物語とミューズのキスと
『ハリセンボンは膨らんだ。』
「……それから?」
彼女は、頬杖をついたまま、その先を促す。
だけど、ボクは答えに窮し、ハハハッと笑って誤魔化した。
「いや、実はそこから全く思い付かなくてさ」
「なにそれ」
と言いながら彼女は完璧な『呆れた表情』のお手本を見せてくれた。
ギリシャ彫刻を思わせる透き通った肌に、情熱的赤い唇を持ったボクのミューズ。
深い湖に似た瞳で彼女はボクを見詰めてくる。物語の先を期待して
「いや~、誰も読んだこともない恋愛小説を書こうと思って……」
「で、考えた小説の出だしが、それな訳ね」
「そうそう」
「ある程度は成功してると思うけどね。
先が続かないんじゃ、本末転倒ね」
「面目ない」
彼女のいう通りだ。ボクは頭を掻いて苦笑するしかなかった。
淹れたてのカプチーノを一口飲むと、彼女はホッため息をつく。
組んだ手に自分の顎を乗せ、しばらくなにも言わずにボクを観察していたが、おもむろに口を開いた。ようやく助け船を出す気になってくれたようだ。
「そもそも、舞台はどこなの?」
「えっ?舞台……?」
「舞台も決めずに話を始めようとか。
正直、小説書くの舐めてるわね」
彼女はジト目でボクを睨む。
「えっ、え~っと
ハ、ハリセンボンだから海かな。」
ボクを彼女から目をそらしながら、慌てて答える。
「主人公はお魚さん?」
「いや、人間だよ。ボクは人間の話しか書かないって。
魚の恋愛小説なんて、おかしいでしょう!
ディズ○ーじゃあるまいし」
「普通の人間がハリセンボンが膨らむシーンを見れる場所はそんなには無いわ。釣りで偶然釣るか、水族館位かしら」
「釣りか水族館……
良し!じゃあ水族館にしよう!
水族館の片隅でハリセンボンと主人公が目を合わせる。なぜか膨らんだハリセンボンに、主人公が大人げなく『なんだ、やる気か。上等だ!面に出ろ』と啖呵をきるのを聞かれて謎の美女にクスクス笑われる、とかどうだろう?」
「どうだろうと言われても、出だしだけではなんとも評価のしようがないわ。
出会いのシーンとしてはまぁまぁかしら。テンポも早いしね。
でも、もう少し何を書きたいか決めることね」
「書きたいこと?」
「テーマよ。この物語であなたがなにを言いたいか、よ」
「無いよ。
だって、『出だし』を最初に思いついたんだから。
正確には『出だし』だけさ」
胸を張ってボクは答えた。
「……
そこまで言い切られると、呆れるよりも、いっそ清々しいと思えてしまうから不思議なものね。
うーん。
例え、出だしを決めただけで始めたものだとしても、その出だしを元にテーマを決める事はできるわ。
あえてテーマを決めないで流れに身を任す方法もあるけど。あなたは間違いなく発散して、行き詰まってしまうタイプよ」
「手厳しいなぁ。テーマか……」
彼女に言われて、ボクはハリセンボンから思い付くものを考える。
「魚。海。
提灯。民芸品。
針。……指切り。嘘。
そうだ。嘘をテーマにするのはどうだろうか。
最初は上手く行っていた二人が、何気なくついた主人公の小さな嘘が切っ掛けで次第に二人の間に溝を作っていって……
物語の中で主人公に恋人を幸せにする指切りをさせる。ラスト、出会いの水族館に戻った主人公はハリセンボンを見て『俺はどうやらお前を呑み込まないといけないらしい』と言わせる」
ふふん、と彼女は鼻を鳴らす。
「『そして、合点承知とばかりに ハリセンボンは膨らんだ』」
彼女は、そこに既に完成された物語があるようにボクがたった今思いついた最後の一節を朗読して見せた。
「そうそう!
どうだろうか?」
ボクは我が意を得たりと嬉しくなって叫ぶ。
「悪くはないわ。面白くなるかは、細部をつめていかないと駄目だけど……
でも、頑張って」
彼女は微笑むと柔らかなキスをした。ボクの回りが甘いローズの香りに包まれる。
そこで、ボクは目を醒ました。
どうやら物語の筋を考えているうちに眠ってしまったようだ。
冷静に考えれば、ボクにあんな綺麗な彼女なんていない。
いや、悲しいかな、生まれてこのかた一度たりとも、あんなミューズの様な女性とお近づきになったことなどない。
ならばこそ、彼女は本当に本物のミューズだったのだろう。創作に苦しむボクを見かねて夢に現れてくれたのだ。
だから、ボクは今、彼女と話した物語を書いている。進捗は余りよろしくない。何度も何度も書き直し、壁にぶつかって、作業は遅々として進まない。
夢でも何でも良いから、もう一度彼女とあって話がしたいと切に思っている。
しかし……
彼女は悪戯で気まぐれで冷酷だ
彼女の行方は、誰も知らない。
2018/05/27 初稿
作中の物語の書き方云々はやり方の一例でしかなく、強要や批判の意図は微塵もありませんので、ご理解下さい。
なんにでも当てはまりますが、どのやり方が一番適しているかは、それをやる人によって変わるものと思っております。