特別うらやましいとも思っていなかった。
せっかくいただいたのだから、みんなと分かち合おう。そう思い、アリツェはかごに菓子を山のように盛って屋敷中を配り歩いていた。領主のご令嬢から流行りの菓子を貰った使用人たちはみんな一様に喜んでくれて、アリツェは菓子そのものよりもそんな笑顔のほうに価値を感じた。
庭師たちにも菓子を喜んでほしい。いかつい男たちも甘い菓子は好きに違いない。仕事の休憩にちょうどいいだろう。アリツェはそんなことを考えながら温室までやってきた。
いざ温室に入ると、中は静かだった。ここに来れば誰かには会えると思っていたが、みんな出払っているのかもしれない。何せ田舎の余った土地に建てられているこの屋敷の庭は広大で、庭師たちは毎日忙しくあっちこっちを行ったり来たりしている。
もしや、かえって邪魔なのでは、とアリツェは思った。庭師たちは誰ひとりとしてアリツェにそんなことなど言わなかったが、誰もいない温室でひとりぽつんとたたずんでいると、ごくたまにこうして不安に駆られるのだった。
「もしもーし」
小さな声で問いかける。
「誰かいないかしら。お菓子をもってきたんだけど、わたし、出直したほうがいいかしら?」
返事はないものと勝手に思い込んでいた。
右側のほう、背の高い南洋の植物の陰から、がさり、と物音が聞こえてきた。
文字どおり温室育ちのアリツェは何の疑問も持たずに音のほうを向いた。
「誰かいるの?」
菓子のかごを持ったまま歩み寄る。
返事がない。
この温室の中に人間以外の動物が出るわけがないのだが、誰か喋るのに支障のある人がいるのかしら――そんなことを思いながら、草花を掻き分けて木の根元を見た。
そこに座り込んでいたのは、見慣れぬ青年だった。
アリツェは、思わず、ほう、と息を吐いた。
美しい青年だった。高い鼻筋に彫りの深い二重まぶたをしている。乱れた髪は月光を紡いだような金で、こちらを見る瞳は日光を凝縮したような金だった。少しくたびれた表情、汗をかいた首筋が妙に色っぽく、男性に対してそんな感想を抱く自分はおかしくないかとどきまぎしてしまった。
だが、彼はつぎはぎのある汚れた木綿の作業着を着ていた。足元も使い古されてひび割れた革のショートブーツだ。手も頬も土で汚れている。どうも高貴なお客様ではないらしい。だが街にこんなに美しい人がいたら女性たちの間で噂になりそうなものだ。最近どこかから流れ着いた人なのだろう。
アリツェはしばらく彼をしげしげと眺めていたが、ややして気がついた。
怪我をしている。
彼は左手の人差し指と中指にぼろきれを巻いていた。そしてその布の下からは真っ赤な血が滲んでいた。流れ出る血に背筋が寒くなる。
慌てて駆け寄り、すぐそばにしゃがみ込んだ。
「その指、どうなさったの」
青年が苦笑した。思っていたより柔らかく優しい表情だ。
「少しへまをやらかしてしまいまして。簡単な草むしりをするだけのつもりだったのですが、鎌で、ちょっと」
いでたちに見合わない、丁寧な言葉遣いだ。
けれど今はそんな細かいところを気にしている場合ではない。目の前に傷を負った人間がいるのだ。医療の心得など何もなかったが、それでも何かしたくて、アリツェは唾を飲んで拳を握り締めた。
「とにかく、土を落として、清潔にしたほうがいい――のよね、たぶん。そんな汚れた布、ダメ。こっちを使って」
庭師たちに菓子を食べる前に手を拭いてもらおうと思って持参した濡れ布巾を広げる。
左手で布巾を持ったまま、右手でおそるおそる青年の指に手を伸ばした。
怖い。人間の血だ。それでも助けてあげたい。なんとかがんばらないといけない。
布を引き剥がすと、思いのほか深い傷が見えてきて、アリツェはたまらず「ひっ」と悲鳴を上げて顔を背けた。
「ごっ、ごめんなさい! わたし、お役に立てそうにないかも……っ」
「気持ちが悪いですか」
「見てあげられなくて本当に申し訳ないわ。でもとにかく、そのままにしたらダメよ。こっちの布を当てて」
青年が自らアリツェの手から濡れ布巾を取った。
「ありがとうございます。もう大丈夫ですよ」
そう言われて顔を向けると、彼が指を白い濡れ布巾で覆っているのが見えた。自分で拭いたらしく、指も四本清められている。アリツェは、はあ、と息を吐いて胸を撫で下ろした。
