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ファーストミッション:犬と疾走せよ

 住み込まなくてよい、ということだったので、履歴書を書いて応募した。

 安アパート住まいだが、それなりに、自分の城を作り上げていたからだ――


 天井ぴったりに嵌め込んだ本棚は、壁紙が剥がれかけたワンルームをぐるりと囲んでおり、中にはぎっしりマンガが詰まっている。

 窓を背にした棚がメインタワーだ。上段にずらりと収めているのは、魔法少女シリーズのフィギュアコレクションを収めた透明ケース。ネットでかなりの高額で競り落としたものもある。中段に嵌め込むように設置しているパソコンスペースが、なんとも収まりよくて、昼夜問わず大体そこに座っている。ネトゲをして寝落ちするというのが、ここ数年の日課だった。


「おはよ、ロリおじ!」


 やって来るのは、年の離れた妹だけだ。両親とは家を出て以来会っていない。

 今年大学生になった妹は、中高のころから陸上競技で名を馳せていて、ついに五輪選手に選ばれた。すでに大企業が数社、スポンサーとして名乗りを上げてきているし、芸能事務所からも誘いがあるらしい。 日々トレーニングで忙しいのだが、三日に一度、タッパにごそっとお惣菜を詰めこんで供給しに来てくれる。だからありがたいことに、自炊はあんまりしていなかった。

 

「おじさん言うな」

「いやそこは、ロリコンて言うなでしょ」

「美少女が好きで何が悪い。前田利家なんか、十一才のまつを娶って、その翌年にはもう子どもをもうけたんだぞ。それに比べりゃ、俺は清く正しいロム専の魔法使いだから、まったくもって無害!」


 ロム専とは、ネットの掲示板を読むけれど、書き込まない人のこと。

 魔法使いは、某巨大掲示板で広まった伝説が起源で、三十歳を過ぎても女性を知らない人のことを指す。合コンの場を凍らせることを言ってしまったのを、いてつく波動を放ったとか、キモいと言われて言い返したのを、マホカンタしてきたとか。あまりにも有名なゲームの呪文名を使って書き込む人がいたのが、始まりであるらしい。

 オタク感満載で、はい論破とメガネを指で押し上げ、胸を張れば。妹は真顔で、重いため息を吐いた。

 

「そりゃ、おニイはたしかに、未婚どころかまだ一度も、彼女作ったことない人だけどさ。もう十分、穴蔵生活満喫したんじゃないの? そろそろ再就職しなよ」

「そんなこと言われてもなぁ」


 目が泳ぐ。無精ヒゲを生やした顔をあさっての方に向けたら、妹がそっちにサッと移動してきた。


「おニイは、もう大丈夫だよ。あたしが太鼓判押す!」

「ぬう……」


 特進校に通って当然のように帝大に入り、官僚に。出世コースを順当に昇っていた。だが、一度も失敗したことがなかったから、打たれ弱かった。

 上がやらかして、トカゲの尻尾切り。三十歳を目前にして解雇された。省庁からこっそり再就職先を斡旋されたが速攻で断り、本気で自殺を考えた。母に泣いて止められ、家族に迷惑をかけるなと、父親に怒鳴られ。何度もカウンセリングに通って薬を飲んで、なんとか精神を安定させた。

 でも、親に会わせる顔がないという思いは消えなくて、家を出た。

 この機会にはねをのばして、やりたいことをやればいい。ゆっくり充電すればいい。

 そんなカウンセラーのすすめで、生まれてこのかた親に買うのを禁止されていたマンガを一冊買ってみたら――

 止まらない。今まで見たことの無かったアニメもすごく面白くて、夜通し見まくった。次々と関連グッズまで買いあさり、ネットでもえんえん遊んだ。

 今まで勉強と仕事しかしてこなかったから、たぶんこれはその反動というやつなのだろう。

 でも頭のどこかでは、このままではだめだという思いは常にあった。

 ずいぶん時間を浪費した。丸々三年。そろそろ潮時だとは思っている。


「まずは簡単なバイトからどう? 体使う仕事がいいよ、そのお腹のたるみを解消するためにね。よさげなの、リストアップしてきたから。じゃあねー」


 妹は明るい声でまくしたてて、狭いキッチンに据えている小さな円卓に、コピー用紙の束をどさりと置いていった。わりと丹念に漁ってくれたのであろうハロワの情報。投げやりに一瞥をくれて、一番上の紙を手に取ってみれば。


