序章 生きる世界が変わった日
「いやよ、お断り」
カーテンの閉められた部屋の中、出した声がどんどん冷たくなってくるのが自分でもわかる。
イヤホンから聞こえるのは大嫌いな相手の声なのだから、自分が不機嫌になるのはもうどうしようもないだろう。
『母親の言う事が聞けないと言うの?』
「母親? あなたの子供は二人だけでしょう?」
『誰が育ててやったと思っているの?』
「私が家を出る時に今までかかった金を返せと言って、私の貯めたバイト代を搾り取っていったのはどこのどなただったかしら? もうこれで勘弁してやるからこの家に関わるな、と言って来たのも、親子関係の解消を言い出したのもあなたたちよ」
ああ、本当に嫌になってしまう。
……私の生まれた家は大昔から続く由緒ある家柄の分家だ。
そこに生まれた私は本当は生むつもりのない子供だったらしく、完全に邪魔者として育てられた。
後継ぎである兄と幼い頃から優秀だったという姉だけを可愛がっていた母がこの電話の相手だ。
放置だけならここまで憎まなかっただろうが、高校を卒業した時点でお前に掛ける金は無い、とバイトで貯めたお金すら奪われて家を追い出された身としてはもう関わるのはごめんだった。
もしも外面を気にしない人達ならば義務教育が終わった時点で放り出されていただろう。
寮のある職場に勤めてお金を貯め、幸いその後に個人で開いたネットショップが何とか軌道に乗ったためあまり人と関わらずに生きて来られたのに。
誰かと関わればまた何か利用されかねないとわかっていたからこそ友人一人作らず一人きりで生きてきたのに、結局この人たちはまた私の人生に関わってこようとしている。
『紫苑、あなたねえ……』
「あなたに名前を呼ばれる筋合いはございません。二度とかけて来ないで下さい」
『いい加減にしてちょうだい。二十代の後半に差し掛かろうというのに結婚もしていないらしいあなたには良いお見合いじゃないの。あなたの今の写真を見て一目惚れしたそうよ』
大きくため息を吐いて、椅子の背もたれに寄り掛かる。
ゲームをするために買ったこの椅子は首まで支えられる大きさの上に座り心地も良く、いつも通り私が体重を掛けて寄り掛かっても安定感がある。
一番リラックスできる姿勢のはずなのに、机の隅に置いてある鏡にはしかめた私の顔が映っていた。
ストレートに伸ばした黒髪は腰まであるが、先ほどまでゲームをしていたので邪魔にならないように一つにまとめてある。
髪と同じ黒い瞳、垂れ目がちの右目の下にある泣き黒子。
以前の職場の人から妙に色気を感じる顔つきだと言われた事もあり、自分の顔がそれなりに整っている事は自覚している。
でもそれは自分磨きを好きになって、必死に努力してきた結果だ。
家族から否定され続けた日々で自分に自信が持てなくなった私をを変えてくれたのは一冊の漫画との出会いで、私が漫画やゲームを好きになったきっかけでもある。
初めて好きになった相手は漫画のキャラクターで、私の考え方を前向きに変えてくれたキャラだった。
二次元だろうが何だろうが、紙面上の彼と出会ったからこそ今の私がいる。
家庭環境の影響で感情なんてもう動かないだろうと思っていたのに、何となく手に取った漫画の中の彼に一瞬で恋をしたあの日。
あの日が私が今の私として生き始めた日だった。
私が自分磨きを始めたのは彼の影響だし、綺麗になりたいと思ったのも彼のためで。
だから今の私の写真をどうして手に入れたのかは知らないが、そんな男に好かれるために手入れをしているわけではないのだ。
もちろん、大嫌いな実家の利益になるだけの結婚のためでもない。
「今の時代、二十代で結婚しない人がいるのはもう当たり前のことなのだけれど。それに働いた事すらない上に自分の倍以上生きている相手が良いお見合い相手だなんて、ずいぶんとふざけたことを言うのね。あなたたちと関わってたら結婚なんて地獄の始まりだって思う様になるのも当たり前だって理解して欲しいわ。本当に私をただの道具としか見ていないのが丸わかり。私もあなたに肉親の情なんて無いから別に構わないけれど、道具だとしても意志を持ってる以上は大切に扱ってくれない相手のために何かをするわけもないことくらいはわかるでしょう?」
電話越しにぎりぎりと歯を食いしばる音が聞こえてくる。
これがお世話になった家族のためだったり、相手が年齢差はあれどいい人ならば私だって考える。
けれど私を捨てた親からの頼みの上に、自分の祖父のような年齢で問題ありの男性との結婚。
要は私の生まれた家が本家と繋がるための政略結婚だ。
家を憎んでいる私が受け入れる訳も無い。
『……っ、あなたが何と言おうとも、これは本家の決定です!』
「昔からあなたはそれしか言わないのね。見合いには行かないわ。どうやって私の連絡先を知ったのかは知らないけれど、二度とかけて来ないで」
歴史ある家系を馬鹿にするつもりはもちろん無い、しっかりとした家の方が多いのもわかっている。
私が馬鹿らしいと思うのは自分の生家だけだ。
向こうで声が上がりかけたのを聞きながらすぐに通話ボタンを押して電話を切る。
付き合っていられない、すぐに着信拒否の操作をしておく。
「それにしても、本家か」
権力持ちとは厄介だ、どうせ今の私の写真もそういう力で手に入れたものだろう。
家を出てから買った新しいスマホの番号すら知られている以上、たとえすぐに引っ越した所で居場所は知られてしまうはず。
どうしたものか、と思いつつも不愉快さが満ちる心では良い案は思いつかない。
せっかく出会いの季節の春だと言うのに、私へ訪れる出会いはこれか。