「お医者様にかかったほうがいいわ。ちょっと痛いかもしれないけれど……、怖いけれど、ぬ、縫ったほうがいいかもしれない」
アリツェがそう言うと、青年が、今度はからっとした声で笑ってくれた。
「痛いのも怖いのもあなたではなくて僕だから大丈夫ですよ」
自分が情けなくなってきてしまって、アリツェは頬が熱くなるのを感じた。
「ヤーヒムには言った?」
「それが、僕も変な意地を張ってしまって。これくらいのことでこんな傷を作って、怒鳴られるかな、と思うと、勇気が出ないんです」
青年はアリツェより少し年上、二十歳かもうちょっとぐらいに見えるが、まるでアリツェの弟のようなことを言う。それになんだか安心して、アリツェは今度は胸を張った。我がことながら表情がころころとよく変わる娘だ。
「しょうがないわね、わたしが一緒に言いに行ってあげる」
青年がくすりと笑う。
「ありがとうございます」
そして立ち上がった。アリツェは彼を見上げることになった。すらりと背が高くて、立ち姿がしっかりしている。立ち上がる様子を見ていただけだが、なんとなく、気品のある人だ、と思った。
「では、お言葉に甘えて。一緒にヤーヒムに怒られていただいて、医者を呼んでくださいませんか」
アリツェも立ち上がって「はい」と頷いた。
「いえ、ヤーヒムに怒られるのはあなただけなんですけれどね! あなたがヤーヒムにお説教されている間、わたしはお医者様を呼びに行く、というのでどう?」
「そうですね、それでお願い致します」
ふたり連れ立って温室の西側のドア、庭師たちの通用口のほうへ向かう。
「あなたがここのアリツェお嬢様ですか」
「はい、そうです! わたしはアリツェ・ブラフタ、ブラフタ子爵の長女です。あなたは? 最近うちに来た方?」
「ええ、先週からヤーヒムの弟子としてお世話になっております、ハヴェルと申します。どうぞお見知りおきを」
ハヴェルはやはりアリツェより二歳年上の二十歳らしい。職人に弟子入りするには少し遅いような気もするが、ヤーヒムがわざと訳ありの青少年を引き取って養いながら技術を教えることがあるのを知っていたので、アリツェは深く追及しないことにした。ヤーヒムは口は悪く態度もけしていいとは言えないが、根は優しくて善良な男だ。
彼もきっと何か理由があってヤーヒムの世話になっているのだろう、と思う。
立ち居振る舞いから察するに、彼は本当は高貴な身分の人間だ。けれど何か事情があって家にいられなくなったに違いない。田舎で穏やかに育てられたアリツェには想像もつかない恐ろしいことがあったのだ。もしかしたらハヴェルという名さえ本名ではないかもしれなかった。
父の子爵からふんわり概要を聞いただけだが、どうやら今、王都は荒れているらしい。兄王と王弟が反目し、貴族たちは兄派と弟派に分裂しているという。しかも廷臣だけではない。一般市民までがやれ兄のほうが勇敢だ弟のほうが聡明だなどと言って揉めており、時折決闘沙汰にまで発展して治安が悪くなっているとのことだ。
想像を巡らせる。
ハヴェルの親もそういう闘争に巻き込まれているのではないだろうか。ハヴェルの親がどちら派かはわからないが、とにかくもう息子の身の危険を感じるほどひどい立場に立たされていて、何かが起こる前に脱走させたのではないか。
すべてはアリツェの憶測だ。
都会が荒れ果てていても田舎の領地は平穏で、多少交易品が滞るようになったようだがそれでも基本的には自給自足だし、アリツェが王都の騒ぎに接することはない。
「アリツェ様」
今日、ハヴェルは温室で春に花を咲かせる草の世話をしていた。といっても、土から生えてきた雑草を引っこ抜くだけの仕事だ。まだ弟子入りして一ヵ月のハヴェルに枝の剪定のような大仕事は回ってこない。
春に、とはいうが、温室は暖かいので、きっと冬の間、この一ヵ月か二ヵ月で咲いてしまうに違いない。その花をしっかり咲かせるためには、周りの雑草には下がってもらうしかない。しかし根を断つのは命を絶つのと同義だ。アリツェはいつも悲しい。
ハヴェルが引っこ抜いた雑草を眺める。
この子たちも、温室の外で生まれていれば花を咲かせるまで生きられたのだろうか。それを人間であるブラフタ子爵家の者たちの娯楽と庭師たちのプライドのために手折られてしまうのか。自分たちは罪深い存在だ。
「なに難しい顔をしているんですか」