「犬の世話?」


 勤め先は個人の家で、平日の朝から夕方まで。時給制で、犬の世話と散歩をさせるのが主な仕事とあった。


「昼間は仕事で面倒見る人がいないとか? 犬種はゴールデンレトリーバーか……」


 実家にいる犬と同じ種類だ。家を出る前はよく、妹と一緒に、散歩に連れて行ってやっていた。かなりよぼよぼになったが元気だと、妹が時折様子を伝えてくる。


「うーん。犬は好きだし。レトリーバーなら知ってるというか慣れてるというか」


 実家の犬に会いたい気持ちがむくむくと湧いてくる。だが、家の敷居は高い。またぐには相当の覚悟が要る。仕事につけば、まあなんとか、家の前まではいけるだろうか。


「タッパ回収忘れちゃったぁ」


 たぶん、わざと忘れたのだろうと思うけれど。いったん帰った妹が騒がしく戻ってきて、キッチンからちらちら顔色を伺ってきた。だからきりっと微笑んでやった。


「決めたよ」

「わ、白い歯きらり」

「なんだよ、水さすなって」

「ごめんごめん、今度、特製唐揚げ持ってくるから許して」

「杏仁豆腐もつけろよな。デザートは正義」

「はいはい」

「とりあえず、ハロワに行ってみるわ」

「ほんと? ちゃんとヒゲ剃ってってね」


 言われるまでもないと口をへの字にすると、満面の笑顔が返ってきた。本棚でほとんど隠された窓から、わずかに陽の光が差し込んでいて、どこぞのアイドルかと見まがうような妹を照らしている。  

すらりとした手足。母親譲りの大きな瞳。白い頬。仄かに色づいている唇。

 ああ、うっすら化粧してるのか。高校卒業したもんな……

 いつも飽きるほど見ている顔なのに、今はなぜか正視できなくて、床に目を落とした。


「えっと、まあ……がんばるわ」

「うん! きっと大丈夫だよ」


 快活な声にホッとする。

 でも、どうしてありがとうと言えなかったのか。ちょっとよく分からない。

 




 翌日ハロワへ行き、週末、職場である個人宅へ、直接面接に行くことになった。

 引っ越したときぞんざいに段ボールに詰め込んで運んだ一張羅は、どれもサイズが合わなくなっていたけれど。妹がハロワに行った帰りに待ち合わせしてくれて、紳士服屋へ引っ張っていってくれた。ワイシャツに腕を通すのは本当に久しぶりで、ネクタイの締め方を思い出すのに苦労した。


「ロリおじ、こうだよ」

「おじさん言うな。お兄様と呼べ」

「だからそこは、ロリって言うなでしょ」

「おまえ、何で締め方知ってるんだよ」

「お母さんに教えてもらったに決まってるじゃない。父さんのネクタイ毎日締めてあげてるでしょ」

「そういえばそうだったな」

「父さん母さんはあいかわらずだけど。フウタがね、ちょっと元気ないんだな」

「ん? 犬が?」

「今日の朝、ごはん食べなかったんだよね。ちょっとぐったりしてた」

「まあ、最近ぐっと暑くなったからなあ」


 ワイシャツにネクタイ。それで十分。梅雨がなかなか抜けなくて雨ばかり降っているが、上着を着ると汗だくになる。犬や猫は、冷房がなければきつかろう。


「おニイ、会いに来てあげてよ。フウタ寂しがってるよ」

「ああ、そのうちな」


 自宅から電車で小一時間。

 職場はうすうす予想していた通りだった。

 広大な敷地にプールと噴水付きの大豪邸。神戸の異人館のごとき瀟洒な洋館が、緑の芝生に取り囲まれてそびえ建っていた。円柱で支えられた屋根がついた玄関をくぐると、そこは広大なホールで、オペラ座にかかっているような豪奢なシャンデリアが輝いていた。


「ようこそ。当家の執事を務めております、ミカサです」


 黒服の老執事が、あくびをしながら、油絵がたくさん飾られている部屋へ案内してくれた。皺だらけで豊かな白ヒゲ。着物を着たら、まさしく仙人という風貌だ。


「奥様の犬は四頭おります。すべて、最高の血統のゴールデンレトリーバーです」

「え、四頭もいるんですか」

「犬たちはひと部屋ずつ、部屋を与えられております。夜間は奥様のそばに侍りますが、奥様がおられない昼間は、お屋敷の中を自由に歩き回っております。業務としては各犬部屋の掃除、給餌とブラッシング。散歩。敷地内のドッグランで遊ばせる。犬用施設の管理全般、といったところですね。ではよろしく」

「よろしくってあの……」

「ああ、採用させていただきますよ」


 赤いベルベットの椅子に座らされて、まだ数分と経っていないのに。細い目をさらに細めながら、老執事は肩をすくめた。


「なんと申しますか、前任者が急に辞めましたので。とにかく人手が欲しいのですよ」

「はあ、そうですか」

「何かありましたら、業務用のスマフォで報せてください。本音は住み込んでいただきたいのですが、まあ、嫌なら無理にとは申しません」


 考えておいてくれと言われたが、しばらくは家から通うとすぐに伝えた。

 月曜から、仕事が始まった。

 「前日は夜九時に寝ろ」と妹から指令を受けていたので、その日の寝覚めは超健康的であった。

動きやすい姿でよいとのことで、新調したトレーナーを着て出勤。スーツ姿の群れに混じって電車に乗った。砕けた格好のせいか、あまり緊張せずに済んだ。

 さっそく屋敷の使用人たちに挨拶すると、前任者の噂をちらほら聞かされた。


「大学出て数年の、若いお兄さんだったんだけどね。五輪選手のコーチをするからって、辞めちゃったのよ」

「陸上してて、かなり活躍したらしいねえ」

「そうそう、ハコネ駅伝とか」

「あんたも走る系の人? 違うの?」


 わりと広い倉庫部屋のそばに、犬の部屋が並んでいた。それぞれ四畳半ほど。平たい特製のベッドに柔らかなマットが嵌まっている。それを毎日取り替える。トイレも特注であろうか、木製の低い箱の中にシートが仕込まれており、とても掃除しやすかった。

