変わり始める夏【2】
固まる蓮の傍まで急ぎ足で向かい、腕の中の狐に向けられる視線をいったん無視して蓮が枕にしていた座布団の上に乗せる。
相変わらずぐったりしていた子狐は上から流れてくる風鈴の涼しい風を浴びてゆっくりと目を開いた。
そのままじっと風を浴びだしたその子を見て、ようやく蓮がぎこちなく動き出す。
「……おい、こいつは」
「町からの帰り道でぐったりしてて。最初は犬かと思ったんだけど近づいてみれば狐だししっぽは二本あるしで。この子ってもしかしなくても妖怪だよね」
「ああ。すまない、こいつに水をやってもらえるか」
「うん、急いで準備してくる」
蓮がそっと伸ばした手、その指先が狐に触れ、彼がぐっと唇を噛みしめる。
一瞬の間の後に小さく動いた唇は、私の見間違えでなければ“おかえり”と言っていたようだった。
蓮が見ている間に急いで店の水瓶から水を汲みその子の前に置く。
水を飲みだしたその子はもうしっかりと自分の足で立ち上がっていた。
「ぐったりしていたみたいだけど、大丈夫?」
「復活したばかりでまだ身動きが取れないところを暑さにやられたんだろう。俺たちは丈夫だからすぐに元気にはなるはずだ。念のために妖怪を診る医者に見せる必要はあるだろうが……敵意もない、完全に悪意も手放しているようだな」
「そっか、良かった」
良かったねえ、と声をかけながら狐の頭を撫でると、柴犬の子犬にも見えるその子はじっと私を見た後にぐりぐりと頭を手に押し付けてきた。
もっと撫でてくれと言わんばかりのその仕草に自然に笑みがこぼれる。
「そういえばこの子も蓮みたいに人型になるの?」
「いや、俺のような人型になるやつは子供の頃から人型だ。そいつは成長しても尻尾が多いだけの狐だな。通常の狐よりも頭はいいし妖怪特有の力もあるが」
「へえ、そうなんだ」
「本当に気にしないな、お前は」
通りかかったのが私でよかったのかもしれない。
この世界の人々の性格を考えると最終的には弱ったこの子を見捨てるという選択肢は取らないだろうが、それでも道端に倒れる妖怪を何の躊躇もなく助けられるかといえば難しいだろう。
私が危険でないか慎重になった以上に彼らは警戒してしまうだろうから。
ぐったりした様子をもう感じさせないその子は涼しい風の下でトコトコと歩きだしたので、本当に大丈夫そうだと胸をなでおろす。
家の中が珍しいのかきょろきょろと離れの中を探検し始めたのを、蓮と二人で縁側に座った状態でしばし見つめた。
尻尾が二本あることを除けば普通の子狐にしか見えない。
「妖怪復活、だね」
「まだ兆しでしかないがな。おそらく力のある妖怪はまだ無理だろう。元々力のなかった子供がようやく一人、といったところか」
「え、じゃあこれからこういう小さな子が親もいない状況でどんどん一人で復活してくるの?」
「どうだろうな、もしかしたらこれを皮切りに一気に色々な種族が復活するかもしれんし、もう復活しているかもしれん。色々と話し合いながら調査する必要があるな」
冷静に分析しつつも蓮の口元は弧を描いたまま、視線も子狐から離れない。
ずっと彼が願ってきた妖怪の復活の兆しが今、彼の目の前にある。
部屋中の探検を終えた子狐はいつの間にか縁側に戻ってきて私の隣に横になった。
その頭を撫でていると、蓮が静かに立ち上がって口を開く。
「悪いがそいつを見ていてくれ。城に行って報告してくる。妖怪関連は柊がまとめる立場だから、あいつと一緒に戻ってくることになると思うが」
「つまりいつも通りの顔が揃う、と」
「そうなるな。あいつを連れて戻るまでそいつはそのまま寝かせておいてくれ。すぐに戻るから」
「わかった。二人が来るまで見ておくよ」
言うが早いが立ち上がった蓮が大きく跳躍して、家の屋根へ飛び乗って姿を消した。
あんな風に簡単に屋根と屋根との間を跳んで移動できたらさぞ気持ちがいいだろう。
とはいえ帰りは柊を連れてくるわけだし、屋根を跳んで戻ってくるのは無理だろうから少し時間はかかりそうだ。
そう思いつつも子狐を見ていたのだが、通常かかるであろう半分程度の時間が経過したあたりで蓮は両脇に一人ずつ人間を抱えて屋根から飛び降りてきた。
「……おかえり」
「ああ、柊とそいつを診られるやつを連れてきた」
