セカンドミッション:光を消すな
「ドッグランでも、四六時中駆けなきゃだめとか、聞いてねえ……」
初出勤翌日、体中の筋肉が悲鳴をあげた。いかに鈍っていたか思い知ったわけだが、不思議と休もうという気は起きなかった。
公園でまた妹に会って、根掘り葉掘り聞きたいと思ったからか。それとも、犬たちが可愛いと思ったからか。実家の犬を彷彿とさせる彼らは、一週間ですっかりなついてくれた。
四頭連れだって公園に行くたび、妹とコーチに遭遇した。妹はなんとも幸せそうで、まだまだ腹がたるんでいると冷やかしてくるは、走り方がトロいとからかってくるは、絶好調だった。
くたくたになって屋敷へ帰れば、今度はドッグランで障害物競走。併走してやらないと、ルイが怒る。意外に甘えん坊らしい。
「通うの、大変ではないですか?」
次の週の始め、黒服の老執事が聞いてきた。
「いや全然。業務はハードで体ガタガタですけど、通勤は問題なしです」
「住み込みなら、備え付けのジェットバスで疲れを癒やしていただけるのですが」
「ありがたいですが、まだしばらくは家から通います」
「そうですか。まあ、いつでも引っ越して来て下さいね。奥様も会いたがっておられますので」
そういえばまだ、屋敷の主に会っていない。
執事曰く、朝早くに仕事に出て、夜遅くに戻ってくるそうで、まったく接点を持てないでいる。
住み込めば姿を拝めるが……まだまだ、居心地良い自分の城をいったん解体する勇気は無かった。
タワーから中身を出して荷造りしたら、もういいやと二度と段ボールから出さないような気がするのだ。フィギュアのケースは棚に飾るかもしれないが……
最近は家に戻ると、風呂に直行。上がれば布団の上にバタンキューで、ネットから遠ざかっている。
「わおん!」
「お? どうしたアンリ」
勤務十日目。ぼうっと引っ越しのことを考えながら公園を走っていたら、アンリが突然止まった。後ろをふり向いて、何度も吠える。リサもくんくん、変な声を出し始めた。
背後に何が?
見れば、いつもイケメンコーチと颯爽と走ってくる妹が、一人でとぼとぼ、うなだれて歩いてきた。運動着ではなく、シャツにスカートの普段着。明らかに様子が変だ。
しきりに目をこすっている。いや……
「涙? 泣いてる? なんで?」
「ロリおじ……」
妹はそばに来るや、ぎりっと睨みつけてきた。妹の目は泣き腫らして真っ赤だった。
「フウタが、やばいの」
「えっ……」
フウタ。実家の犬だ。アンリたちと同じ、ゴールデンレトリーバー。老犬で、そういえば先々週……
「具合、悪かったんだっけか」
「また元気になってたの。でも今朝突然倒れて、母さんが病院に連れて行ったわ。おニイには、何度も電話したのに。何度もライン打ったのに。
「あ……充電切らしてた。すまん」
友人なんてほとんどいないから、スマフォはほとんど死に体だ。仕事用で渡されたものも、執事がまめに声をかけてくれるので、使った試しがない。
「だからここに来たら会えるだろうって思って」
「ごめん。これから気をつける」
心から謝ったけれど、妹の怒り顔は和らがなかった。
「コーチは、たぶんもうだめだから、安楽死させた方がいいって言うの」
「えっ……」
「あたし頭にきちゃって、今日は学校もトレーニングも休んじゃった」
「それどころじゃ、ないよな」
「ねえ、まだ大丈夫だよね。フウタもっと、生きてくれるよね。ねえ、会いにきてよおニイ。フウタに会って。おニイの顔見たらきっと……」
「分かった」
病院に居るのなら、両親と顔を合わせなくて済む。
執事に今日は早退したいと相談したら、快く承知してくれた。門のところで待っていた妹と一緒に、電車に乗ってそのまま病院へ。実家の犬は点滴を繋がれて、入院室の檻の中にいた。
ぐったり目を閉じ、少しも動かない。呼吸が異様に速く、痩せた腹が激しく上下している。
「フウタ……」
声をかけると、うっすら目を開いてくれた。ゆっくり、くすんだ毛色の頭を撫でたら、かすかにくうんと返事が返ってきた。
「しっかりしろ、フウタ」
フウタは、妹が幼稚園児のころ家に来た。再婚した父親が、母となった人の連れ子に買ってやった、一番最初の贈り物だった。そのころの自分といえば、成人式を迎えたばかり。論文を書くことに没入していて、親の再婚も新しくできた妹にも、まったく無関心だった。
『フウタと、さんぽにいこうよ』
執筆に行き詰まって辞書をぶん投げたとき。妹は、そうっと部屋に顔を見せて、誘ってくれた。
『きぶんてんかん。きっとたのしいよ』
かわいらしい笑顔。まだ幼稚園児だったのに、あの時からすでに妹は兄のことを気にかけて、何かと世話を焼こうとしてくれた。
あの時からずっと、妹と犬の散歩をするのが日課になった。
公園に着いたら、犬と妹と一緒に思い切り、駆ける。芝生の上を端から端まで。
走る。走る。走る――