 餌はそれぞれの部屋で食べるが、その他の時間は他の所に居ることが多いらしい。ホールの奥の、薪ストーブのある居間がお気に入りのようで、大体そこに集まっているという。


 犬たちはどれも同じような体格をしていたが、性格は全く違っていた。

 人なつこいリサ。警戒心が強いルイ。無関心なハンナ。品行方正なアンリ。

 しかし見た目はほぼ一緒なので、首輪の色で判別するしかない。きちっと教育されていて、噛まれる心配は無く、ヒヤヒヤさせられることは無かった。ルイが始めにぎゃんぎゃん、吠え立てたぐらいである。アンリがルイをひと吠えで黙らせ、リサがすりすりと体を寄せてきて、自分の匂いをなすりつけてきた。アンリが一番年上でリーダー格らしい。彼に言えば皆に伝わる。そんな感じだった。


「なんか、よく躾けられてるなぁ。前の人、すごいや」


 散歩もちゃんと並ぶ順が決まっていた。

 左にアンリ、右にリサ。アンリの隣にルイ。リサの隣にハンナ。

 四本綱を持つ形だが、皆アンリに従うので、実際引っ張るのはアンリの綱だけでよかった。

 散歩のコースは、裏口から出て近くの公園へ行くのがお決まりのようだ。

 賢いアンリが先導して道を教えてくれた。


「おいおい、これだいぶ距離あるぞ。軽く二キロ越えてないか?」


 公園は国立で、並木道のある立派な緑地である。ぐるりと一周する形で遊歩道を回っていると、背後から聞き慣れた声がした。


「ロリおじー!」

「げっ。なんでここに?」


 妹だ。すっきりとした運動着姿で、軽やかに走ってくる。


「なんでって、ここってあたしの練習場だから」


 毎日通るよと、妹はにこやかに手を振り、颯爽と行ってしまった。

 と思ったら、すぐにまた背後からやって来た。


「ちょっ、一周回ってきたのかよ。はええ!」

「へっへー、四百メートルなんて、ちょろいちょろい。おニイもがんばってね」

「お、おう」

「わんこたちと、全力で三周してね。前の人はそうしてたよ」

「えっ? なんでそんなこと知ってんだよ」


 妹はニコニコ顔ではるか前方を指さした。ベンチの前に、運動着姿の男が佇んでいる。首にタオル。手にはストップウォッチ。こちらに気づいた男は、手を振って走り寄ってきた。


「おい、イケメンがこっちに来る」

「あたしのコーチ。先週まで、この犬たちの世話してたよ」

「え。俺の前任者、おまえのコーチになったのかよ」


 アンリがくんくん、鼻を鳴らしながらうずうずしている。ルイは興奮気味だ。ハンナはどこ吹く風だが、リサはしきりに甘えた声を出している。イケメン男が近づいて来ると、犬たちは一斉にお座りをした。


「タナカです。どうも」


 犬たちは、不動の姿勢で前の世話係を見上げている。まるで従順なしもべのように。

 前任者は同じメガネ男だが、クオリティが天と地ほども違った。短く刈り込んだ黒々とした髪。真面目一徹に引き結ばれた口には皺一つなく、どこにもたるみはない。バスケかバレー選手のように背が高く、筋肉の締まりがはんぱなかった。


「毎日ここで会うんで声かけたらさ、あたしと同じ大学で、駅伝とか長距離やってたって。だから大学にお願いして、コーチとして雇ってもらったの」

「お願いっておまえ」


 大学には、監督もコーチも十分揃ってるだろうに。

 つまりなんだ、この男はあれなのか。妹の公認彼氏とか、そういう類いの奴なのか。


「おニイがタナカさんの後に入ってくれて、すっごく嬉しい。がんばってね」

「お、おう」

「お兄さん、アンリたちをよろしく頼みます。とりあえず公園は三周、走ってください」


 お先に失礼と、妹とイケメンコーチが肩を並べて颯爽と駆けていく。二人は公園を出て、ぴかぴかの白い車に乗って帰っていった。

 その光景を呆然と見送った。兄として色々突っ込んで聞きたかったが、その隙をもらえなかった。

 ええと、なんて言われたのだっけ。そうだ、走る、だ。つまり犬とマラソンしろと?  


「え、ええい、ままよ! 俺だっていちおう中学は陸上部だった! よしみんな、走れ!」


 半ばやけくそになって号令をかけると、犬たちは駆けだした。

 思い切って走り出せば、びゅんと風が頬を打った。

 夏の風が爽やかに流れていく。

 流れていく。

 流れていく……

  


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