相当急いだのか顔色の悪い柊は地面に下ろされたと同時にふらつきながらも立ち上がったが、もう一人の方……以前お店に柊とともに来た彼の部下である男性は降ろされたまま地面に膝をついている。
走る蓮に抱えられて屋根を飛び移ってきたのならばジェットコースターよりも揺れただろう、気の毒に。
柊の額に青筋が浮かんでいるのは気のせいではなさそうだ。
「大丈夫ですか?」
「な、なんとか」
頭を押さえながら顔を上げた男性とお久しぶりですと挨拶を交わしている間、柊と蓮の視線は私の膝の上で丸くなっている狐へと向けられていた。
子狐は一度起きた際に私の膝の上へと移動してまた眠ってしまい、今もまだ目を覚まさないままだ。
「本当に、妖怪が……」
「すみません、少々診せてくださいね」
じっと二本の尾を見つめる柊と、そっと狐を私の膝から持ち上げて様子を見始める男性。
持ち上げられた衝撃で狐は目を覚ましたが、特に抵抗することもなくじっとしている。
この人、妖怪のお医者さんだったのか。
「健康状態に問題はなさそうですね。復活したばかりで暑さにやられたのでしょう。水分も自分で取ることができていますし、元々獣型の妖怪はとても丈夫ですので、こうして涼しい場所にいれば問題ないかと思います」
しばらく色々とチェックされた後に畳に下ろされた狐はすぐに私の元へ戻ってきて、ふう、とまるでため息のように息を吐きだす。
そのまま私の横に座り毛づくろいを始める様子を見て、どうやら本当に大丈夫そうだと安堵した。
「ずいぶん懐かれていますね」
「そうですね、嬉しいです」
自然にそう言葉が出て、狐の子をゆっくりと撫でる。
元の世界では家族のこともあり、身軽でいるために動物と暮らすことはできなかった。
この子は妖怪だが私には可愛い動物にしか見えない。
何なら触り心地のいい立派でふさふさの尻尾が二本あって、ちょっとお得に感じるくらいだ。
狐本人も嫌がらずにすり寄ってくるし蓮も私を止めないので、この接し方は間違っていないはず。
私が狐を撫でまわす様子を見ていた男性三人は、少し無言になった後に懐かしそうに目を細めた。
「こういう、感じでしたね。昔は」
「……そうだな」
「食べ物を売る店の前に子供の妖怪と動物が混ざってやって来ては分け前をもらって、こうして撫でまわされていましたね。当たり前の風景でしたが……懐かしいですね」
妖怪と人間の戦争前にあった日常の光景を彼らは思いだしているのだろう。
懐かしそうで、そして少し寂しそうでもある。
「なんにせよ、他に妖怪たちが復活していないか調べる必要がありますね」
「私は獣型専門ですので人型の妖怪たちを診ることができる医師にも声をかけて、医療器具もしっかり準備しておきます」
「ええ、お願いします。同じ狐ですし、この子はしばらく蓮の預かりということでいいですか? 妖怪たちの保護や生活の基盤を整えるための場所の整備も急いで終わらせますので」
「ああ、かまわない」
蓮の監視が取れてからしばらく経ったが、こうして簡単に蓮預かりになる辺り、国と蓮の関係は良好になってきていると考えていいようだ。
彼らの会話を聞きながらそんなことを考えていると、柊が少し気まずそうに私の方に視線を向けた。
「すみません、紫苑。あなたにもご迷惑をおかけしますが、お願いしてもよろしいでしょうか」
「え……ああ、そうだね。蓮はもう最近家に住み込み状態だもんね。その子も預かるってことなら全然かまわないよ。そもそも拾ってきたのは私だし、蓮より幅も取らないし。何より可愛いからね」
「俺だって可愛げくらいあるぞ」
「……遠くから細目で耳としっぽだけ見ればまあ……ある、かな? 本体には可愛げの欠片もないけど」
「それに関しては心底同意いたしますが……この子狐に関しては申し訳ありませんが、お言葉に甘えてしばらくの間お願いします。もちろん掛かる費用などは負担いたしますので」
「うん、大丈夫。蓮が戦場に行っている間の面倒も見るよ」
「悪いな、助かる」
復活した妖怪を預かるという結構重要な頼みさらりと受けてしまったが、信用を得ているということでいいだろう。
元々蓮が泊まり込んでいるということもあるが、私が妖怪に対して一切抵抗を示していないことも柊がこの子を頼む理由の一つのはずだ。