はっとして顔を上げると、ハヴェルがアリツェを見つめて微笑んでいた。
微笑むハヴェルは美しい。つくりは彫像のようでいて、冷たさがない。
基本的に、彼は優しい。いつも笑顔だ。庭師という重労働に従事していながらも、眺めているだけのアリツェを邪険にしたりはしない。アリツェを見つけるといつもこんな顔で迎えてくれた。
たまに、都会はこんな人ばかりなのだろうか、と考えてしまうことがある。ハヴェル自身が都会から来たと言ったことは一度もないのに、だ。
「温室の外で生きるって、どういうことかしら、と思ったの」
アリツェは息を吐いた。
「この雑草も、温室の外で生まれ育てば、花を咲かせたかもしれない」
「花をつけない品種ですよ」
「……ま、まあ、それはおいておいて。なんというか、ここで人間の勝手で根っこごと引き抜かれてしまうのは可哀想な気がしたの」
ハヴェルが苦笑する。
「アリツェ様がそんな優しい気持ちで見つめている雑草を引っこ抜く僕は嫌な奴ですね」
慌てて首を横に振った。
「ですが、残念ながら、共存はできないのです。庭の花を守るためには彼らに撤退してもらわなければ」
「悲しいわ」
「まあ、でも、抜いた草を燃やすわけでもありませんからね。裏庭に埋めるんです」
この屋敷で裏庭といえばそれは裏山とほぼ同義だ。山の中に埋めるらしい。アリツェはちょっとほっとした。
「このままだと水分が多くて火がつかないので、というのもあるんですが、まあ、肥やしになります」
「そうだったの。わたし、十年以上ここに通っているのに何にも知らないわ」
「いくつになっても新しい発見はありますよ」
ハヴェルが手を止め、立ち上がる。
「僕もここに来てから知らないことをたくさん知ることができました。園芸のことはもちろん、世の中のことをたくさん勉強しています。ヤーヒムはもちろん、子爵――ご領主様にもたいへん深く感謝しています」
「そう……」
アリツェはポシェットからハンカチを取り出した。
手を伸ばし、ハヴェルの額に浮かぶ汗をそっと拭う。
そんなアリツェの行動に驚いたらしく、ハヴェルが目を真ん丸にした。
「お疲れ様」
ハヴェルが目を細めた。
「アリツェ様は、他の庭師たちにもこんなことをなさっているんですか?」
問われて、アリツェは頬が赤らむのを感じた。
そんなわけがない。どの庭師にも親しく接しているつもりではあるが、こんな至近距離まで来るのはハヴェルただひとりだ。
いつの間にか、アリツェはハヴェルに惹かれているのを感じていた。
彼の役に立ちたい。彼に癒されてほしい。
彼の前でいい女の子でいたい。
そんな自分はあさましいだろうか。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。ハヴェルが美しいからだろうか。ハヴェルが上品だからだろうか。自分が世間知らずで、年が近くて見慣れない男性への緊張を恋慕と勘違いしているだけだろうか。
恥ずかしくなってうつむいた。
「……アリツェ様」
ただ名前を呼ばれているだけなのに、心臓が胸の中で弾む。
「顔を上げて」
言われるがままおそるおそる顔を上げた。
次の時だった。
アリツェは目を真ん丸にした。
ハヴェルの顔がすぐそこにあった。
何も言えなかった。
気がついたら、唇と唇が触れ合っていた。
生まれて初めての感触だった。
柔らかかった。
「……すみません、手が汚れているので、これくらいしか」
ハヴェルが土と草の汁にまみれた手の平を見せる。
左の人差し指と中指に濃い傷跡がのこっていた。しかし何か後遺症があるわけでもなく、普通に動くらしい。それに安心する。
彼が少しでも安楽のうちに暮らせますように。
「……あ、あの」
「お嫌でしたか?」
慌てて首を横に振る。
「で、でも、恥ずかしいので、出直してきます」
「そうですか」
「勘違いなさらないでね、嫌だったわけじゃないの、本当に、とても照れてしまって――」
「本当に?」
ハヴェルの金の瞳がいたずらそうに覗き込んでくる。
「信じてもいい?」
耳まで熱くなった。
「……お父様やヤーヒムには、内緒で」
「当然ですよ。僕が殺されてしまいます」
そう言って笑うハヴェルから目を逸らした。
「ま。またしてね。といったら、ハヴェルはわたしのこと、はしたない女だと思う?」
彼は少しのあいだ何も言わなかった。少々時間を置いてから、呟くようにこう言った。