今回の見合いに関しては是非とも別れの季節の方でお願いしたいところだけれど。
ゆっくりと椅子の背もたれに寄り掛かる。
「……少し落ち着かなくちゃね」
目の前のパソコンには先ほどまでプレイしていたオンラインゲームが表示されている。
まずは気分転換、すっきりしたら対策を考えよう。
ゲーマーで漫画好き、そんな私が気分を一新するためにはゲームに熱中してしまうに限る。
実家のある場所を考えれば、こんな夜遅くに行動して来ることはあり得ない。
画面にはゲーム内で自分が作成したお店が表示されている。
畳、土間、かまど、障子……和風の建物の自分好みで作られた雑貨店。
外装か内装でも変更しようか、それとも商品を作るための素材集めに行こうか。
ゲーム内の自分に似せてキャラメイクした操作キャラクターにカーソルを合わせれば、紫苑、と名前が表示される。
本名をそのまま使用した、外見もほとんど自身と同じキャラクター。
鏡に映った自分とそっくりなキャラクターが、私の操作で目的の場所へと歩きだす。
今やっているオンラインゲームはよくあるタイプのもので、和風の世界観の中で素材を集め、道具や武器などを作るものだ。
ただし、このゲームの売りはお店経営。
依頼を受けたりキャラクターが欲する物を作成し、自分でカスタマイズしたお店で売るのが中心のゲームだ。
このゲーム、元々は乙女ゲームのおまけ要素だった。
乙女ゲーム自体の内容は和風の世界観の中で別の世界から召喚された女の子が恋をして様々な障害を乗り越えるもので、攻略キャラクターに協力しつつ妖怪たちの親玉を倒すというストーリーだったのだが。
元々妖怪たちは優しい種族で人間と共存しており、ある日発掘された石の力で暴走し人を襲う様になったというのが真相で、主人公たちは妖怪たちごとその石を封印することに成功してエンディングを迎える事になる。
その作中のミニゲームとして主人公が道具屋を手伝うゲームが付いており、その要素が楽しすぎてストーリーそっちのけでミニゲームにハマる人が出てくるほど人気になった。
あまりの人気っぷりに売れると判断したのか、その乙女ゲームの製作会社はオンライン版としてお店経営のゲームを出したのだ。
オンライン版の時間軸は本編終了後、親玉はエンディングで倒されたことで力を失い妖怪から人間になり、妖怪たちは封印。
ただしその封印された妖怪たちの悪意がそれぞれの妖怪の影の形を取って悪さをしており、その漏れ出してきた悪意の影を倒すと勾玉を落とす。
そうして勾玉にする事で妖怪たちに植え付けられた悪意が抜けていき、最終的に以前の優しい妖怪たちが復活することになるらしい。
他に集めた素材を組み合わせ、そこにその勾玉を使って様々な効果を持った道具を制作して売る、というゲームだ。
買いに来るお客さん達は攻略キャラクターたちで、依頼を出すことでキャラクターたちが勾玉を取って来てくれる。
恋愛要素は無いが、キャラクターが魅力的な人達だったことや和風の世界観が美しかったこともあり、相当人気のゲームになった。
乙女ゲームのファンだった私ももちろんキャラクターを作り相当長くやりこみ続けたのだが、発売から年月が経ったこともあって最近ではプレイ人数が減ってしまっている。
私はいまだにこのゲームが大好きなので続けているが、いつ制作会社が配信をやめてしまうのかヒヤヒヤしているところだった。
長年やりこんだおかげで私のキャラクターは高レベル、道具はすべて最高品質である特級の物を作れるように高レベルの作業場を解放してあるので遊ぶのが楽しい。
「誰に依頼出そうかな……あ、いや、まずは商品整理しないと」
プレイヤーがゲーム本編の主人公ではないので恋愛要素は無いが、ちょっとした会話イベント等ならば起きる。
すでにいくつかは見たが、どうせならば新しい会話が見たいかもしれない。
「イベント終わったばっかりで道具はぐちゃぐちゃだし、今ある商品を整理しなくちゃ」
商品棚に並ぶアイテムを一度すべて片付け、新しく並べ直そうとした時だった。
ピコン、とパソコンの横に置いたスマホから通知音が響く。
ちらりと見てみれば漫画の最新話が更新されたという通知で、慌てて時計に目を向けるともう日付は変わっっていた。
「そうだ、今日が最新話の配信日だった!」
急いでまたゲームを一時中断し、スマホを手に取る。
いつも読んでいる電子書籍サイトを開きながら、先ほどまで心の内を占めていた不快感が吹き飛んでいくのを感じた。
ハマっているゲームはもちろん今プレイ中のものだし、当時の最推しキャラを筆頭に推しキャラも数人いて、今も大好きではある。
しかしこのゲーム限定でなければ、一番好きなのはこの漫画の中のキャラクターの一人だった。
私を変えてくれたきっかけの漫画は、嬉しい事に今も連載が続いている。
「藤也さん、どうなったかな」
藤也さんは主人公の兄にあたり、私の最推しキャラでもある素敵な男性キャラクターだ。
戦いの要素が強い漫画で、初めは無力と思われていたのに主人公のピンチに早々に現れて助けてくれる強キャラクター。
いつも穏やかに微笑んで、けれど自分というものに一本筋を通している彼のことが私は大好きだった。
胸の鼓動がいろいろな意味で高鳴るのを感じながらスマホを操作して電子書籍のページを捲ろうとしたのだが、視界の端でパソコンの画面が一瞬点滅しすぐに真っ青な画面へと変わったのに気が付いて、急いで視線をそちらに向ける。
「……は、え、嘘っ?」
ブルースクリーン?
慌ててスマホから目を離して顔を画面に近づけた瞬間、私の意識は真っ暗な闇へと落ちていった。