かくて妹は足が速くなり、兄は勉学のストレスをうまく解消できた。
犬のおかげで妹は今、輝かしい道を歩いている。その道を昏くするわけにはいかない。
「フウタ、頼む」
撫でながら、必死に願った。
「もう少しだけ、チハルのそばにいてくれ。どうか、守ってやってくれ。今まで通り、俺の代わりに……俺が家を出るとき、約束したろ? 後は頼んだって」
もういいだろ。あんたが守れよ。
そう言いたげな犬の頭を、しきりに撫でた。
「他力本願でごめんな。でももう少し……ほんと頼む」
願うことしか出来ないのか。何か出来ないのか。何か……
医者に聞けば、老衰ゆえに手の施しようがないという。
命の理。これは、どうしても受け入れなければならないのか。
「嫌だ」
深呼吸して、スマホを取り出した。
だめだ。妹を悲しませるなんて。それだけは。
犬の名前を呼んで泣きじゃくる妹を見て、覚悟を決めた。
スマホのアドレス帳を開く。友達は居ないが、官僚時代の知り合いはたくさんいる。当時、首切りに同情してくれた人も多かった。
その中にたしか……
震える指で、電話をかけるボタンをタップした。
「…………ミョウドウさん? 俺です。クジョウ……」
夏の日差しが公園の遊歩道をカッと照らしている。
蝉の音がうるさい。木々に群れているのだろう。
「この気温でも、やっぱ三周?」
お屋敷に戻って、居間でオリンピック見ようぜ。
アンリにそれとなく言ってみたが、却下された。四頭のゴールデンレトリーバーは、舌を出して熱気を逃しつつも元気いっぱいだ。
「ぐええええ! おまえら鬼―!」
ぐいぐい引っ張られて、無理くり全力疾走させられた。
素人トレーナーのおかげで、もはや犬たちは立派に躾けられているとはいえない奔放さを持ち始めている。しかして言うことはそれなりに聞いてくれるし、甘えてくるしで、可愛いことこの上ない。
犬たちのおかげで、たるんだお腹はきりっと引き締まった。まるで二十代の若者のごとき体型に戻ったのは嬉しいが、この運動量。ちょっと時給を上げて欲しい気もする。
「ど、ドッグランでは、水遊びしような。走るのは今日は中止な」
肩で息をしながら汗を拭い、四頭並べて公園を出ようとすると。
黒サングラスに黒いスーツの男がすうっと、ベンチに座るのが見えた。
引き寄せられるようにそこに近づけば。男はスマホをいじりながら囁いてきた。
「妹さん、大活躍だね。晴れの舞台でさっそく銅メダルを取って。今日の種目もいけるんじゃないか?」
「おかげさまで……」
実家の犬は、電話した直後現れた黒スーツの男に回収され、翌日実家に戻された。
数年若返ったかのような劇的な回復ぶりで、奇跡が起きたと妹は大喜び。雇ったコーチとは別れ、地道に大学の監督と高地訓練へいくなどして、本番を迎えた。
「若返り。本当は、解雇された君に施されるはずの、〈補償〉だったんだが」
「解雇だから退職金は出せない。でも色々補償する。三年前、〈補償〉リストを貰いましたけど、半信半疑でした」
「受け取る気になってくれてよかった。しかしこれは、特例措置になったのでね」
「分かってます。特例の代償は?」
「前に、再就職先を斡旋しただろう? そこに入ってくれ」
「……」
大丈夫。君ならすぐにあそこの所長になれるさと、黒スーツの男は口元をほころばせた。
「君が今勤めている屋敷にあるよりも、さらに広大なドッグランがある。つまり犬や猫がたくさんいる。他にも、見たことのないようなものが、わんさかいるよ」
「理系の博士号は持ってないんですけど」
「愛があれば、十分さ」
今一番枯渇している物でねと、男は嘆息した。
「神獣兵器の開発は、我が国家の急務だ。どうにも大陸が不穏すぎてね。では、来月一日から現地に飛んでくれ。よろしく」
蝉の声が一瞬止まる。
そのことに気づいたとたん、黒スーツの男はベンチから煙のように消え去っていた。
わおんとひと声、アンリが吠えた。
「……おまえらと、離れたくないなぁ」
住み込みしようと、ついに決めたところだったのに。
執事に頼んで、屋敷の主人と会う時間を作って貰おう。きちんと挨拶はしていきたい。
メダルを下げて、輝かしい笑顔で帰国する妹にも、会えなくなる。
たぶん、この世から存在を抹消される処理が成されるだろうから。
でも妹のそばには、フウタが居てくれる。ずっと、妹が老婆になって亡くなるまで。おそらくそれ以降も、犬は生き続けるだろう。
「フウタが居てくれれば、安心だ」
ついに本棚タワーを解体する時が来た。マンガはたぶん、段ボールの山から出されることはないだろう。フィギュアのケースは、デスクにひとつぐらい、並べておくかもしれないが。
ずいぶん集めたものだ。
すらりとした手足の、妹にそっくりのアイドル人形たち。
職員に馬鹿にされたらただ一言、引き締まった筋肉モリモリの胸を張って、こう答えるのみである。
美少女が好きで、何が悪い!