「あなたが望んでくださるのなら、何度でも」
あまりの照れ臭さに、アリツェは「またね」と言いながら逃げ出した。
冬が深まっていく。
アリツェも一応子爵令嬢だ。しかも去年十八歳になった。そろそろ父の都合のいい相手と結婚しなければならない頃だ。
父が言うには、まだ結婚相手が決まらないのは王都の政変のせいらしい。王都ではとうとう兄王派が弟を征伐するために兵をあげ、実質的な内戦状態になっているという。さすがにここまでくると王都からこの地まで逃れてくる者もあり、父も無関係ではいられなくなってしまった。父は優しい人だ。そんな混乱のさなかに愛娘を放り出す真似はしたくない、ということなのだろう。
複雑な心境だ。
この年まで大事に育ててくれた、嫁ぎ先まで細心の注意を払って選ぼうとしてくれる父に報いたい。そのために一番いいのは黙っていずれ父が決めてくれるであろう相手に嫁ぐことだ。
けれど、アリツェは、日に日にハヴェルへの想いが募っていくのを感じていた。知らない人のもとへは嫁ぎたくないと、ハヴェルとこの田舎の屋敷で平和に暮らしたいと思ってしまう。
酷い女だ。
王都の混乱に助けられていると思ってしまう自分がいる。
なんと残酷な女だろう。内乱に巻き込まれて命さえ落とす者があるという中、自分は混迷が深まれば深まるほど猶予ができると思ってしまっている。
ハヴェルがこんな自分を断罪してくれたらどんなにいいことか、と思うことがある。
だがハヴェルは相変わらず優しくて、世間知らずでとんちんかんなアリツェの話に根気強く付き合ってくれて、それから、時折、触れるだけの優しい口づけをしてくれる。
雪が降り始めた。
アリツェはさまよい出るように自分の寝室を出て温室に向かった。
それでも、それでも、ハヴェルに会いたかった。
ハヴェルもそう思ってくれていると信じたかった。
空が雪雲に覆われている今日はさすがに温室の中も多少冷える。庭師たちが――ハヴェルが寒い思いをしていないといい。
階段をおり、サロンの扉を開ける。温室に通じるドアのほうを見る。
次の時、アリツェは目を大きく見開いた。
温室のほうからサロンに、人がばらばらと出てきた。
庭師たちではなかった。他の使用人たちでもなかった。
アリツェの目には、彼らが兵士であるように見えた。揃いの赤い制服を着て、胸に徽章をつけ、頭に黒い帽子をかぶり、腰にサーベルを帯びている。
驚きと恐怖で何歩か下がった。そのうち壁に背中を打ちつけた。
男たちの間から、背の高い青年が出てきた。
いつもの野良着のような作業着の上に高価そうなマントを羽織っているのは、ハヴェルだった。
彼はいつになく険しい顔をしていたが、声は落ち着いていた。
「彼女がブラフタ子爵の娘のアリツェ嬢だ」
兵士たちはハヴェルに敬礼した後、アリツェに向かって深く頭を下げた。
アリツェは心臓が爆発するのではないかと思うほどの緊張を覚えた。
いつもの恰好、いつもの髪形、見慣れた顔なのに、いつものハヴェルではない。
冷たい表情、それから、命令し慣れた者の口調だ。
硬直しているアリツェに気づいたらしい。ハヴェルがこちらを向いて苦笑した。その表情は優しく、今度こそアリツェの見慣れたハヴェルの表情だった。
「驚かせてしまいましたね」
声が震える。
「これは、どういうこと?」
ハヴェルは何も答えてくれなかった。
「今説明するのは早い。すべては事が為ってからにしましょう」
「ことがなってから? どう……?」
「これ以上子爵に迷惑をかけられません。僕はもといたところに戻ります」
密かに拳を握り締める。
自分の憶測が現実味を帯びてくる。
「王都に……帰るの……?」
その問いかけにも、ハヴェルは緩く首を横に振るだけで回答してくれなかった。
「必ず迎えに来ます」
アリツェを怖がらせないよう、ゆっくりした足取りで歩み寄ってくる。
手を伸ばす。
土いじりに慣れた、かさついて黒ずんだ手だった。
「……この手は、汚れすぎているので」
大きな手が、アリツェの顎をとらえた。
顔を上げさせられる。
唇と唇が触れる。
ほんのそれだけだった。
「絶対に、すべてを片づけてきますから。あなたのために」
それが最後だ。
「もう一度子爵に挨拶をする。行くぞ」
ハヴェルが言うと、兵士たちがまた敬礼した。
男たちがサロンを出ていく。
