死刑について善の定義で考えてみた
以前の投稿で「皆さんが絶対的善、公の為を理解するようになれば、多くの問題は大方片が付くのではないか」と書きました。その一例を書いてみましょう。
例えば難しい問題に死刑制度があります。死刑は止めるべきか、存続すべきかで激しく議論されていますが、なかなか止揚する様子も見えません。それはそうです、皆さんそれぞれ自分の考えこそが正しいのだと思っているのですから。でも皆さんに正しいの根拠はあるのかと言えば何にもないのです。
死刑制度は正しい、または正しくないと言うためには、本来、何か絶対的に正しいものがあって、それに合致しているから自分の考えが正しいのだと主張しなければならないと思うのです。それがないのになぜ彼らは自分の意見が正しいと主張することが出来るのでしょうか。
私は議論するとき、相手に対して初めにこのように聞くのです「あなたが自分の意見が正しいと思われる根拠は何ですか、あなたは神ではないですよね、それでは何を根拠に自分は正しいと主張しているのですか、まずあなたの正しいと思う根拠を教えてください」と。そうすると「議論と関係ない、論点をずらすな」などと言ってくるだけで、正しいの根拠を示してくる人はいないのです。
だいたい死刑は正しい、正しくないと議論しているのに、正しいとは何かも分からずに彼らは一体何をやろうとしているのでしょうか。自分の意見が正しいと言うなら、まず正しいの定義、つまり善の定義が出来ていなければならないはずです。
そしてまた「言論には責任が伴うでしょう?あなたは自分の意見が正しいと自信があるのですよね、そうであればどのくらいの自信があるのですか、命を賭けても自分の意見は正しいと言えるのですか」と問えば「命を賭けるなんて、そう簡単に使うものではありませんよ」なんて言い訳ばかりしてくるのです。自分の意見に絶対の自信があれば命までとは言わないが、せめて全財産くらいなら賭けられるはずです。
死刑制度における最も大切な論点は、今後、残虐な犯罪が少しでも起きないようにすることです。殺された人たちの遺族が最も望むのは、犯人を死刑にすることよりも、同じような犯罪が一件でも少なくなることこそが本望であり,そうなって初めて遺族たちは家族の死に対して意義を見出すことが出来るのではないでしょうか。ですから死刑制度の是非はどうしたら犯罪を少なくできるのかを一番の論点にしなければならないと思うのです。
そして言いたいことは「犯人にすべての責任を押し付けるのは正しいことだろうか」ということです。犯人は幼い頃、犯罪者になろうと考えていただろうか。彼がそのように育ったのは親の責任でもあり、学校や世間の大人たちにも責任があるのではないだろうか。凶悪犯の子供でも暖かい家庭で育てられれば、犯罪をおかす確率は少なくなるとの研究もあります。
勿論犯人に一番の責任があるだろうが、その割合としてはだいたい親が3割、社会が2割、犯人が5割くらいではないだろうか。もし犯人を死刑にするならば、もちろん親や社会にも何らかの罰を与えなければならなくなるでしょう、なぜなら親や社会にも半分は責任があるのですから。しかし、それはできないことでしょう。そうであるならば犯人は死刑にするのではなく終身刑にすべきです。つまり日本にも終身刑を設けるべきなのです。
死刑制度の在り方の正しい答えは、決まっています。それが公の為であれば死刑は正しく、公の為でなければ死刑は正しくないのです。公の為とはここでは社会の秩序、人や社会の向上・進歩です。ですから犯人に責任のすべてを押し付け死刑にして終わりではなく、親の責任、社会の責任をしっかりと認めることで、親の子育てのやり方や社会の在り方に関心が向き、人や社会が向上・進歩してこそ犯罪が減り、社会の秩序にも貢献できるのです。
このように善の定義で考えれば死刑制度についての議論も終結するのではないかと思うのです。
ゆえに私は現在の死刑制度には反対の立場です。死刑は廃止して、終身刑を導入すべきと考えています。
しかしオーム真理教などの国家を転覆させようとする大犯罪やスパイ行為に対しては死刑もやむを得ないと考えています。