城の人々も知らせは受けただろうが、それでも妖怪に対して一切抵抗がないとは言えない。
最近は緩和してきたとはいえ、蓮ですら嫌がっていた何とも言えない視線の中に小さな狐が一匹で入れられてしまうのはかわいそうだ。
よろしくねと子狐に声をかけると、くいっと首を傾げられる。
うん、かわいい。
「一応面倒を見るための注意事項とかがあれば教えてほしいのだけど」
「ではそれは私の方からご説明いたします」
部下の方からそう提案していただいたので、ありがたく狐を預かるための注意事項を教えてもらう。
全員にお茶を出してから色々と説明を聞いている間に、子狐は中庭を駆け回って遊びだし始めた。
中庭は池も大きな木もあるし、離れ、店、そして家からも風鈴の風が吹いてくるのでこの子が倒れていた森の中よりもずっと涼しい。
涼んで水も飲んで回復したので子供ゆえの好奇心が出たのか、とても楽しそうだ。
普通の動物ならあんなにぐったりしていたのにすぐに遊びまわるなんて難しいだろうし、やはり妖怪というのは丈夫なのだろう。
……その割に今の蓮は暑さに参っているけれど、封印される前はどうしていたんだろうか。
その蓮は柊と共に中庭に出て、狐の様子を眺めつつ何やら話し合っている。
離れの中で話を聞く私からは二人の背中しか見えないが、私が説明をあらかた聞き終えても二人の視線は庭を遊びまわる狐から離れていなかった。
「不思議な気分ですね。妖怪たちの復活を目指してはいたものの、こうして実際に目の前で動いているのを見るのは」
私と話していた男性がぽつりとつぶやく。
柊と蓮は何やら真剣に話しているようで、少し離れていることもあってこちらの会話は聞いていないようだ。
「やはり抵抗が?」
「抵抗、とは少し違いますね。あの小さな子に恐怖など覚えはしませんし……ただ、あまり実感もわきません」
「まあ、しっぽが一本多いだけの子狐ですしね」
「……そう、ですね」
少し苦笑しながらの返答に、やはり私と彼らの感覚は違うのだと実感する。
むしろ戦争相手に対して、と考えれば相当優しい考え方なのかもしれない。
「ですが皆で目指してきた未来への第一歩です。色々とやらなければならないことは増えますが、精一杯やらせていただきますよ……柊一郎様ももう無理はなさらないでしょうし」
おかしそうに笑う男性の視線の先では、足元を走り回りながらじゃれついてくる狐に戸惑っている柊がいる。
蓮も自身の尻尾に飛びつかれて慌てているので、あの二人の周辺だけ騒がしい。
……一応蓮は妖怪の長ではなかっただろうか。
子狐ゆえの無邪気さが爆発しているだけなのか、妖怪たちが元々そこまでかしこまった関係ではないのか。
蓮本人は気にしていなさそうなので後者の可能性の方が高そうだ。
二人とも慌ててはいるものの口元は緩く弧を描いており、なんだか楽しそうにも見える。
「柊一郎様は最近とても穏やかで楽しそうにしております。あの方が頻繁に夜に出かけているので最初は何事かと思いましたが、あなた方と過ごす時間は柊一郎様にとって居心地のいい時間のようで。戦争中の鬼気迫っていた時よりもずっと柔らかくなったとはいえ、常に仕事ばかりだったあの方が仕事以外に楽しいことを見つけたこと、城の皆も喜んでおります」
ありがとうございます、と男性が嬉しそうに笑った。
鬼気迫っていた柊を変えたのは、きっと楓さんなんだろう。
そこからさらに柊の人生に余裕を持たせることができたのだとしたら、それはとても嬉しいことに思えた。
「私の方こそ、たくさん助けていただいていますから。採取の護衛も店の経営でわからないことがあった時も頼らせていただいていますし」
「その採取の護衛も、柊一郎様にはいい気分転換になっていますので」
もっと引っ張り出してくださいと笑った男性に、では遠慮なくと返して二人で笑う。
妖怪復活が発覚してすぐとは思えないほどの穏やかな時間。
目の前で微笑む男性も、今まで関わってきた町の人たちの様子も。
妖怪がこれからどんどん復活したとしても、きっと大丈夫だろうと思わせてくれる。
優しいこの世界で優しい人たちに囲まれて、私も誰かに優しくなれたらいい。
そんな風に思いながら、室内に走りこんできた子狐の頭を撫でた。