アリツェはその背中を呆然と見送るしかできなかった。
ややしてから、自分の唇に触れた。
これが最後の口づけだったのだろうか。
ハヴェルは迎えに来てくれると言った。信じよう。信じたい。
それでも不安が込み上げてきて、耐え切れなくなったアリツェは床に座り込んだ。
とにかく今確かに言えるのはひとつだけ――ハヴェルはもうあの温室にはいないということだ。
もう、温室では会えない。
信じるしかない。
今の自分にできることは、信じて待つことだけなのだ。
アリツェは領地の屋敷でただひたすらハヴェルを待ち続けた。
父にハヴェルは本当はいったいどこの誰なのか聞いてみたが、絶対に答えてくれなかった。
ヤーヒムも教えてくれなかった。というより、彼も正確なところはわかっていないようだった。ぶっきらぼうに「あいつは俺の弟子だった。だが辞めた。それで十分だ」と言った彼の様子は力強く、ともかく送り出したことは彼の正義に適うことだったのだというのだけは察した。
そうこうしているうちに冬は終わり、温室に花が咲き出した。ハヴェルが世話をしていた花だ。その美しい花々を彼と一緒に見られないのが悲しかった。
やがて夏が来た。南洋の草木が実をつけた。けれどそれをハヴェルが見ることはない。
秋が来る。秋の花が咲く。そして次の春の準備が始まる。それから冬、春、夏――
いつの間にか三年の月日が流れていた。
アリツェはただただ、待ち続けた。
王都の様子は父伝いで聞いていた。
最初の頃こそ兄王派と王弟派の泥沼の争いが血を血で争う内戦に発展したことを恐ろしく思い、また王都に帰ったであろうハヴェルが心配で胸が潰れそうだったが、やがて兄王が退位し、王弟が王位に就くと、国には少しずつ平和が戻ってきた。
まだときどき小競り合いがあるらしく、父はアリツェを王都に連れていきたがらない。けれど平和であればハヴェルが生きている可能性も上がる。
生きていてほしい。
どんな形でもいいから、この混乱の中を生き延びてほしい。
もしも彼が兄王派の人間だったら――
処刑台で首を刎ねられた人々の中に彼がいたら――
考えないようにしていた。
なるようになる。大丈夫だ。
万が一そうであれば自分は一生喪服を着て生きればいい。
父はアリツェを無理に結婚させようとはしなかった。建前上はまだ内乱の後始末が完全に終わったわけではないからというが、ひょっとしたら、彼はアリツェがハヴェルに想いを寄せていたのを知っていたのかもしれなかった。
アリツェに客が訪れたのは、三度目の冬が始まろうとしている頃のことだった。
侍女に玄関へ来るよう促され、アリツェは少し混乱した。自分を訪ねてくる客というのが思いつかなかったからだ。
「どなた?」
「いいから、こちらにおいでになって」
侍女が楽しそうに笑う。
「きっと驚かれますよ。それが私たちの楽しみなのです」
「どういうこと? ちょっと性格が悪いんじゃないかしら」
「早く、早く」
私室を出る。長い廊下の絨毯を踏み締める。玄関ホールの大階段にたどり着く。
玄関に立っていたのは数人の男性だった。
アリツェは目を丸くした。
彼らの着ている揃いの服に、見覚えがあった。
あの時、ハヴェルを連れに来た人々だ。
鼓動が高鳴る。
一歩ずつ、階段をおりていく。
兵士たちの間から、ひとりの青年が出てくる。
月光を紡いだような金の髪、日光を凝縮したような金の瞳、優しく穏やかな笑顔――金の肩章とボタンのついた赤い服はあの時の作業着ではなく高価で上品なものだが、見間違えようもない。
「アリツェ様――アリツェ」
三年間、落ち着いたこの声を待ちわびていた。
アリツェが玄関ホールで彼の目の前に立つと、彼は大仰にひざまずいて言った。
「挨拶が遅れてすみませんでした」
「あの、あなたは――」
「エドムント王長男、王太子ハヴェルと申します」
ハヴェルは、少しいたずらそうに目を細めて、にっこり笑った。
「伯父を倒して、三年。長かった。ずっとあなたにもう一度会いたかった」
立ち上がり、アリツェの手を取る。
その手は厚く硬く、剪定ばさみや鎌ではなく剣を握り続けてきたことを連想させられた。
「絶対に迎えに来ると言った」
信じてずっと、待っていた。
「今度は、あなたを王都に連れて帰るからね。そして城の庭に温室をつくろう、あなたのために」
アリツェは興奮を抑えて頷いた。
<終わり>